牛歩の猫の研究室

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石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?

 出所はまったく不明なのであるが、ごく一部にみられる〈石原は上海事変勃発の際に陸軍を派兵しようとせず、上海にいる日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとした〉といった類の説にも一応コメントしておく。

 とはいえ、石原は上海事変が勃発する前に上海への陸軍派兵に同意しているのであり(本論「年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで」)、結論から言えば、それは最初から成立する余地のない誤った説である。このような話はおそらく石原が上海への陸軍派兵に否定的だったことを拡大解釈して持ち出されたものと思われるが、同時期の石原の意向はその言動からほぼ明らかにすることが可能なので、それについて述べておくことにしたい。

 まず、時日は不明であるが、上海方面の処置に関しては石原の次のような発言が伝えられている。

「上海が危険なら居留民を全部引き揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(『大東亞戰爭回顧録』)

 いつこのように主張したのか特定することはもはや不可能と思われるが、少なくとも確実にいえるのは、この発言は上海事変勃発以前のものであるということである。なぜならば、八月一三日朝におこなわれた近藤信竹軍令部作戦部長との協議においては、陸軍動員は予定通り実行することで合意しているし、しかも上海への陸軍派兵を正式決定することが予定されていた同日の閣議には反対しないことを申し合わせているのである(『陸軍作戦』)。よって、これ以降に石原が上海撤退を主張したとは考えられない(なお、上記石原発言について、戸部良一氏は「上海派兵の決定〔八月一三日〕に至る過程において」なされたとしている〔戸部前掲書〕。秦郁彦氏は八月一二日夜のことではないかと想像している〔秦前掲書〕)。さらに八月一五日には飯沼守上海派遣軍参謀長に対し、すでに上海における作戦の見通しについて連絡をおこなっていることからも(後掲)、上海事変勃発後も陸軍派兵に反対し続けていたなどという話は絶対に成立しないのである。

 また、八月一二日には海軍軍令部員に対して次のように述べている。

「当面の処置として動員下令は必要である。一方、極力外交交渉を行わねばならぬが成功の見込みがない。結局、上海の陸戦隊に若干の陸軍部隊を注入し、上海租界を固めて、徹底的爆撃を行うより手がなく、この際大いに考えなおす必要がある」(上海への陸軍派兵に反対しての発言。『陸軍作戦』)

「この際大いに考えなおす必要がある」と、何かの変更を提案した形跡があるが、これは七月一一日に決定していた上海を含む居留民現地保護の方針(「北支作戦に関する海陸軍協定」『現代史資料』9)についてである。それは次の石原の回想から特定することができる。

私は上海に絶対に出兵したくなかつたが実は前に海軍と出兵する協定があるのであります。其記録には何とあつたかは記憶して居りませんが、どうしても夫れは修正出来ないので私は止むを得ず次長閣下の御賛同を願つて次の様な約束をしたのであります。

 夫れは海軍が呉淞鎮と江湾鎮の線を確保する約束の下に必要なるに至れば速かに陸軍が約一ケ師団を以て同線を占領することとしたのであります」(「回想応答録」)

 すなわち上記八月一二日の発言は居留民現地保護の方針の撤回を海軍に提案したものであったといえる。では、陸軍派兵を取りやめて上海の日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとしたのかといえば、そのような解釈は不可能である。このとき同時に「当面の処置として動員下令は必要である」「結局、上海の陸戦隊に若干の陸軍部隊を注入し・・・〔「若干の陸軍部隊」と言っているが、同時点で二個師団の派兵が予定され、石原も承認していた〕」と述べているように、居留民現地保護の方針が変更できない場合に陸軍派兵の必要があると認めていたことは明白であり、したがって、やはり居留民の引き揚げを海軍に納得させようと試みたものと解釈できるのである。

 なお、石原が上海居留民の引き揚げを主張したのは上海事変直前がはじめてではない。この前年の一九三六年秋、支那において対日テロが頻発した際に海軍は全面戦争も辞さないほどの強硬態度をみせていたのであるが(後述)、実はこのときすでに石原は「支那に対して徹底的にやる目算はない〔支那を武力で屈伏させる目途が立たない、の意〕。武力を行使せず、中南支より居留民を引き揚げてもよいではないか」(今岡前掲書)と海軍に申し入れて、陸軍派兵に反対した経緯があったのである。そして盧溝橋事件後の七月三〇日にも再び「対支一国全力作戦をもってするも容易に支那を屈服させる成算も立たない」(『陸軍作戦』)と海軍に申し入れているように、一九三七年八月に上海への陸軍派兵に反対した意図は一年前とまったく同じなのであった。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献