牛歩の猫の研究室

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船津工作成功の可能性

 支那事変前の和平の試みとしては船津工作もよく知られるが、こちらはどうだっただろうか。これは七月末の天皇の「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」という近衛への示唆によってはじまり、すでに時局収拾案が立案検討されていた陸海外の合意のもと政府レベルに引き上げられて推進されたものであるが、これを受けて川越茂駐支大使と支那側和平派に後押しされた高宗武外交部亜州司長が上海において会見したのは八月九日のことであった(石射猪太郎『外交官の一生』、島田俊彦「「船津工作」など」『日中戦争と国際的対応』、戸部前掲書。当初は船津辰一郎在華日本紡績同業会理事長を高宗武と会談させる計画であったが、川越茂が割り込んできたため予定通りにはいかなかった)。和平条件は以下のとおり。

停戦交渉案の要点

一、塘沽停戦協定その他、華北に存する従来の軍事協定は一切解消せしめる

一、特定範囲の非武装地帯を設ける

一、冀察・冀東両政府を解消し、国民政府において任意行政を行う

一、日本駐屯軍の兵力を事変前に還元せしむる

一、停戦の話し合い成立したるときは、中日双方において従来の行き懸りを棄て、真に両国の親善を具現せんとするニュー・ディールに入る

国交調整案の要点

一、中国は満州を承認するか、あるいは満州国を今後問題とせずとの約束を隠忍の間になすこと

一、中日間に防共協定をなすこと

一、中国は全国に亘り邦交敦睦令を徹底せしめること

一、上海停戦協定を解消する

一、日本機の自由飛行を廃止する

一、両国間の経済連絡貿易の増進を図ること

──しかし蔣は、八月五日に日本との和平交渉を拒絶する方針を決定しており(家近前掲書)、八月九日の時点においてはすでに戦意は固かったといえる。しかも会見がおこなわれた当日、上海では大山勇夫海軍中尉殺害事件が発生し、高宗武は急きょ南京に引き返すこととなり以後の交渉は途絶してしまった。高は川越茂と会見した翌日、松本重治を訪ね、次のように話し長嘆息したという。

「川越さんの話によれば、東京では、近衛内閣の陸・海・外三省の合意で、中国に対して前例のないほどの寛容な態度に決したとの話、おまけに、川越さんも熱が籠った話しぶりなので、こちらも、きわめて欣快至極であった。しかし、東京のほうで、新しい姿勢が、せめて一週間前か、二週間前に出来ていたら、ほんとによかったのに、と思わざるを得ない。昨夕大山事件などが突発してから、形勢が急激に悪化してきた。だから、上海附近での中日両軍の衝突でも起ったとすれば、外交では、もう何もできないことになる」(松本『上海時代』下)

 これはまったく高の述べるとおりで、天皇は八月七日、伏見宮軍令部総長に「現在ヤツテイル外交工作(Fノ件)ガウマクイケバヨイガ」と述べ、九日に閑院宮参謀総長が内蒙方面への作戦の裁可を求めたときには、「外交解決ノ動キアル旨外相ヨリ上奏アリシガ、カゝル際戦面ノ拡大ハ如何」と質したり(戸部前掲書。天皇は一二日に至って「かくなりては外交による収拾は難しい」〔『昭和天皇実録』第七〕と述べているように、ギリギリまで船津工作による解決を希求していたのだった)、また、米内も一一日、「之を促進せしむることは大切なり」と主張したりするなど(後述)、日本側においてかなり期待された船津工作であったが、残念ながら完全に機を逸していたといわざるを得ない。

 では、船津工作に石原はどう関わったのであろうか。実はそれはよくわかっていないのだが、少なくとも石原は七月末に外交交渉を推進する姿勢を見せており、この時期に和平工作をおこなうことに前向きだったのは確かだろう。ただし、その解決条件は、満洲国の承認と引き換えに、支那本部における日本の権益(治外法権、北支特殊権益、陸海軍の駐兵権、租界など)をすべて返還してしまうという船津工作案とは比較にならないほど思いきったものであり(七月三〇日、嶋田繁太郎軍令部次長に対する申し入れ。『陸軍作戦』)、また、「折柄滞京中の在華紡績同業会理事長船津辰一郎氏に停戦案と全面的国交調整案を授け、上海に急行してもらい、船津自身の仄聞した日本政府の意向として、右両案を密かに高宗武亜州司長に試み、その受諾の可能性を見極めたうえで、外交交渉の糸口を開く」(石射前掲書)という外務省案に沿った私人まで介在させる回りくどい交渉のやり方も、後述するように石原にとって積極的には賛成しかねるものであったと考えられる。

 一方で確実なのは、依然として近衛と蔣介石の直接交渉をあきらめてはいなかったということである。石原が「近衞首相自ら南京に飛び、蔣介石と膝づめで日支の根本問題を解決すべき」(七月一八日の発言。『陸軍作戦』)との持論を終始変えなかったことは、支那事変がはじまってからも、「兩者の間に邪魔者が居つて解決を困難にしてゐる」という考えを述べ、近衛が南京に行かなかったことを指して「近衞首相の優柔不斷のために事變解決の絶好の機會を逸したのは殘念です」と痛憤したり(岡本永治「豫言」『石原莞爾研究』)、後年「これは今考へても大きな政治的の手でありましてもう少し徹底てやつたならばと残念であります」「本格の上海の戦の起つた後には南京をとる直前がよい機会だつたと思ひます」と後悔していることからも明らかである(原文ママ「回想応答録」。なお、これらにおいて船津工作にはまったく言及がない)。そして石原の首脳会談への期待の高さは、近衛と蔣介石の会談を「最後的折衝」と位置付けていることからもうかがえる(前掲「緊急措置ニ関スル意見」)。これには“最後の切り札”といった意味もありそうで、これで駄目なら戦争も辞せずという覚悟が感じられる。事実、当時石原は和平に関して、「私の原案は、中国に求めるところは『満洲国の独立』を認める、ただこの一つだけだ」と述べる一方で、「今は中共が主導権を握っているから徹底抗日を主張して講和に応じないことも充分あり得ることだ」とも述べており、その場合はやむを得ない事情を声明宣伝したのち対支作戦に入ることも想定していたのである(山口前掲書)。

 以上からわかることは、石原がこだわったのはあくまで首脳会談であり、船津工作に反対こそしなかったものの、実はその効果には懐疑的であったということである。満洲国の承認のみに絞った解決条件でも和平は危ういと感じていたのに、非武装地帯の設置など日本側の要求が増大した船津工作案で、確実な和平成立を期していたということは論理上あり得ない。そればかりか同工作は政府レベルに引き上げられたあと和平条件が陸軍の意見で次々に改訂されており(島田前掲論文)、そうした対応を絶対不可としていた石原は事態の推移を苦々しく眺めていたはずである(本論「早期和平解決にこだわった石原」)。外務省東亜局長だった石射猪太郎は八月五日の日記で、和平条件の上乗せを要求する陸軍当局に対し、「縁日商人の様な駆引」だと奇しくも石原と同じ表現を用いて批判しているが(同前参照)、当時石原も同様の感想を抱いていたことは疑いようがない。結局船津工作は、石原にとって日支和平に対する「邪魔者」の介入以外の何物でもなかったと思われる。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献