牛歩の猫の研究室

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蔣介石はいつ戦争を決意したか

 以上のように、日本に対しては戦わずして勝つことを理想とし、本心では戦争を望んでいなかった蔣であるが、いざとなれば一戦も辞さない覚悟は決めていた。彼は対日戦準備のため、すでに一九三三年から上海─南京間に陣地線の構築を指示するとともに、一九三六年二月には中央軍官学校の教育長だった張治中に京滬区(南京上海地区)長官の兼務を命じており、上海事変勃発後、この方面に兵力を集中させて攻勢に出たことは予定通りの行動であった(深堀道義『中国の対日政戦略』、笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」『民国後期中国国民党政権の研究』)。事変勃発当時の蔣の考えについて、側近だった董顕光は次のように述べている。

「そのとき蔣介石は抗戦のための全面的な戦略を決定していた。これが世にいう“空間をもって時間に替える”戦略であつて、時間をかせぐために必要に応じて空間が放棄されるが、敵はそのような空間を得るために人的、物的に高価な代償を支払わねばならないのである。一種の焦土戦術がとられて中国軍の放棄した地域には敵の利用する家屋も食糧も残されない。この独特の戦略によつて日本軍は奥地深くおびき寄せられ、その戦線は稀薄に広がり輸送路は延びすぎて丸裸になつてしまうであろう。これが消耗戦の戦略であつて蔣介石は自惚れた日本軍が必ずこの消耗戦で崩壊すると信じていた。

 一方当面の危機に対して蔣介石は自らの好む戦場を揚子江の線に選び、そこに主力を集結するという現実的な方策を決定した。華北は補給線を維持することが困難だから、抗戦は続けても結局は敵手に落ちるものとして華北前線には大軍を増援しないことにした。中国軍の主力は揚子江流域の諸都市における決戦に備えて温存し、さらにもし揚子江の線が破れた場合は、奥地深く第三即ち最後の抵抗線を築く計画であつた」(董顕光『蔣介石』)

 では、蔣が上海での開戦を決意したのはいつだったのであろうか。蔣は七月一七日(一九日公表)の「最後の関頭」演説の中で以下のように述べている。

「・・・ひとたび最後の関頭にいたれば、われわれは〔あらゆるものを〕徹底的に犠牲にして、徹底的に抗戦するほかない。・・・わが東北四省〔満洲〕が占領されてすでに六年もの永きに及んでおり、これにつづいて生まれたのが塘沽協定であり、いまでは衝突地点はすでに北平の入口である蘆溝橋にまできている。もし蘆溝橋までが他国から圧迫され、占領されてもかまわないというのなら、わが五〇〇年来の古都であり、北方の政治・文化の中心であり、軍事上の重要地点である北平は、第二の瀋陽満洲国の都市、奉天〕になってしまうであろう。今日の北平がもし昔日の瀋陽になるとすれば、今日の河北、チャハルもまた昔日の東北四省になってしまうであろう。北平がもし瀋陽になるとすれば、南京がまたどうして北平の二の舞にならないというわけがあろうか。したがって、蘆溝橋事変の推移は中国の国家全体の問題にかかわるのであり、この事変をかたづけることができるかどうかが、最後の関頭の境目である

 さらに「蘆溝橋事変を中日戦争にまで拡大させないようにできるかどうかは、まったく日本政府の態度いかんにかかっており、和平の望みが断たれるか否かの鍵はまったく日本軍隊の行動いかんにかかっている。和平が根本から絶望になる一秒前でも、われわれはやはり平和的な外交の方法によって、蘆溝橋事変の解決をはかるよう希望するものである」として、「(一)どんな解決〔策〕であれ、中国の主権と領土の完璧性を侵害するものであってはならない。(二)冀察〔河北・チャハル地区〕行政組織に対するいかなる不法な変更も許されない。(三) 冀察政務委員会委員長の宋哲元などのような、中央政府が派遣した地方官吏については、なにびともその更迭を要求することはできない。(四)二九軍が現在駐留している地区については、いかなる拘束も受けない」という四ヵ条の解決条件を掲げている(「蔣介石の廬山談話」『中国共産党史資料集』8)。

 ここで具体的な解決条件(要するに日本軍が盧溝橋事件発生前の状態に復帰すること)を提示したのは、依然として和平解決に望みを残しているという意志の表明と受け取っていいだろう。それは七月二二日の時点でも、蔣はあらためて和平が最上の策との見解を示していることからも明らかである(家近前掲書)。さらに二三日に至ってはじめて現地停戦協定の内容を知るや、宋哲元に対し「領土的主権の範囲で損害を受けないのであれば、戦争を望み和平を望まないという理由はない。既に貴兄がその〔現地停戦協定〕三カ条に署名したならば、中央は当然同意し、貴兄とともにその責任を負う」と伝えているし(二三日発、蔣介石から宋哲元あて電報。「盧溝橋事件における国民政府外交部と冀察政務委員会」『人文研紀要』第51号)、二五~二七日に日高信六郎南京大使館参事官が高宗武外交部亜州司長や前外交部長の張群四川省主席と会談をおこなった際、彼らは国民政府が現地協定を容認する意向であることを明らかにし、特に蔣と密接に連絡しつつ交渉にのぞんでいた張群との間には、現地協定実行の見込みがつけば日本軍が撤兵の声明をなし、その後まず支那中央軍が南下、そして日本軍も撤兵するということに話し合いがまとまったようである(上村伸一『日本外交史』20)。蔣から外交交渉を一任されたとみられる高宗武は蔣の腹の内を次のように明かしている。

「蔣介石ハ終始日本ニ挑戦スル意志ナク戦ヘハ支那モ不利ニ終ルコトハ承知シオルモソノ周囲ニハ徒ラニ雑音(例ヘバ日本ハ事件一段落ノ上ハ今次ノ派兵ヲ期トシ川越大使ヲ南下セシメ警告〔原文ママ〕政府ニ対シ政治的難題ノ解決ヲ迫ルニ至ルベシ等ノ説)ノミ多キタメ今次事変ニ対スル日本ノ真意ヲ把握シオラス従ツテ蔣ハ日本側ガ支那ノ主権ヲ害シ余程ノ条件ヲ持出サントスルモノト憂慮〔している〕」(劉傑『日中戦争下の外交』)

 とはいえ日本軍の盧溝橋周辺からの撤兵を前提とするのであれば、現地協定を容認することに異存はなかったのである。このようにあくまで和平解決に望みをつないでいた蔣だが、同時期に立て続けに発生した廊坊事件(二五日)、広安門事件(二六日)を受けて開始された二八日の支那駐屯軍による総攻撃が、彼に和平が絶望になったと判断させるだけの重大な衝撃を与えたことは想像に難くない。

 翌二九日、北平の失陥を知った蔣は記者会見を開き「本日の平津の役で日本の侵略戦争が開始された」「今最後の関頭に至った」と声明を発表している(家近前掲書)。三〇日、かねてから上海に先制攻撃を加えるべきと考えていた前出の張治中は、「諸情勢ヨリ考エテ、宜シク主動的地位ニ立ツベキデアリ、先制攻撃ヲ行ウノガ我ニ有利ナリト信ズル」と意見具申をおこなっているが、南京からは「先制攻撃ヲ加エルベキデアル、但シソノ時期ハ命ヲ待テ」との返電があったという(深堀前掲書)。支那空軍の顧問だったアメリカ人、クレア・リー・シェンノートは三一日の日記に「南京から秘密の命令がもたらされた。戦争である。我が部隊は午後に移動を開始した」と書いている(『シエンノートとフライング・タイガース』)。

 これらからわかるとおり、支那側は七月二八日以降、明らかに上海での開戦に向けて動き出しているのである(正式に合意を見たのは八月六日の国防会議〔秦『盧溝橋事件の研究』〕、攻撃命令が下されたのは一四日早朝のようである〔深堀前掲書〕)。蔣自身は一九三八年一一月に、このあたりの経緯を次のように述べている。

「われわれの全軍隊を平津一帯に投入し、敵と一日の長短を争っていたなら、われわれの主力はとっくに敵に消滅され、中華民国はとっくに滅亡する危険があった。・・・だから、昨年平津を失った折、われわれは・・・敵と一城一地の得失を争わず、主力部隊を機動的に使い、逐次抵抗しつつ敵を消耗させ、先ず彼らを長江〔揚子江〕流域に誘いこもうとしたのである」(『中国革命と対日抗戦』)

「先ず彼らを長江流域に誘いこもうとした」、すなわち上海での開戦を決意したのは「昨年平津を失った折」であったとしている。そしてそれが事実であることは、一九三七年七月二七日の日記に「万一北平が陥落したならば,戦うか和すか,不戦か不和(議)か,また一面交渉一面抵抗の国策について慎重に考慮しなければならない」(岩谷前掲論文)と書きとめていることから裏付けられる。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献