牛歩の猫の研究室

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海軍の南進論

 さらに、ここで海軍が推進した南進論を問題にしたい。

 南進論の起源については、日露戦争後の一九〇七年に制定された「帝国国防方針(以下、国防方針)」にさかのぼることができる。ここでは「南北併進」がうたわれ、陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国に設定したのであるが、もっとも、これは予算獲得のための作文に過ぎず、海軍にとっての“アメリカ”は陸軍に対抗する必要から持ち出されたものであり、本気で戦争になるなどとは考えていなかったのである。

「この時点で、日本は台湾を、アメリカはフィリピンを領有しており、隣国である。しかし、アメリカの満洲への野心に実効性はなく、移民問題は行政問題に過ぎない。両国には本質的な対立はなく、無理やりにでも対立しなければ戦争など起きようがない関係である。それだけに、海軍は安心して日本の行政部内で声高に仮想敵だと喧伝できた」(倉山満「八八艦隊建設」『歴史読本』二〇一〇年九月号)と指摘されるとおりであろう。

 その後、幾度か「国防方針」は改定されたのであるが、陸海両軍ともに相手に予算をとられまいとの対抗心から意思の統一ができず、国家戦略の分裂が解消されることはなかった。

 そして先に結論を言えば、そのような欺瞞が大日本帝国を破滅に追い込んだのである。そもそも対米戦争は、その主体となるべき海軍がやるといわない限り起こりようのない戦争であった。しかし海軍は勝算がなかったにもかかわらず、結局最後まで公の場では〈アメリカと戦えない〉と明言しなかったのである(たとえば大杉『日米開戦への道』下)。

 戦後に語られた以下の証言は、当時の海軍の事情をよく伝えている。

三代一就(開戦時の軍令部作戦課参謀)「私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカと戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。

 どういうことかというと、海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”と。そしてその分を、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんでですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」

高田利種(開戦時の海軍省軍務局第一課長)「それはね、デリケートなんでね、予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月間際になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです」「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあけたところを言えば」(『日本海軍400時間の証言──軍令部・参謀たちが語った敗戦』)

 要するに、三十年以上嘘の作文を作って莫大な予算をもらっていた手前、今さら〈アメリカと戦えない〉とは言い出せなかったのであり、この期に及んでも予算配分が海軍に不利になってしまうことを嫌ったのである。

 しかし、こうした事態を回避する機会がないわけではなかった。一九三五年八月、参謀本部作戦課長に着任した石原は従来の「国防方針」を問題視し、国防計画を一新すべく海軍との話し合いに入った。「国防方針」に対する石原の批判は次のようなものである。

「わが陸海軍には作戦計画はあるが戦争計画はない。これでは国防を全うすることはできない。今や世界列強は国防国策を基とし、外交を律し、軍備を整える準戦時時代に入っている。慢然と想定敵国を列挙して外交や国力と別個に、軍備だけをもって国防を全うしうるものではない。すみやかに戦争計画を策定し、国防国策大綱を制定しなければならない」(『陸軍部』)

 すなわち、国防政策の基準であるはずの大正十二年国防方針には国家戦略も軍事戦略もなく、時代錯誤の短期決戦思想にもとづいた作戦構想と所要兵力が示されているだけで、戦争指導構想がまったくないことを懸念したのであり、石原は、国防方針には国防を中心に考えた国策(国防国策)がまずあるべきで、それを実現するための政戦略、つまり戦争指導構想もない軍備と作戦計画だけでは、準戦時時代に入った現時点において国防をまっとうできないと考えたのである(黒野耐参謀本部陸軍大学校』)。

 また、このとき軍事力を拡大していた極東ソ連軍が現実的な脅威になっており、これに対処することが国家にとって喫緊の課題であることは誰の目にも明らかであった。そのような理由からも、石原は、まず対ソ軍備の完成に重点をおいて、今後十年間は満洲国の育成に専念すべきとの方針で海軍との調整をはかろうとしたのであるが、海軍はあらためて南進を主張し、これに真っ向から反対したのである。このときの海軍の態度は以下のように説明することができるだろう。

「この時期、日本はすでに満州国を承認して北進策を推進しており、ソ連が極東の軍事力を飛躍的に増強し、満州国の防衛が危うい状況にあった。したがって、国家全般の立場から考えれば、北進であろうが北守であろうが、実態としてはまず陸軍軍備を増強して、これに対応するのが急務であった。

 日本が米英の権益の中心である南方へ具体的行動を開始した場合、英米と直接衝突する公算が大きくなる情勢にあった。しかも、北方の脅威に対応する能力も不十分であり、対米持久戦争の準備も完成していなかったのであるから、南進は自ら二正面作戦を求める自殺的行為になりかねなかった。海軍がこのような矛盾した主張をする背景には、昭和一〇年末から無条約時代に入るため、対米自主軍備を早急に推進したいという要求があったのである」(黒野耐『日本を滅ぼした国防方針』)

 では、このとき海軍が対ソ軍備優先の国防計画に同意していれば、その後歴史はどのように動いただろうか。実は海軍の中にも陸軍に予算の優先権を譲るべきとの考えを持つものはおり、当時、及川古志郎第三艦隊司令長官(起案は岩村清一同参謀長)が海軍大臣軍令部総長に具申した意見は注目に値する。

 その要旨は、「日本がとるべき国策として南進・北進の二策があり、平和的に進出するにしても障害がある現状においては実力行使の必要が生じる。南進は米英、北進はソ連との衝突を意味する。日本は今好んで英米と衝突するよりも、まず後顧の憂いを除いたあとに南進に転じても遅くはない。米英と衝突する場合にソ中は米英に組することがあるが、ソ連を敵とする場合は中国本土でイギリスと協調することにより、米中を局外に立たすことも可能であり、欧州においてドイツと策応することもできる。対ソ戦を直近目標としても、つねに米英の干渉を排除する海軍力の整備の必要性は認められる」というものであったが、もし外交手段により極東ソ連軍を撤退させることができれば武力行使の必要はなくなるとも論じている(黒野前掲書。全文は『陸軍部』を参照)。

 これは戦略的にも見どころのある意見だといえるし、国家の全般情勢を考慮すれば当然の結論だったともいえる。「本案をもって進んだならば、日露戦争以後始めて陸海軍が主要想定敵国を共通の一国に限定でき、陸海軍が力を合せて対ソ戦備、対支協調、対英米静謐を得たかも知れないとさえ思われるのである」(『陸軍部』)という見方も決してあり得ない話ではなかったが、もちろんこれは海軍中央部の容れるところとはならなかった。

 そのため、海軍の主導により一九三六年六月三日に改定された「昭和十一年国防方針」においても、すでに見た海軍の身勝手な要求が反映されることになり、結局はソ連と並んでアメリカが引き続き仮想敵国とされ、しかも短期決戦を追求することが示されることとなった(同前。先に見たように、そもそも石原は「国防方針」では国防を全うできないと考えていたのだが、対ソ軍備の強化が緊急を要するためやむなく海軍の提案を呑んだのである)。

「つまり、国策・国家戦略の策定より先に、下位にある国防方針や軍備の整備計画そして作戦計画の大綱を策定しようと提案したのである。まさに本末転倒の提案であったが、海軍にとって、国防方針第二部の所要兵力すなわち「軍備の整備計画」こそが全てであり、国策への配慮などは二義的、つまり「国益より省益」というセクショナリズムそのものの思考といえた」(『近代日本の軍事戦略概史』)

 石原は二月頃にはすでに海軍との調整をあきらめており、陸軍独自で国防国策大綱(後掲)を推進することとなった。なお、石原は六月に参謀本部の改編をおこなっているが、このとき設立された戦争指導課は自らの構想を推進するための中枢組織となった(石原の作戦部長辞任後、戦争指導班に格下げ)。

 同時に、海軍は支那事変勃発の前後において露骨な南進への欲求を見せはじめていた。支那事変前年の北海事件(南支にある北海で邦人一名が暴徒に殺害された事件)と、その後起こった諸事件に際しては、海軍は全面戦争をも辞さない強硬態度を見せており、陸軍が協力を断ったために対支作戦は実行されなかったが、支那事変は海軍主導のもとに一年早くはじまっていた可能性もあったのである。しかし、このとき海軍は、対日テロとまったく無関係、かつかねてから南進の基地として目をつけていた海南島の占領を視野に入れるなど、実は対支作戦を将来の対英米戦準備の一段階として位置づけていたのであり、対支問題など二の次でしかなかったのである。そして海南島へは支那事変勃発後に強引に進出、太平洋上の満洲事変と呼ばれた(相澤前掲書)。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献