上海撤退の合理性
石原が一九三七年八月に上海撤退を主張したことは前述のとおりであるが、日本が蔣介石と戦争をする場合、そのような選択肢も実際にあり得たはずである。では、もし上海撤退が実行されていれば、事変の推移はどのように変わっていただろうか。
事変当初、第三国には次のような見解を持つ人物がいた。
「このころ、米国武官J・スチルウェル〔Joseph Stilwell〕大佐は、こんご日本側が採用する政策として次の三案が考えられる、と推理していた。
「A」=戦線を一定地域に限定し、兵力と補給を確保して持久し、中国側の疲労を待つ。
「B」=全面撤退して全面戦争をさける。
「C」=全面戦争をさけるつもりで、兵力を逐次投入して全面戦争にまきこまれる。
そして、大佐の結論は──
「Aが上策、Bが中策、Cが下策だ。Aの場合は蔣介石側は勝利を得られず、内外の支持を失って政治的失脚をまねくはずだからだ。Bも良い。蔣介石にとっては成功だが、そのあとは必ず共産党との戦いになり、日本が再進出する機会が期待できる。
しかし、AB両策は、いずれもよほど冷静で辛抱強い国民と政府でなければ、実行できない。日本には無理で、日本がえらぶのは下策イコール蔣介石にとっての最上策だろう」(児島襄『日中戦争』第三巻)
蔣介石は中支で日本を全面戦争に引きずり込もうとしていたのであるから、スティルウェルが言うところの「A」策をとろうとすれば、北支に戦線を留めるのが現実的であったといえる。そしてそれができていれば、スティルウェルが指摘するように、蔣介石は勝利を得る術を完全に失うことになる。その場合、彼に残された選択肢は北支で日本軍に決戦を挑むか、この方面から内陸に引き込むかであるが、前者に関しては絶対にあり得ない。
まともにぶつかって日本軍を撃破できるくらいなら、最初から上海など攻めずに手っ取り早く北上して満洲を“奪還”しに来ていたはずであるし、蔣介石がその可能性を考慮しなかったことは、先に見たようにファルケンハウゼンの北支決戦案を却下し、のちに「われわれの全軍隊を平津一帯に投入し、敵と一日の長短を争っていたなら、われわれの主力はとっくに敵に消滅され、中華民国はとっくに滅亡する危険があった」(前掲『中国革命と対日抗戦』)と述べているとおりである。
一方、日本側でも戦線が北支に留まっている限り、和平条件が降伏を迫るほど過大になるといった事態や、ましてや蔣介石政権を否認してしまうような事態は起こりようがなく、陸軍拡大派といえども、この時点において支那と全面戦争をはじめるつもりでいたわけではない。したがって、上海出兵が回避されていれば、適当なところで和平が成立する見込みはあったように思う。次のようなシナリオも想定できただろう。
「日本は一時上海から撤退して、その収益を列強の監視下においておいた方が良かったかもしれない。そうすれば列強はたやすく誘い込まれて、中国に対して政治的防衛の立場に着くのが関の山だったろう。そこで日本は華北の完全な掃討に全力を集中し、然る後に揚子江下流への侵入の威嚇態勢をとることもできたろう。更に、おそらく内外の援助を得て南京政府に停戦交渉を押しつけることもできたかもしれないのだ」(『アジアの戦争』)
実際に蔣介石のスポンサーであるイギリスは対独問題が切迫していた折、中南支に存する自国の権益が侵害されない限り日本とは協調する方針だったようである(秦『日中戦争史』)。列国が紛争不介入の態度を明確にしたうえで停戦勧告をおこなえば、蔣介石としてはこれに応じざるを得なかっただろう。すでに確認したとおり、彼は和戦を日支間の軍事情勢ではなく国際情勢に基づいて決定しようとしていたのである(本論「成就した以夷制夷」)。
無論、和平が実現しなかった可能性も否定できないが、上海出兵さえなければ、次から次へと兵力をつぎ込む必要も生じなかったはずで、陸軍は念願だった北支の確保に専念して、結局占領地域が中南支までは及ばなかったことも考えられるのである。しかるに列国の権益が集まる上海で全面戦争に突入してしまった日本に対しては、以下のような国際的反応が待ち受けていた。
一九三七年八月一六日、在日イギリス代理大使ドッズは外務省に対し、「上海の事態は、日本の陸戦隊の存在により悪化しつつある。したがって、陸戦隊の撤退が問題を解決する鍵」であると申し入れ、二一日の公文では「陸戦隊員二名の射殺に対し、上海全体にわたる日本の軍事行動は均衡を失す」と日本を非難している(上村前掲書)。
また、十月五、六日の国際連盟総会は二三国諮問委員会の二つの報告と一つの決議案を採択した。第一の報告では「中国に対する日本の軍事行動は紛争の起因となった事件とは絶対に比較にならぬ大規模なものと認めざるを得ない」とし、日本の軍事行動は自衛ではなく日本が加盟している九ヶ国条約、不戦条約の違反であると認定した。そして第二の報告で連盟の採るべき処置として、連盟国たる九ヶ国条約署名国の会議をなるべく早く招集することを勧告した。同日アメリカ国務省も、日本の行動が条約違反である点で連盟総会の結論と一致するとの声明を発表したのである。
十月五日フランクリン・ルーズヴェルト大統領がシカゴで行なった隔離演説は各地で大きな反響を呼んだ。大統領は国際的なアナーキーを惹起する国家は伝染病のキャリアのように隔離すべしと主張した(臼井勝美『日中戦争』)。
当時の列国の世論は支那に同情的かつ日本には批判的で、支那の責任を論じる日本の言説は「外国へは例によって満州事変以来の詭弁としか響かなかった」(石射『外交官の一生』)のであり、広田外相は事変勃発後、欧米諸国に日本の正当性を訴えるべく宣伝外交を試みているが(服部前掲書)、もはや宣伝の巧拙の問題ではなかった。ジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は九月、すでに広田と面会し日本軍の南京爆撃に対し強く抗議していたが、翌月日本の宣伝外交について次のように記している。
「彼らの基本的主題は日本が自衞上中國と戰つているというのだが、どんな風に表わそうと、こんな馬鹿なことに耳をかす米國人は一人もいはしない。米國人は先天的に中國に同情的であつたし、現在とて同情的であるばかりか、ほとんど通常的に弱者に同情する。日本は中國の土地で戰つているのではないか。それ以上に何をいう必要があるか」(『滞日十年』上)
しかし、以上のような非難を受けたのは日本が揚子江流域で軍事行動を拡大したためであり、イギリスは中支における権益が侵害されるようになると、アンソニー・イーデン外相は英米海軍による共同示威行動に訴えて、日本の軍事行動を抑止する方策の可能性をワシントンに打診している。当初、国内の孤立主義的風潮のためこれに応じることのなかったアメリカであったが、一二月一二日、日本海軍機が揚子江に遊弋する米砲艦パネー号を撃沈した事件をきっかけにアメリカ国民は激昂し、結局日本側がアメリカの解決要求を全面的に受け入れ事件の迅速な解決を見たために発動されなかったものの、このときルーズヴェルトは米英海軍力による対日経済封鎖を真剣に検討していたのである(『日米関係通史』)。
さて、支那側にとってもうひとつの方策は日本軍を北支から内陸に引き込むというものだが、これも支那にとって有利には働かない。日本軍に戦争開始と同時に北支からの南下を許してしまえば、戦局が決定的に悪化してしまうと考えられていたのである。
上海事変勃発後の八月二〇日、陳誠廬山軍官訓練団教育長は蔣介石に対し、次のように提案している。
「華北戦況の拡大はもう避けられない、敵が華北で優勢を得たら、必ず所有する快速装備を利用して南下して武漢に向かうはずである。これは我々に不利である。上海の戦況を拡大して敵を牽制した方が良い」(楊天石前掲論文)
陳立夫は次のように回想している。
「南京が陥落して漢口に撤退するとき、私は気が気でなかった。日本の大軍が南から粤漢線沿いに、そして北からは平漢線沿いに進み、南北両方向から漢口を包囲したらどうしたらよいのか。私はこの問題を蒋委員長にぶつけて教えを請うた。すると蒋委員長はこう言った。「それはありえない。日本人には絶対にそんな大きなことをする勇気はない。我々は一歩一歩地歩を固めて進み、ゆっくりと敗戦を転じて勝利を収めればいい」この蒋公の判断は明察だった」(『成敗之鑑』下)
これは支那事変がはじまってから約半年後、漢口へ撤退する際のやりとりであるが、支那側はこの時点でもこれだけ日本軍が南北の方向に作戦行動をとることを心配していたのである。では、支那側は一体何を恐れていたのだろうか。蔣介石の次男である蔣緯國は、その理由を次のように説明している。
「漢口は中国の心臓地区であり、かつ日本人もそうした認識をもっている。そこで日本軍が「速決戦略」をとるならば、かれらの陸軍は北京〔北平〕を奪取した後、京漢〔平漢〕鉄道に沿って南下作戦を展開し、直接広州〔広東〕を目指すか、あるいは広州から北上する一部と漢口で合流する作戦に出るであろう」
そして日本が京漢線と粤漢線をおさえることに成功すれば、「漢口以東の長江〔揚子江〕下流の最も富裕な地区の人力と物力を、中国がそれを西遷して新しい抗戦基地の建設に使用する前に全部おさえてしまい、中国が持久作戦を維持できないようにすることも可能」であり、「かりに日本軍がさらに東に向けて進撃すれば、中国軍主力は京漢線と粤漢線以東の地区に追い込まれ、海岸線を背にして決戦を余儀なくされる」ことになり、「もし国軍が補給線を失った上で決戦を迫られれば、たとえ将兵がいかに忠勇であっても、撃滅されてしまうのは免れがたい」。
そこで蔣介石は、「主力を華東地区に集中して、上海方面に戦場を開き、この方面の敵に対して攻勢をかけて、日本軍の作戦路線を長江に沿って東から西に向かわせるように仕向けた」のだという(『抗日戦争八年』)。
付け加えておけば、こうした蔣介石の戦略には乗らずに日本軍が北支から南下していた場合、当時支那に対し列国の中で唯一軍事援助をおこなっていたソ連の武器輸送ルートを遮断することもできていたのであり(楊天石前掲論文。当時支ソ間には山西省を経由する二つの武器輸送ルートがあり、そのうちの一つが日本軍の進出により機能しなくなったとき、蔣介石は「痛恨の極み」と心情を表現した。そこで蔣介石はもう一つのルートを守るため、日本軍の南下を遅らせようと、ますます上海での戦闘に力を注いだという)、また、事変当初支那は対外貿易の大半を沿岸部都市を経由したルートに頼っていたことから(『中国抗日戦争史』)、内陸交通の要衝である漢口を早期に攻め落とし、さらに粤漢線に手を伸ばして同路線上の重要地点を押さえるだけでも、支那に物資輸送の面で大打撃を与えることができたのである。
史実では漢口と、粤漢線の始点のある広東は支那事変勃発から一年以上経過した一九三八年一〇月に陥落するが、そのときでさえ蔣介石は「〔南京陥落以来〕過去十カ月の抗戦期間における武漢の地位の重要性は、華西の再建準備を守る保壘となり南北の輸送線の連鎖点として貢献したことである」(漢口陥落に際しての声明。董顕光前掲書)と漢口が依然として戦略的重要性を有していたことを認めているし、国民政府指導部では列国の介入が見込めないことに加えて、広東が陥落すると援助物資があっても輸送ができなくなるとの判断から対日和平論が台頭し、それに同調した蔣介石も和平条件面での譲歩を考慮するほどであった(鹿錫俊前掲書)。このような反応は上海や南京陥落時には見られなかったのであり、また、たとえばビルマルートの開通が一九三八年一二月であるように、漢口や広東を占領する時期は早ければ早いほど国民政府に与える衝撃は大きくなっていただろう。完全な経済封鎖は物理的にも不可能であったが、当時国民政府は武器、弾薬、飛行機等のほとんどすべての供給を外国に依存しており(「日本の対中経済封鎖とその効果(一九三七~四一)」『軍事史学』通巻171・172合併号)、それら必要物資の当面の供給を滞らせるという“国際情勢の変化”を引き起こすことによって、蔣介石に妥協を強要することは可能だったのである。
あるいは日本軍が早々に漢口に迫れば、支那側が同地の防衛にこだわり決戦が生じた可能性も否定できない。大陸奥地に退いても必要物資が得られなければ継戦は不可能だからである。なお、日本軍との決戦を避け、ゲリラ戦を展開することを決めたはずの中共でさえ、当時「西班牙人民はマドリッドを二年に亙って保持した。武漢の労働者及び中国軍隊の勇気を以て武漢を保持し得ないことはあるまい。・・・第三期抗戦全問題の重要なる組成部分と中心点は武漢の政治経済であり、武漢の保衛の成否が第三期抗戦に対して極めて大なる影響あるのみならず、且つ内政外交方面に対しても大なる影響があり、従って第三期抗戦の成敗は武漢保衛と極めて重要なる関係がある」と見解を機関誌に発表し、漢口死守を主張していた(「漢口攻略の意義」尾崎秀実前掲書)。
現実に陸軍の中には、石原の「保定の線へ進出すると結局漢口まで行ってしまうようになる」(秦前掲書)といった悲観論(?)のほか、「上海戦開始と同時に最初から一気に漢口目ざして、南京など傍目もふらずに突貫作戦をやれ、三個師の精兵があれば可能だ、先回りして奥地要点を占領しなければ、打倒蔣介石の効果は挙がらぬ」という積極論もあったという(福留前掲書)。後者はスタート地点が上海、兵力三個師団という実現性はともかくとしても、先回りして奥地要点を占領すべきという発想は正しい。また、広東占領が一九三七年秋以来検討され、同年一二月には実行寸前までいったように、援蔣ルートの遮断も早くから陸海軍の視野に入っていたのである(「昭和十二年における南支上陸作戦の頓挫」『政治経済史学』155)。もし日本があくまで決戦戦争を追求し、上海へ差し向けなければならなかった兵力も含めて北支に大軍を投入していたならば、戦線が急速に南へ拡大することは必定であり、支那事変の様相はかなり変わったものになっていたに違いない。
以上のように陸軍の上海出兵を回避していた場合には、どう転んでも日本に有利な展開が期待できたのである。支那軍が守りを固めるとともに後方にいくらでも退避できる上海にわざわざ上陸して、列国の対日感情をひたすら悪化させるという、蔣介石の用意した罠にみすみす飛び込むような戦い方が賢明だったとはとてもいえない。支那側がもっとも恐怖したのは日本軍が上海へ寄り道せずに北支から南下して退路と物資輸送路を断ってしまうことだったのだから、その通りをやって効率的かつ徹底的に蔣介石を叩けばよかったのである。昨今、支那事変は蔣介石が仕掛けたと強調する意見をよく目にするが、蔣介石に非があるのであればなおさらそうすべきだったはずである。しかもその場合には揚子江下流の防禦陣地など無用の長物と化すのだから、上海には戦わずして再上陸できたであろう。
1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献