牛歩の猫の研究室

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石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由

 すでに見たように、石原は盧溝橋事件後、北支への陸軍派兵は認めたものの、特に上海方面への派兵には可能な限り抵抗し、居留民の引き揚げをもって対処すべきと主張したのである。では、石原はなぜ上海への陸軍派兵を嫌ったのだろうか?先に結論を述べるならば、それは決して大げさではなく、陸軍の上海出兵が日本の敗戦に結びつくと確信していたからである。

 石原は後年、「不拡大方針の決定経緯」について以下のように振り返っている。

「今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります。然るに責任者の中には満洲事変があつさり推移したのと同様支那事変も片附け得ると云ふ通念を持つものもありました。私共は之は支那の国民性を弁へて居らん議論で、殊に綏遠事件により彼を増長せしめた上は全面的戦争になると謂ふ事を確信して居つたのであります。事変始まると間もなく傍受電により孔祥凞は数千万円の武器注文をどしどしやるのを見て私は益々支那の抵抗、決意の容易ならざるを察知致しました(日本の三億円予算と比較)。即ち此際戦争になれば私は之は行く所まで行くと考へたので極力戦争を避けたいと思ひ又向ふも避けたい考へであつた様でありますのに遂に今日の様になつたのは真に残念であり又非常なる責任を感ずる次第であります」(「回想応答録」)

 盧溝橋事件後に不拡大方針を打ち出したのは、日支紛争の長期化を予想していたためなのだというが、これは当時の発言からも事実と見て間違いない。同事件発生後、石原は「出兵は北支のみに限定して、青島や上海には出兵してはいけない」(武藤前掲書)と述べ、紛争はあくまで北支に留めることを主張した。そして福留繁軍令部作戦課長に上海への陸軍派兵を求められると、次のように述べて反対している。

「今中支に出兵すれば事変は拡大の一途をたどり収拾不可能の事態になるのは火を見るより明らかである。たとえ中支でどんな犠牲を払おうとも出兵すべきでない」(福留繁『海軍生活四十年』)

 そして上海事変が勃発すると浅原健三に対し、「浅原君、もう終わった」「もう俺の力ではどうにもならん。これから先はもう収拾に努力するだけだ。しかし、見通しはない。俺はもう軍人を辞めたい」(桐山前掲書)と諦観したかのように言い、作戦部長を辞任する頃には「国家にも、人間と同じように運命というものがあるものらしいですな。とうとう支那との戦争は拡大することになりました。それには私が邪魔になるから満州に放逐したのです。今後は日本が敗けても満州が崩れないように固めましょう」(横山銕三「石原精神の中国における栄光と受難」『石原莞爾のすべて』)、「山口さん、これで私も肩の荷が卸りたような気がする。止むを得ない。日本は亡国です。せめて満洲国だけでも独立を維持するようにしましょうなあ」(山口重次『満洲建国への遺書 第一部』)、「日本は、樺太も、台湾も、朝鮮もなくなる・・・本州だけになる・・・」(田村前掲書)、「日本はこれから大變なことになります。まるで糸の切れた風船玉のやうに、風の吹くまゝにフワリフワリ動いて居ります。國に確りした方針といふものがありません。今に大きな失敗を仕出かして中國から、台灣から、朝鮮から、世界中から日本人が此の狹い本土に引揚げなければならない樣な運命になります」(岡本前掲文)と方々で日本の敗戦を口にしている。

 実は石原が最終的に日本の命取りになると確信していたのは、支那事変が長期化した際の列国の動向であった。石原は一九三一年四月、「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」という文書の中で「吾人カ支那中心ノ戦争ヲ準備セント欲セハ東亜ニ加ハリ得ヘキ凡テノ武力〔アメリカ、ソ連、イギリス〕ニ対スル覚悟ヲ要ス」との見解を示していた。一九三六年八月策定の「対ソ戦争指導計画大綱」には、「英米ノ中立ヲ維持セシムル為ニモ支那トノ開戦ヲ避クルコト極メテ緊要ナリ」という一文が見られる(『資料』)。裏返して言えば、〈支那と開戦すれば英米の干渉は必至である〉と見ていた証左といえる。したがって支那事変がはじまってからも、「上海は欧米諸国の勢力圏であるから手を拡げる考えはない」(『陸軍部』)と述べ、一九三八年五月には秩父宮に対し要旨次のような意見具申をしている。

「日華事変は即時兵をおさめて、中国本土から撤兵すべきである。・・・中国本土の占領などはいささかの利益もなく、日中両国間の溝を深め、米ソ両国に漁夫の利と侵略主義の口実を与えるのみで、日本の国力を消耗するだけである。こんな戦いを続けていけば、日本はやがて米ソ両国から徹底的に叩かれるときがくるであろう」(阿部前掲書)

 同様に、第十六師団長時代(一九三九年八月~一九四一年三月)にも「支那といくさをしていると今に世界中を相手にいくさしなけりゃならなくなる!」(藤本前掲書)と言ったという。その後、日本はまさしく世界中を敵に回して敗戦国となった。

 しかしこうした石原の危機意識と、持久戦略を戦争指導方針として対日戦にのぞんでいた蔣介石に反して、日本軍は石原が喝破したようにあくまで「益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ」(本論「日本は持久戦争に対応できなかった」)という形勢であった。当時の日本軍の特殊な思想について、井本熊男は次のように述べている。

「わが方の戦術、戦略は徹底した殲滅方針であり、決戦主義であった。歩兵操典に至るまで戦争指導上の概念であるべき速戦即決を謳い、あらゆる教範に「戦捷の要は敵を包囲してこれを戦場に捕捉殲滅するに在り」と強調していた。故に敵が強大であるからといって、戦闘を断念して退却するような考え方はなかったのである。その徹底した考え方から、敵もまた同様に、われと決戦するつもりでいるように判断したのである。徐州付近に集った四十万の敵は、わが軍と決戦を交えるであろうと考えて、わが方は徐州を包囲して、敵を全部つかまえて撃滅するつもりであった。

 ところが、敵は前述の如く逃げた。この場合、わが方の決戦思想をもって支那側を見ると、その退却は決戦に敗れた結果と見える。そのため支那は大きな敗戦感を抱いており、それは降伏につながると判断し勝ちであった。そのことが、この事変間対支判断を誤った一大原因であった。

 既述の南京占領後、トラウトマン工作時期におけるわが方の強気にも、このような敵情判断が影響していたと考えられるのである」(井本前掲書)

 そして、そうした悪習の根源は先に見たように陸軍大学校における教育にあったのである。那須義雄(陸軍少将、元陸軍省兵務局長)は陸大教育の欠点について次のように証言している。

「戦術的に勝つことに努力するは当然乍ら、特に徒らに決戦に勝つことのみを強調する。これは欧米戦術に心酔した力の戦いを尊重した結果であり、窮極において戦いは心の戦い、心理戦であることを忘れたきらいがある。つまり力の戦いが勢い真実に反する「強気」の傾向を呼び、紊りに硬直して、殆んど退くことを知らぬ。固より弱音をはかない主義は戦陣のこととて、大切ではあるが、真実に反して形式に堕し迎合に傾く時において行き過ぎの強ガリとなり、持久戦略の欠如となり況んやゲリラ戦の如きは夢にも考えなかった。従ってこの理解は乏しかった。

 石原莞爾教官が古戦史でフリードリッヒの持久戦略を、また日露戦史で若干東洋的戦争哲学、兵站補給などの再認識を呼びかけた教官がいたのは印象的であったが、所詮大勢とはならず、特に大東亜戦争において兵站軽視の弊風があったことと考え合せると、「決戦戦略偏重の強がりの弊も度がすぎた」と痛感されるのである」(『陸軍大学校』)

 ひるがえって蔣介石はこのように考えていた。

「長期戦においては、一時の進退をもってその勝敗を決することは出来ない。戦略的な撤退が予定していた結果を達成できるならば、それもまた勝利である」(一九三八年六月三日の日記、家近前掲書)

 つまり、日本軍は決戦を交えようと支那軍を追いかけていったというわけであるが、蔣介石にとっては戦争の終局的な勝利を得られればそれでよかったのであり、目先の勝敗にこだわって無用な戦闘をおこなうつもりはなかったのである。では、このように日支が完全に食い違った戦略で戦えばその結末はどうなるであろうか。石原は次のように予想した。

「緒戦では戦果を収めるだろう。それに酔うて拡大方針をとるだろう。だが中国は広いのだ。懐に入って踠くだけだろう。都市をたたけば参るだろうと思うが、そうはゆかない。いくらでも奥地に逃げ場所がある。線路を押さえるとお手上げと思うが、それは日本人的感覚だ。アミ傘の人力が蟻のような列で石炭をはこぶ。広い野原でいくらでもゲリラができるのだ。中国人は最低の生活に耐えて辛抱がよい。日本は消耗戦に疲れ果てるだろう」(曺寧柱「石原莞爾の人と思想」『永久平和への道』。これは第十六師団長時代の講演での発言であるが、事変前からの一貫した持論であったことは明らかである〔本論「支那事変は持久戦争だった」〕)

 したがって「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」という有名な言葉はこのような文脈で理解されるべきであり、石原がそうした予測に基づいて、特に上海への陸軍派兵に反対したのは当然であった。換言すれば、当時の日本には持久戦争を戦うための準備がまったくなく、政戦両略を駆使して適当なところで戦争を確実に終結に導くといった芸当は絶対不可能であったし、それ以前に持久戦争を戦っているという自覚すらなかったことに危惧の念を抱いたのである。これらの不備を石原が看取していたことはすでに触れたが、のちに語った陸軍大学校批判や政府批判にもその点はありありと現れているので引用しておく。

石原の考へを率直に申しますと陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導し得ないのであります。即ち今度の戦争でも日本の戦争能力と支那の抗戦能力、「ソ」英米の極東に加ふる軍事的政治的威力とそれを牽制し得る独逸と伊太利の威力等を総合的に頭に画いて統轄して、日本が対支作戦にどれだけの兵力を注ぎ込み得るかを判定し戦争指導方策を決定し得られなければなりませんのに其の間の判定能力のある人は参謀本部に一人もないと思ひます。又持久戦争は参謀本部だけでは決定できないので御座いまして、詳細は統帥部政治部各当局が協力して方針を決定し若し意見の一致を見ることの出来ない場合に於ては御聖断を仰いでなさるべきものであります。

 然るに斯した戦争指導も出来ず統帥部政治部の各関係省部が自由勝手なことをやり之を纏める人が一人も居ないのは陸大の教育が悪いからで、大綱に則り本当の判断をやる人が一人もないからだと思ひます。即ち総合的の判断をなし得る知識を持って居らないのであります」(「回想応答録」)

支那の戦争について我々はどういふ戦争かといふと、日支戦争が始まると若干師団を動員してパッとやると屈伏すると、簡単に考へて居つたのが日本国民の常識のやうでしたが、これは近世殊に満洲事変以後の支那の真面目な建設に対して自惚れ或は国民の目を蔽ふて居た為めであります。不幸にして私達の心配が適中しまして、支那人はなかなか参つたといひません。私に言はせれば、よく世間ではソラ廣東をやれ、漢口をやれといふが、大体に於いて政治家がさういふ作戦上の事を往々いふのは、其の国が統制力を失つて居る時で、戦がうまく行かないことです。(中略)漢口を取つたとしても、私は、蔣介石政権は或は崩壊するかも知れないが、崩壊しない方が絶対的であらうと思ふ。仮りに蔣介石が倒れたとして支那四億の人間は屈伏するか、私はこれはだんじて屈伏しないと見て居ります。かへつて蔣介石政権でも潰れてしまつたら、共産党国民党のこんがらがつた利権あさり、或は軍閥などが卍巴となつて、支那の中はガタガタして簡単に屈伏なんて思ひもよらないと私は考へて居ります。言ひ換へると、此の日支戦争は最初から私達が云つて居るやうに、これは持久戦争であります。去年の七月から持久戦争の決心でやらなければならんのに、南京を取つたからこれから持久戦争だなんてことは、日本の賢明なる政治家諸君が、戦争の本質に対する研究が足りないといふことを、明瞭に証明して居ると私は思ひます。(中略)

 徹底的に支那を屈伏するとか、強いことを仰しやる方がありますが、それが為めには私は申します、数十個師団の兵を数十ケ年支那にもつて行つて、全部押へてグッとやるんです。無理が通れば道理引つ込むといふことがあるが、そこまで行けば始めて支那は屈伏します。(中略)結局本当に徹底的に支那を屈伏せしむるには、それだけの決心を持たないで中途半端にチョコチョコやるなんてことは、相当考へものであります。(中略)それで斯ういふことを──まだ大きな声でいつてはいけない事と思ひますが、私は事件が始つた時、これは戦を止める方がいいといつた。やるならば国家の全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思つた。然しどちらもやりません。ズルズル何かやつて居ます。掛声だけです。掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。で、私は、私の理想からいけば、東洋で日支両民族が今戦ふ必要はないと思ふ。戦ふべきではないと思ふが、然し戦争は始まつて居ます。始まつて居る今日は先づ少なくとも絶対的に大勝利を得なければなりません。(中略)

 私は三ヶ月ぶりで東京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。満洲も絶対にいいことはありませんが、東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひます。阿片中毒者─又は夢睡病者とかいふ病人がありますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」(「協和会東京事務所に於ける石原少将座談要領」昭和十三年五月十二日『資料』)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献