牛歩の猫の研究室

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盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度

 一九三七年七月七日に盧溝橋事件が発生すると、蔣は断固とした対日姿勢を見せた。早くも翌八日には四個師団の増援(以下、通例にしたがって中央軍の北上と表記する)を決定し、一七日には日本に対する徹底抗戦を表明したとされる、いわゆる「最後の関頭」演説をおこなった。しかしこの時点において蔣が積極開戦を企図していたのかといえば、決してそうではなかったのである。

 蔣は八日の日記に次のように書いている。

倭寇は盧溝橋で挑発している.われわれの準備がまだ整っていないこの機に乗じてわれわれを屈服させようとしているのか.宋哲元を困らせようとしているのか.華北を独立させようとしているのか.今応戦を決心する時か.今倭は我と開戦するに利あらず」(岩谷將「日中戦争初期における中国の対日方針」『対立と共存の歴史認識』)

 この中で「われわれの準備がまだ整っていない」と述べているが、事実、盧溝橋事件後に連日開かれた軍首脳部の会議でも、揚子江の防衛施設が完成していないとか、空軍は未だ戦える状態にないといった、戦争の準備不足を指摘する声が相次いでいる。また、一九三六年から三年計画で、六〇個師を近代装備を備えた新型の師団「調整師」に改編する予定も二〇個師にとどまっており、蔣を補佐していたドイツ人軍事顧問団などはわずか八個師のみと判断していた(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』)。そして蔣自身も、支那軍の兵力と装備は日本軍に大きく劣っていると認識しており、後述するように結局八月になって開戦に踏み切るが、その時点でも「わが弱点はあまりにも多く、組織と準備はなきにひとしい。これをもって敵に応戦するのは実に危険千万だ」(蔣介石日記の記述。馮青「蔣介石の日中戦争期和平交渉への認識と対応」『軍事史学』通巻180号)と嘆じざるを得なかったのである。

 したがって盧溝橋事件発生時において、蔣にとって対日戦争は回避、ないしは少なくとも戦争準備が整うまでは先延ばししなければならなかったのであり、実のところ中央軍の北上を即刻決定するという対応も「積極的に準備をして決心を示さなければ,平和的に解決することは不可能である」(蔣介石日記、七月一〇日の記述。岩谷前掲論文)との考えに基づいていたのであった。また、「華北を独立させようとしているのか」という八日の日記の記述からもうかがえるが、他方で宋哲元には現駐屯地区の固守を命じており、北支の分離独立に対する警戒心も強かったのである(家近前掲書)。そして蔣は一一日の秦徳純(第二九軍副軍長)あての電報においても、「わが軍が積極抗戦の準備を行なって、必死の決意を示さなければ、和平解決(和平了結)などできるはずがない」との考えを明らかにし、一二日には文武高官を集めて「応戦するが戦を求めない(応戦而不求戦)、和戦両様の準備を行なう、つとめて局地解決を追求するが、万已むをえない時は一戦を惜しまない」との方針を決定している(安井三吉『盧溝橋事件』)。

 では、一七日の「最後の関頭」演説(後掲)にどのような意図があったのかといえば、これについては蔣の側近であった周佛海の回想が参考になる。周によれば、やはり蔣は日本を相手とする全面戦争など望んでいなかったといい、同演説も、盧溝橋事件発生後に抗日機運が漲った国内に向けてやむを得ず発表したというのが真相であったという。すなわち、当時蔣介石を対日戦に仕向けることで打倒蔣介石を実現しようと中共や地方軍閥が世論を煽っており、これを封じ込めるためにより強い調子で抗日を唱える必要に迫られたものであり、また、同時に「日本に対しても自らの決心を示すことで、中国への脅しが今回は通じないことを理解させ、日本を反省させて事件の解決を早める」ことを意図していたという(北村稔・林思雲『日中戦争』)。

 以上のように蔣は盧溝橋事件後、戦争回避を望んでいたが故に強硬態度を打ち出したということができる。一見矛盾しているようだが、このとき高揚する支那民衆および国民党内の抗日ナショナリズムを前に、もはや日本に対してあからさまに譲歩することが不可能になっていたのである。そのため蔣は、両国が対等な立場で原状を回復することが国内情勢上とり得る唯一の措置であり、これが認められないと彼の地位を保ち得ないと判断し、その旨イギリス大使を通じ数度にわたって日本側に訴えている(秦『日中戦争史』)。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献