牛歩の猫の研究室

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石原は対ソ開戦論者だった?

 石原の国家戦略に関しては、〈昭和一七年頃ソ連と戦争をはじめるつもりだった〉との見方がある。たしかに昭和一一年七月、戦争指導課策定の「戦争準備計画方針」には「昭和十六年迄ヲ期間トシ対「蘇」戦争準備ヲ整フ」とあり、翌月には「対ソ戦争指導計画大綱」が作られている(『資料』)。これらを額面通りに受け取れば、石原が近い将来の対ソ戦を決意していたとみることは可能だろう。

 しかし、前述のように、石原は「持久戦争不可避」との理由で支那との戦争を恐れていたのであるから、その支那よりもはるかに国土が広大で、なおかつ支那よりも強力な軍隊を持つソ連を相手に、気軽に戦争をはじめたとはどうしても思えないのである。後年のことであるが、当然ながら石原は「日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい」、すなわちソ連を武力だけで屈伏できる見込みはない、との認識を示し、さらにアメリカはフィリピン、ソ連は極東ソ連領を利用して日本の政治、経済的中枢を空襲できるが、日本にはそれが不可能だとして、「この見地から空軍の大発達により我が軍も容易にニューヨーク、モスクワを空襲し得るに至るまで、即ちその位の距離は殆んど問題でならなくなるまで、極言すれば最終戦争まではなるべく戦争を回避し得たならば甚だ結構であるのであるが、そうも行かないから空軍だけは常に世界最優秀を目標として持久戦争時代に於ける我らの国防的地位の不利な面を補わねばならない」と述べている(一九四一年二月『戦争史大観』)。

 石原の描いた国家戦略においては、ソ連の極東攻勢を断念させることを第一の目標としていたことについてはすでに触れたが、それに関して「戦争ニ至ラスシテ我目的ヲ達成スルコトハ最モ希望スル所ナリ」(前掲「国防国策大綱」)と説明されていることを見逃すことはできない。では、戦争以外のどのような手段によってソ連に対処しようとしたのだろうか。昭和一〇年九月、石原は杉山元参謀次長に次のように意見具申している。

「速ニ所要ノ兵力ヲ大陸ニ移駐スルコト刻下第一ノ急務ナリ コレカ為恐ラク日蘇間ニ国境兵力増加ノ競争ヲ惹起スヘシ 然レトモ困難ナル蘇国ノ極東経営ニ対シ我迅速適切ナル北満経営ニヨリ彼ヲ屈服セシムル能ハサレハ我国運ノ前途知ルヘキノミ 此経営競争ニヨリ先ツ露国ノ極東攻勢ヲ断念セシムルコトハ昭和維新ノ第一歩ナリ」(「為参謀次長」『資料』)

 また、前述の国防計画刷新の際、海軍側のカウンターパートとなった福留繁に対しても次のように主張している。

「“北守南進”の提案は是非撤回してくれ、陸軍は今後は満州国を固めることに専念し、決してこれ以上手を延ばして、ロシアと事を構えるようなことはしない。今海軍に北守南進を持ち出されると、陸軍は評判が悪いだけに満州国経略の腰を折られることになる。満州国が固まるまでこの提案を待ってもらいたい」(福留前掲書) 

 石原の部下であった稲田正純は、石原のスタンスをこのように説明している。

「石原さんの戦争観というのは、今後十年間は絶対に戦争してはならぬ、その間に世界最大の軍事力を誇るソ連陸軍に一応対抗できる軍備をしようということで“戦争せざる参謀本部”をつくり上げるところに力点を置いていた」(『昭和史の天皇』16)

 参謀本部時代の石原が考えていたのは要するにこういうことだろう。

〈当面の目標は、ソ連に戦わずして勝つこと、すなわち満洲国においてソ連が極東攻勢を断念せざるを得ないほどの対ソ軍備を実現することである〉

 結論を急げば、そもそも石原は前述したように第二次世界大戦の発生近しと予測し、これに参戦するつもりがないばかりか、国力充実のためにソ連および支那とは静謐を保たなければいけないと考えていたのであって、わざわざ第二次世界大戦が勃発すると予想していた昭和一七年にあわせて、しかも困難な持久戦争を強いられることが明白なソ連に対し戦争を仕掛けることなどあり得るわけがないのである。また、昭和一一年の時点で、満洲国の完成のために「少クモ十年間ノ平和ヲ必要」(「日満財政経済調査会」昭和二十一年『資料』)としていたのであって、昭和一六年までに準備を整え、昭和一七年に対ソ戦を開始するのでは計算が合わない。それどころか浅原健三は「最低限度、十年間は戦争しちゃいかん。できうるならば三十カ年やっちゃいかん」という石原の言葉を聞いているのである。浅原は石原の構想を次のように説明している。

ソ連の進行にともなって、日本がこれに打ち勝つためには、あせってはならない。二十年くらいの時間を稼いで、一意満州の産業開発をおこない、日本戦力の培養に努力することであるとした」「この大望が実現せられるとき、日本は確信を持って、ソ連と雌雄を決すべきである。日本がソ連に勝てば、日支の葛藤は必然に解消する。日本は確信をもつまで、いかなる国とも、問題を起こさない事が有利であり、とくにソ支両国に対してしかりである。という思想を(石原は)抱いていた」(桐山前掲書)。

 石原の「三十カ年」不戦の方針については稲田正純も「石原さんの考えは、何度もいうように戦争はしない。戦争体制が整うには三十年はかかると判断していたんです」(『昭和史の天皇』15)と証言している。

 これもまた、先に引用した『戦争史大観』における主張と符合しており、当面の対ソ戦回避論である。石原は大東亜戦争がはじまると「本来からいえば、成し得れば準決勝戦時代の今日は不戦一勝を得たいのであります」(一九四二年一月三日「国防政治論」『石原莞爾選集』5)と未練ありげに言っているし、戦後にもやはり「私は最終戦争時代の必至を信じ、日本が武器をとつてこれを戦う覚悟を要するものと主張していた。そして最終戦争以外の戦いは極力これを回避すべしとの持論を終始変えなかつたものである」(「兄の憶い出」『資料』)と主張しているが、これらが自己弁護などでないことはもはや説明を要しない。

 以上から、石原は対ソ開戦論者だったといえるかもしれないが、その時期は来るべき世界最終戦争(決戦戦争)の時代であり昭和一七年前後ではなかったのである。故に昭和一一年に作られた対ソ戦計画は、「十年平和維持の希望が達成されずに対ソ戦争が勃発する場合を想定しての計画であつた」(角田順「解題 石原の軍事的構想とその運命」『資料』)と解釈するのが正しい。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献