牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

2022-03-16から1日間の記事一覧

主要参考文献

石原莞爾『戦争史大観』(中央公論新社、一九九三年) 石原莞爾『最終戦争論』(中央公論新社、一九九三年) 角田順編『石原莞爾資料──国防論策篇』(原書房、一九九四年) 角田順編『石原莞爾資料──戦争史論』(原書房、一九九四年) 玉井禮一郎編『石原莞爾選集』…

おわりに

本論では、北支事変ならびに支那事変初期における石原の言動を検証したが、同時に国内外の情勢についても多くの記述を割いた。彼の言動と、その背景にある認識や思想を評価するためには、それを把握しておくことが必要不可欠と考えたためである。 内外情勢の…

満洲事変は歴史上の“起点”か?

石原については、彼が引き起こした満洲事変に根強い批判がある。それは〈石原が中央の統制に従わず満州事変を成功させたために、陸軍に独断専行と下剋上の風潮が蔓延した。そのため功名心にはやった現地軍が華北分離工作を推進し、やがて日中戦争が起こると…

米内光政の責任論

しかしながら、実際には日本側では陸軍を上海に派兵し、支那と全面戦争をはじめるという選択がとられたわけだが、そこに一体どのような戦略が存在していたのだろうか?それは「暴支膺懲」という具体性のないスローガンの示すように戦争目的など皆無であり、…

上海撤退の合理性

石原が一九三七年八月に上海撤退を主張したことは前述のとおりであるが、日本が蔣介石と戦争をする場合、そのような選択肢も実際にあり得たはずである。では、もし上海撤退が実行されていれば、事変の推移はどのように変わっていただろうか。 事変当初、第三…

石原の経済体制再編論

そして石原が一九三五年八月、参謀本部作戦課長就任後に生産力拡充計画に乗り出した理由も、軍事力を拡大していた極東ソ連軍に早急に対処することにあったのであり(「回想応答録」)、ひいては世界最終戦争に備えるためであった。そこで石原は統制経済の導入…

石原は対ソ開戦論者だった?

石原の国家戦略に関しては、〈昭和一七年頃ソ連と戦争をはじめるつもりだった〉との見方がある。たしかに昭和一一年七月、戦争指導課策定の「戦争準備計画方針」には「昭和十六年迄ヲ期間トシ対「蘇」戦争準備ヲ整フ」とあり、翌月には「対ソ戦争指導計画大…

最終戦争論

よく知られるように最終戦争論という石原独自の思想は一冊の本にもなっており、一般には日蓮信仰のドグマや、日本とアメリカが決勝戦を戦うという結論部分がクローズアップされ、読者に奇妙な印象を与えているようである。たしかに石原の説明には論理の飛躍…

なぜ兵力の逐次投入となったのか

そして以上のような日本は持久戦争に対応できないという認識が、作戦指導に影響を及ぼすことになったのも自然な成り行きであった。すなわち石原は、当初から陸軍の上海出兵の目的は居留民保護の範囲に限定しなければならないと考えており(井本前掲書)、その…

石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由

すでに見たように、石原は盧溝橋事件後、北支への陸軍派兵は認めたものの、特に上海方面への派兵には可能な限り抵抗し、居留民の引き揚げをもって対処すべきと主張したのである。では、石原はなぜ上海への陸軍派兵を嫌ったのだろうか?先に結論を述べるなら…

日本は持久戦争に対応できなかった

石原は、支那事変は広大な支那大陸を舞台にした持久戦争であると考えていたが、これは客観的にも妥当な認識といえるだろう。すなわち蔣介石政権を武力だけで屈伏しようとすれば、いたずらに戦線だけが広がって泥沼化必至だったのである。そのような事態を回…

「日本は支那を見くびりたり」

では、当時の日本人は支那の力量をどの程度に見積もっていたのであろうか。盧溝橋事件当時の陸軍の状況について、井本熊男は次のように証言している。 「石原第一部長は前年来、日支関係の破綻を回避するため、対支外交方針緩和の実現、北支及び満州に出張し…

トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三

以上は日本政府が和平交渉を打ち切った動機についてであるが、次にそれを是とした背景を探ってみたい。 交渉打ち切り決定当時の状況について堀場一雄は次のように述べている。 「戦争指導当局は現政権否認後に来るものは長期戦にして、少くも四、五年に亘る…

トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二

さて、風見は盧溝橋事件発生当時の国内の様子を次のように回想している。 「ことに、ひそかに心配したのは、むこう見ずの強硬論がもちあがることであった。そのころは、一般国民のあいだにも、はたまた政界にあっても、中国をあまく見くびるという気風がみな…

トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一

日本政府は一九三八年一月一五日の大本営政府連絡会議においてトラウトマン工作の打ち切りを主張し、これに反対する参謀本部をねじ伏せ、翌日「仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國…

海軍の南進論

さらに、ここで海軍が推進した南進論を問題にしたい。 南進論の起源については、日露戦争後の一九〇七年に制定された「帝国国防方針(以下、国防方針)」にさかのぼることができる。ここでは「南北併進」がうたわれ、陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国…

米内光政と上海事変

上海事変勃発に際しての米内の対応については、相澤淳『海軍の選択』が正確に考察していると信じられるので、基本的には同書に依拠し、若干の筆者の考察を加えながら確認していきたい。 まず、米内は盧溝橋事件発生以来、陸軍派兵に対してはきわめて慎重な姿…

石原の辞任とその後

石原の作戦部長辞任に関しては、一般に解任されたものと理解されているようである。たしかに武藤章は「追い出した」、石原は「追い出された」とそれぞれ述べているように、何らかの圧力があったのは事実である。しかしその一方で、石原の側から辞任を申し出…

石原発言に見られる駆け引き

上海事変勃発後の八月三一日、石原は次のように発言している。 「上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞─江湾─閘北の線くらいであろう) 北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦にな…

石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?

では、石原は上海で攻勢に出ようとしていた蔣介石の意図に気づくことができていたのであろうか。盧溝橋事件当時の予測について後年、このような発言を残している。 「一般の空気は北支丈けで解決し得るだらうとの判断の様でしたが、然し私は上海に飛火する事…

石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?

出所はまったく不明なのであるが、ごく一部にみられる〈石原は上海事変勃発の際に陸軍を派兵しようとせず、上海にいる日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとした〉といった類の説にも一応コメントしておく。 とはいえ、石原は上海事変が勃発する前に上海へ…

石原と盧溝橋事件

しかしながら政府が派兵声明を発表することができたのは、七月一〇日に石原が作戦課による北支への陸軍派兵案に同意してしまったからである。その理由は支那中央軍が北上しているという不正確な情報を過大視してしまったためで、「現在日本軍の処理は石原少…

近衛文麿と七月一一日の派兵声明

近衛内閣は盧溝橋事件の発生を受け、七月一一日に「今次事件ハ全ク支那側ノ計畫的武力抗日ナルコト最早疑ノ餘地ナシ」と断定する北支派兵声明(全文は「華北派兵に關する聲明」『日本外交年表竝主要文書』下を参照)を発表したのであるが、この政府の対応がそ…

陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?

ところで、天皇は次のような回想を残している。 「支那事変で、上海で引かかつたときは心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来てるのを、陸軍は知らなかつた」(昭和十七年十二月十一日「小倉庫次侍従日記」『文藝春秋』二〇〇七年四月号) また、風見章…

船津工作成功の可能性

支那事変前の和平の試みとしては船津工作もよく知られるが、こちらはどうだっただろうか。これは七月末の天皇の「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」という近衛への示唆によってはじまり、すでに時局収拾案が立案検討されていた陸海外の合…

首脳会談成功の可能性

蔣介石が盧溝橋事件後しばらくは平和的解決を求めていたが、日本軍の北平占領により戦争へと政策を転換せざるを得なかったことについてはすでに述べた。そうであれば、日本の出方によっては局地解決も不可能ではなかったはずである。 石原の事件不拡大の努力…

成就した以夷制夷

その後、蔣は日本と戦いながら、国際情勢の変化を待ち続けた。日本に勝つ方法はそれを利用すること以外にはあり得ないのであり、かねてからの方針でもあった。国民政府は抗日戦の開始から特に次の三つを国際的解決戦略の柱としていた。 「第1に、国際連盟に…

上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン

それでは、前述した経緯から上海で戦端を開いた蔣であったが、果たして彼は上海戦にどの程度の勝算を持っていたのであろうか。上海事変勃発後、次のように思考をめぐらせている。 「九月の半ばになると、蔣介石は「兵力を集中し、上海で決戦するか」、「奥地…

日支全面戦争を煽った中国共産党

以上のように、日支が全面戦争に至ったのは盧溝橋事件に端を発する北支事変の収拾に失敗したためであったということができる。では、なぜ日支双方に平和的解決の意思があったにもかかわらず盧溝橋事件が拡大したのかといえば、その背景に中国共産党の強い影…

蔣介石はいつ戦争を決意したか

以上のように、日本に対しては戦わずして勝つことを理想とし、本心では戦争を望んでいなかった蔣であるが、いざとなれば一戦も辞さない覚悟は決めていた。彼は対日戦準備のため、すでに一九三三年から上海─南京間に陣地線の構築を指示するとともに、一九三六…