牛歩の猫の研究室

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石原の経済体制再編論

 そして石原が一九三五年八月、参謀本部作戦課長就任後に生産力拡充計画に乗り出した理由も、軍事力を拡大していた極東ソ連軍に早急に対処することにあったのであり(「回想応答録」)、ひいては世界最終戦争に備えるためであった。そこで石原は統制経済の導入を構想するのであるが、それをソ連の模倣と見ることは適切ではない。まず、次のようにソ連の行く末を的確に予見していたことが注目される。

「ソヴィエットと云ふものは実験室のようなもので、今まで行はれなかつたようなことを非常に強い観念の力で新しい社会建設の試験をやつて居るのであります、・・・人類の為に驚くべき犠牲を払つて大実験をやつて居りますあの努力は結局不成功に終りませう」(「世界戦争観」昭和十四年三月十日『資料』)

 参謀本部時代、ソ連の実態についてはモスクワに駐在していた堀場一雄らの調査報告を通じて把握していたようである(芦澤前掲書)。このような結論に行き着いたのは、あらゆる企業活動を国家統制下に置くソ連社会主義の弊害を十分に認識していたためであった。日本で実施されるべき統制経済について石原がどのように計画していたか、当時の彼の思想の一端がうかがえるいくつかの発言を一九三七年発行の西郷前掲書から引用しておく。

「資本主義の特長は、生かさなければならぬ。軍需工場の如きも、自分としては、大兵器廠の擴充の如きは、反對である」

「國營工場が課された使命は、現在で、既に、終つてゐる。もうこれ以上の發達は國營工場において望み得ない」

「優秀なる飛行機も、優秀なる兵器も、また優秀なる商品も、民間工場において、その有する資本主義的特質を生かした、技術の研究努力によつてこそ、完成されるものと確信してゐる」

 統制経済体制への移行の限界については、はっきりと次のように述べている。

「日本が、國家社會主義に墜するのなら、最早、何をか言はんやである」

 これらを、たとえば統制経済に対する世上の不安を和らげるための言辞と解釈するのは誤りである。陸軍中枢から外れた一九三九年九月にも「マルクス主義流行以來、資本家排撃は一の支配的觀念となり、マルクス主義排撃の急先鋒すら、利潤追求の故を以て資本家を攻撃する實状である。然し利潤の追求が許されてこそ經濟能力は種々の困難を克服して高められてゆくのである」(杉浦晴男名義「昭和維新論」)と述べているように、ソ連のやり方を丸写ししたのでは競争原理が働かず、国力の低下を招いて早晩失敗すると考えていたのである。ましてや自国民に弾圧を加えるなど論外だった。次のように、スターリンに対して冷やかな視線を向けていたこともわかる。

ソ連は非常に勉強して、自由主義から統制主義に飛躍する時代に、率先して幾多の犠牲を払い幾百万の血を流して、今でも国民に驚くべき大犠牲を強制しつつ、スターリンは全力を尽しておりますけれども、どうもこれは瀬戸物のようではないか。堅いけれども落とすと割れそうだ。スターリンに、もしものことがあるならば、内部から崩壊してしまうのではなかろうか。非常にお気の毒ではありますけれども」(『最終戦争論』)

 ただし、参謀本部着任前の仙台第四連隊長時代(一九三五年四月)には「非常時と日本の国防」と題した講演において、自由競争を否定し、「自由主義経済の滅亡も、ここに至って必然であります」と断言しており(成澤米三『人間・石原莞爾』。しかし、その一方ですでにソ連の国家経営を愚劣と批判しており、ソ連社会主義への移行を主張したものではない)、上記のような構想が確立されたのは参謀本部時代のことといえる。

 以上のように、当時石原は社会主義に傾倒していたわけでも、資本主義を絶対視していたわけでもなかった。次に引用する石原に近い人物の評はそのあたりの思想を的確に説明していると思われる。

「〔東亜連盟に賛同した者の中には社会主義者やその同調者が多く、そのため石原自身もアカ呼ばわりされることもあった。〕しかし石原さんは自ら、

「私ほど共産党より憎まれるべき者はない」

と言っていた通り、到底、相容れぬものがあったのです。それは石原さんの「国体観」であり、破壊と残忍と専制に対する憎悪であったのであります。

 石原さんは、資本主義の長所も欠点も、また社会主義ないし共産主義の長所も欠点も知り尽していて、何とかしてこれらの長所ばかりを取り入れて、その短所を取り除いたような更に高い指導原理を見つけ出そうと腐心されていたようであります」(田中久「軍の異端者・石原莞爾の経綸」『資料で綴る石原莞爾』)

 したがって石原は満鉄経済調査会の宮崎正義(ロシア留学の経験があり、その後入社した満鉄でもロシア研究をおこなった。マルクス経済に精通)に経済政策の立案を依頼するのであるが、宮崎が作成したものはソ連で実施しているような市場経済を否定した全面的統制ではなく、市場経済に立脚しつつも官僚主導の部分的統制を織り込んだ日本独自の経済統制システムであり、ソ連等の経済政策を参考にしつつも、やはりそれを単に模倣したものではなかった(詳しくは小林英夫氏の一連の著作〔『「日本株式会社」を創った男』、『超官僚』、『「日本株式会社」の昭和史』〕を参照。なお、小林氏は宮崎の立案した経済システムが、その後の総力戦体制や、戦後復興期、高度成長期においても存続し、活用されたとも論じている)。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献