牛歩の猫の研究室

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米内光政と上海事変

 上海事変勃発に際しての米内の対応については、相澤淳『海軍の選択』が正確に考察していると信じられるので、基本的には同書に依拠し、若干の筆者の考察を加えながら確認していきたい。

 まず、米内は盧溝橋事件発生以来、陸軍派兵に対してはきわめて慎重な姿勢を見せていたことが注目される。そしてこうした姿勢は上海事変直前においてもまったく変わらず、同時点においては船津工作による解決に固執するという態度となって現れていたのである。そのため軍令部の陸軍派兵要求にも反対し、八月一一日におこなわれた伏見宮軍令部総長の要請に対しても「外交交渉には絶対的信頼を措かず然れ共(中略)成否は予想出来ざるも之を促進せしむることは大切なり」「今打つべき手あるに拘らず直に攻撃するは大義名分が立たず今暫く模様を見度し」などと述べ、米内はこれを拒否している。

 その後、船津工作が進展をみせなかったことから陸軍派兵に渋々同意したものの、上海で戦闘がはじまった八月一三日の時点でも、「上海から陸軍の派遣を要求して来ているのだが、こういう時に備えて駐屯させている陸戦隊だから、陸軍の派兵は好ましくないと思っている」(緒方竹虎『一軍人の生涯』)という心境を披瀝していたのである。

 ところがこのような米内の冷静な態度は、八月一四日深夜の閣議において一変してしまう。このとき米内は紛争の不拡大を訴える賀屋興宣蔵相を怒鳴りつけ、北支事変の全面戦争化、さらには南京占領まで主張するなど突如として強硬論に転向し、天皇は翌日拝謁した米内に対して「感情に走らぬように」と、注意とも取れる言葉を発しているのである。

 米内が態度を豹変させた理由は何だったのだろうか。陸軍派兵に否定的ですらあったものが、わずか一日にして全面戦争論に転向し、そればかりか敵国の首都占領まで口にしはじめるのは異常な変化であると言わざるを得ない。

 実は当時の部下であった扇一登によると、米内は八月一四日午前一〇時頃におこなわれた支那空軍の爆撃、特にかつて座乗していた第三艦隊旗艦「出雲」に対する爆撃に強い怒りを示していたという。過日、米内は次のような対支認識を表していた。

支那をまいらせるため、正面から、またはいわゆる謀略行使の結果として、武力をもって支那をたたきつけることを「強硬政策」というもののごとく、あるいは支那がいうことを聞かなければ頑強にいつまでも苦い顔をしてにらみつけてやることを「静観政策」と称するもののごとく、そのいずれも拙劣な政策であることは恐らく議論の余地がないところであろう。

 支那をまいらせるためにたたきつけるということは、支那全土を征服して城下の盟をなさしめることだろうが、それは恐らく不可能のことなるべし。支那のヴァイタル・ポイント〔急所〕は、いったいどこにあるのか。北京か南京か、広東ないしは漢口か長沙か重慶成都か、このように詮議してくると恐らくヴァイタル・ポイントの存在が怪しくなってくるだろう。

 つぎに日本の実力と国際関係から見て、支那本土に日本の実力をもって日本の意志どおりになし得る範囲はどうか。

 支那のヴァイタル・ポイントということと日本の実力ということを考えるとき、われわれは満州だけですでに手いっぱいであることと察する。このように考えれば、いわゆる強硬政策なるものが実際に即しない空威張りの政策であって、他の悪感をかう以外に一も得るところがないこととなる。

 日本は過去において済南に、また、ちかくは満州に上海において武力を発揮して支那の心胆を寒からしめ、戦さをしてはとうてい日本にかなわぬという感じを支那の少なくとも要路の者にうえつけたはずである。支那の海軍が日本海軍を畏敬しておることはいうまでもなく、ただに軍事上だけにかぎらず、恐らくあらゆる点において日本が優位にあることは、だれが見ても考えても合点のゆくところと考えられる。

 このように実力のある日本は、どうして支那に対しもっと大きな心と大国たる襟度をもって対応できないのであるか。犬や猫の喧嘩でも、弱者は強者にたいし一目も二目もおき、けっして正面から頭をあげ得るものでない。喧嘩をしていないときでも、弱者のほうから強者のほうに接近をもとめるということは、なかなか困難なものである──たとえ接近しようとする意志がうごいても。これが、すなわち弱者の強者にたいする心理状態なのである。

 優者をもって自認する日本が劣弱な支那にたいして握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ〔威厳〕を損しプライドをきずつけるものだろうか。いつまでもこわい顔をして支那をにらみつけ、そして支那のほうから接近してくるのを待つということは、いかにも大人気のない仕業であり、むしろ識者の笑いをかうにすぎないものといわねばならない。

 日本はよろしく、つまらない静観主義をさらりと捨て、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに努めるべきである」(「対支政策について」一九三三年七月二四日)

 このような対支認識が米内の中でほとんど変化していなかったことは、盧溝橋事件発生以降、「武力をもって支那をたたきつけること」に反対し、上海の情勢が悪化しても外交交渉による事態解決の方針を頑なに譲ろうとしなかったことから明らかである。また、蔣介石に対して個人的な信頼を置いてもいたのであった。

 すなわち米内は、蔣介石と話をつければ問題は解決できるのであって、よもや「弱者」である支那が「強者」である日本に挑戦してくることなどあるまいと高を括っていたのである。その証拠に、すでに支那中央軍の精鋭が上海の包囲を完了した八月一二日の時点でも、何と米内は「相変わらぬ悠揚たる態度」をみせ、「仮に上海で事が起こっても上海にいる陸戦隊で十分防いでみせる」などとうそぶいていたのである(『静かなる楯 米内光政』上)。米内は手記に「もし今回の蘆溝橋事件にたいし誤まった認識をもってその解決にあたったならば、事件が拡大することは火を見るよりも明らかである。そして、その余波は一ないし二ヵ月にして華中におよぶであろう。海軍大臣のもっとも懸念したのは、じつはこの点にあったのである」(『海軍大将米内光政覚書』)と書いているが、それも結局は、「陸戦隊で十分防」ぐことのできる程度の小競り合いが、上海で「仮に」起こるかもしれない、といったものでしかなかった。したがって支那軍が上海付近に防禦陣地を構築しているという情報も、米内の解釈は「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」「公言は出来ざれ共停戦区域には正規兵は居らず「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり」(八月一一日朝、陸軍派兵に反対しての発言。「中支出兵の決定」『現代史資料』12※)というのであって、蔣介石が上海で戦争をはじめる準備をしているとは思いもよらなかったのである。

 ところが支那空軍による爆撃は、米内にとって劣弱であるはずの支那が正面から立ち向かってきたことを意味しており、そのうえ軍令部や現地軍の要請を拒絶して作戦準備を遅延させていたこともあって、この期に及んで現実を突きつけられて動転し、感情のコントロールを失ってしまったものと考えられる。要するに、米内は独善的な期待を裏切って攻撃を仕掛けてきた蔣介石に怒っていたのである。

 

※これらの発言は米内流の駆け引きだったのかもしれない。たとえば「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」と述べる一方で、非武装地帯における「「トーチカ」塹壕等」の存在を認めるのは完全な矛盾である。ただし「「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり」というのは本心だろう。おそらく米内は日本が先に手を出さない限り戦争にはなり得ないと考えており、「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」「停戦区域には正規兵は居らず」、このほかにも「大山事件は一の事故なり・・・目下の処上海方面に大なる変化なし」(前掲「中支出兵の決定」)などと上海の情勢は緊迫してはいないと強調することで陸軍の派兵決定を避けようとしたものと考えられる。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献