牛歩の猫の研究室

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トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一

 日本政府は一九三八年一月一五日の大本営政府連絡会議においてトラウトマン工作の打ち切りを主張し、これに反対する参謀本部をねじ伏せ、翌日「仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國國交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」(『日本外交年表竝主要文書』下。以下、『主要文書』と略記)という声明を発表したのであるが、そこに至った理由を考える前に、簡単にトラウトマン工作の経緯を確認しておきたい。

 一九三七年一〇月二一日、広田弘毅外相はヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使に和平の斡旋を依頼し、一一月二日には和平条件を提示するとともに、戦争が継続された場合には条件がはるかに加重されることを強調した。なお、これに先立って石原ら参謀本部はドイツを仲介とした和平工作を独自に推進していたが、このことに広田は関知しておらず、また広田も陸軍との協議を経ることなくディルクセンに対する条件提示に踏み切っており、この二つの動きの関連性について断定的なことはいえないようである(宮田昌明「トラウトマン工作再考」『日中戦争の諸相』)。ただし、このとき提示された和平条件については一〇月一日に首・外・陸・海の四相会議で決められた「支那事變對處要綱」(『主要文書』)が基礎になっており、それは船津工作案が「再確認されたものであった」(石射前掲書)。

 一一月五日、同和平条件はトラウトマンから蔣介石に伝達されるも、ブリュッセルでの九ヵ国条約会議に期待していた蔣介石は受理を拒否した。しかし同会議が何ら有効な対日制裁を決定できずに閉幕すると、一二月二日、蔣介石は日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマンに伝えた。このころ支那側では動揺の空気が広がり、国民政府内で主要な地位を占めていた汪兆銘孔祥熙らは和平に積極的になっていた。しかし、五日には対日参戦を要請していたスターリンから参戦は不可能とする回答が届き、蔣介石は同日と翌日の日記に「ドイツ調停もまた望みがないようだ」「倭に対する政策はただ徹底抗戦あるのみ,これ以外に方法はない」と書いている(岩谷前掲論文)。

 一方、日本側でも小川平吉日記の一二月八日の条に「朝、永田町に〔近衛〕公を訪ふ。去二日、独大使より敵は北支領土並に行政権に触れざれば交渉開始すべしとなり、六日〔ドイツの斡旋〕謝絶に決定せりと」(『小川平吉関係文書』1)との記述が見られる。翌日以降の経過を見る限り同決定は取り消されたようであるが、すでに政府には交渉無用論が横行していたのである。

 七日、ディルクセンと会談し、蔣介石の意向を正式に伝達された広田は「一月前、すなわち日本の偉大なる軍事的成功の以前に起草された基礎の上に交渉を行なうことが未だ可能かどうか疑問に思う」と和平条件の加重を示唆する返答をおこない(三宅前掲書)、同日の四相会議はドイツの斡旋を利用し、新条件を提示することを申し合わせた(『石射猪太郎日記』)。また、この日トラウトマン工作に関する情報の一部が明らかになり「〔陸軍〕省部ノ下僚色メク」(「大本営陸軍参謀部第二課・機密作戦日誌」『変動期の日本外交と軍事』。以下、「機密作戦日誌」と略記)。

 翌八日、陸相官邸にて多田駿参謀次長を加えた会議が開かれ、「蔣ハ反省ノ色見エザルモノト認ム、将来反省シテ来レバ兎モ角現在ノ様ナ態度ニテハ応ジラレズ 併シ独逸大使迄ニハ新情勢ニ応ズル態度条件ヲ一応渡シテ置ク必要アリ」(同前)と決議した。その後、杉山陸相が広田外相を訪ね「一応独の斡旋を断り度し」「近衛首相も其意向なり」と申し出ると、広田もそれに賛成してしまった(石射前掲日記)。また、近衛のほか米内も杉山に同意したらしく、四相間に「一応拒絶シ蔣ノ反省ヲ促シ時ヲオキテ独大使ニ当方ノ考ヘアル条件ヲ提示スル」との合意ができたようである(「機密作戦日誌」)。

 そして一〇日の閣議は蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決定した。同閣議では「広田外務大臣先づ発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの〔回答をするという〕結論に達し、其他皆賛同」したという。ただしこの閣議決定は堀場一雄ら戦争指導班の熱烈な上申によって取り消されたとみられる(堀場前掲書)。加えて、同日陸軍は一転ドイツの斡旋を受け入れるという方針でまとまり(石射前掲日記)、一一日に参謀本部和平派が陸軍強硬派に妥協した形の陸軍案と(堀場前掲書、「機密作戦日誌」)、一二日に同案を石射猪太郎が修正した形の陸海外三省事務当局案が作成された(劉傑前掲書)。そして一三日の連絡会議で陸軍案、一四日の連絡会議で三省事務当局案の審議がおこなわれたが、厳しい条件が列記された前者案には特に反対意見が出なかった一方、これを緩和した後者案には異論が続出し、結局一四日の連絡会議は陸軍案を採用することを決めた(この間の詳しい経緯は別ページ「トラウトマン工作における新和平条件の決定について」を参照)。その後同案には若干の修正が加えられ二一日の閣議新和平条件の最終決定をみたが、政府の意向により抽象的かつ全体をカバーする四条件に改められてディルクセンに示されたのは二二日である。この新和平条件が支那側に伝わったのは二六日だが、条件を知った蔣介石は「倭はあるいは条件緩和によって我政府を惑わし,政府内部で対立,動揺を起こそうとしているのではないかと思っていた」「しかし(条件)を見て,大いに安堵した.条件とその方式がこれほど苛酷であれば,我国は考慮する余地がなく受諾の余地もない.相手にしないことに決めた」と感想を日記に書いている(岩谷前掲論文)。

 一方、日本側においては、すでに蔣政権否認論が台頭しており、七日の四相会議は前述のようにドイツの斡旋を利用することで一応合意したが、同日の閣議の様子については一二月八日「東京朝日新聞」が「〔近々予想される南京陥落と蔣介石の脱出により〕南京政府は最早や中央政府としての存在を失ひ一個の地方政權と見るほかないといふ意見は政府部内に有力となつてをり、七日の閣議席上に於てもこの問題に關し隔意なき意見交換を行つた結果大勢としては南京政府否認の方向に向つてゐるが、否認の聲明をなすべき時期〔一字判読不能。竝?〕に聲明の内容については諸般の情勢を考慮し愼重に決定する筈で何れ南京陷落の公報が到達次第、臨時閣議を開催して正式に協議することとならう」と伝えている。また、上記一二月一〇日の閣議に出席した有馬頼寧農相は次のように記録している。

「午前十時より閣議。外相より独大使と蔣介石との会見につき、先日の電報を有りの儘に報告。拓相、文相より蔣政権否認の意見あり。結局南京陥落と、四時に首相の声明あり。降服すれば認めるも、其れ以外なれば否認することゝなる」(『有馬頼寧日記』3。後半部分がややわかりにくいが、これは一二月一一日「東京朝日新聞」によれば、南京陥落の公報を待って、臨時閣議は開催せずに近衛首相談の形式で政府の見解と態度を内外に発表することとなった、との意味のようである)

 この決定に基づき近衛は一三日の南京陥落に際して、「北京、天津、南京、上海の四大都市を放棄した國民政府なるものは實體なき影に等しい」「然らば國民政府崩壞の後をうけて方向の正しい新政權の發生する場合は、日本はこれと共に共存共榮具體的方策を講ずる外なくなるであらう」(一二月一四日「東京朝日新聞」)と声明している。二四日には、「今後ハ必スシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セス之ト別個ニ時局ノ收拾ヲ計リツツ事態ノ進展ニ備ヘ・・・」(「支那事變對處要綱」(甲)『主要文書』)とする方針を閣議決定した。そして一九三八年一月一六日の「対手トセズ」声明の布石となったものが、一月一一日の御前会議において決定した「「支那事變」處理根本方針」である。ここでは「支那中央政府カ和ヲ求メ來ラサル場合ニ於テハ、帝國ハ爾後之ヲ相手トスル事變解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政權ノ成立ヲ助長シ、コレト兩國國交ノ調整ヲ協定シ、更生新支那ノ建設ニ協力ス、支那中央政府ニ對シテハ、帝國ハ之カ潰滅ヲ圖リ、又ハ新興中央政權ノ傘下ニ收容セラルル如ク施策ス」(『主要文書』)ることが確認されている。一三日には、一五日までに回答がなければトラウトマン工作を打ち切ることが決まった。

 一四日、支那側からの回答が到着したのであるが、内容は蔣介石政権が和を求めてきたものではなく、新和平条件の詳細を問い合わせるものであった。広田はこれを「支那側ニ誠意ナク徒ニ遷延ヲ策スルモノナリ」と断じ、その後の閣議では「最早斯ノ如キ遷延策ニ構ハズニ予定ノ通リ南京相手トセズトノ声明ヲナシ次ノ「ステップ」ニ入ルベキ」こと(「機密作戦日誌」)、声明発表の日取りを一六日とすることに意見が一致した(『有馬頼寧日記』4)。翌一五日の連絡会議で大本営はこれに反対し、支那側の確答を待つべきことを主張したが、政府は譲らず、米内に至っては内閣総辞職をほのめかす言辞で食い下がる多田駿を恫喝した。結局参謀本部は譲歩を余儀なくされ、一六日、政府は予定の通り「対手トセズ」声明を発表した。しかしこのとき支那側は「遷延策」を講じていたわけではなく、蔣介石を除く多数の人物は和平を望んでいたが、さりとて厳しい新和平条件を受け入れることもできず、態度を決めかねていたというのが実相なのであった。岩谷將氏は、もし日本側が当初の和平条件を維持していたならば、国民政府内の主流派は暫定的にこれを受け入れ、蔣介石もまた再考を迫られる状況が生じた可能性があったと論じている(岩谷前掲論文)。

 無論、参謀本部の交渉継続論が正しく、政府の交渉打ち切り論は完全に誤りであった。強調しておかなければならないのは、先に見たように、一四日の時点で交渉打ち切り決定後に「対手トセズ」声明が発表されることは既定方針だったのであり、閣僚はそれを是認していたのであるから、交渉の打ち切りと「対手トセズ」声明の発表は不可分だったということである。したがって交渉打ち切りの決定は単にトラウトマン工作を頓挫させたに留まらず、以後日本では国民政府を対手にしないことが公式な国策となり、少なくとも明らかに勝者とわかる条件でない限り和平ができなくなってしまった。また、当然ながら日支両国大使の引き揚げという事態を招き、政府は以後外交による和平の可能性を自ら潰してしまうこととなったのである。そのうえすでに列国に承認されている蔣介石政権を否認するという行為は、九ヵ国条約との絡みからも既存の国際秩序に対して挑戦状を叩きつけたに等しいのであり、列国を敵に回すことは国際的な対日干渉を志向していた蔣介石を利することに他ならず、この意味からも日本政府は墓穴を掘ったのであった。そもそも現に交戦している相手を否認してしまうような行為はどのように考えても重大な過失というしかない。

 たしかに新和平条件は厳しいものであり、支那側がそのまま受け入れることは不可能だったが、期待していた列国による紛争介入が起こらず、苦境に陥っていた支那側の態度からして交渉継続が可能だったことは確実である。そしてあくまで蔣政権を対手にしていれば、たとえトラウトマン工作が失敗に終わっても、いずれ正式な外交ルートを通じて交渉を再開することもできただろうし、同じテーブルにつけば和平条件を討議することも可能だったはずである。実際にトラウトマン工作の失敗によって蔣介石が徹底抗戦以外の可能性を完全に排除してしまったのかといえば決してそうではなく、一九三八年三月下旬の日記からは早くも和戦の決断をめぐって迷いはじめている様子が看取される(馮青前掲論文)。なお、このとき国際情勢に対する悲観的な展望を背景に、彼は満洲国を承認することも考慮したようである(鹿錫俊前掲書)。

 理由はどうであれ、一和平工作が頓挫したからといって有害無益な声明を発表して交渉の窓口を閉ざしてしまわなければならぬ道理はないのである。この件に関しては完全に政府の失策といわねばならない。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献