牛歩の猫の研究室

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年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで

 以下、盧溝橋事件以後における諸々の事象を再検討するにあたって、石原の動向および主な出来事を年表形式で簡単に確認しておくことにしたい。

一九三七年(昭和一二年)

・七月七日 盧溝橋事件発生(北平の郊外にある盧溝橋付近で夜間演習をおこなっていた日本軍〔支那駐屯軍〕が支那軍〔第二九軍。中央直轄部隊ではない。軍長は宋哲元〕既設陣地方向から銃撃を受け、これをきっかけに両軍が衝突するに至った事件)

・七月八日 早朝、事件発生の報が陸軍中央部に届く。参謀本部首脳部は石原の意見を容れ、事件不拡大と現地解決を根本方針とすることに意見一致。夜、支那駐屯軍司令官に対しさらなる武力行使は避けるよう指示

・七月一〇日 石原、参謀本部作戦課による北支への陸軍派兵案に同意

・七月一一日 昼、閣議において、関東軍(二個旅団)・朝鮮軍(一個師団)、内地師団(三個師団)の北支派兵を決定。夕、日本政府、事件の名称を「北支事変」とすることを発表、次いで派兵声明を発表。夜、現地停戦協定成立。参謀本部、内地師団の動員延期を決定(関東軍朝鮮軍については予定どおり動員)。同日、参謀本部と海軍軍令部の間に「北支作戦に関する陸海軍協定」が成立

・七月一三日 大紅門事件発生(支那駐屯軍が第二九軍の襲撃を受け死傷者を出した事件。七月下旬の廊坊、広安門事件も同様の事件であるが、七月七日以来、このほかにも日本軍に対する攻撃が相次いだ)

・七月一七日 蔣介石、「最後の関頭」演説をおこなう(一九日公表)

・七月一八日 石原、杉山元陸相に「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」と警告、さらに北支の日本軍を山海関(満洲国の国境)まで後退させ、近衛が南京に飛んで蔣介石との膝詰め談判によって日支問題の解決をはかるべきことを意見具申

・七月二五日 廊坊事件発生

・七月二六日 夜、広安門事件発生。支那駐屯軍、北平・天津地区の第二九軍を膺懲するに決す

・七月二七日  深夜、支那駐屯軍司令官の報告を受けた石原、内地師団動員を決心。早朝、陸軍中央部において支那駐屯軍司令官の新任務付与(平津地区の支那軍膺懲)と内地師団動員を決定。朝、閣議の承認を得る

・七月二八日 支那駐屯軍関東軍朝鮮軍からの増援部隊とともに総攻撃を開始

・七月二九日 通州事件発生。支那駐屯軍、北平・天津地区を占領

・八月二日 船津工作はじまる

・八月九日 上海において大山勇夫海軍中尉殺害事件発生。これに伴い船津工作中絶

・八月一〇日 閣議において米内光政海相が上海への陸軍の動員派兵準備を要請、杉山陸相は了承。杉山が閣議から持ち帰ると石原は反対姿勢を見せるも、最終的には居留民保護のために最小限の兵力を派遣することで同意

・八月一二日 参謀本部作戦課は「上海、青島における居留民保護のため兵力派遣要綱」を策定。石原、これを決裁

・八月一三日 朝、石原は近藤信竹軍令部作戦部長を訪ね、上海への陸軍派兵は実行することで合意。閣議上海派遣軍(二個師団)派兵を決定。夜、上海で戦闘がはじまる(第二次上海事変勃発)

・九月二日 日本政府、「北支事変」を「支那事変」に改称することを発表

・九月六日 石原、上海への陸軍兵力の増強(三個師団)に同意

・九月二七日 石原、参謀本部作戦部長を辞任

・一一月二日 トラウトマン和平工作はじまる

・一一月五日 第十軍(三個師団)、杭州湾上陸

・一一月一一日 上海占領

・一二月一三日 南京占領

一九三八年(昭和一三年)

・一月一一日 御前会議において「支那事変処理根本方針」決定

・一月一五日 大本営政府連絡会議、トラウトマン和平工作の打ち切りを決定

・一月一六日 日本政府、「爾後国民政府ヲ対手トセズ」声明を発表

 

※( )内の兵力は基幹兵力を示している。この年表を作成するにあたっては、『陸軍作戦』、『陸軍部』、今岡豊『石原莞爾の悲劇』、秦郁彦日中戦争史』、「中支出兵の決定」『現代史資料』12を参考にした。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献