牛歩の猫の研究室

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石原莞爾と支那事変─はじめに

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 一九三七年七月七日に盧溝橋事件が発生した後、陸軍参謀本部作戦部長という要職にあった石原莞爾(いしわらかんじ。“いしはら”は誤り)が、いわゆる不拡大方針を主張したことや、事変の泥沼化を警告したことはよく知られている。これは石原を主題にした書物以外でも、支那事変を扱った書物であれば必ずといってよいほど言及されるが、管見によれば石原がそうした主張をすることとなった根拠については意外にも十分な分析がされてこなかったようである。したがって参謀本部時代(一九三五年八月~一九三七年九月)前後に時期を限っても、彼が心の内を披瀝したと信じられる重要な発言が、それを直接聞いた人物により相当数記録、公刊されているにもかかわらず、ほとんど活用されていない。また、この点についてインターネット上の議論は言うに及ばず、プロの論考であっても明らかに誤った石原論が横行しているのが現状である。一方で的を射た論説も少なからず存在するが、ほとんどの場合深入りはしないのであり、物足りなさを禁じ得ない。

 本論の目的は、石原に関する史料の見直しをおこない、石原が対支戦争の有する危険性を認識するに至った背景を明確にすることにある。特に石原が唱えた「決戦戦争」「持久戦争」という概念を用いて、主に盧溝橋事件発生から作戦部長辞任までの言動を読み解いてみたい。そして、それを評価するためには石原の打ち出そうとした方策が現実にどのような効果をもたらす可能性があったのかについても考察する必要があるため、北支事変(盧溝橋事件以後の北支における紛争)ならびに支那事変(第二次上海事変以後の支那大陸全土における紛争)初期における諸々の事象についても再検討しておく。また、その過程において新たな責任論が浮上してくるので、石原以外の人物に対しても適宜批評を加えておく。

 出典を表記するにあたって、角田順編『石原莞爾資料──国防論策篇』は頻出のため『資料』と略記した。昭和十四年秋収録「石原莞爾中将回想応答録」(文中では「回想応答録」と略記)は同書からの引用である。同じ理由で、防衛庁防衛研修所戦史部『支那事変陸軍作戦』1、防衛庁防衛研修所戦史室『大本營陸軍部』1、原田熊雄述『西園寺公と政局』もそれぞれ『陸軍作戦』、『陸軍部』、『原田日記』と表記した。

 引用文中の〔 〕は筆者による注釈であるが、一部もともとあった注釈をそのまま引用している箇所もある。

「北京」という地名の盧溝橋事件当時の呼称は「北平(ペーピン)」であり、本論でもこれに倣っている。ただし、引用した文献に「北京」と表記されている場合はそのまま使用した。また、「平津」とは「北平・天津」の略称であり、「京津(北京・天津)」と同義である。

 文中の「上海事変」という語は、「第一次上海事変」と断りのない限り「第二次上海事変」のことを指している。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献