牛歩の猫の研究室

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日本は持久戦争に対応できなかった

 石原は、支那事変は広大な支那大陸を舞台にした持久戦争であると考えていたが、これは客観的にも妥当な認識といえるだろう。すなわち蔣介石政権を武力だけで屈伏しようとすれば、いたずらに戦線だけが広がって泥沼化必至だったのである。そのような事態を回避するためには、適当なところで矛を収めて結局外交交渉によって解決を図ることが必要であり、もし和平が成立しない場合には戦線を縮小して国力の消耗を防がなければならなかったのである。石原が、このことを確たる理念として保持していたことについては先に確認したとおりであり、すでに満洲事変前には次のように考えていた。

消耗戦争ハ武力ノミヲ以テ解決シ難ク政戦略ノ関係尤モ緊密ナルヲ要ス 即チ軍人ハヨク政治ノ大綱ヲ知リ政治家ハ亦軍事ノ大勢ニ通セサルヘカラス

 英国ノ如キ国防大学ノ設立目下ノ一大急務ナリ」(「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」昭和六年四月『資料』)

 しかし、支那事変勃発時においても政戦略は完全に乖離しており、閣議で報告される戦況は新聞報道にすら劣るものであったといい(矢部前掲書)、近衛は「一體軍の作戰なりなんなりについて、何にもきいてをりません。爲すがまゝにたゞ見てをるより仕方がありません」(『原田日記』第六巻)と天皇に訴えるような状況だったのである。そこで大本営政府連絡会議が設けられたものの、これとて政治と軍事を統合できる組織には到底なり得なかった。風見によれば、大本営の中でも陸海軍は戦略すら一元化できず、そのうえ連絡会議においても陸海軍の反対によって戦略を議題にすることができなかったという(矢部前掲書)。

 このように、石原のいう「政戦略ノ関係」は等閑視されてしまった感があるが、それは以下に示す情勢と深く関わっていた。黒野耐氏は当時の陸軍を次のように概観している。

第一次大戦以降の主流となる長期にわたる持久戦争を戦いぬくためには、政治・外交・軍事・経済など国家の全機能を総合的に運用する戦争指導の概念が必要だったが、陸大における教育は依然として作戦指導の観念から脱皮できていなかった。(中略)

〔このため戦争指導に関しては一部の先覚者が個人的研究をおこなっているにすぎなかったが、〕先覚者の中でも、戦争指導に関する学術的研究の第一人者が石原莞爾であった。石原は大正十一年から約三年間ドイツに駐在して、フリードリッヒ大王とナポレオンの戦争史を研究し、戦争形態の歴史的変遷から、持久戦争の到来とその後に出現する決戦戦争の戦争指導を理論化し、参謀本部第二課長として戦争指導計画の作成を推進した。(中略)

 ただ、陸軍の戦争理論や戦争指導の研究が制度として実施されたわけではないから、全体的にみれば陸大では戦争指導の教育がおこなわれなかったといっても過言ではない。したがって石原が参謀本部に登場するまでは、戦争指導計画を作成するという観念すらなく、国防方針と作戦計画しか存在しなかった」(黒野参謀本部陸軍大学校』)

 こうした傾向は陸軍に限らなかった。総力戦研究所所長を務めた飯村穣はこのように述べている。

「わが国では戦術研究は盛に行なわれたが、戦争術の研究は、戦争指導の研究は、行なわれず、戦争指導の研究教育は、昭和一五年秋に創設せられ、私が初代所長になった、内閣直属の総力戦研究所で始めて行なわれた」

「当時わが陸軍の戦術思想は、速戦即決攻撃一方の戦法であり、海軍戦術は、見敵必殺の電光石火的な超短期戦であった。しかし、事戦争となると、速戦即決や、電光石火的に片づけ得る予想敵国は、当時の日本には一つもない。ソ連然り、米国然り、支那また然りである。・・・また、戦史の、戦争史の、研究によれば、戦争のみならず、あらゆる作戦も戦闘も、結局は、戦力の消耗により、片がつくものである。しかるにわが国には、消耗持久の戦法の研究が殆んどない」(『続兵術随想』)

 陸軍の場合は次に指摘されるような思想が背景にあった。

日本陸軍の用兵思想は建軍当時から日清・日露戦争に至る間のみならず、その後も作戦上では第二次大戦の初期までドイツ流兵術の影響を受けていた。第一次大戦でドイツ軍は敗れたが、それでも戦略・戦術の面、とくにその殲滅戦法はわが国防方針、用兵綱領の主旨に合致するものとして、その研究熱は俄然高まっていった。第一次大戦で兵力劣勢のドイツ軍が優勢なロシア軍の兵力分離に乗じて、その各個撃滅に成功したタンネンベルヒの会戦はその適例とされた。第一次大戦後の大正十年、陸軍の偕行社から刊行された『殲滅戦』にはドイツのシュリーフェン元帥の殲滅戦の思想が解説され、その研究の必要性が強く切望されている。

 かくて昭和三年に制定された『統帥綱領』には作戦指導の本旨を、

「敵軍戦力ヲ速カニ撃滅スルタメ、迅速ナル集中、潑剌タル機動力及ビ果敢ナル殲滅戦ハ特ニ尊ブ所トス」

 と示し、また翌四年に公布された師団級以下を対象とする『戦闘綱要』も、

「戦闘一般ノ目的ハ敵ヲ圧倒殲滅シテ迅速ニ戦捷ヲ獲得スルニ在リ」

 として、殲滅戦法の採用が本決りになったのである」(『陸軍参謀』)

 石原はこのような風潮を、「日露戦争ノ僥倖的成功ト吾国情ノ戦争持久ニ不利ナル為メ且ツハ欧洲軍事界ノ趨勢ニ盲従スルノ結果我国軍ハ益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ」(「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」昭和六年四月『資料』)と批判しているが、まさに支那事変においても以上のような短期決戦思想に、支那軍の実力に対する侮蔑感が加わって、武力のみで簡単に決着をつけることができると考えられていたのである。以下に示すエピソードは、そうした当時の日本の空気をよく伝えていると思われる。

 一九三八年三月に東久邇宮が寺内寿一北支那方面軍司令官を訪問した際、漢民族を武力で制圧することは不可能、したがって速やかに戦争をやめたほうがよいとの旨の意見を述べたところ、「軍司令官、軍參謀長ともに顏の色を變へ卓を叩いて非常に怒つて、そんな考へは誰の考へですか、近衞總理がそんなことでもいつてゐるのですか。一體全體日本國内でいまどき和平などといふことを考へてゐるものがあるからして、この戰爭は思ふやうに捗らないのだ。蔣介石軍は打ち破らなければならない」と声を荒らげるような状況だったといい(『天皇陛下』)、また、同様に松井石根支那方面軍司令官も蔣政権を打倒すべきとの意見を持っており、南京陥落後には速やかに同政権を否認すべきであると杉山陸相に進言している(『松井石根南京事件の真実』)。杉山はトラウトマン工作の打ち切りに際して「蔣介石を相手にせず屈服する迄作戦すべし」(堀場前掲書)と主張しているが、「便所のドア(押せばどちらにでも動くの意)」と揶揄された杉山である。陸軍の大多数の意見を反映していると見るべきであろう。

 片や和平解決を主張し続けていた戦争指導班などは参謀本部で孤立してしまい、あまつさえ「その気概軟弱にして軍人にあるまじき者ども」というレッテルを張られる有り様であった。また、秘密裡に進められていたトラウトマン工作を暗号解読によって知った海軍軍令部員が、“犯人”は堀場一雄と見て、これを糾弾すべく怒鳴り込んできたこともあったという(芦澤前掲書)。堀場は強硬派と激論を交わすことしばしばで、時には身の危険を感じることもあったのだろう、当時実弾を装填した拳銃を机の引き出しに忍ばせて執務にあたっていたと自著に記している。同時期、和平工作に関与していた本間雅晴参謀本部情報部長もひそかに死を覚悟し、毎日身を清め、下着をかえて出勤したそうである(角田房子『いっさい夢にござ候』)。石原の指示を受けてトラウトマンと接触した馬奈木敬信は、「何しろ当時は省部の間では主戦論者が多く、大多数を占めていたので、和平工作なんていうものは、非常に勇気のいることであった」(今岡前掲書)と回想している。

 さらに政府要人の中にも南京占領後も和平交渉による解決を主張する参謀本部に対し、「いったい何を考えているのか了解に苦しむ」と非難する者があったという(井本前掲書)。近衛などは支那事変勃発後のかなり早い段階から蔣介石政権に代わる傀儡政権の樹立に肯定的になっており、蔣介石の交渉受諾の申し入れが到着すると和平条件案審議の過程において積極的にトラウトマン工作を妨害しにかかっている(別ページ「トラウトマン工作における新和平条件の決定について」)。

 加えて外務省にはすでに上海における日本軍の勝利をもって、蔣政権が事実上崩壊したと見なす向きさえあり(劉傑前掲書)、川越茂駐支大使は一九三八年一月七日、「〔中支に〕新政權が出現するには日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ、それと同時に〔支那民衆の支持を得るために〕漢口を中心とする國民黨政權の武力を壓縮する必要もあらう」(一月八日「東京朝日新聞」)と談話を発表した。風見は同談話が発表された理由について、北支に続いてすでに中支にも陸海外提携のもと新政権を組織しようとする工作が進められていたためだったのではないかと推測している(風見前掲書)。したがって新和平条件に対する支那側回答に接した広田が支那側に誠意なしとして交渉の打ち切りを主張したときも、「閣議も主務大臣たる外相がそのように考えるなら致し方ないというようなことで比較的簡単に考えられていた」(『木戸幸一日記』東京裁判期)のである。

 また、石射猪太郎は日本国内の情勢を以下のように回想している。

「事変発生以来、新聞雑誌は軍部迎合、政府の強硬態度礼賛で一色に塗りつぶされた。「中国膺懲」「断固措置」に対して疑義を挿んだ論説や意見は、爪の垢ほども見当らなかった。人物評論では、「明日の陸軍を担う」中堅軍人が持てはやされ、民間人や官吏は嘲笑を浴びせられた。(中略)

 この〔一九三七年九月初旬に開かれた臨時〕議会における演説で近衛首相は、事変の局地収拾方針を全面的かつ徹底的打撃を中国に加える方針に切り換える旨を明らかにし、その目的を達するまでは、長期戦を辞さないと説き「諸君と共に、この国家の大事を翼賛し奉ることを以て誠に光栄とする」と結んだ。予めこの演説の草稿を入手した私は、「軍部に強いられた案であるに相違ない。中国を膺懲するとある。排日抗日をやめさせるには、最後までブッたたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持ってゆくというのか。アキレ果てた非常時首相だ」(日記から)と罵った。

 元来好戦的であるうえに、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数台の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景は東京の街頭風景になった。暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。

「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには華北か華中かの良い地域を頂戴するのは当然だと思った。

 地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは蓆旗〔むしろばた〕で外務省に押しかける」と詰め寄られた。(中略)

 世を挙げて、中国撃つべしの声であった」(石射『外交官の一生』)

 角田房子氏は、「南京陥落の報は日本中に万歳の声をまき起し、国民はちょうちん行列や旗行列に浮かれた。敵の首都占領は、戦い全体の勝敗が決したと受けとられ、中国の降伏による終戦も間近であろうとの期待さえ生まれた」としている。氏は南京の陥落した日、歌舞伎座にいたが、陥落を祝して踊る役者に観客は狂気のような拍手を送り、「チャンコロ、思い知ったかあ」とのかけ声が飛んだと自身の体験も伝えている(角田房子前掲書)。

 そして朝日新聞なども、上海が陥落すると「〔結果はどうであれ〕一意南京を目指して進撃するの他はない」(一一月一六日「東京朝日新聞」社説)と無責任に煽動し、したがって南京陥落前には「支那内外よりする調停説の俄に擡頭し來つたことは、大に警戒を要するところである」(一二月六日、同前)と和平を迷惑がり、南京陥落の翌日に現地陸軍が北支に傀儡政権(中華民国臨時政府)を樹立すると「歡喜慶祝に堪へざるところである」(一二月一五日、同前)と述べている。「対手トセズ」声明が発表されると各紙これを礼賛した(『石射猪太郎日記』)。

 外務省東亜局第一課長だった上村伸一は当時の情勢を次のように述べている。

「〔南京陥落後〕軍部内の大勢は急激に和平に背を向けて、北京新政権の育成強化により、事変を自主的に収拾するの方向へと進んだ。それは軍部内強硬派が初めから主張していたところだが、南京の占領により、蔣介石の運命もすでに極まったと称し、軍の大勢を制するに至ったからである。日本の世論も、南京の陥落により、有頂天になって軍強硬派の主張に同調し、閣僚連までがいい気になって、苛酷な新和平条件及び「支那事変対処要綱」〔甲〕を決定して、和平交渉よりは自主的収拾に傾いたのである」(上村前掲書)

 河辺虎四郎、稲田正純はそれぞれ以下のように回想している。

「対支判断において、蔣介石は、わが武力に屈して軍門に降るというようなことはない。長期持久戦争を指導しうるであろうと多田次長や石原部長は考えていた。これに対して多くの者は、支那の力を軽視して、恐らくポッキリ折れるだろうと考え、上海を陥して南京へ行く前に手を挙げてくるだろうというのであった。したがって、講和の条件についても権益主義におちいり、真に国力、国防力を明察して至当の判断を下し、あくまですみやかに終戦に導くという熱意がなかった。国民が一番強気で、次が政府であり、参謀本部が国家全般を憂慮して最も弱気であった」(『陸軍部』)

「〔陸軍には支那を思い通りに支配できると考えるものが大勢いた。〕ですから、支那事変は早期にやめようという当時の参謀本部首脳の意向には、賛成するものがいなかった。新聞にしても、世論でも“暴支膺懲”といって、やめろという声はなく、海軍でもそうでした。ここまできて参謀本部はなにをいうのか、という気持だったのですね。もっとも海軍の上層部は違っていましたが、それでも南支那に勢力を拡張するというのなら双手をあげて賛成なのです」(中村前掲書)

 しばしば〈トラウトマン工作さえ成功していたら、支那事変は短期間で終わっていたのだ〉と、あたかもトラウトマン工作がちょっとした判断ミスか何かで失敗したかのような意見をインターネット上で目にするが、それは後世の後知恵というものであって、以上に見たように当時の日本人の常識では〈蔣介石ごときを降伏させることはそう難しいことではない。故に強いて和平による解決を求める必要もないのだ〉と考えられていたのである。したがって、暴支膺懲論が世論を席巻し、なおかつ軍の大勢を占める強硬派と政府が軌を一にするような状況では、一握りの和平論者がいくら頑張ってみたところで同工作が成功するはずなどなかったと結論付けるほかない。

 しかし、日本人がその誤りに気付くまでにそう時間はかからなかった。石原と対支武力行使をめぐって対立した武藤章は、上海、南京を攻略すれば支那事変は解決すると考えていたようであるが、その後も支那が降伏する気配を見せない状況に、「どうだろうかね。いくらやってもダメというなら国としても考え直さなければなるまいがのう・・・」、あるいは、「やっぱり石原さんの云った通りであった」とつぶやくこともあったようである(武藤前掲書)。

 さらに近衛なども、一九三八年の半ば頃には早くも「一月十六日の〔「対手トセズ」〕声明は、実は余計なことを言つたのですから・・・」(『宇垣一成日記』2)と漏らしている。旧態依然とした戦争観を持っていたのは軍人も政治家も同様だった。堀場一雄は次のように指摘している。

「戦争形態は既に総力戦に進化しあり。又支那事変の本質は大持久戦なるに拘らず、軍及政府の要路に於て、総力戦及大持久戦に関する理解認識共に不十分なるもの多し。

 我国が戦争手段として思想、政治、経済等の面に於て、積極性乏しき為勢ひ武力を重視し、更に之を偏重するの一般的傾向あり。然れ共世代は進化して列国は各種戦争手段を操縦して、総力戦を指導しあり。乃ち我亦攻防両勢共に、武力外各手段をも併せ一途に統合運用すべきに拘らず、依然として戦争は武力戦従って戦争は軍人なるの旧思想行はれ(偶々総力戦を口にする者も多くは本質を把握せず)、総力戦の指導を阻碍せり」(堀場前掲書)

 すなわち政治・外交・軍事・経済など国家の全機能を総合的に運用しなければ勝利することができない持久戦争に、当時の日本が確実に対応することは不可能だったといえる。支那事変勃発後、小川愛次郎という老志士が石射猪太郎のもとを訪れ「日本はbattleには勝つてもwarに敗れる」(石射前掲日記)と警告しているが、言い得て妙だろう。

 そして、このことは誰あろう蔣介石によって見抜かれていた。蔣が第二次世界大戦の勃発を予測し、もしそれ以前に支那が日本と単独で戦うことになった場合には、長期戦に持ち込んで国際情勢の変化を待つという戦略を持っていたことは前に見たとおりだが、この戦略の成算は次の点にあると考えていたのである。

「日本は、経済・内政・統帥などの武器以上に重要な要素が完備していないから、国際的規模〔の戦争〕においては決して最後の勝利をえることができない」(『太平洋戦争への道』3)

 大日本帝国の命運は、まさに蔣が見通したとおりの結末をみた。慧眼と言うべきだろう。その後日本は、支那と同様にアメリカに対しても決戦戦争を挑み、むなしく戦線を拡大して国力を消耗するというまったく同じ過ちを犯してしまった。

 ついでながら述べておくと、戦後になって、石原は外国人記者に対し、私が対米戦争を指導していれば勝っていた云々と言ったと伝えられるが、実際にはあの時点における開戦には断固反対であり、「陸軍はアジアの解放を叫んで、どうやら英米との戦争を企てている様子だが、その実は石油が欲しいからだろう。石油は米国と妥協すればいくらでも輸入出来る。石油のために一国の運命を賭して戦さをする馬鹿がどこにあるか」(『日本軍閥暗闘史』)、「支那事変をこのままにして、さらに手を拡げて新たな戦争を始めたら必ず国を滅ぼす」(井本前掲書)、「〔米英打倒を叫ぶ〕參謀本部の頭は狂つてゐる」(「明日に生きる石原先生」『石原莞爾研究』)、「殘念ながらもう日本も駄目だ。朝鮮、樺太、台灣など皆捨てて一日も早く明治維新前の本土にかへり、ここを必死に守つたなら何とかならぬこともあるまいが、今の儘では絶對に勝利の見込はない」(平林前掲文)、「生産力からいつても、二十対一のひらきがある。アメリカと戦つてもとうてい勝目はない」(田村眞作『愚かなる戦争』)などと、この種の発言は枚挙にいとまがないのであるが、戦う前から日本必敗を断言していたことを指摘しておく。

 その理由は後で見るように、日本が国策を展開するためには、まずそれに見合った国力を養うことが先決だと考えていたためであり、石原の国防計画によればあのタイミングにおける対米開戦などもってのほかだったのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献