牛歩の猫の研究室

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支那事変は持久戦争だった

 では、支那事変は決戦戦争と持久戦争、どちらに分類されるのだろうか。もちろん石原は持久戦争だと考えていたのであるが、その理由については次のように説明している。

「3 国土の広大

 攻者の威力が敵の防禦線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、自然に持久戦争となる。

 ナポレオンはロシヤの軍隊を簡単に撃破して、長駆モスコーまで侵入したのであるが、これはナポレオン軍隊の堅実な行動半径を越えた作戦であったために、そこに無理があった。従ってナポレオン軍の後方が危険となり、遂にモスコー退却の惨劇を演じて、大ナポレオン覇業の没落を来たしたのである。ロシヤを護った第一の力は、ロシヤの武力ではなく、その広大な国土であった。(中略)

 今次事変に於ける蔣介石の日本に対する持久戦争は中国の広大な土地に依存している。

 右三つの原因の中、3項〔国土の広大〕は時代性と見るべきではなく、国土の広大な地方に於ては両戦争の時代性が明確となり難い」(石原『最終戦争論』)

 つまり石原は、広大な国土が戦場となる戦争に関しては「自然に持久戦争となる」と考えており、広大な支那大陸が戦場となる支那事変についても、主に地理的要因によって持久戦争になってしまうと判断していたことがわかる。それは盧溝橋事件が起こると以下のように不拡大方針を説いていることからも後付けの理屈ではないことが明らかである。陸軍内においては、要旨次のように述べて説得を試みていたという。

「今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力、軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である」(武藤章『軍務局長 武藤章回想録』)

 また、兵力増派の要請に参謀本部を訪れた成田貢支那駐屯軍参謀とは次のような会話を交わしている。

石原「俺はナ、支那に駐在していた間に、四百余州を隈なく歩いた。そしてこの目ではっきり見て来たぞ。支那は広いよ。行けども行けども、果てしがない。河でも山でもスケールがちがう。あれじゃいくら意気ごんで攻めこんでみても、暖簾に腕押し、退くには退けず、とうとうこっちが根負けだよ」(中略)

成田「だから今すぐ動員して増援を得たら、目前の敵だけでも殲滅してケリをつけます。任して下さい」

石原「馬鹿言え、支那兵は逃げ足が早いぞ。どこまでも逃げて行く。それに漢民族の歴史を研究したか。昔から支那を獲りに行った他民族が、完全に漢民族を支配した奴がいるか。目の前ではハイハイと頭を下げるが、見えぬところじゃ勝手なことをしとる。そうこうするうちに、支配する民族がいつの間にか反対に同化されてしまう」

 対支武力行使を主張した武藤章参謀本部作戦課長に対してもこのように述べて反対している。

支那は広いぞ。どこまで行っても際限がない。満支国境で兵を止めるべきだ。万里の長城線は古来からの支那の国境だ。その線で交渉すれば、事変は必ず解決する」(今岡豊『石原莞爾の悲劇』)

 さらに浅原健三(八幡製鉄所ストライキを指導し検挙される。第一回普通選挙に当選。のちに石原に近づき政治工作に関与。支那事変前には石原の意を受け、政界や陸海軍の要人と面談を重ね日支不戦を説いた)、山口重次(満鉄に勤務。満洲事変勃発後は石原に協力して満洲国建国を後押し。その後満洲国官吏を歴任)にはそれぞれ以下のように打ち明けている。

「蔣介石は相当な戦術家だ。かならず長期戦にもちこむだろう。中国大陸は広大だ。どこまでも逃げていくだろう。抵抗する者はうち破ることができる。しかし、逃げる者には追う者が奔命に疲れる。食糧が足らないなら、まんじゅう一個で辛抱する支那兵だ。武器、弾薬が欠乏すれば、ゲリラ戦を展開するだろう。兵員が不足なら、支那には五億もの民がいる。広域な泥沢地帯、無限の山岳地、鉄道もなければ、道路もない。全大陸を縦横に走るクリークは世界無比の迷水路である」「奥地深く逃げ込まれたとき、追うに道もないが、日本軍への補給のすべもない。日本の軍事費は無限大に投じられても、効果がないだろう」「この戦争は十カ年を費やすも、解決点がない。結局、攻める者が敗北だ。断じて戦争をしてはならない」(桐山桂一『反逆の獅子』)

「若い参謀連中は『三ケ師団、三ケ月で支那を占領する』なんて、無責任なことを煽っているが、とんでもない放言だ。交通不便な、あの広い支那大陸だ。もし支那が国民ぐるみ、真剣になって持久戦を戦ったら、日本が大軍を遣って戦っても、中々、屈服できるものではない。『三ケ月、三ケ師団で支那を屈服する』なんて、とんでもない、たわ言だ」(山口重次『満洲建国への遺書 第一部』)

 このように石原は、支那事変を〈敵が広大な国土を利用した退避戦略によって決戦を避けてしまうため、武力だけで屈伏させることが困難になってしまう戦争〉、すなわち持久戦争だと予測していたのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献