牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

主要参考文献

石原莞爾『戦争史大観』(中央公論新社、一九九三年)

石原莞爾『最終戦争論』(中央公論新社、一九九三年)

角田順編『石原莞爾資料──国防論策篇』(原書房、一九九四年)

角田順編『石原莞爾資料──戦争史論』(原書房、一九九四年)

玉井禮一郎編『石原莞爾選集』1~10(たまいらぼ、一九八五年~一九八六年)

西郷鋼作(田村眞作)『石原莞爾』(橘書店、一九三七年)

田村眞作『愚かなる戦争』(創元社、一九五〇年)

保坂富士夫編『石原莞爾研究』(精華會中央事務所、一九五〇年)

山口重次『悲劇の將軍 石原莞爾』(世界社、一九五二年)

山口重次『満洲建国への遺書 第一部』(大湊書房、一九八〇年)

秦郁彦「評伝・石原莞爾」『軍ファシズム運動史』(原書房、一九六二年)

藤本治毅『石原莞爾』(時事通信社、一九六四年)

横山臣平『秘録石原莞爾』(芙蓉書房、一九七一年)

白土みどり『最終戦争時代論』(邦文社、一九七一年)

松沢哲成石原莞爾と世界最終戦論」一、二『社會科學研究』第22巻第3、4号(東京大学社会科学研究所、一九七一年)

五百旗頭真石原莞爾における支那観の形成」1『政経論叢』第21巻第5,6号(広島大学政経学会、一九七二年)

五百旗頭真「東亜聯盟論の基本的性格」『アジア研究』第22巻第1号(アジア政経学会、一九七五年)

成澤米三『人間・石原莞爾』(経済往来社、一九七七年)

今岡豊『石原莞爾の悲劇』(芙蓉書房、一九八一年)

杉森久英『夕陽将軍』(河出書房新社、一九八一年)

石原莞爾全集刊行会編『資料で綴る石原莞爾』(大湊書房、一九八四年)

小林英夫『昭和ファシストの群像』(校倉書房、一九八四年)

高木清寿『東亜の父 石原莞爾』(たまいらぼ、一九八五年)

入江辰雄『石原莞爾』(たまいらぼ、一九八五年)

石原莞爾生誕百年祭実行委員会編『永久平和への道』(原書房、一九八八年)

佐治芳彦『石原莞爾』上・下(日本文芸社、一九八八年)

仲條立一・菅原一彪編『石原莞爾のすべて』(新人物往来社、一九八九年)

小松茂朗『陸軍の異端児 石原莞爾』(光人社、一九九一年)

野村乙二朗『石原莞爾』(同成社、一九九二年)

野村乙二朗『毅然たる孤独 石原莞爾の肖像』(同成社、二〇一二年)

マーク・R・ピーティ著・大塚健洋・関静雄・大塚優子・D・アスキュー訳『「日米対決」と石原莞爾』(たまいらぼ、一九九二年)

青江舜二郎『石原莞爾』(中央公論社、一九九二年)

花輪莞爾『石原莞爾独走す』(新潮社、二〇〇〇年)

福田和也『地ひらく』上・下(文藝春秋、二〇〇四年)

石津朋之「総力戦、モダニズム、日米最終戦争」『日米戦略思想の系譜』(防衛庁防衛研究所、二〇〇四年)

阿部博行『石原莞爾──生涯とその時代』上・下(法政大学出版局、二〇〇五年)

戦略研究学会・中山隆志編『戦略論大系』(10)石原莞爾(芙蓉書房出版、二〇〇七年)

田中秀雄『石原莞爾と小澤開作』(芙蓉書房出版、二〇〇八年)

福井雄三『板垣征四郎石原莞爾』(PHP研究所、二〇〇九年)

早瀬利之『石原莞爾 国家改造計画』(光人社、二〇一〇年)

早瀬利之『参謀本部作戦部長 石原莞爾』(潮書房光人社、二〇一五年)

伊勢弘志『石原莞爾の変節と満州事変の錯誤』(芙蓉書房出版、二〇一五年)

川田稔『石原莞爾の世界戦略構想』(祥伝社、二〇一六年)

小林英夫『「日本株式会社」を創った男』(小学館、一九九五年)

小林英夫『超官僚』(徳間書店、一九九五年)

小林英夫・岡崎哲二米倉誠一郎NHK取材班『「日本株式会社」の昭和史』(創元社、一九九五年)

桐山桂一『反逆の獅子』(角川書店、二〇〇三年)

 

防衛庁防衛研修所戦史室『大本營陸軍部』1(朝雲新聞社、一九六七年)

防衛庁防衛研修所戦史部『支那事変陸軍作戦』1(朝雲新聞社、一九七五年)

日本国際政治学会『太平洋戦争への道』3、4、資料編(朝日新聞社、一九六二年、一九六三年、一九八八年)

『現代史資料』8、9、10、12、13(みすず書房、一九六四年~一九六六年)

秦郁彦日中戦争史』(河出書房新社、一九六一年)

児島襄『日中戦争』1、2、3巻(文藝春秋、一九八四年)

古屋哲夫『日中戦争』(岩波書店、一九八五年)

臼井勝美『新版 日中戦争』(中央公論新社、二〇〇〇年)

大杉一雄日中戦争への道』(講談社、二〇〇七年)

大杉一雄『日米開戦への道』上・下(講談社、二〇〇八年)

小林英夫『日中戦争』(講談社、二〇〇七年)

加藤陽子満州事変から日中戦争へ』(岩波書店、二〇〇七年)

北村稔・林思雲『日中戦争』(PHP研究所、二〇〇八年)

北村稔『「南京事件」の探究』(文藝春秋、二〇〇一年)

日本国際政治学会編『日中戦争と国際的対応』(日本国際政治学会、一九七二年)

森松俊夫「昭和十二年における南支上陸作戦の頓挫」『政治経済史学』155(日本政治経済史学研究所、一九七九年)

森松俊夫「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」『政治経済史学』168(日本政治経済史学研究所、一九八〇年)

北博昭『日中開戦』(中央公論社、一九九四年)

松浦正孝『日中戦争期における経済と政治』(東京大学出版会、一九九五年)

軍事史学会編『日中戦争の諸相』(錦正社、一九九七年)

波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾大学出版会、二〇〇六年)

荒川憲一「日本の対中経済封鎖とその効果(一九三七~四一)」『軍事史学』通巻171・172合併号(錦正社、二〇〇八年)

阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ』(小学館、二〇〇八年)

『歴史通──「日中戦争」は侵略ではない!』(ワック、二〇一一年三月号)

瀬戸利春「第二次上海事変」『歴史群像』(学研パブリッシング、二〇一三年一二月号)

江口圭一『盧溝橋事件』(岩波書店、一九八八年)

安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、一九九三年)

秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、一九九六年)

秦郁彦解説「元盧溝橋守大隊長金振中回想」『中央公論』(中央公論社、一九八七年一二月号)

劉傑「電文にみる盧溝橋事件─北京日本大使館の十日間」『中央公論』(中央公論新社、一九九九年九月号)

三宅正樹『日独伊三国同盟の研究』(南窓社、一九七五年)

三宅正樹編『昭和史の軍部と政治』2(第一法規出版株式会社、一九八三年)

ゲルハルト・クレープス「参謀本部和平工作 一九三七~三八」『日本歴史』通号411(吉川弘文館、一九八二年)

高田万亀子「トラウトマン工作参謀本部和平派」『政治経済史学』246(日本政治経済史学研究所、一九八六年)

近代外交史研究会編『変動期の日本外交と軍事』(原書房、一九八七年)

戸部良一『ピース・フィーラー』(論創社、一九九一年)

劉傑『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、一九九五年)

 

堀場一雄『支那事変戦争指導史』(原書房、一九七三年)

芦澤紀之『ある作戦参謀の悲劇』(芙蓉書房、一九七四年)

河邊虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二年)

「多田駿手記」『軍事史学』通巻94号(錦正社、一九八八年)

岩井秀一郎『多田駿伝』(小学館、二〇一七年)

武藤章著・上法快男編『軍務局長 武藤章回想録』(芙蓉書房、一九八一年)

井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』(芙蓉書房、一九七八年)

佐藤賢了『大東亞戰爭回顧録』(徳間書店、一九六六年)

角田房子『いっさい夢にござ候』(中央公論新社、一九七五年)

今井武夫『支那事変の回想』(みすず書房、一九六四年)

池田純久『日本の曲り角』(千城出版、一九六八年)

寺平忠輔『盧溝橋事件』(読売新聞社、一九七〇年)

岡田酉次『日中戦争裏方記』(東洋経済新報社、一九七四年)

塚本誠『ある情報将校の記録』(芙蓉書房、一九七九年)

松井石根大将陣中日記」南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』2(偕行社、一九九三年)

早坂隆『松井石根南京事件の真実』(文藝春秋、二〇一一年)

古川隆久鈴木淳・劉傑編『第百一師団長日誌』(中央公論新社、二〇〇七年)

三好捷三『上海敵前上陸』(図書出版社、一九七九年)

日比野士朗『呉淞クリーク野戦病院』(中央公論新社、二〇〇〇年)

今村均今村均回顧録』(芙蓉書房出版、一九七〇年)

飯村穣『続兵術随想』(日刊労働通信社、一九七〇年)

永田鉄山刊行会編『秘録永田鉄山』(芙蓉書房、一九七二年)

川田稔『浜口雄幸永田鉄山』(講談社、二〇〇九年)

森靖夫『永田鉄山』(ミネルヴァ書房、二〇一一年)

早坂隆『永田鉄山』(文藝春秋、二〇一五年)

大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六年)

「陸軍 畑俊六日誌」『続・現代史資料』4(みすず書房、一九八三年)

杉田一次『日本の政戦略と教訓』(原書房、一九八三年)

田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(中央公論社、一九八八年)

田中隆吉『敗因を衝く』(中央公論社、一九八八年)

荒木貞夫日記」「続荒木貞夫日記」『中央公論』(中央公論社、一九九一年三月号、四月号)

西浦進『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(日本経済新聞出版社、二〇一三年)

田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社、二〇一四年)

岩畔豪雄『昭和陸軍 謀略秘史』(日本経済新聞出版社、二〇一五年)

中村菊男『昭和陸軍秘史』(番町書房、一九六八年)

読売新聞社編『昭和史の天皇』15、16(読売新聞社、一九七一年)

森松俊夫『軍人たちの昭和史』(図書出版社、一九八九年)

野中郁次郎編『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』(ダイヤモンド社、二〇一二年)

 

高橋正衛『昭和の軍閥』(中央公論社、一九六九年)

高宮太平『昭和の将帥』(図書出版社、一九七三年)

高宮太平『軍国太平記』(中央公論新社、二〇一〇年)

上法快男編『陸軍大学校』(芙蓉書房、一九七三年)

波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』(朝日新聞社、一九九一年)

三根生久大『陸軍参謀』(文藝春秋、一九九二年)

酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊』(東京大学出版会、一九九二年)

井上寿一『危機のなかの協調外交』(山川出版社、一九九四年)

戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』(中央公論社、一九九八年)

戸部良一日本陸軍と中国』(講談社、一九九九年)

伊藤正徳軍閥興亡史』1、2、3巻(光人社、一九九八年)

黒野耐『日本を滅ぼした国防方針』(文藝春秋、二〇〇二年)

黒野耐参謀本部陸軍大学校』(講談社、二〇〇四年)

黒野耐帝国陸軍の〈改革と抵抗〉』(講談社、二〇〇六年)

黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、二〇〇三年)

筒井清忠二・二六事件とその時代』(筑摩書房、二〇〇六年)

筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店、二〇〇七年)

川田稔『昭和陸軍の軌跡』(中央公論新社、二〇一一年)

川田稔『昭和陸軍全史』1、2、3(講談社、二〇一四年~二〇一五年)

北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(筑摩書房、二〇一二年)

片山杜秀『未完のファシズム』(新潮社、二〇一二年)

宮田昌明『英米世界秩序と東アジアにおける日本』(錦正社、二〇一四年)

 

防衛庁防衛研修所戦史室『中國方面海軍作戦』1(朝雲新聞社、一九七四年)

防衛庁防衛研修所戦史室『大本營海軍部・聯合艦隊』1(朝雲新聞社、一九七五年)

野村實「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史學』第56巻第4号(三田史学会、一九八七年)

野村實『山本五十六再考』(中央公論社、一九九六年)

野村實『日本海軍の歴史』(吉川弘文館、二〇〇二年)

池田清『海軍と日本』(中央公論社、一九八一年)

須藤眞志『日米開戦外交の研究』(慶應通信株式会社、一九八六年)

影山好一郎「大山事件の一考察」『軍事史学』通巻127号(錦正社、一九九六年)

相澤淳『海軍の選択』(中央公論新社、二〇〇二年)

歴史読本──大日本帝国海軍全史』(新人物往来社、二〇一〇年九月号)

歴史読本』編集部編『日米開戦と山本五十六』(新人物往来社、二〇一一年)

NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言──軍令部・参謀たちが語った敗戦』(新潮社、二〇一一年)

森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』(新潮社、二〇一二年)

手嶋泰伸日本海軍と政治』(講談社、二〇一五年)

笠原十九司『海軍の日中戦争』(平凡社、二〇一五年)

高木惣吉写・実松譲編『海軍大将米内光政覚書』(光人社、一九七八年)

緒方竹虎『一軍人の生涯』(光和堂、一九八三年)

阿川弘之『米内光政』(新潮社、一九八二年)

高田万亀子『静かなる楯 米内光政』上・下(原書房、一九九〇年)

実松譲『米内光政』(光人社、一九九三年)

生出寿『米内光政』(徳間書店、一九九三年)

杉本健『海軍の昭和史』(光人社、一九九九年)

福留繁『海軍生活四十年』(時事通信社、一九七一年)

実松譲『海軍大学教育』(光人社、一九七五年)

高松宮宣仁親王高松宮日記』第二巻(中央公論社、一九九五年)

中村菊男『昭和海軍秘史』(番町書房、一九六九年)

森松俊夫『大本営』(教育社、一九八〇年)

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、二〇〇五年)

 

近衛文麿『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六年)

近衛文麿『失はれし政治』(朝日新聞社、一九四六年)

矢部貞治『近衛文麿』上・下(弘文堂、一九五二年)

岡義武『近衛文麿』(岩波書店、一九七二年)

杉森久英近衛文麿』(河出書房新社、一九八七年)

筒井清忠近衛文麿』(岩波書店、二〇〇九年)

古川隆久近衛文麿』(吉川弘文館、二〇一五年)

庄司潤一郎「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」『新防衛論集』通巻59号(朝雲新聞社、一九八八年)

小川平吉関係文書研究会編『小川平吉関係文書』1(みすず書房、一九七三年)

風見章『近衛内閣』(中央公論社、一九八二年)

風見章著・北河賢三・望月雅士・鬼嶋淳編『風見章日記・関係資料 1936─1947』(みすず書房、二〇〇八年)

広田弘毅伝記刊行会『広田弘毅』(葦書房、一九九二年)

城山三郎『落日燃ゆ』(新潮社、一九八六年)

服部龍二広田弘毅』(中央公論新社、二〇〇八年)

服部龍二NHKさかのぼり日本史』外交篇[2]昭和“外交敗戦”の教訓(NHK出版、二〇一二年)

石射猪太郎『外交官の一生』(中央公論社、一九八六年)

石射猪太郎著・伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』(中央公論社、一九九三年)

上村伸一『日本外交史』19、20(鹿島研究所出版会、一九七一年)

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波書店、一九五〇年)

幣原喜重郎『外交五十年』(中央公論新社、一九八七年)

東郷茂徳『時代の一面』(中央公論社、一九八九年)

重光葵『昭和の動乱』上(中央公論新社、二〇〇一年)

重光葵『外交回想録』(中央公論新社、二〇一一年)

岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP研究所、二〇〇三年)

臼井勝美『日中外交史研究─昭和前期─』(吉川弘文館、一九九八年)

木戸幸一著・木戸日記研究会編『木戸幸一日記』上・下(東京大学出版会、一九六六年)

木戸幸一著・木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』(東京大学出版会、一九六六年)

木戸幸一著・木戸日記研究会編『木戸幸一日記』東京裁判期(東京大学出版会、一九八〇年)

有馬頼寧著・尚友倶楽部・伊藤隆編『有馬頼寧日記』3、4(山川出版社、二〇〇〇年、二〇〇一年)

宇垣一成著・角田順編『宇垣一成日記』2(みすず書房、一九七〇年)

牧野伸顕著・伊藤隆・広瀬順晧編『牧野伸顕日記』(中央公論社、一九九〇年)

西園寺公一『貴族の退場』(文藝春秋新社、一九五一年)

西園寺公一西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』(アイペックプレス、一九九一年)

西園寺公一に対する検事訊問調書」「西園寺公一に対する予審訊問調書」『現代史資料』3(みすず書房、一九六二年)

小山完吾『小山完吾日記』(慶應通信、一九五五年)

犬養健揚子江は今も流れている』(文藝春秋新社、一九六〇年)

矢次一夫『昭和動乱私史』上(経済往来社、一九七一年)

尾崎秀実『尾崎秀実著作集』第二巻(勁草書房、一九七七年)

勝田龍夫重臣たちの昭和史』上・下(文藝春秋、一九八四年)

高宮太平天皇陛下』(酣燈社、一九五一年)

児島襄『天皇』3(文藝春秋、一九八一年)

小堀桂一郎昭和天皇』(PHP研究所、一九九九年)

山田朗昭和天皇の軍事思想と戦略』(校倉書房、二〇〇二年)

古川隆久昭和天皇』(中央公論新社、二〇一一年)

伊藤之雄昭和天皇伝』(文藝春秋、二〇一四年)

寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編『昭和天皇独白録』(文藝春秋、一九九五年)

「小倉庫次侍従日記」『文藝春秋』(二〇〇七年四月号)

昭和天皇実録』第七(東京書籍、二〇一六年)

原田熊雄述『西園寺公と政局』六、七、八巻(岩波書店、一九五一年~一九五二年)

外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、一九六六年)

 

蔣介石著・波多野乾一訳『中國の命運』(日本評論社、一九四六年)

蔣介石著・寺島正訳『中国のなかのソ連』(時事通信社、一九六二年)

董顕光著・寺島正・奥野正巳訳『蔣介石』(日本外政学会、一九五五年)

サンケイ新聞社『蔣介石秘録』10、11、12(サンケイ出版、一九七六年)

家近亮子『中国近代政治史年表』(晃洋書房、一九九三年)

家近亮子『蔣介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、二〇〇二年)

家近亮子「1937年12月の蔣介石」『近代中国研究彙報』第30号(東洋文庫、二〇〇八年)

家近亮子『蔣介石の外交戦略と日中戦争』(岩波書店、二〇一二年)

小野田摂子「蒋介石政権とドイツ和平調停」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ『政治経済史学』354(日本政治経済史学研究所、一九九五~一九九六年)

小野田摂子「駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作の中国側史料としての『極密徳国調停案』:解説と全訳」三宅正樹編『ベルリン・ウィーン・東京』(論創社、一九九九年)

黄仁宇著・北村稔・永井英美・細井和彦訳『蔣介石』(東方書店、一九九七年)

服部龍二「盧溝橋事件における国民政府外交部と冀察政務委員会」『人文研紀要』第51号(中央大学人文科学研究所、二〇〇四年)

笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』(中央大学出版部、二〇〇五年)

馮青「蔣介石の日中戦争期和平交渉への認識と対応」『軍事史学』通巻180号(錦正社、二〇一〇年)

岩谷將「1930年代半ばにおける中国の国内情勢判断と対日戦略」『戦史研究年報』第13号(防衛省防衛研究所、二〇一〇年)

岩谷將「日中戦争初期における中国の対日方針」劉傑・川島真編『対立と共存の歴史認識』(東京大学出版会、二〇一三年)

黄自進『蒋介石と日本』(武田ランダムハウスジャパン、二〇一一年)

山田辰雄・松重充浩編『蔣介石研究』(東方書店、二〇一三年)

鹿錫俊『蔣介石の「国際的解決」戦略:1937─1941』(東方書店、二〇一六年)

張群著・古屋奎二訳『日華・風雲の七十年』(サンケイ出版、一九八〇年)

蔣緯國著・藤井彰治訳『抗日戦争八年』(早稲田出版、一九八八年)

陳立夫著・松田州二訳『成敗之鑑』上・下(原書房、一九九七年)

保阪正康『昭和陸軍の研究』上(朝日新聞社、二〇〇六年)

保阪正康『蔣介石』(文藝春秋、一九九九年)

馮玉祥著・牧田英二訳『我が義弟 蔣介石』(長崎出版、一九七六年)

NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』(角川書店、一九九一年)

山口一郎『近代中国対日観の研究』(アジア経済研究所、一九七〇年)

石島紀之『中国抗日戦争史』(青木書店、一九八四年)

横山宏章『中華民国』(中央公論社、一九九七年)

今井駿『中国革命と対日抗戦』(汲古書院、一九九七年)

深堀道義『中国の対日政戦略』(原書房、一九九七年)

菊池一隆『中国抗日軍事史 1937─1945』(有志舎、二〇〇九年)

K・カール・カワカミ著・福井雄三訳『シナ大陸の真相』(展転社、二〇〇一年)

ラルフ・タウンゼント著・田中秀雄・先田賢紀智訳『暗黒大陸 中国の真実』(芙蓉書房出版、二〇〇四年)

フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著・田中秀雄訳『中国の戦争宣伝の内幕』(芙蓉書房出版、二〇〇九年)

黄文雄『蔣介石神話の嘘』(明成社、二〇〇八年)

松本重治『上海時代』上・中・下(中央公論社、一九七四年~一九七五年)

松本重治『昭和史への一証言』(毎日新聞社、一九八六年)

榎本泰子『上海』(中央公論新社、二〇〇九年)

市古宙三『世界の歴史20 中国の近代』(河出書房新社、一九九〇年)

宮脇淳子著・岡田英弘監修『真実の中国史』(李白社、二〇一一年)

毛沢東著・小野信爾・藤田敬一・吉田富夫訳『抗日遊撃戦争論』(中央公論新社、二〇〇一年)

ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著・土屋京子訳『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上・下(講談社、二〇〇五年)

遠藤誉『毛沢東』(新潮社、二〇一五年)

日本国際問題研究所中国部会編『中国共産党史資料集』8、9(勁草書房、一九七四年)

謝幼田著・坂井臣之助訳『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』(草思社、二〇〇六年)

エドガー・スノー著・小野田耕三郎・都留信夫訳『中共雑記』(未来社、一九六四年)

エドガー・スノー著・松岡洋子訳『中国の赤い星』(筑摩書房、一九七二年)

エドガー・スノー著・森谷巌訳『アジアの戦争』(筑摩書房、一九七三年)

ジョン・B・パウエル著・中山理訳・渡部昇一監修『「在支二十五年」米国人記者が見た戦前のシナと日本』上・下(祥伝社、二〇〇八年)

『別冊正論Extra.15──中国共産党 野望と謀略の90年』(産経新聞社、二〇一一年)

ボリス・スラヴィンスキー、ドミートリー・スラヴィンスキー著・加藤幸廣訳『中国革命とソ連』(共同通信社、二〇〇二年)

横手慎二『スターリン』(中央公論新社、二〇一四年)

テオ・ゾンマー著・金森誠也訳『ナチスドイツと軍国日本』(時事通信社、一九六四年)

田嶋信雄『ナチズム極東戦略』(講談社、一九九七年)

ベルント・マーチン著・進藤裕之訳「日中戦争期の中国におけるドイツ軍事顧問」『戦史研究年報』第4号(防衛研究所、二〇〇一年)

三宅正樹・石津朋之・新谷卓・中島浩貴編『ドイツ史と戦争』(彩流社、二〇一一年)

ジョセフ・C・グルー『滞日十年』上(毎日新聞社、一九四八年)

吉田一彦『シエンノートとフライング・タイガース』(徳間書店、一九九一年)

細谷千博『日米関係通史』(東京大学出版会、一九九五年)

バーバラ・W・タックマン著・杉辺利英訳『失敗したアメリカの中国政策』(朝日新聞社、一九九六年)

アルバート・C・ウェデマイヤー著・妹尾作太男訳『第二次大戦に勝者なし』上・下(講談社、一九九七年)

 

菅原裕『東京裁判の正体』(国書刊行会、一九六一年)

児島襄『東京裁判』上・下(中央公論新社、一九七一年)

田岡良一『国際法Ⅲ〔新版〕』(有斐閣、一九七三年)

田岡良一『国際法上の自衛権』補訂版(勁草書房、一九八一年)

大沼保昭『戦争責任論序説』(東京大学出版会、一九七五年)

東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書』上・下(講談社、一九八四年)

田中正明『パール判事の日本無罪論』(小学館、二〇〇一年)

佐藤和男『憲法九条・侵略戦争東京裁判』(原書房、一九八五年)

佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』(明成社、二〇〇五年)

清瀬一郎『秘録 東京裁判』(中央公論社、一九八六年)

安田寛・西岡朗・宮沢浩一・井田良・大場昭・小林宏晨『自衛権再考』(知識社、一九八七年)

細谷千博・安藤仁介・大沼保昭編『東京裁判を問う』(講談社、一九八九年)

色摩力夫国際連合という神話』(PHP研究所、二〇〇一年)

小堀桂一郎東京裁判 日本の弁明』(講談社、一九九五年)

花山信勝巣鴨の生と死』(中央公論社、一九九五年)

リチャード・H・マイニア著・安藤仁介訳『東京裁判 勝者の裁き』(福村出版、一九九八年)

日暮吉延『東京裁判』(講談社、二〇〇八年)

牛村圭・日暮吉延『東京裁判を正しく読む』(文藝春秋、二〇〇八年)

B・V・A・レーリンク著・A・カッセーゼ編・小菅信子訳『東京裁判とその後』(中央公論新社、二〇〇九年)

大岡優一郎東京裁判 フランス人判事の無罪論』(文藝春秋、二〇一二年)

伊藤隆「北岡君の「オウンゴール発言」を叱る」『歴史通』(ワック、二〇一五年五月号)

宮田昌明「まるでパブロフの犬 満洲と言えば侵略」『歴史通』(ワック、二〇一五年一一月号)

福井義高「不戦条約と満州事変の考察」(1)~(6)『正論』(産経新聞社、二〇一五年一二月号~二〇一六年五月号)

倉山満『国際法で読み解く世界史の真実』(PHP研究所、二〇一六年)

 

伊藤隆『日本の歴史30 十五年戦争』(小学館、一九七六年)

伊藤隆『昭和期の政治』(山川出版社、一九八三年)

伊藤隆『昭和期の政治』続(山川出版社、一九九三年)

伊藤隆『昭和史をさぐる』(朝日新聞社、一九九二年)

伊藤隆『日本の内と外』(中央公論新社、二〇〇一年)

藤原彰今井清一・宇野俊一・粟屋憲太郎編『日本近代史の虚像と実像』3(大月書店、一九八九年)

中村粲大東亜戦争への道』(展転社、一九九〇年)

江口圭一『十五年戦争小史』新版(青木書店、一九九一年)

中村隆英『昭和史』Ⅰ(東洋経済新報社、一九九三年)

有沢広巳監修『昭和経済史』上(日本経済新聞社、一九九四年)

猪木正道『軍国日本の興亡』(中央公論社、一九九五年)

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮社、一九九六年)

鳥海靖編『近代日本の転機』明治・大正編、昭和・平成編(吉川弘文館、二〇〇七年)

有馬学『日本の歴史23 帝国の昭和』(講談社、二〇一〇年)

筒井清忠編『昭和史講義』1、2(筑摩書房、二〇一五年、二〇一六年)

臼井勝美『満州事変』(中央公論新社、一九七四年)

緒方貞子満州事変』(岩波書店、二〇一一年)

ジョン・V・A・マクマリー原著・アーサー・ウォルドロン編著・北岡伸一監訳・衣川宏訳『平和はいかに失われたか』(原書房、一九九七年)

服部龍二編著『満州事変と重光駐華公使報告書』(日本図書センター、二〇〇二年)

筒井清忠満州事変はなぜ起きたのか』(中央公論新社、二〇一五年)

朝日新聞縮刷版』昭和12年6月~昭和13年2月(日本図書センター、一九九八年)

前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(講談社、二〇〇七年)

井上寿一日中戦争下の日本』(講談社、二〇〇七年)

NHKスペシャル取材班編著『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』メディアと民衆・指導者編(新潮社、二〇一五年)

小室直樹大東亜戦争 ここに甦る』(クレスト社、一九九五年)

黒野耐『「たられば」の日本戦争史』(講談社、二〇一一年)

倉山満『大間違いの太平洋戦争』(KKベストセラーズ、二〇一四年)

倉山満『負けるはずがなかった!大東亜戦争』(アスペクト、二〇一四年)

平間洋一『日英同盟』(KADOKAWA、二〇一五年)

福井義高『日本人が知らない 最先端の「世界史」』(祥伝社、二〇一六年)

江崎道朗『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』(祥伝社、二〇一六年)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

おわりに

 本論では、北支事変ならびに支那事変初期における石原の言動を検証したが、同時に国内外の情勢についても多くの記述を割いた。彼の言動と、その背景にある認識や思想を評価するためには、それを把握しておくことが必要不可欠と考えたためである。

 内外情勢のうち、もっとも重要なのは蔣介石の意思であるが、二〇〇六年から「蔣介石日記」の公開がはじまり、近年それを利用した研究書や論文が次々に発表されたことで徐々に明らかになってきた。従来、蔣介石がいつ対日開戦を決意したかについて議論があったが、彼は盧溝橋事件後に強硬態度を見せたものの、内心では和平解決を望んでおり、七月末の支那駐屯軍による総攻撃を受けて開戦の決意を固めざるを得なかったというのが真相であった。そして支那事変における蔣介石の一貫した目標は国際的な対日干渉を引き起こすことであり、そのためには長期戦に訴えることも計画していた。したがって国際都市である上海での戦いを重視するとともに、すでに大陸奥地の開発にも取りかかっており、上海や南京を占領するだけでは彼を屈伏させることはできなかったのである。

 一方、日本国内に目を移せば、軍人や政治家は持久戦争(敵を武力だけで屈伏させることが困難な戦争)を戦い抜くための教育を受けておらず、また、彼らの認識では武力による一撃を加えるだけで蔣介石を簡単に屈伏させることができるというのであって、そもそも持久戦争を戦っているとの自覚すらなかった。したがって南京攻略後にトラウトマン工作を成功させ、戦争を止めておけばよかったというのは理想だが、南京の陥落は蔣介石政権は一地方政権に転落したも同然という錯覚をもたらし、そのため和平交渉の成功を願う者は極めて少数派であって、外交による解決などとても望めなかったのが当時の実情だったのである。

 支那事変初期における石原の対応を論じるとき、最低でもこれらの事実を把握しておかなければ空論のそしりを免れないであろう。以上を踏まえて石原が上海出兵に反対したことを批評するならば、蔣介石の戦略をかなりの程度正確に予想すると同時に、日本における持久戦争遂行上の不備を問題視していた石原が、上海出兵に反対したことは現実に即した妥当な判断であったと評せる。上海権益に執着したせいで、無用な戦争に巻き込まれて最終的に上海を守れていないどころか、満洲も朝鮮も台湾も何もかも失ってしまい、そのうえ本土が焼け野原になってしまっては元も子もない。その後、終戦までに浪費された莫大な戦費(『昭和経済史』上によれば約七五五八億円)や、計り知れない人的、物的被害もあわせて考えれば、上海権益などさっさと放棄したほうが良かったに決まっている。

 なお、これは後講釈や十五年戦争史観のような結果論ではない。すでに見たように、石原は支那と全面戦争になればその解決は困難で、最終的には列国との軋轢を招くことになるとその後を正確に見通し、作戦部長辞任時に日本は亡国となって海外領土をすべて失うことになるだろうと予言していたのである。「上海が危険なら居留民を全部引き揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(前掲『大東亞戰爭回顧録』)との石原の言は事実となった。上海出兵が大日本帝国破滅のポイント・オブ・ノーリターンになると判断していた石原にとって、海外の一権益ごときのために国家の運命を賭して戦をはじめるなど愚策以外の何物でもなかったのである。

 石原の判断について、戦前戦後に外相を務めた重光葵は次のように評価している。

「上海に事が起ることは、もはや上海だけに止まらず、一歩誤まれば、戦争は中支、南支に波及し、海軍の南進政策の端緒となる」のであり、そのため「支那事変が中支及びそれ以南に拡大されて行くことは、日本の戦闘力の分散であって、北方の防備を薄くする危険があるし、国防国家の十分出来上がっておらぬ今日、用兵は最小限度に止め、北支以外への出兵は、犠牲を忍んでも思い止まらねばならぬ」という石原ら参謀本部の考えこそ「統帥に責を負うものの理由ある意見であった」(『昭和の動乱』上)。

 戸部良一氏は、『文藝春秋』二〇〇八年一〇月号に掲載された「新・東京裁判──国家を破滅に導いたのは誰だ」という座談会で、上海事変の際に戦略よりも海軍の面子を優先し、難色を示す石原ら陸軍に派兵を認めさせた米内の責任を問う福田和也氏の発言を受けて、次のように述べている。

「確かに上海事変では海軍の責任が問われますね。しかし、戦争が上海に拡大したのは、蔣介石が敢えて日本を挑発したという側面も大きい。

 華北では日本側が非常に優勢でしたが、上海であれば精鋭の直系軍が使える、と蔣介石は考えたのでしょう。その上で、上海で戦端を開いて列強を巻き込み、日本側を交渉の場に引っ張りだして互角の立場で交渉しようという戦略をたてた。そうした思惑に海軍が乗せられてしまったんです」

 この両氏のように当時の歴史に通暁してはいなくとも、あの場当たり的な上海への陸軍派兵が招いた不幸な結果さえ知っていれば、それが正しかったなどとはとても言えないはずである。そういう意味では、石原の対応で問題となるのは上海事変時ではなく、やはり不拡大方針(正確には早期和平解決方針)が最も効果を発揮し得た盧溝橋事件直後の七月一〇日に、作戦課による北支への陸軍派兵案に安易に同意してしまったことだというのが、平凡ではあるが筆者の結論である。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

満洲事変は歴史上の“起点”か?

 石原については、彼が引き起こした満洲事変に根強い批判がある。それは〈石原が中央の統制に従わず満州事変を成功させたために、陸軍に独断専行と下剋上の風潮が蔓延した。そのため功名心にはやった現地軍が華北分離工作を推進し、やがて日中戦争が起こると中堅幕僚は石原に反抗してこれを拡大させ、行き着くところ太平洋戦争に日本を巻き込んだ〉という通説的理解によるものであろう。しかし、この種の歴史観に過度の単純化があることは否めない。

 たとえば従来現地軍の独断により推進されたと説明されることの多かった北支分治工作については、宮田昌明『英米世界秩序と東アジアにおける日本』が必ずしも満洲事変の連鎖反応として生じたのではないことを論証している。同書では、満洲事変後においても日本の対支政策は関東軍と現地外交官が協力する形で一定の秩序が確立されていたこと、しかしそれを破壊した北支分治工作の策動には統制派の頭目である永田鉄山の積極的な支持が存在していたことを明らかにしており、永田らの陸軍における権力掌握、換言すれば穏健な対支政策を支持していた皇道派の追い落としと、保身のためにそれに協力した政官界の誤断が北支分治工作のみならず二・二六事件を引き起こしたと論じている。永田鉄山については、往々に陸軍の統制を回復させようとした良識派との評価がなされてきたが、同書はそうした見解に厳しくも論理的な批判を加え、管見では最も説得力のある永田像を提示している。

 永田の戦略構想については川田稔『昭和陸軍全史』が詳細な分析をおこなっている。同書も北支分治工作は実際には永田ら陸軍中央の了解、または指示のもとに開始されたとの見方をしているが、永田の考えによれば次期世界大戦は不可避で、なおかつ国家総動員を必要とする消耗戦となるのであり、これを戦い抜くためには不足資源を支那大陸に求めなければならなかったのである。なお、武藤章は永田の配下で彼の強い影響を受けて北支分治工作を推進していた経緯があり、永田の死後、石原が同工作を中止させたことが盧溝橋事件後の両者の対立につながったと指摘している。

 補足しておくと、陸軍の下剋上を象徴する出来事として、武藤が不拡大方針を主張する石原に対し、あなたが満洲事変のときにおやりになったことを見習っているのです云々と反論して盧溝橋事件を拡大させたというエピソードが流布されているが、事実ではない。『今村均回顧録』に明記されているように、それは盧溝橋事件前の、しかも前年の満洲におけるエピソードなのであり、同事件が拡大したのは実際には石原自身の判断ミスによるところが大きい(本論「石原と盧溝橋事件」)。たしかに支那事変において現地軍が独断で戦線を拡大したのは事実だが、その先鞭をつけ、さらに事態の悪化を決定づけたのは近衛内閣である。支那事変初期における政策決定については本論でも検証したが、北支派兵声明の発表とその後の世論の煽動(一九三七年七月一一日~)、上海への陸軍派兵の決定(八月一三日)、トラウトマン工作における和平条件の加重(一二月)、「爾後国民政府ヲ対手トセズ」声明の発表(一九三八年一月一六日)等、政府が“暴走”してしまうことも珍しくなく、陸軍参謀本部はこれに引きずられ続けたのである。

 また、支那事変が長期化したからといってアメリカとの戦争が不可避になったわけではなかったはずである。たとえば野村實氏は、開戦前の国内情勢を分析したうえで、東条内閣であっても、海軍大臣に避戦を主張できる適切な人物が就任していればさしあたり開戦は回避され、その間にドイツの敗退がはじまり対英米戦の不可能を悟ることになったはずであると結論付けている(「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史學』第56巻第4号)。一方で、陸軍の横暴さを強調する意見が依然としてあるが、当時海軍中枢にいた嶋田繁太郎(海相)や岡敬純(軍務局長)は、陸軍側の動きが心配で政策決定に影響したことはまったくないと証言しているし、榎本重治(海軍書記官)も昭和十六年に陸軍がクーデターに出る懸念はいささかも感じられなかったと述べている(同前)。いずれにせよ対米戦に確たる勝算がない以上、海軍は一貫してその不可能を明言すべきであった。しかし、それができなかったのは日露戦争後から陸軍と予算ぶんどり合戦を繰り広げてきた結果なのである。

 そもそも「十五年戦争」なる用語があるが、満洲事変をある種の歴史の起点として扱うことは正しいのであろうか。仮にその十年前のワシントン会議によって国際協調が真に実現し、列国が権謀術数を排するとともに、中華民国が当事者能力のある政府のもと不平等条約改正を目指して地道に努力している途上に、関東軍が突然平和を破り満洲を独立させたならば、それは間違いなく一大エポックというべきだろう。しかし実態はその正反対であって、満洲事変以前、列国は国際協調関係に忠実であろうとした日本を尻目に自国利益を優先し、そのうえ支那の排外運動の標的となった日本は条約上の権利が侵害され、危害は居留民にも及んだ(『満州事変と重光駐華公使報告書』)。そしてこうした情勢が陸軍中堅幕僚グループに危機感を抱かせ、彼らの間で満蒙問題解決が合意されたことで石原や板垣征四郎関東軍に送り込まれたのである(『二・二六事件とその時代』)。一般には、たまたま関東軍にいた石原が、最終戦争論に基づいて突如として満洲事変を起こしたと理解されているようであるが、それは事実とは異なる。柳条湖事件が起こるまでには少なくとも日露戦争終結以来の複雑な外的、内的要因の積み重ねが存在するのであり、満洲事変はむしろその帰結として見るべきであろう。この議論に関しては筒井清忠満州事変はなぜ起きたのか』を参照されたい。

 以上に述べたことが、石原を弁護する意図があってのものでないことは強調しておかなければならない。満洲事変が直接的にも間接的にもその後の政策の幅を狭めたことは否定のしようがなく、これを現地で主導した石原の責任が軽くなるわけではないことは言を俟たない。筆者が批判したいのは、満洲事変の勃発によって、あたかも敗戦へのレールが一直線に敷かれてしまったかのように述べる粗雑で短絡的な歴史観である。日本国内だけに目を向けて恣意的に歴史に起点を設けたり、特定の人物や集団を意図的に悪役に仕立て上げたりする、またはそうした叙述を鵜呑みにしてしまうことは、過去に何が起こったかを正確に知る努力をやめてしまうこととイコールなのであり、それでは歴史から教訓を学ぶことなど決してできるはずがないのである。

 特に盧溝橋事件以後、日本の好戦的な世論が政策決定に悪影響を与えたことについては本論でも強調した点のひとつである(この傾向は支那側においてより顕著であり、中共は世論を最大限に利用し蔣介石を抗日戦に追いやったことも忘れてはならない)。日本国民に責任の一端があったかどうかはともかく、反省すべき点がなかったとは絶対に言えない。仮に反省点なしとするならば、国家の岐路に際して再び合理性を欠いた世論を醸成し、国策を誤った方向へ後押しするかもしれない。戦前は陸海軍の活躍に快哉を叫んでおきながら、戦後になると今度は軍事アレルギーを起こし、あらゆる戦争を悪と断罪してしまった極端な国民性を見るにつけ、その思いを強くするのである。政治家が世論におもねるのは民主主義国家の宿命(早い話が世論に逆らえば選挙で落とされる)であって、政治の側に本質的な変化は期待できない以上、やはり国民自身がイデオロギーや偏見を排した史実を教訓にすべきであろう。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

米内光政の責任論

 しかしながら、実際には日本側では陸軍を上海に派兵し、支那と全面戦争をはじめるという選択がとられたわけだが、そこに一体どのような戦略が存在していたのだろうか?それは「暴支膺懲」という具体性のないスローガンの示すように戦争目的など皆無であり、端的に言えば米内がひとりで勝手に怒り狂い、まわりの人間は追随してしまっただけである。八月一四日の閣議においては、政府声明の発出や南京占領の必要性を口にする米内に対し、外相は政府声明の発表に反対して不拡大論をとなえ、蔵相は経費の点から不満の意を表明し、陸相は対ソ関係の懸念があるので、大兵力は使用できず、南京に前進するのはむずかしいと答え、いずれも消極的で煮えきらぬ態度に終始したのであり(『太平洋戦争への道』4)、近衛のごときは上海に戦火が及んだ時点で政権を投げ出すことを考えたと告白している(『平和への努力』)。それ以外であれば、中島知久平鉄相が「いっそのこと、中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないか」と安易に述べ、永井柳太郎逓相が「それがいい」と同意しているように(風見前掲書)、相変わらぬ対支観を持った人物がいたのみであった。ところで、このとき南京占領を主張した米内であったが、のちにそれが実現するとどういうわけか暗い顔をしていたという(『海軍の昭和史』)。おそらく頭に血が上って南京占領を叫んだものの、冷静さを取り戻すとその大きなマイナス面が見えてきたのだろう。

 八月一三日に米内と会見した朝日新聞緒方竹虎によれば、米内は「一たび中支に陸軍を派遣したら、最早や局地解決の望みはなくなり、事変は底知れぬ泥沼に陥る」(緒方前掲書)ことを憂慮していたというが、事実であれば事は重大である。陸軍の上海出兵の結果が予測できていたのであれば、なぜ居留民の引き揚げを第一に考慮しておかなかったのか?すでに見たように石原は、第二次上海事変直前はもちろん、その約一年も前から見通しのない戦争をはじめるよりは居留民を引き揚げさせるべきと海軍に申し入れていたし、第一次上海事変の際には大蔵大臣だった高橋是清も居留民の引き揚げを断行すべきと主張しているのである(臼井勝美『満州事変』)。そのような主張をしたのは、いうまでもなく陸軍の上海出兵が日本の国益を損なうと判断したからである。ところが、米内は盧溝橋事件が起こると不拡大方針を支持していたにもかかわらず、中支に関しては話は別で、早くも七月二〇日には、陸相に対しこの方面に戦火が拡大した場合の陸軍派兵を約束させており(今岡前掲書)、上海からの撤退を提議する気などさらさらなかった。すなわち日本が「底知れぬ泥沼に陥る」こととなり、国防を危うくしようとも、上海という海軍の縄張りだけは絶対に手放したくなかったのである。国家の重大事に直面した米内が守り抜こうとしていたものは、国益ではなくあくまで省益であった。

 なお、支那事変勃発後には陸海外三相の協議により居留民現地保護の方針を変更して青島の居留民引き揚げが実行された例があり(『陸軍作戦』)、また、上記のように上海事変勃発時には米内を除く政府首脳部は陸軍派兵に消極的で、陸軍拡大派といえども基本的には「成ルヘク北支ニ限定セル作戦ニ依リ支那軍ヲ撃破シ作戦目的ヲ達成ス」(七月一六日、作戦課起案「情勢判断」同前)ることを希望していたのであるから、もし米内が陸軍に派兵を約束させるのではなく上海居留民の引き揚げを決断していれば、少なくとも政府においては大きな反対はなかっただろう。そしてすぐさま上海居留民に引き揚げ命令を出していれば余裕をもって撤退を完了できていたのである。しかるに米内が、蔣介石が戦争を仕掛けてくることなどあるわけがないと高を括り、「仮に上海で事が起こっても上海にいる陸戦隊で十分防いでみせる」と誤断してしまったことが、上海撤退のための貴重な時間を空費してしまった最大の原因であった(本論「米内光政と上海事変」)。あるいは支那空軍が上海爆撃をおこなった八月一四日以降でも、蔣介石に対する誤った認識を改めて陸軍派兵の閣議決定を取り消すことも可能だったはずである。その場合の撤退は相当な危険が伴うことが予想されるが、それはそこに至るまでに手を打たなかった米内の責任なのである。

 いずれにせよ、上海事変に際して反撃を主張した米内であったが、それはほとんど個人的な復讐のために陸軍将兵を上海に引きずり出したというのが実相であって、その以前においても彼が最優先したのは海軍の省益だったのである。北支の局地戦を無意味に上海に拡大させ、支那事変泥沼化への道を開いた米内の責任は極めて大きいと言わざるを得ないのではないだろうか。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

上海撤退の合理性

 石原が一九三七年八月に上海撤退を主張したことは前述のとおりであるが、日本が蔣介石と戦争をする場合、そのような選択肢も実際にあり得たはずである。では、もし上海撤退が実行されていれば、事変の推移はどのように変わっていただろうか。

 事変当初、第三国には次のような見解を持つ人物がいた。

「このころ、米国武官J・スチルウェル〔Joseph Stilwell〕大佐は、こんご日本側が採用する政策として次の三案が考えられる、と推理していた。

「A」=戦線を一定地域に限定し、兵力と補給を確保して持久し、中国側の疲労を待つ。

「B」=全面撤退して全面戦争をさける。

「C」=全面戦争をさけるつもりで、兵力を逐次投入して全面戦争にまきこまれる。

 そして、大佐の結論は──

「Aが上策、Bが中策、Cが下策だ。Aの場合は蔣介石側は勝利を得られず、内外の支持を失って政治的失脚をまねくはずだからだ。Bも良い。蔣介石にとっては成功だが、そのあとは必ず共産党との戦いになり、日本が再進出する機会が期待できる。

 しかし、AB両策は、いずれもよほど冷静で辛抱強い国民と政府でなければ、実行できない。日本には無理で、日本がえらぶのは下策イコール蔣介石にとっての最上策だろう」(児島襄『日中戦争』第三巻)

 蔣介石は中支で日本を全面戦争に引きずり込もうとしていたのであるから、スティルウェルが言うところの「A」策をとろうとすれば、北支に戦線を留めるのが現実的であったといえる。そしてそれができていれば、スティルウェルが指摘するように、蔣介石は勝利を得る術を完全に失うことになる。その場合、彼に残された選択肢は北支で日本軍に決戦を挑むか、この方面から内陸に引き込むかであるが、前者に関しては絶対にあり得ない。

 まともにぶつかって日本軍を撃破できるくらいなら、最初から上海など攻めずに手っ取り早く北上して満洲を“奪還”しに来ていたはずであるし、蔣介石がその可能性を考慮しなかったことは、先に見たようにファルケンハウゼンの北支決戦案を却下し、のちに「われわれの全軍隊を平津一帯に投入し、敵と一日の長短を争っていたなら、われわれの主力はとっくに敵に消滅され、中華民国はとっくに滅亡する危険があった」(前掲『中国革命と対日抗戦』)と述べているとおりである。

 一方、日本側でも戦線が北支に留まっている限り、和平条件が降伏を迫るほど過大になるといった事態や、ましてや蔣介石政権を否認してしまうような事態は起こりようがなく、陸軍拡大派といえども、この時点において支那と全面戦争をはじめるつもりでいたわけではない。したがって、上海出兵が回避されていれば、適当なところで和平が成立する見込みはあったように思う。次のようなシナリオも想定できただろう。

「日本は一時上海から撤退して、その収益を列強の監視下においておいた方が良かったかもしれない。そうすれば列強はたやすく誘い込まれて、中国に対して政治的防衛の立場に着くのが関の山だったろう。そこで日本は華北の完全な掃討に全力を集中し、然る後に揚子江下流への侵入の威嚇態勢をとることもできたろう。更に、おそらく内外の援助を得て南京政府に停戦交渉を押しつけることもできたかもしれないのだ」(『アジアの戦争』)

 実際に蔣介石のスポンサーであるイギリスは対独問題が切迫していた折、中南支に存する自国の権益が侵害されない限り日本とは協調する方針だったようである(秦『日中戦争史』)。列国が紛争不介入の態度を明確にしたうえで停戦勧告をおこなえば、蔣介石としてはこれに応じざるを得なかっただろう。すでに確認したとおり、彼は和戦を日支間の軍事情勢ではなく国際情勢に基づいて決定しようとしていたのである(本論「成就した以夷制夷」)。

 無論、和平が実現しなかった可能性も否定できないが、上海出兵さえなければ、次から次へと兵力をつぎ込む必要も生じなかったはずで、陸軍は念願だった北支の確保に専念して、結局占領地域が中南支までは及ばなかったことも考えられるのである。しかるに列国の権益が集まる上海で全面戦争に突入してしまった日本に対しては、以下のような国際的反応が待ち受けていた。

 一九三七年八月一六日、在日イギリス代理大使ドッズは外務省に対し、「上海の事態は、日本の陸戦隊の存在により悪化しつつある。したがって、陸戦隊の撤退が問題を解決する鍵」であると申し入れ、二一日の公文では「陸戦隊員二名の射殺に対し、上海全体にわたる日本の軍事行動は均衡を失す」と日本を非難している(上村前掲書)。

 また、十月五、六日の国際連盟総会は二三国諮問委員会の二つの報告と一つの決議案を採択した。第一の報告では「中国に対する日本の軍事行動は紛争の起因となった事件とは絶対に比較にならぬ大規模なものと認めざるを得ない」とし、日本の軍事行動は自衛ではなく日本が加盟している九ヶ国条約、不戦条約の違反であると認定した。そして第二の報告で連盟の採るべき処置として、連盟国たる九ヶ国条約署名国の会議をなるべく早く招集することを勧告した。同日アメリ国務省も、日本の行動が条約違反である点で連盟総会の結論と一致するとの声明を発表したのである。

 十月五日フランクリン・ルーズヴェルト大統領がシカゴで行なった隔離演説は各地で大きな反響を呼んだ。大統領は国際的なアナーキーを惹起する国家は伝染病のキャリアのように隔離すべしと主張した(臼井勝美『日中戦争』)。

 当時の列国の世論は支那に同情的かつ日本には批判的で、支那の責任を論じる日本の言説は「外国へは例によって満州事変以来の詭弁としか響かなかった」(石射『外交官の一生』)のであり、広田外相は事変勃発後、欧米諸国に日本の正当性を訴えるべく宣伝外交を試みているが(服部前掲書)、もはや宣伝の巧拙の問題ではなかった。ジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は九月、すでに広田と面会し日本軍の南京爆撃に対し強く抗議していたが、翌月日本の宣伝外交について次のように記している。

「彼らの基本的主題は日本が自衞上中國と戰つているというのだが、どんな風に表わそうと、こんな馬鹿なことに耳をかす米國人は一人もいはしない。米國人は先天的に中國に同情的であつたし、現在とて同情的であるばかりか、ほとんど通常的に弱者に同情する。日本は中國の土地で戰つているのではないか。それ以上に何をいう必要があるか」(『滞日十年』上)

 しかし、以上のような非難を受けたのは日本が揚子江流域で軍事行動を拡大したためであり、イギリスは中支における権益が侵害されるようになると、アンソニー・イーデン外相は英米海軍による共同示威行動に訴えて、日本の軍事行動を抑止する方策の可能性をワシントンに打診している。当初、国内の孤立主義的風潮のためこれに応じることのなかったアメリカであったが、一二月一二日、日本海軍機が揚子江に遊弋する米砲艦パネー号を撃沈した事件をきっかけにアメリカ国民は激昂し、結局日本側がアメリカの解決要求を全面的に受け入れ事件の迅速な解決を見たために発動されなかったものの、このときルーズヴェルトは米英海軍力による対日経済封鎖を真剣に検討していたのである(『日米関係通史』)。

 さて、支那側にとってもうひとつの方策は日本軍を北支から内陸に引き込むというものだが、これも支那にとって有利には働かない。日本軍に戦争開始と同時に北支からの南下を許してしまえば、戦局が決定的に悪化してしまうと考えられていたのである。

 上海事変勃発後の八月二〇日、陳誠廬山軍官訓練団教育長は蔣介石に対し、次のように提案している。

華北戦況の拡大はもう避けられない、敵が華北で優勢を得たら、必ず所有する快速装備を利用して南下して武漢に向かうはずである。これは我々に不利である。上海の戦況を拡大して敵を牽制した方が良い」(楊天石前掲論文)

 陳立夫は次のように回想している。

「南京が陥落して漢口に撤退するとき、私は気が気でなかった。日本の大軍が南から粤漢線沿いに、そして北からは平漢線沿いに進み、南北両方向から漢口を包囲したらどうしたらよいのか。私はこの問題を蒋委員長にぶつけて教えを請うた。すると蒋委員長はこう言った。「それはありえない。日本人には絶対にそんな大きなことをする勇気はない。我々は一歩一歩地歩を固めて進み、ゆっくりと敗戦を転じて勝利を収めればいい」この蒋公の判断は明察だった」(『成敗之鑑』下)

 これは支那事変がはじまってから約半年後、漢口へ撤退する際のやりとりであるが、支那側はこの時点でもこれだけ日本軍が南北の方向に作戦行動をとることを心配していたのである。では、支那側は一体何を恐れていたのだろうか。蔣介石の次男である蔣緯國は、その理由を次のように説明している。

「漢口は中国の心臓地区であり、かつ日本人もそうした認識をもっている。そこで日本軍が「速決戦略」をとるならば、かれらの陸軍は北京〔北平〕を奪取した後、京漢〔平漢〕鉄道に沿って南下作戦を展開し、直接広州〔広東〕を目指すか、あるいは広州から北上する一部と漢口で合流する作戦に出るであろう」

 そして日本が京漢線と粤漢線をおさえることに成功すれば、「漢口以東の長江〔揚子江下流の最も富裕な地区の人力と物力を、中国がそれを西遷して新しい抗戦基地の建設に使用する前に全部おさえてしまい、中国が持久作戦を維持できないようにすることも可能」であり、「かりに日本軍がさらに東に向けて進撃すれば、中国軍主力は京漢線と粤漢線以東の地区に追い込まれ、海岸線を背にして決戦を余儀なくされる」ことになり、「もし国軍が補給線を失った上で決戦を迫られれば、たとえ将兵がいかに忠勇であっても、撃滅されてしまうのは免れがたい」。

 そこで蔣介石は、「主力を華東地区に集中して、上海方面に戦場を開き、この方面の敵に対して攻勢をかけて、日本軍の作戦路線を長江に沿って東から西に向かわせるように仕向けた」のだという(『抗日戦争八年』)。

 付け加えておけば、こうした蔣介石の戦略には乗らずに日本軍が北支から南下していた場合、当時支那に対し列国の中で唯一軍事援助をおこなっていたソ連の武器輸送ルートを遮断することもできていたのであり(楊天石前掲論文。当時支ソ間には山西省を経由する二つの武器輸送ルートがあり、そのうちの一つが日本軍の進出により機能しなくなったとき、蔣介石は「痛恨の極み」と心情を表現した。そこで蔣介石はもう一つのルートを守るため、日本軍の南下を遅らせようと、ますます上海での戦闘に力を注いだという)、また、事変当初支那は対外貿易の大半を沿岸部都市を経由したルートに頼っていたことから(『中国抗日戦争史』)、内陸交通の要衝である漢口を早期に攻め落とし、さらに粤漢線に手を伸ばして同路線上の重要地点を押さえるだけでも、支那に物資輸送の面で大打撃を与えることができたのである。

 史実では漢口と、粤漢線の始点のある広東は支那事変勃発から一年以上経過した一九三八年一〇月に陥落するが、そのときでさえ蔣介石は「〔南京陥落以来〕過去十カ月の抗戦期間における武漢の地位の重要性は、華西の再建準備を守る保壘となり南北の輸送線の連鎖点として貢献したことである」(漢口陥落に際しての声明。董顕光前掲書)と漢口が依然として戦略的重要性を有していたことを認めているし、国民政府指導部では列国の介入が見込めないことに加えて、広東が陥落すると援助物資があっても輸送ができなくなるとの判断から対日和平論が台頭し、それに同調した蔣介石も和平条件面での譲歩を考慮するほどであった(鹿錫俊前掲書)。このような反応は上海や南京陥落時には見られなかったのであり、また、たとえばビルマルートの開通が一九三八年一二月であるように、漢口や広東を占領する時期は早ければ早いほど国民政府に与える衝撃は大きくなっていただろう。完全な経済封鎖は物理的にも不可能であったが、当時国民政府は武器、弾薬、飛行機等のほとんどすべての供給を外国に依存しており(「日本の対中経済封鎖とその効果(一九三七~四一)」『軍事史学』通巻171・172合併号)、それら必要物資の当面の供給を滞らせるという“国際情勢の変化”を引き起こすことによって、蔣介石に妥協を強要することは可能だったのである。

 あるいは日本軍が早々に漢口に迫れば、支那側が同地の防衛にこだわり決戦が生じた可能性も否定できない。大陸奥地に退いても必要物資が得られなければ継戦は不可能だからである。なお、日本軍との決戦を避け、ゲリラ戦を展開することを決めたはずの中共でさえ、当時「西班牙人民はマドリッドを二年に亙って保持した。武漢の労働者及び中国軍隊の勇気を以て武漢を保持し得ないことはあるまい。・・・第三期抗戦全問題の重要なる組成部分と中心点は武漢の政治経済であり、武漢の保衛の成否が第三期抗戦に対して極めて大なる影響あるのみならず、且つ内政外交方面に対しても大なる影響があり、従って第三期抗戦の成敗は武漢保衛と極めて重要なる関係がある」と見解を機関誌に発表し、漢口死守を主張していた(「漢口攻略の意義」尾崎秀実前掲書)。

 現実に陸軍の中には、石原の「保定の線へ進出すると結局漢口まで行ってしまうようになる」(秦前掲書)といった悲観論(?)のほか、「上海戦開始と同時に最初から一気に漢口目ざして、南京など傍目もふらずに突貫作戦をやれ、三個師の精兵があれば可能だ、先回りして奥地要点を占領しなければ、打倒蔣介石の効果は挙がらぬ」という積極論もあったという(福留前掲書)。後者はスタート地点が上海、兵力三個師団という実現性はともかくとしても、先回りして奥地要点を占領すべきという発想は正しい。また、広東占領が一九三七年秋以来検討され、同年一二月には実行寸前までいったように、援蔣ルートの遮断も早くから陸海軍の視野に入っていたのである(「昭和十二年における南支上陸作戦の頓挫」『政治経済史学』155)。もし日本があくまで決戦戦争を追求し、上海へ差し向けなければならなかった兵力も含めて北支に大軍を投入していたならば、戦線が急速に南へ拡大することは必定であり、支那事変の様相はかなり変わったものになっていたに違いない。

 以上のように陸軍の上海出兵を回避していた場合には、どう転んでも日本に有利な展開が期待できたのである。支那軍が守りを固めるとともに後方にいくらでも退避できる上海にわざわざ上陸して、列国の対日感情をひたすら悪化させるという、蔣介石の用意した罠にみすみす飛び込むような戦い方が賢明だったとはとてもいえない。支那側がもっとも恐怖したのは日本軍が上海へ寄り道せずに北支から南下して退路と物資輸送路を断ってしまうことだったのだから、その通りをやって効率的かつ徹底的に蔣介石を叩けばよかったのである。昨今、支那事変は蔣介石が仕掛けたと強調する意見をよく目にするが、蔣介石に非があるのであればなおさらそうすべきだったはずである。しかもその場合には揚子江下流の防禦陣地など無用の長物と化すのだから、上海には戦わずして再上陸できたであろう。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原の経済体制再編論

 そして石原が一九三五年八月、参謀本部作戦課長就任後に生産力拡充計画に乗り出した理由も、軍事力を拡大していた極東ソ連軍に早急に対処することにあったのであり(「回想応答録」)、ひいては世界最終戦争に備えるためであった。そこで石原は統制経済の導入を構想するのであるが、それをソ連の模倣と見ることは適切ではない。まず、次のようにソ連の行く末を的確に予見していたことが注目される。

「ソヴィエットと云ふものは実験室のようなもので、今まで行はれなかつたようなことを非常に強い観念の力で新しい社会建設の試験をやつて居るのであります、・・・人類の為に驚くべき犠牲を払つて大実験をやつて居りますあの努力は結局不成功に終りませう」(「世界戦争観」昭和十四年三月十日『資料』)

 参謀本部時代、ソ連の実態についてはモスクワに駐在していた堀場一雄らの調査報告を通じて把握していたようである(芦澤前掲書)。このような結論に行き着いたのは、あらゆる企業活動を国家統制下に置くソ連社会主義の弊害を十分に認識していたためであった。日本で実施されるべき統制経済について石原がどのように計画していたか、当時の彼の思想の一端がうかがえるいくつかの発言を一九三七年発行の西郷前掲書から引用しておく。

「資本主義の特長は、生かさなければならぬ。軍需工場の如きも、自分としては、大兵器廠の擴充の如きは、反對である」

「國營工場が課された使命は、現在で、既に、終つてゐる。もうこれ以上の發達は國營工場において望み得ない」

「優秀なる飛行機も、優秀なる兵器も、また優秀なる商品も、民間工場において、その有する資本主義的特質を生かした、技術の研究努力によつてこそ、完成されるものと確信してゐる」

 統制経済体制への移行の限界については、はっきりと次のように述べている。

「日本が、國家社會主義に墜するのなら、最早、何をか言はんやである」

 これらを、たとえば統制経済に対する世上の不安を和らげるための言辞と解釈するのは誤りである。陸軍中枢から外れた一九三九年九月にも「マルクス主義流行以來、資本家排撃は一の支配的觀念となり、マルクス主義排撃の急先鋒すら、利潤追求の故を以て資本家を攻撃する實状である。然し利潤の追求が許されてこそ經濟能力は種々の困難を克服して高められてゆくのである」(杉浦晴男名義「昭和維新論」)と述べているように、ソ連のやり方を丸写ししたのでは競争原理が働かず、国力の低下を招いて早晩失敗すると考えていたのである。ましてや自国民に弾圧を加えるなど論外だった。次のように、スターリンに対して冷やかな視線を向けていたこともわかる。

ソ連は非常に勉強して、自由主義から統制主義に飛躍する時代に、率先して幾多の犠牲を払い幾百万の血を流して、今でも国民に驚くべき大犠牲を強制しつつ、スターリンは全力を尽しておりますけれども、どうもこれは瀬戸物のようではないか。堅いけれども落とすと割れそうだ。スターリンに、もしものことがあるならば、内部から崩壊してしまうのではなかろうか。非常にお気の毒ではありますけれども」(『最終戦争論』)

 ただし、参謀本部着任前の仙台第四連隊長時代(一九三五年四月)には「非常時と日本の国防」と題した講演において、自由競争を否定し、「自由主義経済の滅亡も、ここに至って必然であります」と断言しており(成澤米三『人間・石原莞爾』。しかし、その一方ですでにソ連の国家経営を愚劣と批判しており、ソ連社会主義への移行を主張したものではない)、上記のような構想が確立されたのは参謀本部時代のことといえる。

 以上のように、当時石原は社会主義に傾倒していたわけでも、資本主義を絶対視していたわけでもなかった。次に引用する石原に近い人物の評はそのあたりの思想を的確に説明していると思われる。

「〔東亜連盟に賛同した者の中には社会主義者やその同調者が多く、そのため石原自身もアカ呼ばわりされることもあった。〕しかし石原さんは自ら、

「私ほど共産党より憎まれるべき者はない」

と言っていた通り、到底、相容れぬものがあったのです。それは石原さんの「国体観」であり、破壊と残忍と専制に対する憎悪であったのであります。

 石原さんは、資本主義の長所も欠点も、また社会主義ないし共産主義の長所も欠点も知り尽していて、何とかしてこれらの長所ばかりを取り入れて、その短所を取り除いたような更に高い指導原理を見つけ出そうと腐心されていたようであります」(田中久「軍の異端者・石原莞爾の経綸」『資料で綴る石原莞爾』)

 したがって石原は満鉄経済調査会の宮崎正義(ロシア留学の経験があり、その後入社した満鉄でもロシア研究をおこなった。マルクス経済に精通)に経済政策の立案を依頼するのであるが、宮崎が作成したものはソ連で実施しているような市場経済を否定した全面的統制ではなく、市場経済に立脚しつつも官僚主導の部分的統制を織り込んだ日本独自の経済統制システムであり、ソ連等の経済政策を参考にしつつも、やはりそれを単に模倣したものではなかった(詳しくは小林英夫氏の一連の著作〔『「日本株式会社」を創った男』、『超官僚』、『「日本株式会社」の昭和史』〕を参照。なお、小林氏は宮崎の立案した経済システムが、その後の総力戦体制や、戦後復興期、高度成長期においても存続し、活用されたとも論じている)。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原は対ソ開戦論者だった?

 石原の国家戦略に関しては、〈昭和一七年頃ソ連と戦争をはじめるつもりだった〉との見方がある。たしかに昭和一一年七月、戦争指導課策定の「戦争準備計画方針」には「昭和十六年迄ヲ期間トシ対「蘇」戦争準備ヲ整フ」とあり、翌月には「対ソ戦争指導計画大綱」が作られている(『資料』)。これらを額面通りに受け取れば、石原が近い将来の対ソ戦を決意していたとみることは可能だろう。

 しかし、前述のように、石原は「持久戦争不可避」との理由で支那との戦争を恐れていたのであるから、その支那よりもはるかに国土が広大で、なおかつ支那よりも強力な軍隊を持つソ連を相手に、気軽に戦争をはじめたとはどうしても思えないのである。後年のことであるが、当然ながら石原は「日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい」、すなわちソ連を武力だけで屈伏できる見込みはない、との認識を示し、さらにアメリカはフィリピン、ソ連は極東ソ連領を利用して日本の政治、経済的中枢を空襲できるが、日本にはそれが不可能だとして、「この見地から空軍の大発達により我が軍も容易にニューヨーク、モスクワを空襲し得るに至るまで、即ちその位の距離は殆んど問題でならなくなるまで、極言すれば最終戦争まではなるべく戦争を回避し得たならば甚だ結構であるのであるが、そうも行かないから空軍だけは常に世界最優秀を目標として持久戦争時代に於ける我らの国防的地位の不利な面を補わねばならない」と述べている(一九四一年二月『戦争史大観』)。

 石原の描いた国家戦略においては、ソ連の極東攻勢を断念させることを第一の目標としていたことについてはすでに触れたが、それに関して「戦争ニ至ラスシテ我目的ヲ達成スルコトハ最モ希望スル所ナリ」(前掲「国防国策大綱」)と説明されていることを見逃すことはできない。では、戦争以外のどのような手段によってソ連に対処しようとしたのだろうか。昭和一〇年九月、石原は杉山元参謀次長に次のように意見具申している。

「速ニ所要ノ兵力ヲ大陸ニ移駐スルコト刻下第一ノ急務ナリ コレカ為恐ラク日蘇間ニ国境兵力増加ノ競争ヲ惹起スヘシ 然レトモ困難ナル蘇国ノ極東経営ニ対シ我迅速適切ナル北満経営ニヨリ彼ヲ屈服セシムル能ハサレハ我国運ノ前途知ルヘキノミ 此経営競争ニヨリ先ツ露国ノ極東攻勢ヲ断念セシムルコトハ昭和維新ノ第一歩ナリ」(「為参謀次長」『資料』)

 また、前述の国防計画刷新の際、海軍側のカウンターパートとなった福留繁に対しても次のように主張している。

「“北守南進”の提案は是非撤回してくれ、陸軍は今後は満州国を固めることに専念し、決してこれ以上手を延ばして、ロシアと事を構えるようなことはしない。今海軍に北守南進を持ち出されると、陸軍は評判が悪いだけに満州国経略の腰を折られることになる。満州国が固まるまでこの提案を待ってもらいたい」(福留前掲書) 

 石原の部下であった稲田正純は、石原のスタンスをこのように説明している。

「石原さんの戦争観というのは、今後十年間は絶対に戦争してはならぬ、その間に世界最大の軍事力を誇るソ連陸軍に一応対抗できる軍備をしようということで“戦争せざる参謀本部”をつくり上げるところに力点を置いていた」(『昭和史の天皇』16)

 参謀本部時代の石原が考えていたのは要するにこういうことだろう。

〈当面の目標は、ソ連に戦わずして勝つこと、すなわち満洲国においてソ連が極東攻勢を断念せざるを得ないほどの対ソ軍備を実現することである〉

 結論を急げば、そもそも石原は前述したように第二次世界大戦の発生近しと予測し、これに参戦するつもりがないばかりか、国力充実のためにソ連および支那とは静謐を保たなければいけないと考えていたのであって、わざわざ第二次世界大戦が勃発すると予想していた昭和一七年にあわせて、しかも困難な持久戦争を強いられることが明白なソ連に対し戦争を仕掛けることなどあり得るわけがないのである。また、昭和一一年の時点で、満洲国の完成のために「少クモ十年間ノ平和ヲ必要」(「日満財政経済調査会」昭和二十一年『資料』)としていたのであって、昭和一六年までに準備を整え、昭和一七年に対ソ戦を開始するのでは計算が合わない。それどころか浅原健三は「最低限度、十年間は戦争しちゃいかん。できうるならば三十カ年やっちゃいかん」という石原の言葉を聞いているのである。浅原は石原の構想を次のように説明している。

ソ連の進行にともなって、日本がこれに打ち勝つためには、あせってはならない。二十年くらいの時間を稼いで、一意満州の産業開発をおこない、日本戦力の培養に努力することであるとした」「この大望が実現せられるとき、日本は確信を持って、ソ連と雌雄を決すべきである。日本がソ連に勝てば、日支の葛藤は必然に解消する。日本は確信をもつまで、いかなる国とも、問題を起こさない事が有利であり、とくにソ支両国に対してしかりである。という思想を(石原は)抱いていた」(桐山前掲書)。

 石原の「三十カ年」不戦の方針については稲田正純も「石原さんの考えは、何度もいうように戦争はしない。戦争体制が整うには三十年はかかると判断していたんです」(『昭和史の天皇』15)と証言している。

 これもまた、先に引用した『戦争史大観』における主張と符合しており、当面の対ソ戦回避論である。石原は大東亜戦争がはじまると「本来からいえば、成し得れば準決勝戦時代の今日は不戦一勝を得たいのであります」(一九四二年一月三日「国防政治論」『石原莞爾選集』5)と未練ありげに言っているし、戦後にもやはり「私は最終戦争時代の必至を信じ、日本が武器をとつてこれを戦う覚悟を要するものと主張していた。そして最終戦争以外の戦いは極力これを回避すべしとの持論を終始変えなかつたものである」(「兄の憶い出」『資料』)と主張しているが、これらが自己弁護などでないことはもはや説明を要しない。

 以上から、石原は対ソ開戦論者だったといえるかもしれないが、その時期は来るべき世界最終戦争(決戦戦争)の時代であり昭和一七年前後ではなかったのである。故に昭和一一年に作られた対ソ戦計画は、「十年平和維持の希望が達成されずに対ソ戦争が勃発する場合を想定しての計画であつた」(角田順「解題 石原の軍事的構想とその運命」『資料』)と解釈するのが正しい。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献