牛歩の猫の研究室

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最終戦争論

 よく知られるように最終戦争論という石原独自の思想は一冊の本にもなっており、一般には日蓮信仰のドグマや、日本とアメリカが決勝戦を戦うという結論部分がクローズアップされ、読者に奇妙な印象を与えているようである。たしかに石原の説明には論理の飛躍としか言いようのない部分が散見され、石原自身も戦後に「最終戦争が東亜と欧米との両国家群の間に行なわれるであろうと予想した見解は、甚しい自惚れであり、事実上明かに誤りであったことを認める」(「新日本の進路」『石原莞爾選集』7)と率直に反省するしかなかったのである。

 しかしその反面、最終戦争を準備するために確立しようとした国家戦略については別の評価が必要と思われるのである。なぜならば、支那事変前に打ち出されたそれに関しては、彼のリアリストとしての一面が多分に反映されているのであり、その線に沿って進む限りは結果的にせよ国益にかなっていたといえるのである。以下、その石原の抱懐した戦略の概要を明らかにしつつ批評することにしたい。まずそれには支那事変の前年に明文化された国防計画を検討することが有効と思われるので、「国防国策大綱」(昭和十一年六月三十日『資料』)という文書を確認しておく。

「一 皇国ノ国策ハ先ツ東亜ノ保護指導者タル地位ヲ確立スルニアリ之カ為東亜ニ加ハルヘキ白人ノ圧迫ヲ排除スル実力ヲ要ス

二 蘇国及英米ノ圧迫ニ対抗スル為ニハ所要ノ兵備特ニ航空兵力ヲ充実スルト共ニ日満及北支ヲ範囲トシ戦争ヲ持久シ得ル万般ノ準備ヲ完了スルコト肝要ナリ

三 先ツ蘇国ノ屈伏ニ全力ヲ傾注ス 而シテ戦争持久ノ準備ニ就テ欠クル所多キ今日英米少クモ米国トノ親善関係ヲ保持スルニ非レハ対蘇戦争ノ実行ハ至難ナリ(中略)

四 兵備充実成リ且戦争持久ノ準備概ネ完了セハ蘇国ノ極東攻勢政策ヲ断念セシムル為積極的工作ヲ開始シ迅速ニ其目的ノ達成ヲ期ス 而シテ戦争ニ至ラスシテ我目的ヲ達成スルコトハ最モ希望スル所ナリ(中略)

五 蘇国屈服セハ適時之ト親善関係ヲ結ヒ進テ英国ノ東亜ニ於ル勢力ヲ駆逐ス(中略)

六 (中略)対蘇戦争ノ為現下ノ対支政治的工作ハ南洋方面ノ諸工作ト共ニ英米殊ニ米国トノ親善関係ヲ保持シ得ル範囲ニ制限スルヲ要ス 此間新支那建設ノ根本的準備ニ力ヲ払フ(中略)

七 蘇英ヲ屈セハ日支親善ノ基礎始メテ堅シ 即チ東亜諸国ヲ指導シ之ト共同シテ実力ノ飛躍的進展ヲ策シ次テ来ルヘキ米国トノ大決勝戦ニ備フ」

 石原は世界最終戦争が起こる時期を一九七〇年頃と予想し、それまでにアメリカを上回る生産力や科学力を養わなければならないと考えていたのであるから、「国防国策大綱」は三十年程度の将来を見据えた構想であったといえる。そして対米戦に先立ち、日満支を中核とする東亜連盟(東アジア諸国による国家連合)を結成して、東亜諸民族を指導し生産力の大拡充を図ることが必要だとしており(『最終戦争論』)、これに関しては妥当性に欠けると評するほかないが、他方「日支親善ハ東亜経営ノ核心ニシテ支那ノ新建設ハ我国ノ天職ナリ 然レトモ白人ノ圧迫ニ対シ十分ナル実力無クシテ其実現ハ至難ナリ」(前掲「国防国策大綱」)、別の機会には「口先だけで、おどしても、支那人は、腹の中で笑つてゐる、要は、日本が、實力をたくはへることだ」(西郷鋼作『石原莞爾』)と述べるように、少なくとも支那が現在の実力不十分な日本に唯々諾々と追従するとは考えておらず、いずれにしても国力向上を先決としていたのであった。なお、石原は満洲事変前後には支那本部をも領有することを考え、アメリカの参戦により持久戦争を戦うことになれば軍隊の自活をおこなう、すなわち「戦争を以て戦争を養う」ことを説いていたが、この時点では以下にも述べるように「平和を以て国力を養う」構想に変質していることに注意したい。
 ともあれ、この中で最も注目すべきは、石原が将来の対米戦を目標とした戦略を明示し、その第一段階として、まずソ連の極東攻勢を断念させるため、軍備の充実(満洲国の完成)に全力を傾注しようとしていたことである。

 当時の石原の腹案については、河辺虎四郎の回想が詳しい。

「私はかなり以前からいろいろの機会において、石原氏の思想に触れていたが、このたびはじめて同氏の直下に勤め、しかも同氏のそれまでの職任〔戦争指導課長〕を受けついだわけであるから、この際改めて部長である同氏の所信をきこうと考え、着任後まもない某日〔一九三七年三月〕、同氏をその自宅に訪ねた。その際同氏の私に語ったところによれば、同氏は早晩西洋諸民族間の大動乱が必ず起こるであろうことを予想し、これに対しては日本は直接この動乱の中に投じなければならぬ道義上にも利害上にもなんらの理由がない。したがって全然局外にあるべきだと信じていた〔堀場前掲書によれば、「十二年頃戦争指導当局はソ聯の産業及軍備の充実計画竝に之に伴ふ仏英米の軍備動向より見て、一九四二年(十七年)前後には世界戦争勃発すべしとの判断を有しあり」とある〕。そしていまや鋭意満州国の発育を助長し、日華満三国の親和関係を強化して、東洋の平和を維持しながら、わが国防実力、ひいて国家地位の安泰を得るように努力することが、日本国殊に中央統帥部の焦眉の急務であると見ていた。そしてまた、石原氏は、その近年における中国国民の反日憎日感も、日本国民の反省にもとづく自重心の向上と、日本国力の充実ができるに従い、自然に消えてなくなるであろうし、しかもそれによって、三国間に真の親好と相互尊敬の事実が現われるものと信じ、ここに実質的に現在はなはだ心細いわが国防的ポテンシャルを速急に高めねばならぬ理由の根拠があるとした。また、それ故にこそ殊に当時の陸軍としては、深く自重して、自らの実質を向上進歩するように、努力するとともに、在外軍隊も対ソ対華ともに慎重自制の態度を固く持し、かりそめにも国際葛藤の動因を誘発するおそれのあるような過ちを犯さぬよう万般の注意を加えることが必要だと強調していた」(河辺前掲書)

 ところで、日本と蔣介石の国民党を戦わせようとし、また、その結果利益を得たのは誰か。それは毛沢東であり、スターリンであったことは否定できない事実である。たしかに蔣介石自身も対日戦の準備を進めていたが、それは日本が戦争を仕掛けてきた場合の準備というべきで、大局的に見れば共産主義者の筋書き通りに動かされていたといっても過言ではない。盧溝橋事件の第一報が入ると、毛沢東は「災禍を引き起こすあの厄介者の蔣介石も、ついにこれで日本と正面衝突さ!」、張聞天は「抗日戦争がついに始まったぞ!これで蔣介石には、われわれをやっつける余力がなくなっただろう!」といって喜んだというが(『毛沢東』)、これとは対照的に、蔣介石は支那事変勃発後に開かれた会議の場で、「奴らが抗戦しようとするから、国家がこんなありさまになったのだ!」(『我が義弟 蔣介石』)と感情的になって声を荒らげることがあったという。自らの意志で日本と対決しようとした人間は絶対にこんなセリフは吐かない。共産主義者の手の内を知り尽くしながら、対日戦をはじめざるを得ない状況に追い込まれてしまった無念がこのように言わせたのである。なお、スターリンは一九三八年二月、蔣介石との戦争にまんまと飛び込んでくれた日本を評して、「歴史というのはふざけるのが好きだ。ときには歴史の進行を追い立てる鞭として、間抜けを選ぶ」(『日本人が知らない 最先端の「世界史」』)と述べている。

 一方、石原はこうした状況を把握したうえで戦争に反対していた。盧溝橋事件が起こると以下のように発言している。

「芦溝橋の事件は八路〔中国共産党軍〕の謀略かも判らない状態である。通州事件は明らかに敵の襲撃を受けて、日本機関と在留日本人が全滅して敵軍隊の志気をたかめ、国民の敵愾心を煽っている。支那は、昨年の十二月、西安事件国共合作が復活したとはいっているが、蔣介石の国民党が毛沢東共産党に屈した形である。中国共産党は国際共産党コミンテルン〕に煽動されて中国の抗日戦争を煽っている。共産党の謀略に乗って日中戦争を起こしてはならぬ」(山口前掲書)

 この意味でも、日本が本当に警戒すべきであったソ連を目下の最大の敵と見なし、これに備えて無用な対外戦争を回避しつつ、満洲国に蟠踞し国力充実に専念すべきという石原構想は、当時の日本にとってきわめて適切なものであったといえる。以上から次のような評価を与えることも可能だろう。

「日本には、ボルシェビキや、ヒットラーらの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。(中略)

 ただ一つ戦略らしいものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。

 支那事変前年の昭和十一年八月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみを敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としている。

 そして、盧溝橋事件後は事件の不拡大に努め、その後昭和十三年六月に至る三次の戦争計画要綱では、「戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ」「速やかに和平を締結する」ことを主張している。

 まさに蔣介石との戦争に日本を巻き込み、米英とも対決させようというソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった」(岡崎久彦『重光・東郷とその時代』)

 ここまで見たように、この時期に石原が有していた戦略は内外の情勢判断が基礎になっていたのである。そして石原が支那事変に反対した真意はもはや明らかであろう。すなわち、来るべき第二次世界大戦に際してフリーハンドを確保しておくことや、ソ連に漁夫の利を与えないようにすることなどを念頭に据え、盧溝橋事件発生後の拡大方針に反対した石原の意見が「目下は専念満洲国の建設を完成して対「ソ」軍備を完成し之に依つて国防は安固を得るのである。支那に手を出して大体支離滅裂ならしむることは宜しくない」(「西村敏雄回想録」『現代史資料』12)というものであったように、日本の国防を盤石なものにすることを最優先課題としていたのであり、それは自己の構想を推進するための土台でもあった。故に、満洲国の完成も見ないうちに、敵の退避戦略と列国の干渉により解決不能に陥る可能性が高い支那事変は絶対に戦ってはならなかったのである。

 それでは、実際に石原が主張したように、日本が居留民とそれを保護する部隊を支那本部から撤退させ、対支戦争を回避していればその後歴史はどのような展開を見せただろうか。まず、日本軍が特に北支からいなくなってしまえば蔣介石は小躍りして喜んだはずで、国際情勢の変化に備えて引き続き自強をはかったか、うまくいけば掃共戦を再開できただろう。さらに日本が第二次世界大戦に際して中立の立場をとれば、アジアに植民地を持つ参戦国は日本に好意的態度を維持してもらう必要に迫られるし、あるいは大戦終結後に米ソ対立がはじまれば、アメリカをはじめとする自由主義陣営諸国にとっても満洲は対ソ戦略上重要な位置を占めることとなる。これらの過程において満洲国が国際的に承認された可能性は大いに考えられよう。また、支那事変がなければ中共の勢力拡大も限定的で、場合によっては日本やアメリカの支援を受けて史実とは逆に蔣介石が支那を統一できていたかもしれない。中華民国が真に主権国家としての体をなし、治安が維持されれば日本の企業や国民は平和裏に再進出できるのである。

 以上は最大限好意的な予測であるが、いずれにせよ支那事変は回避すべきであったことに変わりはない。日本軍が矛先を支那大陸に向けて蔣介石と無意味な抗争を繰り広げ、なおかつそこに権益を有する列国との間に軋轢を引き起こすような「間抜け」な行動は、日本が真に敵と見なすべきスターリンを大喜びさせるだけであった。こうした無益どころか不利益しか得るものがない戦争は避けられるものなら避けるのが合理的判断というものであろう。在支権益の放棄という一時的な損失を被ったところで、上記のようにあとで山ほどおつりがくる展開が見込めたのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

なぜ兵力の逐次投入となったのか

 そして以上のような日本は持久戦争に対応できないという認識が、作戦指導に影響を及ぼすことになったのも自然な成り行きであった。すなわち石原は、当初から陸軍の上海出兵の目的は居留民保護の範囲に限定しなければならないと考えており(井本前掲書)、その後の兵力増強についても異常ともいえるほどの慎重姿勢にならざるを得なかったのである。その理由は、苦戦している上海に陸軍増派が必要なことはおそらく承知しつつも、中島鉄参謀本部総務部長が「〔元来石原は〕イクラ積極的ニヤツテモ結局、戦略持久戦ニ陥リ、カヘツテ抜キサシナラヌ様ニナルト判断シテ居タ」(『陸軍部』)と述べるように、用兵上の深刻なジレンマに直面していたためであった。また、それに留まらず、石原は対支戦争の泥沼化は列国の干渉を招き大日本帝国破滅の起因になり得るとも判断していたのであり、後日、荒木貞夫は「上海救援石原反対、石原新京に在りて仕方がない負けるんだと嘆息した」(小川平吉日記、一一月二四日の条『小川平吉関係文書』1)と石原の様子を伝えているが、これはやはり〈負け戦をやる破目になるから上海への陸軍派兵には反対だった〉という趣旨の発言をしたと解釈できる。この少し前に満洲を視察した東郷茂徳は石原から「事変がこのままに推移すれば百万の出兵を要し、日本の資源は枯渇することになる」(『時代の一面』)という言葉を聞いている。

 ところが、そうした石原の抱いた懸念はまったく分析されず、結果だけを取りあげて、当時から現在に至るまで兵力の逐次投入だったとの皮相的な批判が繰り返されてきたのであるが、そもそも陸軍参謀本部の一部長という立場では持久戦争を指導することなど不可能であるし、仮に石原が中支において敵に大打撃を与えることを決意したとして、事変の性質を正しく理解し、なおかつ政府・統帥部間の意見調整をはかって軍事的勝利を講和につなげるという経綸の才を発揮し得た人材が一体どこにいたというのだろうか。否、むしろ日本軍が全力を挙げて上海攻略に取りかかっていれば、前述のように蔣介石は九月中旬には早くも撤退を視野に入れていたのだから、支那軍はこのときまでに退却を開始して、損害は逆に少なくなっていた可能性が高い。一方日本側でも、上海で苦戦し一撃論の誤りが実証されたにもかかわらず、強硬態度に出て和平交渉を打ち切ってしまった史実から推考するに、上海陥落が早まればますます支那軍与し易しの観念に傾いていたことが予想される。この傾向は蔣介石を武力で打倒できるとの判断を助長させることはあっても、蔣介石との話し合いによって戦争を止めようという方向には決して作用しなかったであろう。とはいえ兵力を小出しにするという石原の用兵が正しかったとまでは絶対に言えないが、この件に関しては弁明の余地は大いにあるように感じられるのである。

 また、〈石原はソ連の対日参戦を恐れるあまり兵力を逐次投入した〉という批判もあるが、それも日本の持久戦争遂行に対する石原の懸念を把握できていないことから来る誤解である。すでに確認したように、石原がまず憂慮したのは、持久戦争の準備もないまま支那と戦争をはじめて、その結果どこまでも戦線が拡大してしまうことであった。そして、そのような事態に陥ることは対ソ兵力が手薄になることを意味しており、同時にソ連に後背を衝かれてしまう可能性を増大させるのであって、ソ連に対する警戒は対支戦線拡大の副次的な問題だったと見るべきである。つまり裏を返せば、当初からソ連の対日参戦に備えることを強く訴えなければならなかったのは、対支戦争の長期化という結果が見えていたためであった。石原の思考がこのようなものであったことは本人が明確に述べるとおりであるので、念のため「回想応答録」の当該部分を再掲しておく。

「今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由

 すでに見たように、石原は盧溝橋事件後、北支への陸軍派兵は認めたものの、特に上海方面への派兵には可能な限り抵抗し、居留民の引き揚げをもって対処すべきと主張したのである。では、石原はなぜ上海への陸軍派兵を嫌ったのだろうか?先に結論を述べるならば、それは決して大げさではなく、陸軍の上海出兵が日本の敗戦に結びつくと確信していたからである。

 石原は後年、「不拡大方針の決定経緯」について以下のように振り返っている。

「今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります。然るに責任者の中には満洲事変があつさり推移したのと同様支那事変も片附け得ると云ふ通念を持つものもありました。私共は之は支那の国民性を弁へて居らん議論で、殊に綏遠事件により彼を増長せしめた上は全面的戦争になると謂ふ事を確信して居つたのであります。事変始まると間もなく傍受電により孔祥凞は数千万円の武器注文をどしどしやるのを見て私は益々支那の抵抗、決意の容易ならざるを察知致しました(日本の三億円予算と比較)。即ち此際戦争になれば私は之は行く所まで行くと考へたので極力戦争を避けたいと思ひ又向ふも避けたい考へであつた様でありますのに遂に今日の様になつたのは真に残念であり又非常なる責任を感ずる次第であります」(「回想応答録」)

 盧溝橋事件後に不拡大方針を打ち出したのは、日支紛争の長期化を予想していたためなのだというが、これは当時の発言からも事実と見て間違いない。同事件発生後、石原は「出兵は北支のみに限定して、青島や上海には出兵してはいけない」(武藤前掲書)と述べ、紛争はあくまで北支に留めることを主張した。そして福留繁軍令部作戦課長に上海への陸軍派兵を求められると、次のように述べて反対している。

「今中支に出兵すれば事変は拡大の一途をたどり収拾不可能の事態になるのは火を見るより明らかである。たとえ中支でどんな犠牲を払おうとも出兵すべきでない」(福留繁『海軍生活四十年』)

 そして上海事変が勃発すると浅原健三に対し、「浅原君、もう終わった」「もう俺の力ではどうにもならん。これから先はもう収拾に努力するだけだ。しかし、見通しはない。俺はもう軍人を辞めたい」(桐山前掲書)と諦観したかのように言い、作戦部長を辞任する頃には「国家にも、人間と同じように運命というものがあるものらしいですな。とうとう支那との戦争は拡大することになりました。それには私が邪魔になるから満州に放逐したのです。今後は日本が敗けても満州が崩れないように固めましょう」(横山銕三「石原精神の中国における栄光と受難」『石原莞爾のすべて』)、「山口さん、これで私も肩の荷が卸りたような気がする。止むを得ない。日本は亡国です。せめて満洲国だけでも独立を維持するようにしましょうなあ」(山口重次『満洲建国への遺書 第一部』)、「日本は、樺太も、台湾も、朝鮮もなくなる・・・本州だけになる・・・」(田村前掲書)、「日本はこれから大變なことになります。まるで糸の切れた風船玉のやうに、風の吹くまゝにフワリフワリ動いて居ります。國に確りした方針といふものがありません。今に大きな失敗を仕出かして中國から、台灣から、朝鮮から、世界中から日本人が此の狹い本土に引揚げなければならない樣な運命になります」(岡本前掲文)と方々で日本の敗戦を口にしている。

 実は石原が最終的に日本の命取りになると確信していたのは、支那事変が長期化した際の列国の動向であった。石原は一九三一年四月、「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」という文書の中で「吾人カ支那中心ノ戦争ヲ準備セント欲セハ東亜ニ加ハリ得ヘキ凡テノ武力〔アメリカ、ソ連、イギリス〕ニ対スル覚悟ヲ要ス」との見解を示していた。一九三六年八月策定の「対ソ戦争指導計画大綱」には、「英米ノ中立ヲ維持セシムル為ニモ支那トノ開戦ヲ避クルコト極メテ緊要ナリ」という一文が見られる(『資料』)。裏返して言えば、〈支那と開戦すれば英米の干渉は必至である〉と見ていた証左といえる。したがって支那事変がはじまってからも、「上海は欧米諸国の勢力圏であるから手を拡げる考えはない」(『陸軍部』)と述べ、一九三八年五月には秩父宮に対し要旨次のような意見具申をしている。

「日華事変は即時兵をおさめて、中国本土から撤兵すべきである。・・・中国本土の占領などはいささかの利益もなく、日中両国間の溝を深め、米ソ両国に漁夫の利と侵略主義の口実を与えるのみで、日本の国力を消耗するだけである。こんな戦いを続けていけば、日本はやがて米ソ両国から徹底的に叩かれるときがくるであろう」(阿部前掲書)

 同様に、第十六師団長時代(一九三九年八月~一九四一年三月)にも「支那といくさをしていると今に世界中を相手にいくさしなけりゃならなくなる!」(藤本前掲書)と言ったという。その後、日本はまさしく世界中を敵に回して敗戦国となった。

 しかしこうした石原の危機意識と、持久戦略を戦争指導方針として対日戦にのぞんでいた蔣介石に反して、日本軍は石原が喝破したようにあくまで「益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ」(本論「日本は持久戦争に対応できなかった」)という形勢であった。当時の日本軍の特殊な思想について、井本熊男は次のように述べている。

「わが方の戦術、戦略は徹底した殲滅方針であり、決戦主義であった。歩兵操典に至るまで戦争指導上の概念であるべき速戦即決を謳い、あらゆる教範に「戦捷の要は敵を包囲してこれを戦場に捕捉殲滅するに在り」と強調していた。故に敵が強大であるからといって、戦闘を断念して退却するような考え方はなかったのである。その徹底した考え方から、敵もまた同様に、われと決戦するつもりでいるように判断したのである。徐州付近に集った四十万の敵は、わが軍と決戦を交えるであろうと考えて、わが方は徐州を包囲して、敵を全部つかまえて撃滅するつもりであった。

 ところが、敵は前述の如く逃げた。この場合、わが方の決戦思想をもって支那側を見ると、その退却は決戦に敗れた結果と見える。そのため支那は大きな敗戦感を抱いており、それは降伏につながると判断し勝ちであった。そのことが、この事変間対支判断を誤った一大原因であった。

 既述の南京占領後、トラウトマン工作時期におけるわが方の強気にも、このような敵情判断が影響していたと考えられるのである」(井本前掲書)

 そして、そうした悪習の根源は先に見たように陸軍大学校における教育にあったのである。那須義雄(陸軍少将、元陸軍省兵務局長)は陸大教育の欠点について次のように証言している。

「戦術的に勝つことに努力するは当然乍ら、特に徒らに決戦に勝つことのみを強調する。これは欧米戦術に心酔した力の戦いを尊重した結果であり、窮極において戦いは心の戦い、心理戦であることを忘れたきらいがある。つまり力の戦いが勢い真実に反する「強気」の傾向を呼び、紊りに硬直して、殆んど退くことを知らぬ。固より弱音をはかない主義は戦陣のこととて、大切ではあるが、真実に反して形式に堕し迎合に傾く時において行き過ぎの強ガリとなり、持久戦略の欠如となり況んやゲリラ戦の如きは夢にも考えなかった。従ってこの理解は乏しかった。

 石原莞爾教官が古戦史でフリードリッヒの持久戦略を、また日露戦史で若干東洋的戦争哲学、兵站補給などの再認識を呼びかけた教官がいたのは印象的であったが、所詮大勢とはならず、特に大東亜戦争において兵站軽視の弊風があったことと考え合せると、「決戦戦略偏重の強がりの弊も度がすぎた」と痛感されるのである」(『陸軍大学校』)

 ひるがえって蔣介石はこのように考えていた。

「長期戦においては、一時の進退をもってその勝敗を決することは出来ない。戦略的な撤退が予定していた結果を達成できるならば、それもまた勝利である」(一九三八年六月三日の日記、家近前掲書)

 つまり、日本軍は決戦を交えようと支那軍を追いかけていったというわけであるが、蔣介石にとっては戦争の終局的な勝利を得られればそれでよかったのであり、目先の勝敗にこだわって無用な戦闘をおこなうつもりはなかったのである。では、このように日支が完全に食い違った戦略で戦えばその結末はどうなるであろうか。石原は次のように予想した。

「緒戦では戦果を収めるだろう。それに酔うて拡大方針をとるだろう。だが中国は広いのだ。懐に入って踠くだけだろう。都市をたたけば参るだろうと思うが、そうはゆかない。いくらでも奥地に逃げ場所がある。線路を押さえるとお手上げと思うが、それは日本人的感覚だ。アミ傘の人力が蟻のような列で石炭をはこぶ。広い野原でいくらでもゲリラができるのだ。中国人は最低の生活に耐えて辛抱がよい。日本は消耗戦に疲れ果てるだろう」(曺寧柱「石原莞爾の人と思想」『永久平和への道』。これは第十六師団長時代の講演での発言であるが、事変前からの一貫した持論であったことは明らかである〔本論「支那事変は持久戦争だった」〕)

 したがって「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」という有名な言葉はこのような文脈で理解されるべきであり、石原がそうした予測に基づいて、特に上海への陸軍派兵に反対したのは当然であった。換言すれば、当時の日本には持久戦争を戦うための準備がまったくなく、政戦両略を駆使して適当なところで戦争を確実に終結に導くといった芸当は絶対不可能であったし、それ以前に持久戦争を戦っているという自覚すらなかったことに危惧の念を抱いたのである。これらの不備を石原が看取していたことはすでに触れたが、のちに語った陸軍大学校批判や政府批判にもその点はありありと現れているので引用しておく。

石原の考へを率直に申しますと陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導し得ないのであります。即ち今度の戦争でも日本の戦争能力と支那の抗戦能力、「ソ」英米の極東に加ふる軍事的政治的威力とそれを牽制し得る独逸と伊太利の威力等を総合的に頭に画いて統轄して、日本が対支作戦にどれだけの兵力を注ぎ込み得るかを判定し戦争指導方策を決定し得られなければなりませんのに其の間の判定能力のある人は参謀本部に一人もないと思ひます。又持久戦争は参謀本部だけでは決定できないので御座いまして、詳細は統帥部政治部各当局が協力して方針を決定し若し意見の一致を見ることの出来ない場合に於ては御聖断を仰いでなさるべきものであります。

 然るに斯した戦争指導も出来ず統帥部政治部の各関係省部が自由勝手なことをやり之を纏める人が一人も居ないのは陸大の教育が悪いからで、大綱に則り本当の判断をやる人が一人もないからだと思ひます。即ち総合的の判断をなし得る知識を持って居らないのであります」(「回想応答録」)

支那の戦争について我々はどういふ戦争かといふと、日支戦争が始まると若干師団を動員してパッとやると屈伏すると、簡単に考へて居つたのが日本国民の常識のやうでしたが、これは近世殊に満洲事変以後の支那の真面目な建設に対して自惚れ或は国民の目を蔽ふて居た為めであります。不幸にして私達の心配が適中しまして、支那人はなかなか参つたといひません。私に言はせれば、よく世間ではソラ廣東をやれ、漢口をやれといふが、大体に於いて政治家がさういふ作戦上の事を往々いふのは、其の国が統制力を失つて居る時で、戦がうまく行かないことです。(中略)漢口を取つたとしても、私は、蔣介石政権は或は崩壊するかも知れないが、崩壊しない方が絶対的であらうと思ふ。仮りに蔣介石が倒れたとして支那四億の人間は屈伏するか、私はこれはだんじて屈伏しないと見て居ります。かへつて蔣介石政権でも潰れてしまつたら、共産党国民党のこんがらがつた利権あさり、或は軍閥などが卍巴となつて、支那の中はガタガタして簡単に屈伏なんて思ひもよらないと私は考へて居ります。言ひ換へると、此の日支戦争は最初から私達が云つて居るやうに、これは持久戦争であります。去年の七月から持久戦争の決心でやらなければならんのに、南京を取つたからこれから持久戦争だなんてことは、日本の賢明なる政治家諸君が、戦争の本質に対する研究が足りないといふことを、明瞭に証明して居ると私は思ひます。(中略)

 徹底的に支那を屈伏するとか、強いことを仰しやる方がありますが、それが為めには私は申します、数十個師団の兵を数十ケ年支那にもつて行つて、全部押へてグッとやるんです。無理が通れば道理引つ込むといふことがあるが、そこまで行けば始めて支那は屈伏します。(中略)結局本当に徹底的に支那を屈伏せしむるには、それだけの決心を持たないで中途半端にチョコチョコやるなんてことは、相当考へものであります。(中略)それで斯ういふことを──まだ大きな声でいつてはいけない事と思ひますが、私は事件が始つた時、これは戦を止める方がいいといつた。やるならば国家の全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思つた。然しどちらもやりません。ズルズル何かやつて居ます。掛声だけです。掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。で、私は、私の理想からいけば、東洋で日支両民族が今戦ふ必要はないと思ふ。戦ふべきではないと思ふが、然し戦争は始まつて居ます。始まつて居る今日は先づ少なくとも絶対的に大勝利を得なければなりません。(中略)

 私は三ヶ月ぶりで東京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。満洲も絶対にいいことはありませんが、東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひます。阿片中毒者─又は夢睡病者とかいふ病人がありますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」(「協和会東京事務所に於ける石原少将座談要領」昭和十三年五月十二日『資料』)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

日本は持久戦争に対応できなかった

 石原は、支那事変は広大な支那大陸を舞台にした持久戦争であると考えていたが、これは客観的にも妥当な認識といえるだろう。すなわち蔣介石政権を武力だけで屈伏しようとすれば、いたずらに戦線だけが広がって泥沼化必至だったのである。そのような事態を回避するためには、適当なところで矛を収めて結局外交交渉によって解決を図ることが必要であり、もし和平が成立しない場合には戦線を縮小して国力の消耗を防がなければならなかったのである。石原が、このことを確たる理念として保持していたことについては先に確認したとおりであり、すでに満洲事変前には次のように考えていた。

消耗戦争ハ武力ノミヲ以テ解決シ難ク政戦略ノ関係尤モ緊密ナルヲ要ス 即チ軍人ハヨク政治ノ大綱ヲ知リ政治家ハ亦軍事ノ大勢ニ通セサルヘカラス

 英国ノ如キ国防大学ノ設立目下ノ一大急務ナリ」(「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」昭和六年四月『資料』)

 しかし、支那事変勃発時においても政戦略は完全に乖離しており、閣議で報告される戦況は新聞報道にすら劣るものであったといい(矢部前掲書)、近衛は「一體軍の作戰なりなんなりについて、何にもきいてをりません。爲すがまゝにたゞ見てをるより仕方がありません」(『原田日記』第六巻)と天皇に訴えるような状況だったのである。そこで大本営政府連絡会議が設けられたものの、これとて政治と軍事を統合できる組織には到底なり得なかった。風見によれば、大本営の中でも陸海軍は戦略すら一元化できず、そのうえ連絡会議においても陸海軍の反対によって戦略を議題にすることができなかったという(矢部前掲書)。

 このように、石原のいう「政戦略ノ関係」は等閑視されてしまった感があるが、それは以下に示す情勢と深く関わっていた。黒野耐氏は当時の陸軍を次のように概観している。

第一次大戦以降の主流となる長期にわたる持久戦争を戦いぬくためには、政治・外交・軍事・経済など国家の全機能を総合的に運用する戦争指導の概念が必要だったが、陸大における教育は依然として作戦指導の観念から脱皮できていなかった。(中略)

〔このため戦争指導に関しては一部の先覚者が個人的研究をおこなっているにすぎなかったが、〕先覚者の中でも、戦争指導に関する学術的研究の第一人者が石原莞爾であった。石原は大正十一年から約三年間ドイツに駐在して、フリードリッヒ大王とナポレオンの戦争史を研究し、戦争形態の歴史的変遷から、持久戦争の到来とその後に出現する決戦戦争の戦争指導を理論化し、参謀本部第二課長として戦争指導計画の作成を推進した。(中略)

 ただ、陸軍の戦争理論や戦争指導の研究が制度として実施されたわけではないから、全体的にみれば陸大では戦争指導の教育がおこなわれなかったといっても過言ではない。したがって石原が参謀本部に登場するまでは、戦争指導計画を作成するという観念すらなく、国防方針と作戦計画しか存在しなかった」(黒野参謀本部陸軍大学校』)

 こうした傾向は陸軍に限らなかった。総力戦研究所所長を務めた飯村穣はこのように述べている。

「わが国では戦術研究は盛に行なわれたが、戦争術の研究は、戦争指導の研究は、行なわれず、戦争指導の研究教育は、昭和一五年秋に創設せられ、私が初代所長になった、内閣直属の総力戦研究所で始めて行なわれた」

「当時わが陸軍の戦術思想は、速戦即決攻撃一方の戦法であり、海軍戦術は、見敵必殺の電光石火的な超短期戦であった。しかし、事戦争となると、速戦即決や、電光石火的に片づけ得る予想敵国は、当時の日本には一つもない。ソ連然り、米国然り、支那また然りである。・・・また、戦史の、戦争史の、研究によれば、戦争のみならず、あらゆる作戦も戦闘も、結局は、戦力の消耗により、片がつくものである。しかるにわが国には、消耗持久の戦法の研究が殆んどない」(『続兵術随想』)

 陸軍の場合は次に指摘されるような思想が背景にあった。

日本陸軍の用兵思想は建軍当時から日清・日露戦争に至る間のみならず、その後も作戦上では第二次大戦の初期までドイツ流兵術の影響を受けていた。第一次大戦でドイツ軍は敗れたが、それでも戦略・戦術の面、とくにその殲滅戦法はわが国防方針、用兵綱領の主旨に合致するものとして、その研究熱は俄然高まっていった。第一次大戦で兵力劣勢のドイツ軍が優勢なロシア軍の兵力分離に乗じて、その各個撃滅に成功したタンネンベルヒの会戦はその適例とされた。第一次大戦後の大正十年、陸軍の偕行社から刊行された『殲滅戦』にはドイツのシュリーフェン元帥の殲滅戦の思想が解説され、その研究の必要性が強く切望されている。

 かくて昭和三年に制定された『統帥綱領』には作戦指導の本旨を、

「敵軍戦力ヲ速カニ撃滅スルタメ、迅速ナル集中、潑剌タル機動力及ビ果敢ナル殲滅戦ハ特ニ尊ブ所トス」

 と示し、また翌四年に公布された師団級以下を対象とする『戦闘綱要』も、

「戦闘一般ノ目的ハ敵ヲ圧倒殲滅シテ迅速ニ戦捷ヲ獲得スルニ在リ」

 として、殲滅戦法の採用が本決りになったのである」(『陸軍参謀』)

 石原はこのような風潮を、「日露戦争ノ僥倖的成功ト吾国情ノ戦争持久ニ不利ナル為メ且ツハ欧洲軍事界ノ趨勢ニ盲従スルノ結果我国軍ハ益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ」(「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」昭和六年四月『資料』)と批判しているが、まさに支那事変においても以上のような短期決戦思想に、支那軍の実力に対する侮蔑感が加わって、武力のみで簡単に決着をつけることができると考えられていたのである。以下に示すエピソードは、そうした当時の日本の空気をよく伝えていると思われる。

 一九三八年三月に東久邇宮が寺内寿一北支那方面軍司令官を訪問した際、漢民族を武力で制圧することは不可能、したがって速やかに戦争をやめたほうがよいとの旨の意見を述べたところ、「軍司令官、軍參謀長ともに顏の色を變へ卓を叩いて非常に怒つて、そんな考へは誰の考へですか、近衞總理がそんなことでもいつてゐるのですか。一體全體日本國内でいまどき和平などといふことを考へてゐるものがあるからして、この戰爭は思ふやうに捗らないのだ。蔣介石軍は打ち破らなければならない」と声を荒らげるような状況だったといい(『天皇陛下』)、また、同様に松井石根支那方面軍司令官も蔣政権を打倒すべきとの意見を持っており、南京陥落後には速やかに同政権を否認すべきであると杉山陸相に進言している(『松井石根南京事件の真実』)。杉山はトラウトマン工作の打ち切りに際して「蔣介石を相手にせず屈服する迄作戦すべし」(堀場前掲書)と主張しているが、「便所のドア(押せばどちらにでも動くの意)」と揶揄された杉山である。陸軍の大多数の意見を反映していると見るべきであろう。

 片や和平解決を主張し続けていた戦争指導班などは参謀本部で孤立してしまい、あまつさえ「その気概軟弱にして軍人にあるまじき者ども」というレッテルを張られる有り様であった。また、秘密裡に進められていたトラウトマン工作を暗号解読によって知った海軍軍令部員が、“犯人”は堀場一雄と見て、これを糾弾すべく怒鳴り込んできたこともあったという(芦澤前掲書)。堀場は強硬派と激論を交わすことしばしばで、時には身の危険を感じることもあったのだろう、当時実弾を装填した拳銃を机の引き出しに忍ばせて執務にあたっていたと自著に記している。同時期、和平工作に関与していた本間雅晴参謀本部情報部長もひそかに死を覚悟し、毎日身を清め、下着をかえて出勤したそうである(角田房子『いっさい夢にござ候』)。石原の指示を受けてトラウトマンと接触した馬奈木敬信は、「何しろ当時は省部の間では主戦論者が多く、大多数を占めていたので、和平工作なんていうものは、非常に勇気のいることであった」(今岡前掲書)と回想している。

 さらに政府要人の中にも南京占領後も和平交渉による解決を主張する参謀本部に対し、「いったい何を考えているのか了解に苦しむ」と非難する者があったという(井本前掲書)。近衛などは支那事変勃発後のかなり早い段階から蔣介石政権に代わる傀儡政権の樹立に肯定的になっており、蔣介石の交渉受諾の申し入れが到着すると和平条件案審議の過程において積極的にトラウトマン工作を妨害しにかかっている(別ページ「トラウトマン工作における新和平条件の決定について」)。

 加えて外務省にはすでに上海における日本軍の勝利をもって、蔣政権が事実上崩壊したと見なす向きさえあり(劉傑前掲書)、川越茂駐支大使は一九三八年一月七日、「〔中支に〕新政權が出現するには日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ、それと同時に〔支那民衆の支持を得るために〕漢口を中心とする國民黨政權の武力を壓縮する必要もあらう」(一月八日「東京朝日新聞」)と談話を発表した。風見は同談話が発表された理由について、北支に続いてすでに中支にも陸海外提携のもと新政権を組織しようとする工作が進められていたためだったのではないかと推測している(風見前掲書)。したがって新和平条件に対する支那側回答に接した広田が支那側に誠意なしとして交渉の打ち切りを主張したときも、「閣議も主務大臣たる外相がそのように考えるなら致し方ないというようなことで比較的簡単に考えられていた」(『木戸幸一日記』東京裁判期)のである。

 また、石射猪太郎は日本国内の情勢を以下のように回想している。

「事変発生以来、新聞雑誌は軍部迎合、政府の強硬態度礼賛で一色に塗りつぶされた。「中国膺懲」「断固措置」に対して疑義を挿んだ論説や意見は、爪の垢ほども見当らなかった。人物評論では、「明日の陸軍を担う」中堅軍人が持てはやされ、民間人や官吏は嘲笑を浴びせられた。(中略)

 この〔一九三七年九月初旬に開かれた臨時〕議会における演説で近衛首相は、事変の局地収拾方針を全面的かつ徹底的打撃を中国に加える方針に切り換える旨を明らかにし、その目的を達するまでは、長期戦を辞さないと説き「諸君と共に、この国家の大事を翼賛し奉ることを以て誠に光栄とする」と結んだ。予めこの演説の草稿を入手した私は、「軍部に強いられた案であるに相違ない。中国を膺懲するとある。排日抗日をやめさせるには、最後までブッたたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持ってゆくというのか。アキレ果てた非常時首相だ」(日記から)と罵った。

 元来好戦的であるうえに、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数台の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景は東京の街頭風景になった。暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。

「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには華北か華中かの良い地域を頂戴するのは当然だと思った。

 地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは蓆旗〔むしろばた〕で外務省に押しかける」と詰め寄られた。(中略)

 世を挙げて、中国撃つべしの声であった」(石射『外交官の一生』)

 角田房子氏は、「南京陥落の報は日本中に万歳の声をまき起し、国民はちょうちん行列や旗行列に浮かれた。敵の首都占領は、戦い全体の勝敗が決したと受けとられ、中国の降伏による終戦も間近であろうとの期待さえ生まれた」としている。氏は南京の陥落した日、歌舞伎座にいたが、陥落を祝して踊る役者に観客は狂気のような拍手を送り、「チャンコロ、思い知ったかあ」とのかけ声が飛んだと自身の体験も伝えている(角田房子前掲書)。

 そして朝日新聞なども、上海が陥落すると「〔結果はどうであれ〕一意南京を目指して進撃するの他はない」(一一月一六日「東京朝日新聞」社説)と無責任に煽動し、したがって南京陥落前には「支那内外よりする調停説の俄に擡頭し來つたことは、大に警戒を要するところである」(一二月六日、同前)と和平を迷惑がり、南京陥落の翌日に現地陸軍が北支に傀儡政権(中華民国臨時政府)を樹立すると「歡喜慶祝に堪へざるところである」(一二月一五日、同前)と述べている。「対手トセズ」声明が発表されると各紙これを礼賛した(『石射猪太郎日記』)。

 外務省東亜局第一課長だった上村伸一は当時の情勢を次のように述べている。

「〔南京陥落後〕軍部内の大勢は急激に和平に背を向けて、北京新政権の育成強化により、事変を自主的に収拾するの方向へと進んだ。それは軍部内強硬派が初めから主張していたところだが、南京の占領により、蔣介石の運命もすでに極まったと称し、軍の大勢を制するに至ったからである。日本の世論も、南京の陥落により、有頂天になって軍強硬派の主張に同調し、閣僚連までがいい気になって、苛酷な新和平条件及び「支那事変対処要綱」〔甲〕を決定して、和平交渉よりは自主的収拾に傾いたのである」(上村前掲書)

 河辺虎四郎、稲田正純はそれぞれ以下のように回想している。

「対支判断において、蔣介石は、わが武力に屈して軍門に降るというようなことはない。長期持久戦争を指導しうるであろうと多田次長や石原部長は考えていた。これに対して多くの者は、支那の力を軽視して、恐らくポッキリ折れるだろうと考え、上海を陥して南京へ行く前に手を挙げてくるだろうというのであった。したがって、講和の条件についても権益主義におちいり、真に国力、国防力を明察して至当の判断を下し、あくまですみやかに終戦に導くという熱意がなかった。国民が一番強気で、次が政府であり、参謀本部が国家全般を憂慮して最も弱気であった」(『陸軍部』)

「〔陸軍には支那を思い通りに支配できると考えるものが大勢いた。〕ですから、支那事変は早期にやめようという当時の参謀本部首脳の意向には、賛成するものがいなかった。新聞にしても、世論でも“暴支膺懲”といって、やめろという声はなく、海軍でもそうでした。ここまできて参謀本部はなにをいうのか、という気持だったのですね。もっとも海軍の上層部は違っていましたが、それでも南支那に勢力を拡張するというのなら双手をあげて賛成なのです」(中村前掲書)

 しばしば〈トラウトマン工作さえ成功していたら、支那事変は短期間で終わっていたのだ〉と、あたかもトラウトマン工作がちょっとした判断ミスか何かで失敗したかのような意見をインターネット上で目にするが、それは後世の後知恵というものであって、以上に見たように当時の日本人の常識では〈蔣介石ごときを降伏させることはそう難しいことではない。故に強いて和平による解決を求める必要もないのだ〉と考えられていたのである。したがって、暴支膺懲論が世論を席巻し、なおかつ軍の大勢を占める強硬派と政府が軌を一にするような状況では、一握りの和平論者がいくら頑張ってみたところで同工作が成功するはずなどなかったと結論付けるほかない。

 しかし、日本人がその誤りに気付くまでにそう時間はかからなかった。石原と対支武力行使をめぐって対立した武藤章は、上海、南京を攻略すれば支那事変は解決すると考えていたようであるが、その後も支那が降伏する気配を見せない状況に、「どうだろうかね。いくらやってもダメというなら国としても考え直さなければなるまいがのう・・・」、あるいは、「やっぱり石原さんの云った通りであった」とつぶやくこともあったようである(武藤前掲書)。

 さらに近衛なども、一九三八年の半ば頃には早くも「一月十六日の〔「対手トセズ」〕声明は、実は余計なことを言つたのですから・・・」(『宇垣一成日記』2)と漏らしている。旧態依然とした戦争観を持っていたのは軍人も政治家も同様だった。堀場一雄は次のように指摘している。

「戦争形態は既に総力戦に進化しあり。又支那事変の本質は大持久戦なるに拘らず、軍及政府の要路に於て、総力戦及大持久戦に関する理解認識共に不十分なるもの多し。

 我国が戦争手段として思想、政治、経済等の面に於て、積極性乏しき為勢ひ武力を重視し、更に之を偏重するの一般的傾向あり。然れ共世代は進化して列国は各種戦争手段を操縦して、総力戦を指導しあり。乃ち我亦攻防両勢共に、武力外各手段をも併せ一途に統合運用すべきに拘らず、依然として戦争は武力戦従って戦争は軍人なるの旧思想行はれ(偶々総力戦を口にする者も多くは本質を把握せず)、総力戦の指導を阻碍せり」(堀場前掲書)

 すなわち政治・外交・軍事・経済など国家の全機能を総合的に運用しなければ勝利することができない持久戦争に、当時の日本が確実に対応することは不可能だったといえる。支那事変勃発後、小川愛次郎という老志士が石射猪太郎のもとを訪れ「日本はbattleには勝つてもwarに敗れる」(石射前掲日記)と警告しているが、言い得て妙だろう。

 そして、このことは誰あろう蔣介石によって見抜かれていた。蔣が第二次世界大戦の勃発を予測し、もしそれ以前に支那が日本と単独で戦うことになった場合には、長期戦に持ち込んで国際情勢の変化を待つという戦略を持っていたことは前に見たとおりだが、この戦略の成算は次の点にあると考えていたのである。

「日本は、経済・内政・統帥などの武器以上に重要な要素が完備していないから、国際的規模〔の戦争〕においては決して最後の勝利をえることができない」(『太平洋戦争への道』3)

 大日本帝国の命運は、まさに蔣が見通したとおりの結末をみた。慧眼と言うべきだろう。その後日本は、支那と同様にアメリカに対しても決戦戦争を挑み、むなしく戦線を拡大して国力を消耗するというまったく同じ過ちを犯してしまった。

 ついでながら述べておくと、戦後になって、石原は外国人記者に対し、私が対米戦争を指導していれば勝っていた云々と言ったと伝えられるが、実際にはあの時点における開戦には断固反対であり、「陸軍はアジアの解放を叫んで、どうやら英米との戦争を企てている様子だが、その実は石油が欲しいからだろう。石油は米国と妥協すればいくらでも輸入出来る。石油のために一国の運命を賭して戦さをする馬鹿がどこにあるか」(『日本軍閥暗闘史』)、「支那事変をこのままにして、さらに手を拡げて新たな戦争を始めたら必ず国を滅ぼす」(井本前掲書)、「〔米英打倒を叫ぶ〕參謀本部の頭は狂つてゐる」(「明日に生きる石原先生」『石原莞爾研究』)、「殘念ながらもう日本も駄目だ。朝鮮、樺太、台灣など皆捨てて一日も早く明治維新前の本土にかへり、ここを必死に守つたなら何とかならぬこともあるまいが、今の儘では絶對に勝利の見込はない」(平林前掲文)、「生産力からいつても、二十対一のひらきがある。アメリカと戦つてもとうてい勝目はない」(田村眞作『愚かなる戦争』)などと、この種の発言は枚挙にいとまがないのであるが、戦う前から日本必敗を断言していたことを指摘しておく。

 その理由は後で見るように、日本が国策を展開するためには、まずそれに見合った国力を養うことが先決だと考えていたためであり、石原の国防計画によればあのタイミングにおける対米開戦などもってのほかだったのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

「日本は支那を見くびりたり」

 では、当時の日本人は支那の力量をどの程度に見積もっていたのであろうか。盧溝橋事件当時の陸軍の状況について、井本熊男は次のように証言している。

「石原第一部長は前年来、日支関係の破綻を回避するため、対支外交方針緩和の実現、北支及び満州に出張して現地軍の策動を抑えるなど各種の努力を傾けていたが、盧溝橋事件か起ると主として省部(陸軍省参謀本部)内において下僚、同僚、首脳部に対し不拡大堅持のための説得に精魂を尽した。その趣旨は、

「今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力、軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である」

 というのであった。

 第一部長は第三課の室に来て、課長以下全員に対し、何回か右の説得に努めた。また近衛首相に対しても理解を得るように工作していたようである。

 石原部長に同調する人は省部を通じ若干あったが、極めて少数であってしかも石原少将より若年の人々であった。故に不拡大勢力は著しく弱く、極端にいえば石原少将単独の主張であった。省部の首脳およびほとんど全部の幕僚は対支観において石原部長と正反対であった。すなわち「支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せば直ちに屈従する。この際支那を屈伏させて概して北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相俟って対ソ戦略態勢を強化することが必要で、盧溝橋事件はそれを実現するため、願ってもない好機の到来を示すものである。」というのである。

 この考え方は満州事変以来陸軍指導層の変らない対支観、対支施策であった。満州事変の主役者関東軍参謀石原中佐も当時はこの考え方であったが、その後四、五年の間に前記のような思想に飛躍的に変化したのであった。

 武藤課長の考え方は陸軍の指導層主体と同じであって、特に前任の関東軍第二課長(情報、謀略)時代に信念的なものとなっていたようである」(武藤前掲書)

 そして盧溝橋事件発生の報が参謀本部に伝わると、武藤が「愉快なことが起つたね」(「河邊虎四郎少将回想応答録」『現代史資料』12)と言い、支那課長の永津佐比重大佐は、

「日本は動員をやつたら必ず上陸しなければならぬと考へるから控目の案になるのだ、上陸せんでも良いから、塘沽附近までずつと船を廻して持つて行けばそれで北京とか天津はもう一先づ参るであらう」(同前)

「石原の云うことは間違っている。支那は、小兵力を以て脅しただけで屈伏する。この際一撃を加えて、我方針の貫徹を図ることが最善の方策である」(井本前掲書)

 支那班長の高橋担中佐は、

「内地動員の掛声或は集中列車の山海関通過にて支那側は屈伏する」(堀場前掲書)

 兵要地誌班長の渡左近中佐は、

「精々保定の一会戦にて万事解決すべし」(同前)

などと、それぞれとんでもない観測を述べていたのであるが、極めつけは杉山陸相の「事變は一ケ月位にて片付く」(近衛前掲書)という天皇への上奏だろう。

 このように陸軍では従来どおり、支那に対しては威嚇によって日本側の要求を貫徹できるのであり、要求が通らない場合でも、一撃を加えればたちどころに降伏してしまうと考えられていたのである。そうした考え方は上海に戦火が拡大しても本質的な変化は見られなかった。

 松井石根上海派遣軍司令官は八月一八日に参謀本部首脳部と懇談した際に南京攻略を主張しているが、その意図は一六日の日記によれば、「一挙南京政府ヲ覆滅スルヲ必要トス」(「松井石根大将陣中日記」『南京戦史資料集』2)というのであった。しかもこのとき南京さえ攻略すれば蔣介石は下野するだろうと完全な見当違いを述べている(同前)。参謀本部支那課の見込みはさらに甘く、上海をとれば蔣介石はすぐ手を上げるだろうとの意見だったという(中村前掲書)。

 一方、海軍軍令部においても、中支・南支に戦局が拡大した場合、航空爆撃と沿岸封鎖などによって支那を短期間に屈伏させることが可能であるという、海軍の一撃論とでもいうべき甘い見通ししか持っていなかった(相澤前掲書)。高松宮は一九三七年七月一六日の日記に「海軍にも、この際支那を一つタヽイて、サツト引クがよいと云ふ説が盛んである」(『高松宮日記』第二巻)と書いているが、このような発想には陸軍の一撃論者との差異が見出せない。上海の長谷川第三艦隊司令長官も上海、南京を占領することにより蔣介石を屈伏できると考えていた(「対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申」昭和十二年七月十六日『現代史資料』9)。

 また、既述のように七月一一日の派兵声明は風見の発案によるものだったのであるが、近衛自身も支那を侮り、強硬な戦意さえ見せれば必ず折れてくるという誤った見通しを持っていたのである(岡義武『近衛文麿』)。

 さらに伊藤正徳によれば、「大多数の国民は、勇壮無比のわが陸軍の楽勝を、大人と子供の相撲のように簡単に考えていた」(『軍閥興亡史』3)といい、尾崎秀実は「上海をとれば支那が参るであろう」「南京が陥ちれば勝負は決ったのである」との安易な見通しが事変当初、多数の国民の間に存在したとしている(「長期戦下の諸問題」『尾崎秀実著作集』第二巻)。

 以上のように、当時の日本人の大半は支那ナショナリズムや抗戦能力を過小評価しており、言わば国家規模で認識を誤っていたといえる。天皇は次のように述べている。

支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」(昭和十五年十月十二日「小倉庫次侍従日記」)

「結局、日本は支那を見くびりたり」(昭和十六年一月九日、同前)

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三

 以上は日本政府が和平交渉を打ち切った動機についてであるが、次にそれを是とした背景を探ってみたい。

 交渉打ち切り決定当時の状況について堀場一雄は次のように述べている。

「戦争指導当局は現政権否認後に来るものは長期戦にして、少くも四、五年に亘る覚悟を必要とし、兵力を更に増加し戦費を継続することは国際情勢及我が国力上不適当とする旨数字を掲げて累説し、放慢なる決心に陥るを防止せんとせるも、大勢は戦争次期段階の本質を究明せんとするの誠意に乏しく、滔々として強硬論のみ横溢せり」(堀場前掲書)

 また、「政府は未だ今後来るべき長期戦の実体を認識し居らず」(同前)とも観察していたのであるが、この見方は正確である。たとえば近衛は南京陥落直前に次のようなまったく見当はずれの発言をしている。

「もうとても自分には堪へられない。南京が陷落して蔣介石の政權が倒れる。で、日本は蔣政權を否認した聲明を出すが、その時が、ちやうど自分の退き時だと思ふから、その時に辭めたい」(『原田日記』第六巻)

 さらに政府は一九三八年一月一八日に「対手トセズ」の意味について、「國民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスルノテアル」(『主要文書』)との補足的声明を発表し、近衛は同日おこなわれた記者会見で「日本は飽く迄も蔣政權壞滅を計る」(一月一九日「東京朝日新聞」)、広田は二月一日の衆議院予算総会で「日本は之を撲滅する考へでゐる」(二月二日、同前)とそれぞれ述べているが、これらの発言に関しては必ずしも世論や議会対策のためだったとは言い切れない。近衛は南京を落とせば蔣介石政権を打倒できるという程度に考えていたが、後日あらためて「〔南京も陥落し、蔣介石政権の崩壊まで〕もう一押しと云ふ所なり」(「講和問題に関する所信」『現代史資料』9)と戦局の見通しについて述べている。広田が戦局をどのように捉えていたかは不明だが、近衛がのちに「どうも自分も廣田も、あまりに蔣政權打倒といふことを徹底的に言ひ過ぎた・・・」(『原田日記』第七巻)と反省の弁を口にしているところを見ると、近衛の認識と大差はなかったといえよう。広田はディルクセン駐日ドイツ大使に当初の和平条件を提示した際、「日本がこの戦争を継続することを強いられた場合には、日本は中国が完全に敗北するまでこれを遂行するであろう」(三宅前掲書)と強調していたが、単なる示威というわけではなかったようである。また、米内も例外ではなく、一九三七年一二月下旬に支那事変を和平解決する是非について「別に海軍はそんなに急ぐ必要もなにもないのだ」(『原田日記』第六巻)と言っており、支那事変の先行きを危惧していた様子は感じさせないし、翌年半ばにも「作戰部としては、今日事變に際してそれで行つていゝんだと思ふ」と漢口攻略を肯定する発言をしている(『原田日記』第七巻)。

 なお、天皇は盧溝橋事件後に、一挙に大軍を送って叩きつけ、短時間に引き揚げるという作戦方針を上奏した杉山陸相に「果してそれが思ふやうにできるか」と疑問を呈しているし(『原田日記』第六巻)、一九三八年の漢口作戦前には、板垣征四郎陸相閑院宮参謀総長に対し「一體この戰爭は一時も速くやめなくちやあならんと思ふが、どうだ」と述べ、「蔣介石が倒れるまではやります」と答える両者に不満を見せていることからも(『原田日記』第七巻)、決して対支作戦を楽観していたとは思えないが、残念ながらトラウトマン工作の打ち切りが決定した当時、和平交渉継続を主張する参謀本部ではなく戦争継続を選択した政府側に同調しているのである(『原田日記』第六巻)。戦争継続が本当に危険だと思えば政府に再考を促すこともできたはずで、このとき天皇の見通しにも誤りが生じていたことは否めない。

 そして「対手トセズ」声明発表の理由については、近衛自身がのちに次のように記している。

「これは帝國政府は國民政府を相手とせずして帝國と共に提携するに足る新興新政權の樹立發展を期待し、それを以て兩國國交調整を行はんとの聲明である。この聲明は識者に指摘せられるまでもなく非常な失敗であつた。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」(近衛前掲書)

 風見の説明によれば、

「そもそも、かかる方針にきりかえたのは、(一)すでに南京をすてた国民政府は、そのころは、その基地を四川の重慶にうつしていたが、こんな調子では、やがては国民の信頼をうしない、地方の一政権に転落してしまうにちがいない。(二)したがって、しきりに長期抗戦をさけんでいるが、それはほろびゆくものの悲鳴で、日本としては、長期戦にひきずりこまれるという心配はなくなったといっていい。(三)当然、新政権の成立を誘導し、これをたすけて、もりたててゆくことにより、日本の要求を貫徹するにたる時局収拾のみちが、おのずから開かれるのだとする認識にもとづくものであったのは、いうまでもない」(風見前掲書)

 要するに日本政府は、〈面倒な和平交渉をおこなわなくても、蔣政権をいずれ崩壊に追い込むことができる。そして蔣政権に代わる傀儡政権を相手に事態の収拾をはかることが可能である〉と、支那事変の行く末を楽観視していたのである。換言すれば、政府は蔣政権など武力だけで屈伏させることができる、すなわち支那事変を「決戦戦争」だと考えていたのである。

 その一方で石原は、「南京・漢口・廣東など奪取したからといつて、蔣介石は絶對にこんなことでは參らぬ」(平林前掲文)と後日述べているように、蔣政権を武力だけで屈伏させることは困難、すなわち支那事変は「持久戦争」だと確信していた。「対手トセズ」声明が出された四日後に近衛を訪問した石原は、時局について「極度の悲観論」を開陳し、やがて「鮮満をも失ふに至らん」と、政府とは逆に大日本帝国が崩壊するだろうと警告している(『木戸幸一日記』下)。

 さらに石原の影響力が残る戦争指導班では、高島辰彦中佐が一九三七年一〇月中旬に、「課長兼務の形にて第二課(作戦)の戦争指導の主務は、いろいろの方面から力をそがるる傾向となり、上海戦の作戦外形上の勝利のために、軍事作戦に努力の主力を向ける空気が濃厚となりたるは、支那事変の本質に遠ざかるものにて憂うべき事態なり」と日記に書いている。一一月一七日には「徹底した武力戦をもって大鉄槌を加える以外に、事変解決の方法はない」と主張する服部卓四郎参謀本部編制班員に対し、堀場一雄が「貴様ほどの奴がどうしてわからないのだ。蔣介石は徹底的に抗戦の意志を明らかにしている。しかも国民の戦争継続意志も強い。さらに中国大陸はわれわれが考えているよりはるかに広い。武力戦は、結局泥沼戦争となって際限のつかないものになってしまうのだ。第一、事変の局地的勝利によって日本が得られるものは一体なんなのだ」と反論している(芦澤前掲書)。このように戦争指導班では〈支那事変を武力だけで解決することは不可能。結局蔣介石を相手にした外交交渉によって解決をはかるしかない〉という認識が常識になっていたのである。多田駿も二月四日の連絡会議において、武力による蔣政権壊滅を主張する末次内相に対し、「武力ダケデハナイ外交、政略、経済等ニ依リテ潰滅ガアルデナイカ、武力武力デハイケナイ」と反論している(「機密作戦日誌」)。

 また、石射猪太郎も早期和平解決に努力した人物だが、支那事変当初、「支那軍に徹底的打撃を与へる事は到底不可能」という石原の発言を伝え聞いて「私の予見も其通り」と同意していた(石射前掲日記、八月一九日の条)。

 すでに明らかなように、トラウトマン工作に対する姿勢は支那事変の見通しと直結していたのである。すなわち政府がトラウトマン工作を打ち切り、蔣政権を否認するなどという愚行を犯してしまったのは、支那事変を武力だけで解決できると考えてしまったことが根本原因であった。もしその不可能を正しく予測できていれば、トラウトマン工作に対する態度は自ずからもっと慎重なものになっていたはずである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二

 さて、風見は盧溝橋事件発生当時の国内の様子を次のように回想している。

「ことに、ひそかに心配したのは、むこう見ずの強硬論がもちあがることであった。そのころは、一般国民のあいだにも、はたまた政界にあっても、中国をあまく見くびるという気風がみなぎっていた。一方、前年来、中国における抗日の勢い、すこぶるはげしく、それがため日本同胞にしてその犠牲となり、殺害された者もあったという事件に刺激されて、ひとつ、中国をとっちめてやるがいいといったような考えをいだく者も、すくなくなかった。また財界方面でも、中国市場を顧客とする製造業者や貿易業者の方面では、抗日気勢にあおられた排日貨運動に、ひどく手こずっていたおりもおりとて、ひとたたき、たたいてみせて、へたばらせるほうがいいかも知れぬとして、日本が、ことごとに強硬態度に出ることを希望しているものも、すくなくなかった」(風見前掲書)

 事実、盧溝橋事件が起こると、事件発生からまだ間のない七月一二日には早くも、日本経済連盟会と日本工業倶楽部は共同で「今次の北支事変に対して帝国政府の執りたる措置は万やむを得ざる自衛的行動と認め両団体はここに緊急理事会を開催し政府を支援することを決議す」と表明している(坂本雅子「「財界」に戦争責任はなかったか」『日本近代史の虚像と実像』3)。また、日本各地の商工会議所などの経済人から支那駐屯軍司令官にあてて激励の電報が届き、その内容は申し合わせたように「積極的に支那を討て」というものであったといい(池田前掲書)、高松宮も「財界の人も、海軍が早く立ち上つたら支那浙江財閥は大打撃をうけるだらうから、早く立つ姿勢を示して脅威すべしと進言する人もある」(『高松宮日記』第二巻)と日記に書いている。真偽は不明であるが、浅原健三によれば、盧溝橋事件後に石原は近衛と極秘会談をおこない同事件の平和的解決を直談判したというが、その内容を武藤章にリークして大騒ぎにさせた人物がおり、それは新興財閥である石原産業の石原広一郎だったとしている(桐山前掲書)。

 堀場一雄は次のように指摘している。

「軍需生産に当る企業家も、支那事変が短期に終息するのでは、拡張施設に投資するのを躊躇せざるを得ないので、心ひそかに拡大長期化するのを念願していた者もないとは保証し得ないのであった。

 これらが輿論を作り出し、対支膺懲の国論を盛り上げ、政府も、国論や政党の動向に迎合し、勢い強い声明を発し、和平条件にも過酷の要求を中国側に強いるという結果になる傾向もないでもなかった」(『陸軍部』)

 たしかに一〇月一日に首・外・陸・海四相で決められた「支那事變對處要綱」においては、戦局の拡大につれて増大する「国民の戦果に対する期待」を満足させるために賠償や合弁会社設立などの利権を要求することが考慮されているし(『陸軍作戦』)、広田は新和平条件をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えるにあたって、「中国政府が受け入れるとはとても思えない」と難色を示す同大使に対し、「軍事情勢の変化と世論の圧力があるので、これ以外にありえない」と反論している(服部龍二広田弘毅』)。このときディルクセンは本国に「日本内閣の主要閣僚たちは、野戦軍と産業界との圧力の下で、これらの原則をあまりに穏和過ぎると考えており、蔣介石に対する全滅をめざす戦いを遂行出来るように、中国がこれらの原則を拒否することを望んでいる」旨を秘密の情報源から知り得たと報告している(三宅前掲書。テオ・ゾンマー『ナチスドイツと軍国日本』ではこれを広田の談話としている)。なお、前出の稲田正純によれば、梅津美治郎陸軍次官も賠償金の要求を主張していたが、彼は主戦論者というわけではなく、その理由は在支居留民がひどい目にあっており、賠償金を取らなければ戦後の処理ができないということにあったようである(中村前掲書)。陸軍とて世論を無視するわけにはいかなかったのである。

 さらに、政府が和平交渉の打ち切りを急いだ理由については、以下のような見解がある。

「広田外相があの時どうしてあのように強気に交渉打切の態度に出たか一寸考えられないことで、もつと粘つてもよかつたのではないかと思うが、その理由として一つ考えられることは、一月二十日から議会が再開されるので、議会では必らず論議に上るこの和平問題を議会対策としてその再開前に早く結論を出して置こうと考えたのではなかろうか。それに内閣書記官長の風見章氏も記者的性格の持主で構想をまとめることの上手な人で、支那の新興勢力と手を組むとの一つの夢を議会で打出そうとしたのではなかつたかとも推測している」(『木戸幸一日記』東京裁判期)

 多田駿も手記に次のように記している。

「政府ガ強硬ナリシハ近々議會ガ開カレ其ノ對策ノ爲ナリシナラン。・・・政府ハ支那ヲ輕ク見、又滿洲國ノ外形丈ヲ見テ樂觀シ爲ナランカ」(多田前掲手記)

堀場一雄も同じように見ていた。

「而して〔交渉打ち切り期限と定めた〕一月十五日とは何ぞや。急進論の燃焼の外、政府は一月二十日よりの議会開始を基準となしあり。国家の運命を決する大事を議会対策の便宜より割出す。本末顚倒も甚しきものなり」(堀場前掲書)

 すなわち、当時の政府の思惑については次のような説明ができるだろう。

「政府は中国側の回答に「誠意」なしとして和平工作を打ち切ったが、和平工作を試みたこと自体に対して議会内の強硬派から批判・非難を向けられるおそれがあった。政府声明の発表には、そうした批判や非難の矛先をかわす、あるいは少なくともそれを鈍らせるというねらいが込められていたのではないかと思われる」(戸部前掲書)

 そうであれば「議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。逆に言うと、議会と世論が弱ければ和平工作は成功していたかもしれないというのが実相なのであった」(筒井『近衛文麿』)という見方もできる。

 ここまで見たように、近衛内閣のポピュリズム的性格がトラウトマン工作に及ぼした影響はかなり大きかったといえよう。しかし、「そもそも世論をたきつけたのは近衛内閣にほかならず、その世論が内閣に跳ね返ってきたのである」(服部前掲書)。今度はそれに迎合する形で対支態度を硬化させ、最終的に蔣政権を否認してしまったのであるから、あまりに拙劣な対応であったと評するほかない。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献