牛歩の猫の研究室

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おわりに

 本論では、北支事変ならびに支那事変初期における石原の言動を検証したが、同時に国内外の情勢についても多くの記述を割いた。彼の言動と、その背景にある認識や思想を評価するためには、それを把握しておくことが必要不可欠と考えたためである。

 内外情勢のうち、もっとも重要なのは蔣介石の意思であるが、二〇〇六年から「蔣介石日記」の公開がはじまり、近年それを利用した研究書や論文が次々に発表されたことで徐々に明らかになってきた。従来、蔣介石がいつ対日開戦を決意したかについて議論があったが、彼は盧溝橋事件後に強硬態度を見せたものの、内心では和平解決を望んでおり、七月末の支那駐屯軍による総攻撃を受けて開戦の決意を固めざるを得なかったというのが真相であった。そして支那事変における蔣介石の一貫した目標は国際的な対日干渉を引き起こすことであり、そのためには長期戦に訴えることも計画していた。したがって国際都市である上海での戦いを重視するとともに、すでに大陸奥地の開発にも取りかかっており、上海や南京を占領するだけでは彼を屈伏させることはできなかったのである。

 一方、日本国内に目を移せば、軍人や政治家は持久戦争(敵を武力だけで屈伏させることが困難な戦争)を戦い抜くための教育を受けておらず、また、彼らの認識では武力による一撃を加えるだけで蔣介石を簡単に屈伏させることができるというのであって、そもそも持久戦争を戦っているとの自覚すらなかった。したがって南京攻略後にトラウトマン工作を成功させ、戦争を止めておけばよかったというのは理想だが、南京の陥落は蔣介石政権は一地方政権に転落したも同然という錯覚をもたらし、そのため和平交渉の成功を願う者は極めて少数派であって、外交による解決などとても望めなかったのが当時の実情だったのである。

 支那事変初期における石原の対応を論じるとき、最低でもこれらの事実を把握しておかなければ空論のそしりを免れないであろう。以上を踏まえて石原が上海出兵に反対したことを批評するならば、蔣介石の戦略をかなりの程度正確に予想すると同時に、日本における持久戦争遂行上の不備を問題視していた石原が、上海出兵に反対したことは現実に即した妥当な判断であったと評せる。上海権益に執着したせいで、無用な戦争に巻き込まれて最終的に上海を守れていないどころか、満洲も朝鮮も台湾も何もかも失ってしまい、そのうえ本土が焼け野原になってしまっては元も子もない。その後、終戦までに浪費された莫大な戦費(『昭和経済史』上によれば約七五五八億円)や、計り知れない人的、物的被害もあわせて考えれば、上海権益などさっさと放棄したほうが良かったに決まっている。

 なお、これは後講釈や十五年戦争史観のような結果論ではない。すでに見たように、石原は支那と全面戦争になればその解決は困難で、最終的には列国との軋轢を招くことになるとその後を正確に見通し、作戦部長辞任時に日本は亡国となって海外領土をすべて失うことになるだろうと予言していたのである。「上海が危険なら居留民を全部引き揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(前掲『大東亞戰爭回顧録』)との石原の言は事実となった。上海出兵が大日本帝国破滅のポイント・オブ・ノーリターンになると判断していた石原にとって、海外の一権益ごときのために国家の運命を賭して戦をはじめるなど愚策以外の何物でもなかったのである。

 石原の判断について、戦前戦後に外相を務めた重光葵は次のように評価している。

「上海に事が起ることは、もはや上海だけに止まらず、一歩誤まれば、戦争は中支、南支に波及し、海軍の南進政策の端緒となる」のであり、そのため「支那事変が中支及びそれ以南に拡大されて行くことは、日本の戦闘力の分散であって、北方の防備を薄くする危険があるし、国防国家の十分出来上がっておらぬ今日、用兵は最小限度に止め、北支以外への出兵は、犠牲を忍んでも思い止まらねばならぬ」という石原ら参謀本部の考えこそ「統帥に責を負うものの理由ある意見であった」(『昭和の動乱』上)。

 戸部良一氏は、『文藝春秋』二〇〇八年一〇月号に掲載された「新・東京裁判──国家を破滅に導いたのは誰だ」という座談会で、上海事変の際に戦略よりも海軍の面子を優先し、難色を示す石原ら陸軍に派兵を認めさせた米内の責任を問う福田和也氏の発言を受けて、次のように述べている。

「確かに上海事変では海軍の責任が問われますね。しかし、戦争が上海に拡大したのは、蔣介石が敢えて日本を挑発したという側面も大きい。

 華北では日本側が非常に優勢でしたが、上海であれば精鋭の直系軍が使える、と蔣介石は考えたのでしょう。その上で、上海で戦端を開いて列強を巻き込み、日本側を交渉の場に引っ張りだして互角の立場で交渉しようという戦略をたてた。そうした思惑に海軍が乗せられてしまったんです」

 この両氏のように当時の歴史に通暁してはいなくとも、あの場当たり的な上海への陸軍派兵が招いた不幸な結果さえ知っていれば、それが正しかったなどとはとても言えないはずである。そういう意味では、石原の対応で問題となるのは上海事変時ではなく、やはり不拡大方針(正確には早期和平解決方針)が最も効果を発揮し得た盧溝橋事件直後の七月一〇日に、作戦課による北支への陸軍派兵案に安易に同意してしまったことだというのが、平凡ではあるが筆者の結論である。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献