牛歩の猫の研究室

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成就した以夷制夷

 その後、蔣は日本と戦いながら、国際情勢の変化を待ち続けた。日本に勝つ方法はそれを利用すること以外にはあり得ないのであり、かねてからの方針でもあった。国民政府は抗日戦の開始から特に次の三つを国際的解決戦略の柱としていた。

「第1に、国際連盟に対する提訴活動を再開し、日中衝突と中国の抗日戦に含まれた世界的意義を唱え、日中問題の国際化を促す。

 第2に、既存条約擁護を旗印にし、中国の正当性を強調しつつ、条約に違反した日本の孤立を深め、条約の履行を関係国に求める。

 第3に、国際情勢の変化すなわち英米ソら列国の対日干渉が必至であることを確信し、変化が来るまで如何なる苦難も忍んで抗日戦を堅持していく」(鹿錫俊『蔣介石の「国際的解決」戦略:1937─1941』)

 したがって支那事変勃発後、九月中旬に上海撤退を考慮しながら、その実行が先延ばしされたのは、やはり列国による介入を期待してのことだったようで、一一月三日からブリュッセルで開かれる九ヵ国条約会議では各国が怒って経済制裁を決断し、英米ソ連参戦を認めさせようと目論んでいた。同時期における「この上海戦は、外国人にやって見せるものだ」という発言は非常に象徴的である(楊天石前掲論文)。また、一一月一日、蔣は緊急軍事会議の席で「これから開催される九ヵ国条約会議は中国の運命と深く関わる会議であり、上海であと二週間奮闘すれば、国際的な同情が得られる」と力説している(劉傑前掲書)。七日、何応欽らの要請を受けて退却命令を出すが、翌日の日記に「これは戦略関係を考慮した撤退であり,われわれが力を使い切ったために退却するのではないことを敵に知らせ,彼らの追撃と再攻撃の企図を挫く.これは将来の戦局にとっては有利だが,九カ国条約会議に与える影響は甚大である」(岩谷前掲論文)と書いている。五日に蔣はトラウトマンを通じて伝えられた日本側の和平条件を拒否していたが、それはすでに明らかなように九ヵ国条約会議に大きな期待をかけていたためなのであった。そのため列国が支那事変にすぐさま介入してこなかったことは蔣にとって大誤算であり、上海戦で必要以上の犠牲を払うこととなってしまった。また、日本側が提示した和平条件を一度蹴ってしまったことは、同時に予告されていた条件加重を不可避なものにしてしまった。

 これらの点は楽観的に過ぎたと評するしかなく、蔣はその後、日本軍が疲弊し、国際干渉がおこなわれるまで三年は苦闘しなくてはならない、と認識を修正せざるを得なかったが、一九三九年になると、いずれ極東にも拡大するであろう欧州大戦に英仏の側に立って参戦し、「対日講和をなすときに、中日戦争と欧戦とを同時に連帯して解決する」という構想を日記に記している(家近前掲書)。一方、日ソ開戦への期待も高かったようであるが、日本と戦いながらアメリカに対しても積極的な外交を展開している。次の記述を引いておけば、蔣の最終目標が那辺にあったかは一目瞭然であろう。日本海軍が真珠湾攻撃をおこなったその翌日、蔣は日記にこのように記した。

「抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」(同前)

 以上のように、上海事変の時点ですでに日本は蔣の大戦略の中に取り込まれつつあったのであり、結果的にも一九四五年の日本の敗戦によって「以夷制夷」は実現した。たしかにその後、国共内戦に敗れて台湾に落ち延びることになってしまい、支那失地回復と統一を達成するという最終的な目的を果たすことはできなかった。しかし、苦境の中にあっても国際情勢の変化を待って粘り強く抗戦を続け、日本に勝利することには成功したのである。一方、何らの国家戦略を持たなかった日本は蔣介石に敗北した。この事実は厳しく受け止めなくてはならない。

 加えてトラウトマン工作に関してもコメントしておきたい。蔣の具体的な反応については後述するが、たしかに彼は南京陥落前に和平交渉に応じる姿勢こそ見せたものの、実のところこのドイツの斡旋にはまったく期待していなかった。

 他方で蔣は南京から退避する際に布告文を国民に発表しているのであるが、そこではまず、敵が中国を侵略する方法にはふたつあり、ひとつは日本が武力を用いて実行している「鯨呑」、もうひとつは共産主義の浸透にみられる「蚕食」であると述べ、我が国が恐れるべきは、知らず知らずのうちに我々の心をむしばんでしまう「蚕食」であり、はっきりと目に見える「鯨呑」は恐れるに値しないとし、また、「今日ノ形勢ハ寧ロ我ニ有利デアルトイエルノデアル。中国ガ持久抗戦シ最後ノ勝利ノ決手トナルノハ、南京ヤ大都市ニアルノデハナク、実ニ広大ナ全国ノ村々ト、民衆ノ強固ナ心ニアルノデアル」、あるいは「コノ五ヶ月間ノ抵抗デハ、敵ハ戦ワズシテ我ヲ屈服セシメヨウト欲シテイタガ、我ハ敵ヲ迎エ討チ終始屈セズ、敵ハソノ目的ヲ達シ得ナカツタ。敵ハ愈々深ク侵入シテ被動ノ立場ニ立タサレルコトニナツタ。敵ガワガ四千万方里ノ土地ヲ占領シヨウトシ、ワガ四億ノ民ヲ抑圧シヨウトスルニハ、一体ドレダケノ兵力ガ要ルノダト思ツテイルノデアロウカ。ワガ同胞ガ不撓不屈、前ガ倒レテモ後ガ継ギ、随所随所デ頑強ナ抵抗力ヲ発揮スレバ、敵ノ武力ハ遂ニ極マリ、最後ノ勝利ハ我ニ帰スルノデアル。イワユル抵抗必勝ノ信念ヲ抱クトハコノ事ヲイウノデアル」と述べている(「我軍ノ南京退出ニ当リ、蔣委員長ガ国民ニ告ゲタ布告文」一九三七年一二月一五日、深堀前掲書)。

 これが必ずしも強がりだと言い切れないのは、広大な国土を活用するという戦略は以前から提唱するとともに準備していたことであり、〈以後長期戦に持ち込めばそう簡単には負けない〉という自信は当然あったはずだからである。ファルケンハウゼンは本国からの命令で一九三八年七月に支那を去るのだが、彼も帰国にあたって「日本は広大な中国本土において終局的に敗北するであろう」(阿羅健一「日独防共協定のかげで中国の背後になぜドイツが」『歴史通』二〇一一年三月号)と述べたという。いわば蔣介石の「持久戦争不可避論」であり、彼は一二月二日に日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマンに伝えた際、「自分は日本がこの戦闘の結果勝利者となるという見解を受け容れることは出来ない」(三宅正樹『日独伊三国同盟の研究』)と強調することを忘れなかったように、この時点で敗北したという意識はなかったのである。したがってこの会見の翌日、蔣は日記に「対倭徹底抗戦の利害は、すべて国際情勢をみて定める」(岩谷前掲論文)と書いているとおり、戦争継続を選択肢から排除してはいないのであり、和平に応じるか否かは日支間の軍事情勢ではなくあくまで国際情勢に基づいて決定しようとしていたのであった。そして実際に蔣はその後、日本側の返答を待たずして和平の方を選択肢から排除してしまうのである(後述)。

 蔣介石の対日戦略を分析した鹿錫俊氏は次のように指摘している。

日中戦争の解決に当たって、中国は自らの秩序感と「国際的解決」戦略に基づいて、軍事よりも外交に重心を置き、局地での二国間の軍事的勝負を度外視し、国際的情勢の利害を大局として重要視した。そのため、日本は武力で全中国を制圧することができない限り、局地での軍事的優勢だけでは中国を屈服させることができない。換言すると、「国際的解決」の成功に対する中国側の期待を断念させることができない限り、中国との紛争を軍事的に収拾することもできないのである」(鹿錫俊前掲書)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献