牛歩の猫の研究室

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トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三

 以上は日本政府が和平交渉を打ち切った動機についてであるが、次にそれを是とした背景を探ってみたい。

 交渉打ち切り決定当時の状況について堀場一雄は次のように述べている。

「戦争指導当局は現政権否認後に来るものは長期戦にして、少くも四、五年に亘る覚悟を必要とし、兵力を更に増加し戦費を継続することは国際情勢及我が国力上不適当とする旨数字を掲げて累説し、放慢なる決心に陥るを防止せんとせるも、大勢は戦争次期段階の本質を究明せんとするの誠意に乏しく、滔々として強硬論のみ横溢せり」(堀場前掲書)

 また、「政府は未だ今後来るべき長期戦の実体を認識し居らず」(同前)とも観察していたのであるが、この見方は正確である。たとえば近衛は南京陥落直前に次のようなまったく見当はずれの発言をしている。

「もうとても自分には堪へられない。南京が陷落して蔣介石の政權が倒れる。で、日本は蔣政權を否認した聲明を出すが、その時が、ちやうど自分の退き時だと思ふから、その時に辭めたい」(『原田日記』第六巻)

 さらに政府は一九三八年一月一八日に「対手トセズ」の意味について、「國民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスルノテアル」(『主要文書』)との補足的声明を発表し、近衛は同日おこなわれた記者会見で「日本は飽く迄も蔣政權壞滅を計る」(一月一九日「東京朝日新聞」)、広田は二月一日の衆議院予算総会で「日本は之を撲滅する考へでゐる」(二月二日、同前)とそれぞれ述べているが、これらの発言に関しては必ずしも世論や議会対策のためだったとは言い切れない。近衛は南京を落とせば蔣介石政権を打倒できるという程度に考えていたが、後日あらためて「〔南京も陥落し、蔣介石政権の崩壊まで〕もう一押しと云ふ所なり」(「講和問題に関する所信」『現代史資料』9)と戦局の見通しについて述べている。広田が戦局をどのように捉えていたかは不明だが、近衛がのちに「どうも自分も廣田も、あまりに蔣政權打倒といふことを徹底的に言ひ過ぎた・・・」(『原田日記』第七巻)と反省の弁を口にしているところを見ると、近衛の認識と大差はなかったといえよう。広田はディルクセン駐日ドイツ大使に当初の和平条件を提示した際、「日本がこの戦争を継続することを強いられた場合には、日本は中国が完全に敗北するまでこれを遂行するであろう」(三宅前掲書)と強調していたが、単なる示威というわけではなかったようである。また、米内も例外ではなく、一九三七年一二月下旬に支那事変を和平解決する是非について「別に海軍はそんなに急ぐ必要もなにもないのだ」(『原田日記』第六巻)と言っており、支那事変の先行きを危惧していた様子は感じさせないし、翌年半ばにも「作戰部としては、今日事變に際してそれで行つていゝんだと思ふ」と漢口攻略を肯定する発言をしている(『原田日記』第七巻)。

 なお、天皇は盧溝橋事件後に、一挙に大軍を送って叩きつけ、短時間に引き揚げるという作戦方針を上奏した杉山陸相に「果してそれが思ふやうにできるか」と疑問を呈しているし(『原田日記』第六巻)、一九三八年の漢口作戦前には、板垣征四郎陸相閑院宮参謀総長に対し「一體この戰爭は一時も速くやめなくちやあならんと思ふが、どうだ」と述べ、「蔣介石が倒れるまではやります」と答える両者に不満を見せていることからも(『原田日記』第七巻)、決して対支作戦を楽観していたとは思えないが、残念ながらトラウトマン工作の打ち切りが決定した当時、和平交渉継続を主張する参謀本部ではなく戦争継続を選択した政府側に同調しているのである(『原田日記』第六巻)。戦争継続が本当に危険だと思えば政府に再考を促すこともできたはずで、このとき天皇の見通しにも誤りが生じていたことは否めない。

 そして「対手トセズ」声明発表の理由については、近衛自身がのちに次のように記している。

「これは帝國政府は國民政府を相手とせずして帝國と共に提携するに足る新興新政權の樹立發展を期待し、それを以て兩國國交調整を行はんとの聲明である。この聲明は識者に指摘せられるまでもなく非常な失敗であつた。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」(近衛前掲書)

 風見の説明によれば、

「そもそも、かかる方針にきりかえたのは、(一)すでに南京をすてた国民政府は、そのころは、その基地を四川の重慶にうつしていたが、こんな調子では、やがては国民の信頼をうしない、地方の一政権に転落してしまうにちがいない。(二)したがって、しきりに長期抗戦をさけんでいるが、それはほろびゆくものの悲鳴で、日本としては、長期戦にひきずりこまれるという心配はなくなったといっていい。(三)当然、新政権の成立を誘導し、これをたすけて、もりたててゆくことにより、日本の要求を貫徹するにたる時局収拾のみちが、おのずから開かれるのだとする認識にもとづくものであったのは、いうまでもない」(風見前掲書)

 要するに日本政府は、〈面倒な和平交渉をおこなわなくても、蔣政権をいずれ崩壊に追い込むことができる。そして蔣政権に代わる傀儡政権を相手に事態の収拾をはかることが可能である〉と、支那事変の行く末を楽観視していたのである。換言すれば、政府は蔣政権など武力だけで屈伏させることができる、すなわち支那事変を「決戦戦争」だと考えていたのである。

 その一方で石原は、「南京・漢口・廣東など奪取したからといつて、蔣介石は絶對にこんなことでは參らぬ」(平林前掲文)と後日述べているように、蔣政権を武力だけで屈伏させることは困難、すなわち支那事変は「持久戦争」だと確信していた。「対手トセズ」声明が出された四日後に近衛を訪問した石原は、時局について「極度の悲観論」を開陳し、やがて「鮮満をも失ふに至らん」と、政府とは逆に大日本帝国が崩壊するだろうと警告している(『木戸幸一日記』下)。

 さらに石原の影響力が残る戦争指導班では、高島辰彦中佐が一九三七年一〇月中旬に、「課長兼務の形にて第二課(作戦)の戦争指導の主務は、いろいろの方面から力をそがるる傾向となり、上海戦の作戦外形上の勝利のために、軍事作戦に努力の主力を向ける空気が濃厚となりたるは、支那事変の本質に遠ざかるものにて憂うべき事態なり」と日記に書いている。一一月一七日には「徹底した武力戦をもって大鉄槌を加える以外に、事変解決の方法はない」と主張する服部卓四郎参謀本部編制班員に対し、堀場一雄が「貴様ほどの奴がどうしてわからないのだ。蔣介石は徹底的に抗戦の意志を明らかにしている。しかも国民の戦争継続意志も強い。さらに中国大陸はわれわれが考えているよりはるかに広い。武力戦は、結局泥沼戦争となって際限のつかないものになってしまうのだ。第一、事変の局地的勝利によって日本が得られるものは一体なんなのだ」と反論している(芦澤前掲書)。このように戦争指導班では〈支那事変を武力だけで解決することは不可能。結局蔣介石を相手にした外交交渉によって解決をはかるしかない〉という認識が常識になっていたのである。多田駿も二月四日の連絡会議において、武力による蔣政権壊滅を主張する末次内相に対し、「武力ダケデハナイ外交、政略、経済等ニ依リテ潰滅ガアルデナイカ、武力武力デハイケナイ」と反論している(「機密作戦日誌」)。

 また、石射猪太郎も早期和平解決に努力した人物だが、支那事変当初、「支那軍に徹底的打撃を与へる事は到底不可能」という石原の発言を伝え聞いて「私の予見も其通り」と同意していた(石射前掲日記、八月一九日の条)。

 すでに明らかなように、トラウトマン工作に対する姿勢は支那事変の見通しと直結していたのである。すなわち政府がトラウトマン工作を打ち切り、蔣政権を否認するなどという愚行を犯してしまったのは、支那事変を武力だけで解決できると考えてしまったことが根本原因であった。もしその不可能を正しく予測できていれば、トラウトマン工作に対する態度は自ずからもっと慎重なものになっていたはずである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献