牛歩の猫の研究室

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なぜ兵力の逐次投入となったのか

 そして以上のような日本は持久戦争に対応できないという認識が、作戦指導に影響を及ぼすことになったのも自然な成り行きであった。すなわち石原は、当初から陸軍の上海出兵の目的は居留民保護の範囲に限定しなければならないと考えており(井本前掲書)、その後の兵力増強についても異常ともいえるほどの慎重姿勢にならざるを得なかったのである。その理由は、苦戦している上海に陸軍増派が必要なことはおそらく承知しつつも、中島鉄参謀本部総務部長が「〔元来石原は〕イクラ積極的ニヤツテモ結局、戦略持久戦ニ陥リ、カヘツテ抜キサシナラヌ様ニナルト判断シテ居タ」(『陸軍部』)と述べるように、用兵上の深刻なジレンマに直面していたためであった。また、それに留まらず、石原は対支戦争の泥沼化は列国の干渉を招き大日本帝国破滅の起因になり得るとも判断していたのであり、後日、荒木貞夫は「上海救援石原反対、石原新京に在りて仕方がない負けるんだと嘆息した」(小川平吉日記、一一月二四日の条『小川平吉関係文書』1)と石原の様子を伝えているが、これはやはり〈負け戦をやる破目になるから上海への陸軍派兵には反対だった〉という趣旨の発言をしたと解釈できる。この少し前に満洲を視察した東郷茂徳は石原から「事変がこのままに推移すれば百万の出兵を要し、日本の資源は枯渇することになる」(『時代の一面』)という言葉を聞いている。

 ところが、そうした石原の抱いた懸念はまったく分析されず、結果だけを取りあげて、当時から現在に至るまで兵力の逐次投入だったとの皮相的な批判が繰り返されてきたのであるが、そもそも陸軍参謀本部の一部長という立場では持久戦争を指導することなど不可能であるし、仮に石原が中支において敵に大打撃を与えることを決意したとして、事変の性質を正しく理解し、なおかつ政府・統帥部間の意見調整をはかって軍事的勝利を講和につなげるという経綸の才を発揮し得た人材が一体どこにいたというのだろうか。否、むしろ日本軍が全力を挙げて上海攻略に取りかかっていれば、前述のように蔣介石は九月中旬には早くも撤退を視野に入れていたのだから、支那軍はこのときまでに退却を開始して、損害は逆に少なくなっていた可能性が高い。一方日本側でも、上海で苦戦し一撃論の誤りが実証されたにもかかわらず、強硬態度に出て和平交渉を打ち切ってしまった史実から推考するに、上海陥落が早まればますます支那軍与し易しの観念に傾いていたことが予想される。この傾向は蔣介石を武力で打倒できるとの判断を助長させることはあっても、蔣介石との話し合いによって戦争を止めようという方向には決して作用しなかったであろう。とはいえ兵力を小出しにするという石原の用兵が正しかったとまでは絶対に言えないが、この件に関しては弁明の余地は大いにあるように感じられるのである。

 また、〈石原はソ連の対日参戦を恐れるあまり兵力を逐次投入した〉という批判もあるが、それも日本の持久戦争遂行に対する石原の懸念を把握できていないことから来る誤解である。すでに確認したように、石原がまず憂慮したのは、持久戦争の準備もないまま支那と戦争をはじめて、その結果どこまでも戦線が拡大してしまうことであった。そして、そのような事態に陥ることは対ソ兵力が手薄になることを意味しており、同時にソ連に後背を衝かれてしまう可能性を増大させるのであって、ソ連に対する警戒は対支戦線拡大の副次的な問題だったと見るべきである。つまり裏を返せば、当初からソ連の対日参戦に備えることを強く訴えなければならなかったのは、対支戦争の長期化という結果が見えていたためであった。石原の思考がこのようなものであったことは本人が明確に述べるとおりであるので、念のため「回想応答録」の当該部分を再掲しておく。

「今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献