牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

首脳会談成功の可能性

 蔣介石が盧溝橋事件後しばらくは平和的解決を求めていたが、日本軍の北平占領により戦争へと政策を転換せざるを得なかったことについてはすでに述べた。そうであれば、日本の出方によっては局地解決も不可能ではなかったはずである。

 石原の事件不拡大の努力の中で特に目を引くのは、近衛に対する蔣介石との首脳会談の提言であるが、まず七月一二日に、風見章内閣書記官長を通じて同案が申し入れられている。しかし、日本陸軍支那軍双方の統制に疑問が残るとして、一六日に石原に見合わす旨の返答があった(風見「手記 第一次近衛内閣時代」『風見章日記・関係資料 1936─1947』)。しかし、これで石原があきらめたわけではなく、一八日、石原は杉山陸相に北支の日本軍を山海関(満支国境)まで後退させ、近衛が南京に飛んで蔣介石との膝詰め談判によって日支間の根本問題の解決をはかるべきことを意見具申している。なお、それに対し同席していた梅津美治郎陸軍次官は「実はそうしたいのである。しかしそれは総理に相談し、総理の自信を確めたのか」と反問している(『陸軍作戦』)。

 ただし、以下に述べるように首脳会談によって日支諸懸案の全面的解決をはかるという発想自体は特別ではなく、石原の提言とは無関係に近衛も独自に構想していた。松本重治によれば、近衛が蔣介石と直接交渉をおこなうという考えは組閣直前に政治学者の蝋山政道から進言されていたという(『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』)。また、国策研究会の矢次一夫も石原と同時期に、近衛と親しい岩永祐吉同盟通信社社長に対し、近衛が陸海外三大臣と統帥幕僚長を従えて南京に乗り込み、蔣介石と直接交渉することを提案しており、これを受けて岩永はすぐさま近衛の説得にあたっている(矢次『昭和動乱私史』上)。

 近衛自身は当時を回想して「蘆溝橋事件が起ると間も無く嘗ての記憶を呼び起し、早速蔣介石氏と直接膝つき合せて話をする以外事件の擴大を防止する方法がないと思ひ・・・」と、首脳会談が自らの発意であったことを手記に書いており(近衛『失はれし政治』。「嘗ての記憶」とは以前接触した駐日支那大使の秘書・丁紹仍が国交調整をあきらめていないことを言明し、今後の連絡のために近衛側の人物として宮崎龍介秋山定輔を指名していたこと)、また、風見も石原から申し入れのあった七月一二日の時点で、すでに近衛には首脳会談の構想があったと述べている。風見が翌日、石原の申し入れを近衛に伝えた際、本来軽々に決断できるものではないはずであるのに、「若しよく目的を達し得べしとならば、貴下と共に南京に飛ぶを辞せず、今病臥すれども医師看護婦を同行せばよし」と即答できたのはそのためであろう(風見前掲手記)。七月一六日、近衛は米内と会見し、広田外相を蔣介石と直接交渉させ日支間の根本問題を解決する案のあることを明かし条件付きでの同意を得ているが(『海軍大将米内光政覚書』)、翌日には「廣田外務大臣をこの場合南京へやつて、日支兩國間の外交の急轉換をやりたい」「もし廣田がいけなければ自分がみづから行つてもいゝ」と決意を示し、「政治的になるべく大きく解決したい。各國をして日本に領土的野心のないこと、徒らに武力使用を欲せざることを知らせ、合理的な要求をして歸つて來れば、もし事柄が不成立に終つても、日本の立場と意圖が列國に明かになるから、それでよい」と述べている。後日、これを伝え聞いた元老西園寺公望は「それはもう支那には寧ろ不信用な廣田をやるよりも、近衞自身が出かけて行く方が非常にいゝぢやないか」との意見であった(『原田日記』第六巻)。さらに一八日の五相会議はこうした近衛の意向に基づいて、支那側に一方的に譲歩を強いる形での日支諸懸案の全面的解決に乗り出すことで合意を見た。なお、新聞や財界なども全面的解決を主張する状況であった(庄司潤一郎「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」『新防衛論集』通巻59号)。

 したがって近衛が首脳会談を独自に構想していたのであれば、一六日に石原に見合わす旨の返答をしながら、むしろ乗り気になっていることも不思議ではなく(もっとも見合わす旨の返答は風見の独断であったが)、引き続き石原の意見に耳を貸すこともあり得たわけである。二二日に牧野伸顕と会談した近衛は、石原から要旨次のような進言があったことを打ち明けている。

「今日の如く枝葉に捕はれ其場、其時の出来事に偓促〔齷齪〕する様にては、日支両国間の紛糾絶ゆる事なかるべく、就ては総べて従来の行懸かりを放棄して北支政権を断念し、其代はり満州事〔自〕体を承認せしめ、以て百八十度の廻転を遂行するの外策なし、内閣此方針を採用せば陸軍は決して異議を挿む様な事は断じて為さしめず、幸ひ過日来の行詰まりも一段落を告げたるに付、至急此根本方針に付交渉を進められ度し」

 そこで石原の解決案を聞いた牧野が「此点は大に留意する価値ある旨指摘」したところ、近衛も同感を表し「其含みにて日支両方に渉り準備工作を試みたし」と述べた(『牧野伸顕日記』)。

 そして近衛は秋山定輔を通じ宮崎龍介を密使として支那に派遣しようするが、この動きは陸軍に察知され、秋山と宮崎は憲兵隊に逮捕されてしまった。しかし、おそらくこの少し以前に、近衛から渡支するよう要請された西園寺公一が七月下旬、上海において支那側要人との接触に成功しており、彼は盧溝橋事件の解決と満洲国の承認を条件として首脳会談を開くことを打診したが、宋子文がこれを蔣介石に伝えたところ、またしても日本の圧力に屈することを要求するものであり和平条件としては問題外とされた(戸部良一『ピース・フィーラー』)。西園寺の回想によれば、宋子文との会談において、満洲国承認に関しては宋が難色を示したため「承認」を取り下げて「今後お互いに觸れない」ことを提案したようであるが、盧溝橋事件の解決は額面通りで、その中に北支政権(日本の傀儡である冀東防共自治政府)の解消等の譲歩は含まれていなかったようである(『貴族の退場』)。そうであれば近衛が携行させた和平条件は、軍事的圧力を背景に満洲国承認を一方的に要求するものということができ、蔣介石が一蹴してしまったのも当然であった。とはいえ、北支政権の解消を提案していれば蔣介石が満洲国承認に応じたかといえば、事態がどう転ぶかまだわからなかったこの時点においてはそれも不可能であったと思われ、いずれにせよここは余計な波風を立てる満洲国問題など持ち出すべきではなく、盧溝橋事件の局地解決を優先すべきであった。宋子文も西園寺に対し「中國に、面子を失わせるようなことを、この際持ち出すのは、却つて大變な逆效果です。遠くの火事場から、わざわざ火種を取つて來て、身近に放火するようなものです」(同前)と警告せずにはいられなかったのである。犬養健によれば、石原は満洲国の領土権を返上し、その代わりに満洲と北支に経済合作地帯を作るという解決案をもって首脳会談に臨むことなども近衛に進言していたという(『揚子江は今も流れている』)。これが事実ならば蔣介石は確実に肯定的反応を示しただろうが、このとき彼が最も神経をとがらせていたのはやはり盧溝橋事件の推移であって、同事件が拡大するのであれば国交調整交渉は後回しにするほかなかったのである。

 以上の理由から、一触即発の時期にあえて全面的国交調整を試みようとする首脳会談案が妙案だったとはとてもいえないが、それよりは石原が一方で盧溝橋事件の拡大に危機感を覚え、「本紛争を中止するためには北支の日本軍を満支国境以北に後退せしむるも可なり」(影佐禎昭「曾走路我記」『現代史資料』13)と考えたことの方に注目したい。

 まず、さしあたり北支から日本軍を撤退させるだけでも日本に戦争をはじめる考えのないことが明らかになって破局は回避できていたに違いない。蔣介石に和平解決の意志がまったくなかったのであれば逆効果だが、すでに見たとおりそうした事実はなく、彼にとって盧溝橋事件さえ平和的に解決できれば戦争に訴えなければならない理由は存在しなかったのである。そして日本が北支における既得権益を事実上放棄したうえであれば、蔣介石も首脳会談の提案に乗ってみる気になったのではないだろうか。しかも日本のトップが乗り込んでくるという形ならば、仮に交渉が決裂しても彼の面子に傷はつかない。それでも蔣介石が満洲国を公然と承認することは不可能だったと思われるが、日本が先手を打って譲歩を示すことで国交調整交渉は適当なところで妥結点を見出せたように思う。首脳会談において盧溝橋事件の手打ちと国交調整に関する大筋の合意ができれば、細かい部分は後日の外交当局間交渉に譲っても問題はなかったはずである。

 ただし、以上を実行しようとすれば陸軍強硬派などが反発したことが予想されるが、「近衛がその気になりさえすれば、天皇の優諚を拝し、和戦の大権の負託を受けて南京に飛ぶことはできたはず」(大杉一雄日中戦争への道』)であり、そうとなれば強硬派も表立って反対することはできなかったのである(「優諚」が軍を統制し得る威力を有していたことは、大杉一雄『日米開戦への道』下を参照)。おそらくそのような効果を狙ったのであろう、実際に参謀本部戦争指導課ではいち早く「速ニ近衛首相(止ムヲ得サレバ広田大臣)ハ聖諭ヲ奉戴シ危局ニ対スル日支和戦ノ決定権ヲ奉シ直接南京ニ至リ国民政府ト最後的折衝ヲ行フ」(「緊急措置ニ関スル意見」七月一一日『太平洋戦争への道』資料編)とする計画が作成され、先に見たように石原が風見を通じて申し入れをおこなっている。

 近衛の南京乗り込みを提案した前出の矢次一夫は当時「この場合近衛のことだから、天皇の勅命によって統帥権の委任を受けることも可能ではあるまいか」(矢次前掲書)と推測していたが、たしかに近衛は天皇の信任を得ており、また前述のように元老西園寺公望も近衛の南京行きに賛成だったのであるから、天皇から意見を求められた場合にはその実行を進言しただろう。付言しておけば政府側においても「首相直ちに南京に飛ぶとせば支那駐屯軍満洲まで後退させ置くだけの用意は必要」と判断されていたのであり(風見前掲手記)、筆者も近衛の決心一つで支那駐屯軍満洲まで後退させ、南京に乗り込むことは実現可能であったと考える。

 日本軍の北支撤退は全面戦争を確実に回避できる最大のチャンスであり、また、あの当時の危機的状況では、そうした非常手段に訴える以外に解決の方法はなかったと思われる。将来を洞察し、大局的見地に立って思い切った決断をくだせる人物がいなかったことが残念であるが、後述するように、石原を除いて、支那との戦争が原因で国家が滅亡に瀕するなどとはほとんど誰も考えなかったのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献