牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二

 さて、風見は盧溝橋事件発生当時の国内の様子を次のように回想している。

「ことに、ひそかに心配したのは、むこう見ずの強硬論がもちあがることであった。そのころは、一般国民のあいだにも、はたまた政界にあっても、中国をあまく見くびるという気風がみなぎっていた。一方、前年来、中国における抗日の勢い、すこぶるはげしく、それがため日本同胞にしてその犠牲となり、殺害された者もあったという事件に刺激されて、ひとつ、中国をとっちめてやるがいいといったような考えをいだく者も、すくなくなかった。また財界方面でも、中国市場を顧客とする製造業者や貿易業者の方面では、抗日気勢にあおられた排日貨運動に、ひどく手こずっていたおりもおりとて、ひとたたき、たたいてみせて、へたばらせるほうがいいかも知れぬとして、日本が、ことごとに強硬態度に出ることを希望しているものも、すくなくなかった」(風見前掲書)

 事実、盧溝橋事件が起こると、事件発生からまだ間のない七月一二日には早くも、日本経済連盟会と日本工業倶楽部は共同で「今次の北支事変に対して帝国政府の執りたる措置は万やむを得ざる自衛的行動と認め両団体はここに緊急理事会を開催し政府を支援することを決議す」と表明している(坂本雅子「「財界」に戦争責任はなかったか」『日本近代史の虚像と実像』3)。また、日本各地の商工会議所などの経済人から支那駐屯軍司令官にあてて激励の電報が届き、その内容は申し合わせたように「積極的に支那を討て」というものであったといい(池田前掲書)、高松宮も「財界の人も、海軍が早く立ち上つたら支那浙江財閥は大打撃をうけるだらうから、早く立つ姿勢を示して脅威すべしと進言する人もある」(『高松宮日記』第二巻)と日記に書いている。真偽は不明であるが、浅原健三によれば、盧溝橋事件後に石原は近衛と極秘会談をおこない同事件の平和的解決を直談判したというが、その内容を武藤章にリークして大騒ぎにさせた人物がおり、それは新興財閥である石原産業の石原広一郎だったとしている(桐山前掲書)。

 堀場一雄は次のように指摘している。

「軍需生産に当る企業家も、支那事変が短期に終息するのでは、拡張施設に投資するのを躊躇せざるを得ないので、心ひそかに拡大長期化するのを念願していた者もないとは保証し得ないのであった。

 これらが輿論を作り出し、対支膺懲の国論を盛り上げ、政府も、国論や政党の動向に迎合し、勢い強い声明を発し、和平条件にも過酷の要求を中国側に強いるという結果になる傾向もないでもなかった」(『陸軍部』)

 たしかに一〇月一日に首・外・陸・海四相で決められた「支那事變對處要綱」においては、戦局の拡大につれて増大する「国民の戦果に対する期待」を満足させるために賠償や合弁会社設立などの利権を要求することが考慮されているし(『陸軍作戦』)、広田は新和平条件をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えるにあたって、「中国政府が受け入れるとはとても思えない」と難色を示す同大使に対し、「軍事情勢の変化と世論の圧力があるので、これ以外にありえない」と反論している(服部龍二広田弘毅』)。このときディルクセンは本国に「日本内閣の主要閣僚たちは、野戦軍と産業界との圧力の下で、これらの原則をあまりに穏和過ぎると考えており、蔣介石に対する全滅をめざす戦いを遂行出来るように、中国がこれらの原則を拒否することを望んでいる」旨を秘密の情報源から知り得たと報告している(三宅前掲書。テオ・ゾンマー『ナチスドイツと軍国日本』ではこれを広田の談話としている)。なお、前出の稲田正純によれば、梅津美治郎陸軍次官も賠償金の要求を主張していたが、彼は主戦論者というわけではなく、その理由は在支居留民がひどい目にあっており、賠償金を取らなければ戦後の処理ができないということにあったようである(中村前掲書)。陸軍とて世論を無視するわけにはいかなかったのである。

 さらに、政府が和平交渉の打ち切りを急いだ理由については、以下のような見解がある。

「広田外相があの時どうしてあのように強気に交渉打切の態度に出たか一寸考えられないことで、もつと粘つてもよかつたのではないかと思うが、その理由として一つ考えられることは、一月二十日から議会が再開されるので、議会では必らず論議に上るこの和平問題を議会対策としてその再開前に早く結論を出して置こうと考えたのではなかろうか。それに内閣書記官長の風見章氏も記者的性格の持主で構想をまとめることの上手な人で、支那の新興勢力と手を組むとの一つの夢を議会で打出そうとしたのではなかつたかとも推測している」(『木戸幸一日記』東京裁判期)

 多田駿も手記に次のように記している。

「政府ガ強硬ナリシハ近々議會ガ開カレ其ノ對策ノ爲ナリシナラン。・・・政府ハ支那ヲ輕ク見、又滿洲國ノ外形丈ヲ見テ樂觀シ爲ナランカ」(多田前掲手記)

堀場一雄も同じように見ていた。

「而して〔交渉打ち切り期限と定めた〕一月十五日とは何ぞや。急進論の燃焼の外、政府は一月二十日よりの議会開始を基準となしあり。国家の運命を決する大事を議会対策の便宜より割出す。本末顚倒も甚しきものなり」(堀場前掲書)

 すなわち、当時の政府の思惑については次のような説明ができるだろう。

「政府は中国側の回答に「誠意」なしとして和平工作を打ち切ったが、和平工作を試みたこと自体に対して議会内の強硬派から批判・非難を向けられるおそれがあった。政府声明の発表には、そうした批判や非難の矛先をかわす、あるいは少なくともそれを鈍らせるというねらいが込められていたのではないかと思われる」(戸部前掲書)

 そうであれば「議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。逆に言うと、議会と世論が弱ければ和平工作は成功していたかもしれないというのが実相なのであった」(筒井『近衛文麿』)という見方もできる。

 ここまで見たように、近衛内閣のポピュリズム的性格がトラウトマン工作に及ぼした影響はかなり大きかったといえよう。しかし、「そもそも世論をたきつけたのは近衛内閣にほかならず、その世論が内閣に跳ね返ってきたのである」(服部前掲書)。今度はそれに迎合する形で対支態度を硬化させ、最終的に蔣政権を否認してしまったのであるから、あまりに拙劣な対応であったと評するほかない。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献