牛歩の猫の研究室

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陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?

 ところで、天皇は次のような回想を残している。

支那事変で、上海で引かかつたときは心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来てるのを、陸軍は知らなかつた」(昭和十七年十二月十一日「小倉庫次侍従日記」『文藝春秋』二〇〇七年四月号)

 また、風見章も「日本の陸軍は、その陣地に出っくわすまでまったく知らずにいて、ひどくめんくらったのだそうである。・・・当時、消息通のあいだでは、いったい陸軍は、あれほど諜報機関に大金を投げいれていて、どうしたというのだ?がらにもなく、政治家気どりで、国の政局面などにばかり頭をつっこんでいるから、そんなへまをやるのだとの非難の声が、たかかったものである」(風見章『近衛内閣』)と回想し、近衛も当時「なほ上海でも北支でも陸軍の調査が極めて不充分であつて、たとへば〔第一次〕上海事變後五年を經過してゐる今日、その五年の間に防禦に非常な工作を施してをつたのに、それをまるで知らなかつたといふのは、出先の陸軍軍人も政治とか外交にあまりに沒頭して、本職を忘れてゐたかの感がある」(『原田日記』第六巻)などと厳しく陸軍を批判している。

 ただし、これらが正確かどうかは一考を要する。たとえば支那側が上海停戦協定に違反し非武装地帯に防禦陣地を構築していたことは、一九三七年六月に英・米・仏・日・支等関係各国委員が出席した停戦協定共同委員会で問題となっており、これは日本の一般紙でも報じられている(六月二六日「東京朝日新聞」。同紙は八月上海事変直前にも支那軍が陣地を盛んに構築しつつあると連日報道している)。すなわち、支那軍は防禦陣地の存在を秘匿できていたわけではなかったのであり、このことは内地の一般市民でさえ新聞を読めば知ることができたレベルの情報だったのである。では、現地で情報収集にあたっていた陸軍の上海駐在武官が、目の前で支那軍が陣地構築をおこなっていることにまったく気付かなかったなどということがあり得るのだろうか?

 もちろんそんなことはあり得ない。当時上海陸軍武官府で経済調査にあたっていた岡田酉次の回想を引用する。

「私は、あらかじめ現地にあって経済調査に従事した一人として、他の戦友が行なっていた地誌資料の収集がいかに困難であったかに一言触れておきたい。

 当時の上陸地点上海の郊外は、以前からの日華協定により中国軍隊の駐屯は認められず、保安隊により警備されることになっていたが、失地の回復や植民地化からの脱却を呼号する民衆の動向、特に西安事件後の国共合作による抗日気勢は、該方面における日本人の行動をほとんど不可能にさせた。ときに私も経済調査のかたわら地誌調査担当の戦友を援助するつもりで、いまだできもしなかったゴルフバッグを自動車に持ち込み、ゴルフ姿で江湾ゴルフ倶楽部に往復する途上、故意に道を誤ったふりをして、構築されつつある陣地の一端を偵察する奇策に出た記憶がある。

 たとえば、内陸交通網の調査一つをとってみても、日本でみるような地図など到底望むべくもなく、見取り図程度の入手ができれば喜んだのであった。陰にその従業員にわたりをつけて外資有力石油会社等の保有する部分的航空写真を手に入れ、新道路の建設などを知る場合もあったが、聞けば外国石油会社はバスの奥地運行とガソリン売込みの商売上、中国政府の道路建設計画には直接間接に相当食い入っておる様子があったからである。あらゆる調査資料に関して、英米等の商社は宣教師の奥地布教や商略の巧みさからそれらの諸資料の入手に恵まれていたようであった。こうして苦心のうえ入手した資料も、その要所の確認には現地の実視が望ましく、これには中国人を利用したり、あるいは自ら、仁丹、味の素など、奥地広告塔建設の請負人一行に加わってクリーク用小舟艇で長期旅行を余儀されたようだった。私の担当する経済調査も、これと大同小異で、官庁統計の入手などはとうてい望みもなく、学校図書館をあさったり、在来の内外商社や親日中国人に依頼したのであるが、私などに接する中国人は、ときにその行動範囲を逸して逮捕され、あるいは行方不明になる者まで生じ、遺族などに気の毒な思いをかけた例もあった。日本側で比較的まとまった資料があったのは同文書院で、同院の学生には卒業に当たり奥地で実地調査をすることが許されていたからであった。前に触れた兵要地誌に一部誤って記述されていたということなども、こんな事情から、あるいは避け得なかったエラーであったろう」(『日中戦争裏方記』)

 上海駐在武官は構築されつつある防禦陣地の偵察をおこなっていたが、上海郊外や内陸部での行動には制限がともない、兵要地誌の調査研究を自由に行うことができなかったのだという。当時の同僚のミスをかばうためにこのように書いた可能性も考慮しなければならないが、以下に見るようにその必要はなさそうである。上海派憲兵だった塚本誠の体験記も引用しておく。

「七月蘆溝橋事件が伝わると、上海にも何か事態が発生するのではないかという不吉な予感が上海に起こった。果然七月二十四日、陸戦隊の一水兵が行方不明になり、陸戦隊は蘇州河以北の警備地区に配兵し検問を開始する。流言が飛んで避難民の流れは連日連夜洪水のようにつづく。その中には上海郊外の住民まで加わって来た。このことは支那軍が上海周辺の非武装地帯に陣地を構築し始めているという情報を裏づけるものであった。(中略)

 憲兵はこのさい支那軍進出の真偽を偵察すべきであると考え、私服の憲兵数人を出し、私も借り物のゴルファー姿で、支那側の検問所をどうやら通りぬけて江湾ゴルフ場近くまで出かけた。途中半完成のトーチカを二、三見つけたが兵隊はいない。これで支那軍が進出していることは事実であり、夜間に工事を実施しているものと判断した。が、これ以上のことは私は任務上まだ許されていない」(塚本『ある情報将校の記録』)

 本来の任務ではなかったが、憲兵である塚本も「支那軍が上海周辺の非武装地帯に陣地を構築し始めているという情報」を得ていた。そして上海事変前にそれを偵察した際、駐在武官と同じくゴルフ客になりすましたとしている。どうやらそれが上海郊外を偵察する際の彼らの“常套手段”だったようである。では、なぜそのようなカモフラージュをおこなう必要があったのかといえば、それはやはり、日本人が上海郊外を自由に調査できる状況ではなかったということである。この方面の防衛の責任者である張治中が「特ニ上海デハ敵方ニサトラレナイヨウニ、巧妙ナ隠蔽手段ヲ用イテ工事ヲ進メネバナラナカツタ」(深堀前掲書)と回想するように、支那側が防禦陣地の構築を秘匿しようとしたのは自然な心理で、当初から日本軍の行動を警戒し、制限しようとしていたことは確かである。

 このように現地での調査には限界があったが、支那軍の陣地構築の状況をいくらかはつかんでいたことも事実であった。一九三七年八月一六日、参謀本部調製「上海及南京附近兵要地誌概説」の「軍事施設」の項には、「上海附近上陸點及楊子江流域重要地點竝南京要塞地帯ニ對シ近時盛ニ増強新設ヲ行ヒツツアリ」との記述が見られる(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13032680500、上海及南京付近兵要地誌概説 昭和12年8月16日(防衛省防衛研究所)」)。防禦陣地の詳細な配置図は発見できなかったが、少なくとも既設陣地の存在を知っていたからこそ「増強新設ヲ行ヒツツアリ」という表現になったのである。このためか、陸軍中央部も中支の情勢にまったく無関心だったわけではなく、一九三七年五月には永津佐比重支那課長が現地情勢を調査するため支那へ出張し、上海の視察もおこなっており、塚本の案内で第一次上海事変の戦跡である廟行鎮を訪れている(塚本前掲書)。六月には、支那が対日作戦の戦備を急いでいるとの情報を耳にした石原、武藤章が作戦課の公平匡武、井本熊男に支那各地の偵察旅行を命じており、公平が上海付近の視察をおこなっている(『陸軍部』)。

 以上から、陸軍は上海周辺に防禦陣地が構築されていることを事前に知っていたと一応結論付けることができる。たしかにその把握の程度は完璧には程遠く、事変勃発後、陸軍内からも情報を担当する支那課の調査の誤りを批判する声があがった。現地での調査が困難だったのであれば、人員を増加するなどしてむしろ調査に力を入れなければならなかったのであり、彼ら情報担当者の怠慢は非難されるべきである。実は第一次上海事変の際にもぞんざいな調査で作戦に悪影響を及ぼすという同じ誤りを犯していたというから(『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』)、この件に関しては弁護の余地はない。

 しかし、「日本の陸軍は、その陣地に出っくわすまでまったく知らずにいて、ひどくめんくらったのだそうである」(風見)といった批判は正確とはいえず、「出先の陸軍軍人も政治とか外交にあまりに沒頭して、本職を忘れてゐたかの感がある」(近衛)などという口舌に至っては、現地の状況を知らない者の単なる憶測でしかない。上聞に達したのも、おそらくこうした風聞の類だったのではないだろうか。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献