牛歩の猫の研究室

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「日本は支那を見くびりたり」

 では、当時の日本人は支那の力量をどの程度に見積もっていたのであろうか。盧溝橋事件当時の陸軍の状況について、井本熊男は次のように証言している。

「石原第一部長は前年来、日支関係の破綻を回避するため、対支外交方針緩和の実現、北支及び満州に出張して現地軍の策動を抑えるなど各種の努力を傾けていたが、盧溝橋事件か起ると主として省部(陸軍省参謀本部)内において下僚、同僚、首脳部に対し不拡大堅持のための説得に精魂を尽した。その趣旨は、

「今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力、軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である」

 というのであった。

 第一部長は第三課の室に来て、課長以下全員に対し、何回か右の説得に努めた。また近衛首相に対しても理解を得るように工作していたようである。

 石原部長に同調する人は省部を通じ若干あったが、極めて少数であってしかも石原少将より若年の人々であった。故に不拡大勢力は著しく弱く、極端にいえば石原少将単独の主張であった。省部の首脳およびほとんど全部の幕僚は対支観において石原部長と正反対であった。すなわち「支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せば直ちに屈従する。この際支那を屈伏させて概して北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相俟って対ソ戦略態勢を強化することが必要で、盧溝橋事件はそれを実現するため、願ってもない好機の到来を示すものである。」というのである。

 この考え方は満州事変以来陸軍指導層の変らない対支観、対支施策であった。満州事変の主役者関東軍参謀石原中佐も当時はこの考え方であったが、その後四、五年の間に前記のような思想に飛躍的に変化したのであった。

 武藤課長の考え方は陸軍の指導層主体と同じであって、特に前任の関東軍第二課長(情報、謀略)時代に信念的なものとなっていたようである」(武藤前掲書)

 そして盧溝橋事件発生の報が参謀本部に伝わると、武藤が「愉快なことが起つたね」(「河邊虎四郎少将回想応答録」『現代史資料』12)と言い、支那課長の永津佐比重大佐は、

「日本は動員をやつたら必ず上陸しなければならぬと考へるから控目の案になるのだ、上陸せんでも良いから、塘沽附近までずつと船を廻して持つて行けばそれで北京とか天津はもう一先づ参るであらう」(同前)

「石原の云うことは間違っている。支那は、小兵力を以て脅しただけで屈伏する。この際一撃を加えて、我方針の貫徹を図ることが最善の方策である」(井本前掲書)

 支那班長の高橋担中佐は、

「内地動員の掛声或は集中列車の山海関通過にて支那側は屈伏する」(堀場前掲書)

 兵要地誌班長の渡左近中佐は、

「精々保定の一会戦にて万事解決すべし」(同前)

などと、それぞれとんでもない観測を述べていたのであるが、極めつけは杉山陸相の「事變は一ケ月位にて片付く」(近衛前掲書)という天皇への上奏だろう。

 このように陸軍では従来どおり、支那に対しては威嚇によって日本側の要求を貫徹できるのであり、要求が通らない場合でも、一撃を加えればたちどころに降伏してしまうと考えられていたのである。そうした考え方は上海に戦火が拡大しても本質的な変化は見られなかった。

 松井石根上海派遣軍司令官は八月一八日に参謀本部首脳部と懇談した際に南京攻略を主張しているが、その意図は一六日の日記によれば、「一挙南京政府ヲ覆滅スルヲ必要トス」(「松井石根大将陣中日記」『南京戦史資料集』2)というのであった。しかもこのとき南京さえ攻略すれば蔣介石は下野するだろうと完全な見当違いを述べている(同前)。参謀本部支那課の見込みはさらに甘く、上海をとれば蔣介石はすぐ手を上げるだろうとの意見だったという(中村前掲書)。

 一方、海軍軍令部においても、中支・南支に戦局が拡大した場合、航空爆撃と沿岸封鎖などによって支那を短期間に屈伏させることが可能であるという、海軍の一撃論とでもいうべき甘い見通ししか持っていなかった(相澤前掲書)。高松宮は一九三七年七月一六日の日記に「海軍にも、この際支那を一つタヽイて、サツト引クがよいと云ふ説が盛んである」(『高松宮日記』第二巻)と書いているが、このような発想には陸軍の一撃論者との差異が見出せない。上海の長谷川第三艦隊司令長官も上海、南京を占領することにより蔣介石を屈伏できると考えていた(「対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申」昭和十二年七月十六日『現代史資料』9)。

 また、既述のように七月一一日の派兵声明は風見の発案によるものだったのであるが、近衛自身も支那を侮り、強硬な戦意さえ見せれば必ず折れてくるという誤った見通しを持っていたのである(岡義武『近衛文麿』)。

 さらに伊藤正徳によれば、「大多数の国民は、勇壮無比のわが陸軍の楽勝を、大人と子供の相撲のように簡単に考えていた」(『軍閥興亡史』3)といい、尾崎秀実は「上海をとれば支那が参るであろう」「南京が陥ちれば勝負は決ったのである」との安易な見通しが事変当初、多数の国民の間に存在したとしている(「長期戦下の諸問題」『尾崎秀実著作集』第二巻)。

 以上のように、当時の日本人の大半は支那ナショナリズムや抗戦能力を過小評価しており、言わば国家規模で認識を誤っていたといえる。天皇は次のように述べている。

支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」(昭和十五年十月十二日「小倉庫次侍従日記」)

「結局、日本は支那を見くびりたり」(昭和十六年一月九日、同前)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献