牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

 石原は長期戦不可避論者だったのか

「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」という石原の発言はあまりに有名だろう。そのため一部に〈石原は長期戦不可避論者だった〉との理解が存在するようである。しかし、盧溝橋事件以後の石原の言動を見れば、決してそうは言いきれないのである。

 まず、盧溝橋事件発生後、石原は近衛文麿首相に蔣介石との首脳会談を提案している(詳細は後述)。そして上海事変がはじまってからも、依然早期和平解決の可能性をさぐる石原は、馬奈木敬信参謀本部ドイツ班長をオスカー・トラウトマン駐支ドイツ大使に接触させて和平工作の端緒を作ろうとしているし(今岡前掲書、松崎昭一「日中和平工作と軍部」『昭和史の軍部と政治』2)、作戦部長を辞任後、トラウトマン工作がおこなわれている最中に父親の葬儀で帰国した際にも、参謀本部接触して蔣介石との交渉打ち切りを阻止するよう熱心に説いたようである(『原田日記』第六巻、矢部貞治『近衛文麿』)。

 また、和平交渉が打ち切られてしまった後においても、「戦争規模ヲ成ル可ク縮小シ国力ノ消耗ヲ防キ、以テ戦争持久ノ態勢ヲ確立スルト共ニ好機ヲ把握シ速カニ和平ヲ締結ス」べきであると訴え、同時に「北支ノ軍権我ニ帰シ進ンテ漢口ヲ攻略シ得タリトスルモ、蔣政権ノ覆滅ハ尚望ミ難ク又、仮リニ蔣政権倒壊スルモ全土抗日ノ気運ハ断シテ解消スル事ナカルヘク、辺彊尺寸ノ国土存スル限リ国民党ヲ中心ニ長期ニ亘リ我ニ抵抗スヘキハ疑ヲ容レサル処タルヘシ 蓋シ斯ル場合ニ於ケル漢民族ノ抵抗ノ意外ニ強靭ナルハ歴史ノ教フル処ナリ」「従ツテ武力ノ絶対ヲ盲信シ即戦即決主義ニ依テ之ヲ屈セシメントスルハ四億ノ民ト近代的装備ヲ持ツ支那ヲ土民国「エチオピア」ト同視セントスルノ誤謬ヲ犯スモノタリ 対支戦ニ於テハ戦局ハ必スヤ長期化シ単ニ武力ノミナラス政治経済ノ綜合的持久戦トナルヘシ」と警告している(「戦争計画要綱」昭和十三年六月三日『資料』)。

 さらに支那事変の具体的な解決策については次のように述べている。

「もうかうなつては他に方法がない。蔣に對して全面媾和を申込むばかりだ。(註・對支作戰は一般の者の眼にはまだ行き詰らず寧ろ順調進展と見られたときのこと)若し聽き入れなかつたならばかうするぞといふ。それは奥地から撤兵すると共にあらゆる鐵道資材を撤去してくる。のみならず車輛・船舶等も殘さず撤收する。そして我としてはある小地域例へば天津・塘沽附近とか靑島附近とか又は上海附近をこじんまり占據して大部分の軍隊は内地へ引きあげる。かうすると敵も進攻も出來ず手も足も出ぬから恐らく媾和を受諾するだらう。これより外に戰爭をやめる手はない」(平林盛人「私の觀た石原莞爾將軍」『石原莞爾研究』。「支那事変処理方針」昭和十五年五月十日『資料』でも同様の構想が確認できる)

 以上の言動は、石原が〈長期戦を回避することは不可能ではない、また何とか回避しなければならない〉と考えていたことを示している。すなわち支那事変の早期解決を真剣に考え続けた石原が、長期戦不可避論者であるわけがないのである。石原に言わせれば、「国土の広大による持久戦争は、武力戦の重大さが、防禦威力の強大による持久戦争に比べて、多くの場合において低いと考へられる。それでも武力戦は依然戦争遂行の最も重要なる手段であることはいふまでもない。敵の心臓部を衝いて一挙に戦争の運命を決することは出来ないが、然し好機を捉へて敵の手足等の或る点に一大衝撃を与へて敵を震駭せしめ、それに乗じて巧な政略と相俟つて、和平の動機をつかまへることが可能な場合が尠くない」(「欧洲大戦の進展と支那事変」昭和十六年七月十八日『資料』)のであり、持久戦争は必ずしも長期戦を意味しなかった。

 ところが〈トラウトマン工作さえ成功していたら、支那事変は泥沼になるという石原の予言は外れていたじゃないか〉という意見をしばしばインターネット上で目にすることがある。しかし、そもそもドイツを仲介とした和平工作は他ならぬ石原の希望したことであり、少し考えればわかるはずなのだが、石原は自らの予言が外れることを心の底から願っていたのである。したがって彼は支那事変の泥沼化を阻止できなかった自らの指導力不足を反省し、退役時に「「事変はとうとう君の予言の如くなつた」とて私の先見でもある如く申す人も少くありません。そういはれては私は益々苦しむ外ありません」(「退役挨拶」昭和一六年三月『資料』)と述べている。

 石原が主張したのは「長期戦不可避論」ではない。正確には「持久戦争不可避論」と呼ぶべきものであった。それは本人が次のように明言するとおりである。

「〔支那事変は〕持久戦争不可避と考へまして戦争目的即ち講和条件の確定は本事変の当初から最も強調しました事で、どう云ふ条件で支那と協調するかと云ふ事に就いての石原の主張は、当時第二部長(渡久雄閣下病気で笠原幸雄課長部長代理)の反対及本間閣下の反対で同意されなかつたのであります」(「回想応答録」)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献