牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

石原発言に見られる駆け引き

f:id:GyuhonekoLaboratory:20170425135040j:plain

 上海事変勃発後の八月三一日、石原は次のように発言している。

「上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞─江湾─閘北の線くらいであろう)

 北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。

 陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい」

 さらに、「〔上海方面には〕増兵しても焼け石に水」とまで言っている。これらを素直に読めば、石原は上海戦線の膠着状態は打開できないと考えていたように思える。しかし、そのように解釈してしまうのは早計であろう。なぜならば、石原は九月六日に陸軍増派やむなしとみてこれに同意したあとは、前言を完全に翻しているのである。

 九月八日に海軍軍令部を訪れた石原は、次のように参謀本部の増派案を説明した。

「上海に三コ師団増派の件は昨七日上司の決裁を得た。二十五日までに内地を出発、十月上・中旬に決戦を行い、羅店鎮―大場鎮―真茹―南市の線を確保し、専守態勢を整えたのち、一部を満州に派遣する予定である。対ソ関係はますます不安となった。ソ連はすでに戦略展開を終わっている。北支では、十月上旬に保定を確保すれば一部を残して満州に派兵する考えである」

 続いて九月一〇日、石原は第一部各課長に対し以下のような指示を与えている(一部抜粋)。

「(一) 上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない

「(二) 上海に一撃を加えたのちは二~三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、じ余は満州に転用する」(『陸軍作戦』。今岡前掲書も参考にした)

 また、このとき上海戦線に赴くこととなった谷川幸造歩兵第百三連隊長に対しては、「今度の作戦は可及的速やかに結末をつけたい。それで中支の作戦も上海付近ではおさまるまいから、崑山─太倉の線まで進出したところで終局としたい腹案だ。やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」(藤本治毅『石原莞爾』)と説明している。

 このように石原の態度は、上海の陸軍兵力増強に同意した九月六日を境にガラリと変わっているのである。そして、それ以降の発言は言うまでもなく上海攻略が前提となっているのであり、「南京の攻略戦は実施しない」という発言からは、上海を攻略して南京まで行こうと思えば行けると考えていたことがわかる。さらに「やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」とも述べているように、石原が恐れたのは、実は上海戦線の膠着状態を打開できないことではなく、むしろ戦線が拡大し過ぎてしまうことだったのである。

 このほかにも石原は、八月一二日に「上海の現況では陸軍の上陸はとてもできない」と超消極的な発言をして、その場にいた海軍軍令部員を驚かせている。ところがその翌日の近藤信竹軍令部作戦部長との協議において、「とてもできない」はずの上海への陸軍派兵に同意したことについてはすでに確認したとおりである。前出の井本熊男は、この石原発言を「〔戦面の拡大を抑えるために〕海軍にも少し協力的な努力をさせようという狙いがあったと思われる」と観察している(井本『作戦日誌で綴る支那事変』)。『中國方面海軍作戦』1によれば、石原は近藤との協議の際、まず「出兵不同意」を表明し、近藤の「海軍において十分陸軍作戦の援助をなす旨」の約束を引き出して陸軍派兵に意見を変えたようである。もし石原が本気で「出兵不同意」を貫徹するつもりであれば、権限上それは可能であったが(動員派兵は作戦部長の所管)、結局そうはしていない。このことからも、石原の発言に駆け引きの性質があったと見る井本の観察は正しそうである。

 以上から、石原の戦局に対する当初の悲観的な見通しは、本心ではなく一種のブラフと見ることができる。陸軍増派を決めるのとほぼ時を同じくして、石原は多田駿参謀次長の同意を得て、蔣介石に戦争をやめて和平に応じるよう電報で呼びかけるという無茶なことも試みているが(「多田駿手記」『軍事史学』通巻94号。蔣からはご丁寧にも「時機遲キ」との旨の返事があったという)、要するに支那事変に深入りし過ぎないうちに和平解決を実現しなければならないという強いこだわりが、そうした言辞に表れたのである。

 なお、上記のように九月八日には「対ソ関係はますます不安となった。ソ連はすでに戦略展開を終わっている」と述べているが、果たしてこれも本音であろうか?というのは、支那事変勃発後にソ連の動向に対して特別な注意をはらっていたことは疑う余地はないが、翌年一月中旬、石原は「近衞さんもどうも思つたより駄目だ。一時も早くソ聯に對して滿洲の防備をしなければ、それはとても危險極まる話である。もう北支なんかどうでもいゝから、滿洲を固めてソ聯に對する準備をするより仕方がない」と池田成彬に述べる一方(『原田日記』第六巻)、近衛に対しては「露国は出で来らざるものとの見込」であるとまったく正反対のことを平気で言っており(小川平吉日記『小川平吉関係文書』1)、意図は不明だが、ともかくソ連の動向に関する発言とて駆け引きである可能性は否定できないのである。おそらく「対ソ関係はますます不安となった」云々という上記発言は、対支作戦にのめり込むのを牽制するためにソ連の脅威を必要以上に強調したものではないだろうか。後述するように、石原は間違いなく対支戦争そのものに重大な危険を感じていたのであり、ソ連に対する警戒はそこから派生した問題だったといえるのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献