牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

満洲事変は歴史上の“起点”か?

 石原については、彼が引き起こした満洲事変に根強い批判がある。それは〈石原が中央の統制に従わず満州事変を成功させたために、陸軍に独断専行と下剋上の風潮が蔓延した。そのため功名心にはやった現地軍が華北分離工作を推進し、やがて日中戦争が起こると中堅幕僚は石原に反抗してこれを拡大させ、行き着くところ太平洋戦争に日本を巻き込んだ〉という通説的理解によるものであろう。しかし、この種の歴史観に過度の単純化があることは否めない。

 たとえば従来現地軍の独断により推進されたと説明されることの多かった北支分治工作については、宮田昌明『英米世界秩序と東アジアにおける日本』が必ずしも満洲事変の連鎖反応として生じたのではないことを論証している。同書では、満洲事変後においても日本の対支政策は関東軍と現地外交官が協力する形で一定の秩序が確立されていたこと、しかしそれを破壊した北支分治工作の策動には統制派の頭目である永田鉄山の積極的な支持が存在していたことを明らかにしており、永田らの陸軍における権力掌握、換言すれば穏健な対支政策を支持していた皇道派の追い落としと、保身のためにそれに協力した政官界の誤断が北支分治工作のみならず二・二六事件を引き起こしたと論じている。永田鉄山については、往々に陸軍の統制を回復させようとした良識派との評価がなされてきたが、同書はそうした見解に厳しくも論理的な批判を加え、管見では最も説得力のある永田像を提示している。

 永田の戦略構想については川田稔『昭和陸軍全史』が詳細な分析をおこなっている。同書も北支分治工作は実際には永田ら陸軍中央の了解、または指示のもとに開始されたとの見方をしているが、永田の考えによれば次期世界大戦は不可避で、なおかつ国家総動員を必要とする消耗戦となるのであり、これを戦い抜くためには不足資源を支那大陸に求めなければならなかったのである。なお、武藤章は永田の配下で彼の強い影響を受けて北支分治工作を推進していた経緯があり、永田の死後、石原が同工作を中止させたことが盧溝橋事件後の両者の対立につながったと指摘している。

 補足しておくと、陸軍の下剋上を象徴する出来事として、武藤が不拡大方針を主張する石原に対し、あなたが満洲事変のときにおやりになったことを見習っているのです云々と反論して盧溝橋事件を拡大させたというエピソードが流布されているが、事実ではない。『今村均回顧録』に明記されているように、それは盧溝橋事件前の、しかも前年の満洲におけるエピソードなのであり、同事件が拡大したのは実際には石原自身の判断ミスによるところが大きい(本論「石原と盧溝橋事件」)。たしかに支那事変において現地軍が独断で戦線を拡大したのは事実だが、その先鞭をつけ、さらに事態の悪化を決定づけたのは近衛内閣である。支那事変初期における政策決定については本論でも検証したが、北支派兵声明の発表とその後の世論の煽動(一九三七年七月一一日~)、上海への陸軍派兵の決定(八月一三日)、トラウトマン工作における和平条件の加重(一二月)、「爾後国民政府ヲ対手トセズ」声明の発表(一九三八年一月一六日)等、政府が“暴走”してしまうことも珍しくなく、陸軍参謀本部はこれに引きずられ続けたのである。

 また、支那事変が長期化したからといってアメリカとの戦争が不可避になったわけではなかったはずである。たとえば野村實氏は、開戦前の国内情勢を分析したうえで、東条内閣であっても、海軍大臣に避戦を主張できる適切な人物が就任していればさしあたり開戦は回避され、その間にドイツの敗退がはじまり対英米戦の不可能を悟ることになったはずであると結論付けている(「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史學』第56巻第4号)。一方で、陸軍の横暴さを強調する意見が依然としてあるが、当時海軍中枢にいた嶋田繁太郎(海相)や岡敬純(軍務局長)は、陸軍側の動きが心配で政策決定に影響したことはまったくないと証言しているし、榎本重治(海軍書記官)も昭和十六年に陸軍がクーデターに出る懸念はいささかも感じられなかったと述べている(同前)。いずれにせよ対米戦に確たる勝算がない以上、海軍は一貫してその不可能を明言すべきであった。しかし、それができなかったのは日露戦争後から陸軍と予算ぶんどり合戦を繰り広げてきた結果なのである。

 そもそも「十五年戦争」なる用語があるが、満洲事変をある種の歴史の起点として扱うことは正しいのであろうか。仮にその十年前のワシントン会議によって国際協調が真に実現し、列国が権謀術数を排するとともに、中華民国が当事者能力のある政府のもと不平等条約改正を目指して地道に努力している途上に、関東軍が突然平和を破り満洲を独立させたならば、それは間違いなく一大エポックというべきだろう。しかし実態はその正反対であって、満洲事変以前、列国は国際協調関係に忠実であろうとした日本を尻目に自国利益を優先し、そのうえ支那の排外運動の標的となった日本は条約上の権利が侵害され、危害は居留民にも及んだ(『満州事変と重光駐華公使報告書』)。そしてこうした情勢が陸軍中堅幕僚グループに危機感を抱かせ、彼らの間で満蒙問題解決が合意されたことで石原や板垣征四郎関東軍に送り込まれたのである(『二・二六事件とその時代』)。一般には、たまたま関東軍にいた石原が、最終戦争論に基づいて突如として満洲事変を起こしたと理解されているようであるが、それは事実とは異なる。柳条湖事件が起こるまでには少なくとも日露戦争終結以来の複雑な外的、内的要因の積み重ねが存在するのであり、満洲事変はむしろその帰結として見るべきであろう。この議論に関しては筒井清忠満州事変はなぜ起きたのか』を参照されたい。

 以上に述べたことが、石原を弁護する意図があってのものでないことは強調しておかなければならない。満洲事変が直接的にも間接的にもその後の政策の幅を狭めたことは否定のしようがなく、これを現地で主導した石原の責任が軽くなるわけではないことは言を俟たない。筆者が批判したいのは、満洲事変の勃発によって、あたかも敗戦へのレールが一直線に敷かれてしまったかのように述べる粗雑で短絡的な歴史観である。日本国内だけに目を向けて恣意的に歴史に起点を設けたり、特定の人物や集団を意図的に悪役に仕立て上げたりする、またはそうした叙述を鵜呑みにしてしまうことは、過去に何が起こったかを正確に知る努力をやめてしまうこととイコールなのであり、それでは歴史から教訓を学ぶことなど決してできるはずがないのである。

 特に盧溝橋事件以後、日本の好戦的な世論が政策決定に悪影響を与えたことについては本論でも強調した点のひとつである(この傾向は支那側においてより顕著であり、中共は世論を最大限に利用し蔣介石を抗日戦に追いやったことも忘れてはならない)。日本国民に責任の一端があったかどうかはともかく、反省すべき点がなかったとは絶対に言えない。仮に反省点なしとするならば、国家の岐路に際して再び合理性を欠いた世論を醸成し、国策を誤った方向へ後押しするかもしれない。戦前は陸海軍の活躍に快哉を叫んでおきながら、戦後になると今度は軍事アレルギーを起こし、あらゆる戦争を悪と断罪してしまった極端な国民性を見るにつけ、その思いを強くするのである。政治家が世論におもねるのは民主主義国家の宿命(早い話が世論に逆らえば選挙で落とされる)であって、政治の側に本質的な変化は期待できない以上、やはり国民自身がイデオロギーや偏見を排した史実を教訓にすべきであろう。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献