牛歩の猫の研究室

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上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン

 それでは、前述した経緯から上海で戦端を開いた蔣であったが、果たして彼は上海戦にどの程度の勝算を持っていたのであろうか。上海事変勃発後、次のように思考をめぐらせている。

「九月の半ばになると、蔣介石は「兵力を集中し、上海で決戦するか」、「奥地に(兵力を)配備し、長期抗戦か」または、「黄河以南に敵を誘い込み」、「南方戦場を主戦場とするか」を迷うようになる。そして、ついに「上海の損得(失った)は、最後の成敗には関係がない。必ずしもここに拘泥することはない」との結論に達するのである。すなわち、蔣介石は上海戦開始後一カ月で上海撤退を模索するようになるのであった」(家近前掲書。引用文中「 」内は蔣介石日記の記述)

 このように、九月中旬というかなり早い段階で「必ずしもここ〔上海〕に拘泥することはない」として撤退を考慮しはじめているのである。そして同時期に、翌日になって撤回したものの、一旦は白崇禧副参謀総長らの具申を受け入れ上海撤退を命じたようである(楊天石「1937、中国軍対日作戦の第1年──盧溝橋事変から南京陥落まで」『日中戦争の軍事的展開』)。

 蔣は、列国の権益が集中する上海で戦闘が起これば、日本軍の軍事行動に対する国際的な干渉が起こり、自国に有利な形で和平交渉ができるものと考えていた(家近前掲書)。このことから上海戦での勝利をまず追求したが、そこで敗れる可能性についても十分想定していたのだろう。正式に上海撤退を命じた後の一一月一六日の国防会議において、「こうした失敗の形勢は早くからわかっていたことであり意外ではない.われわれはなお主導の立場にあり,将来の勝利についてもまた主導的地位にある」と発言している(岩谷前掲論文)。また、蔣はすでに上海事変のはじまる以前に前出の張群に四川省主席就任を命じ、大陸奥地に位置する西康省の西昌には臨時司令部を設けていた。張群は「これは蔣介石がすでにそのときから、政府を四川、あるいは西康の奥深くに移しても、なお抗戦をつづける考えを持っていたことの表れであった」と述べているが(『日華・風雲の七十年』)、いざとなれば長期戦に持ち込むため、四川省の開発に取りかかっていたことは既述のとおりである。

 ところで、ドイツ人軍事顧問団長、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは盧溝橋事件後、トラウトマンに次のような内容の報告書を提出している。

「蔣は事態の平和的な解決を希望しているが、中国の国益を犠牲にすることはできないと考えている、現在、中国がひとつにまとまっているのは反日感情によるものであり、ここで降伏することは不可能、むしろ武力対立を選ぶに違いない・・・戦争は中国全土に拡大するだろう・・・中国が勝利するチャンスはかなりある・・・日本の勝利のためには軍の総力が投入されねばならないが、これはソ連の態度から考えてとうてい不可能である・・・したがってブロンベルク大将は、日本が必ず勝つと考えるべきではない」(七月二一日付、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使より外務省あて電報。ゲルハルト・クレープス「在華ドイツ軍事顧問団と日中戦争」『日中戦争の諸相』)

 そして八月九日に北支の視察から帰ってきたファルケンハウゼンは、「もし中国軍が一週間早く攻撃に出ていたら平津の日本軍を全滅できただろう。今からでも遅くはない」として北支決戦を主張したが、蔣の容れるところとはならなかった(秦前掲書)。その後、上海で戦闘がはじまると、日本軍を無血で奥地に引き入れて呑み込んでしまえばいいと考える国民政府軍将官に対してファルケンハウゼンは上海で戦うことを要求し、これを認めさせている。しかし上海で多くの損害を出したことによって、次に日本軍を大陸内部に誘い込み消耗させるという戦略を主張するに至ったが(「日中戦争期の中国におけるドイツ軍事顧問」『戦史研究年報』第4号)、もともと彼は日本と交戦状態に入った場合、揚子江流域地区の守りに集中し、空間を武器に使って日本軍を消耗させ、加えてゲリラ戦を展開することや(長谷川熙「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンと中華民国陸軍」『ドイツ史と戦争』)、四川省を最後の抵抗地区とすることなどを提言していたのであった(秦前掲書)。また、日本が対支戦争を遂行しようとする場合、極東に戦略的地歩を求めるソ連、経済的関心を持つ英米にも対処しなければならなくなり、これら各国を含む大規模な戦争に日本の財政力は耐えられないと分析したうえで、支那の対日戦略は「できるだけ戦いをひきのばし、できるだけ多くの外国の介入を待つ」ことであるべきとも提言していたようである(児島襄『日中戦争』第二巻)。

 なお、上海陥落が迫るとファルケンハウゼンは国民政府首脳部に和平をすすめているのだが、これはトラウトマンの要請を受けておこなったものであり、本人は和平に期待していなかった。そのためファルケンハウゼンは南京の防衛戦をおこなうことに反対しており、南京陥落に際しても、「中国は今後もかなり長期にわたって抗戦できる、南京の陥落は軍事面よりもむしろ政治上の意味をもつものだ」との判断を示している(ゲルハルト・クレープス前掲論文)。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献