牛歩の猫の研究室

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最終戦争論

 よく知られるように最終戦争論という石原独自の思想は一冊の本にもなっており、一般には日蓮信仰のドグマや、日本とアメリカが決勝戦を戦うという結論部分がクローズアップされ、読者に奇妙な印象を与えているようである。たしかに石原の説明には論理の飛躍としか言いようのない部分が散見され、石原自身も戦後に「最終戦争が東亜と欧米との両国家群の間に行なわれるであろうと予想した見解は、甚しい自惚れであり、事実上明かに誤りであったことを認める」(「新日本の進路」『石原莞爾選集』7)と率直に反省するしかなかったのである。

 しかしその反面、最終戦争を準備するために確立しようとした国家戦略については別の評価が必要と思われるのである。なぜならば、支那事変前に打ち出されたそれに関しては、彼のリアリストとしての一面が多分に反映されているのであり、その線に沿って進む限りは結果的にせよ国益にかなっていたといえるのである。以下、その石原の抱懐した戦略の概要を明らかにしつつ批評することにしたい。まずそれには支那事変の前年に明文化された国防計画を検討することが有効と思われるので、「国防国策大綱」(昭和十一年六月三十日『資料』)という文書を確認しておく。

「一 皇国ノ国策ハ先ツ東亜ノ保護指導者タル地位ヲ確立スルニアリ之カ為東亜ニ加ハルヘキ白人ノ圧迫ヲ排除スル実力ヲ要ス

二 蘇国及英米ノ圧迫ニ対抗スル為ニハ所要ノ兵備特ニ航空兵力ヲ充実スルト共ニ日満及北支ヲ範囲トシ戦争ヲ持久シ得ル万般ノ準備ヲ完了スルコト肝要ナリ

三 先ツ蘇国ノ屈伏ニ全力ヲ傾注ス 而シテ戦争持久ノ準備ニ就テ欠クル所多キ今日英米少クモ米国トノ親善関係ヲ保持スルニ非レハ対蘇戦争ノ実行ハ至難ナリ(中略)

四 兵備充実成リ且戦争持久ノ準備概ネ完了セハ蘇国ノ極東攻勢政策ヲ断念セシムル為積極的工作ヲ開始シ迅速ニ其目的ノ達成ヲ期ス 而シテ戦争ニ至ラスシテ我目的ヲ達成スルコトハ最モ希望スル所ナリ(中略)

五 蘇国屈服セハ適時之ト親善関係ヲ結ヒ進テ英国ノ東亜ニ於ル勢力ヲ駆逐ス(中略)

六 (中略)対蘇戦争ノ為現下ノ対支政治的工作ハ南洋方面ノ諸工作ト共ニ英米殊ニ米国トノ親善関係ヲ保持シ得ル範囲ニ制限スルヲ要ス 此間新支那建設ノ根本的準備ニ力ヲ払フ(中略)

七 蘇英ヲ屈セハ日支親善ノ基礎始メテ堅シ 即チ東亜諸国ヲ指導シ之ト共同シテ実力ノ飛躍的進展ヲ策シ次テ来ルヘキ米国トノ大決勝戦ニ備フ」

 石原は世界最終戦争が起こる時期を一九七〇年頃と予想し、それまでにアメリカを上回る生産力や科学力を養わなければならないと考えていたのであるから、「国防国策大綱」は三十年程度の将来を見据えた構想であったといえる。そして対米戦に先立ち、日満支を中核とする東亜連盟(東アジア諸国による国家連合)を結成して、東亜諸民族を指導し生産力の大拡充を図ることが必要だとしており(『最終戦争論』)、これに関しては妥当性に欠けると評するほかないが、他方「日支親善ハ東亜経営ノ核心ニシテ支那ノ新建設ハ我国ノ天職ナリ 然レトモ白人ノ圧迫ニ対シ十分ナル実力無クシテ其実現ハ至難ナリ」(前掲「国防国策大綱」)、別の機会には「口先だけで、おどしても、支那人は、腹の中で笑つてゐる、要は、日本が、實力をたくはへることだ」(西郷鋼作『石原莞爾』)と述べるように、少なくとも支那が現在の実力不十分な日本に唯々諾々と追従するとは考えておらず、いずれにしても国力向上を先決としていたのであった。なお、石原は満洲事変前後には支那本部をも領有することを考え、アメリカの参戦により持久戦争を戦うことになれば軍隊の自活をおこなう、すなわち「戦争を以て戦争を養う」ことを説いていたが、この時点では以下にも述べるように「平和を以て国力を養う」構想に変質していることに注意したい。
 ともあれ、この中で最も注目すべきは、石原が将来の対米戦を目標とした戦略を明示し、その第一段階として、まずソ連の極東攻勢を断念させるため、軍備の充実(満洲国の完成)に全力を傾注しようとしていたことである。

 当時の石原の腹案については、河辺虎四郎の回想が詳しい。

「私はかなり以前からいろいろの機会において、石原氏の思想に触れていたが、このたびはじめて同氏の直下に勤め、しかも同氏のそれまでの職任〔戦争指導課長〕を受けついだわけであるから、この際改めて部長である同氏の所信をきこうと考え、着任後まもない某日〔一九三七年三月〕、同氏をその自宅に訪ねた。その際同氏の私に語ったところによれば、同氏は早晩西洋諸民族間の大動乱が必ず起こるであろうことを予想し、これに対しては日本は直接この動乱の中に投じなければならぬ道義上にも利害上にもなんらの理由がない。したがって全然局外にあるべきだと信じていた〔堀場前掲書によれば、「十二年頃戦争指導当局はソ聯の産業及軍備の充実計画竝に之に伴ふ仏英米の軍備動向より見て、一九四二年(十七年)前後には世界戦争勃発すべしとの判断を有しあり」とある〕。そしていまや鋭意満州国の発育を助長し、日華満三国の親和関係を強化して、東洋の平和を維持しながら、わが国防実力、ひいて国家地位の安泰を得るように努力することが、日本国殊に中央統帥部の焦眉の急務であると見ていた。そしてまた、石原氏は、その近年における中国国民の反日憎日感も、日本国民の反省にもとづく自重心の向上と、日本国力の充実ができるに従い、自然に消えてなくなるであろうし、しかもそれによって、三国間に真の親好と相互尊敬の事実が現われるものと信じ、ここに実質的に現在はなはだ心細いわが国防的ポテンシャルを速急に高めねばならぬ理由の根拠があるとした。また、それ故にこそ殊に当時の陸軍としては、深く自重して、自らの実質を向上進歩するように、努力するとともに、在外軍隊も対ソ対華ともに慎重自制の態度を固く持し、かりそめにも国際葛藤の動因を誘発するおそれのあるような過ちを犯さぬよう万般の注意を加えることが必要だと強調していた」(河辺前掲書)

 ところで、日本と蔣介石の国民党を戦わせようとし、また、その結果利益を得たのは誰か。それは毛沢東であり、スターリンであったことは否定できない事実である。たしかに蔣介石自身も対日戦の準備を進めていたが、それは日本が戦争を仕掛けてきた場合の準備というべきで、大局的に見れば共産主義者の筋書き通りに動かされていたといっても過言ではない。盧溝橋事件の第一報が入ると、毛沢東は「災禍を引き起こすあの厄介者の蔣介石も、ついにこれで日本と正面衝突さ!」、張聞天は「抗日戦争がついに始まったぞ!これで蔣介石には、われわれをやっつける余力がなくなっただろう!」といって喜んだというが(『毛沢東』)、これとは対照的に、蔣介石は支那事変勃発後に開かれた会議の場で、「奴らが抗戦しようとするから、国家がこんなありさまになったのだ!」(『我が義弟 蔣介石』)と感情的になって声を荒らげることがあったという。自らの意志で日本と対決しようとした人間は絶対にこんなセリフは吐かない。共産主義者の手の内を知り尽くしながら、対日戦をはじめざるを得ない状況に追い込まれてしまった無念がこのように言わせたのである。なお、スターリンは一九三八年二月、蔣介石との戦争にまんまと飛び込んでくれた日本を評して、「歴史というのはふざけるのが好きだ。ときには歴史の進行を追い立てる鞭として、間抜けを選ぶ」(『日本人が知らない 最先端の「世界史」』)と述べている。

 一方、石原はこうした状況を把握したうえで戦争に反対していた。盧溝橋事件が起こると以下のように発言している。

「芦溝橋の事件は八路〔中国共産党軍〕の謀略かも判らない状態である。通州事件は明らかに敵の襲撃を受けて、日本機関と在留日本人が全滅して敵軍隊の志気をたかめ、国民の敵愾心を煽っている。支那は、昨年の十二月、西安事件国共合作が復活したとはいっているが、蔣介石の国民党が毛沢東共産党に屈した形である。中国共産党は国際共産党コミンテルン〕に煽動されて中国の抗日戦争を煽っている。共産党の謀略に乗って日中戦争を起こしてはならぬ」(山口前掲書)

 この意味でも、日本が本当に警戒すべきであったソ連を目下の最大の敵と見なし、これに備えて無用な対外戦争を回避しつつ、満洲国に蟠踞し国力充実に専念すべきという石原構想は、当時の日本にとってきわめて適切なものであったといえる。以上から次のような評価を与えることも可能だろう。

「日本には、ボルシェビキや、ヒットラーらの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。(中略)

 ただ一つ戦略らしいものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。

 支那事変前年の昭和十一年八月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみを敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としている。

 そして、盧溝橋事件後は事件の不拡大に努め、その後昭和十三年六月に至る三次の戦争計画要綱では、「戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ」「速やかに和平を締結する」ことを主張している。

 まさに蔣介石との戦争に日本を巻き込み、米英とも対決させようというソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった」(岡崎久彦『重光・東郷とその時代』)

 ここまで見たように、この時期に石原が有していた戦略は内外の情勢判断が基礎になっていたのである。そして石原が支那事変に反対した真意はもはや明らかであろう。すなわち、来るべき第二次世界大戦に際してフリーハンドを確保しておくことや、ソ連に漁夫の利を与えないようにすることなどを念頭に据え、盧溝橋事件発生後の拡大方針に反対した石原の意見が「目下は専念満洲国の建設を完成して対「ソ」軍備を完成し之に依つて国防は安固を得るのである。支那に手を出して大体支離滅裂ならしむることは宜しくない」(「西村敏雄回想録」『現代史資料』12)というものであったように、日本の国防を盤石なものにすることを最優先課題としていたのであり、それは自己の構想を推進するための土台でもあった。故に、満洲国の完成も見ないうちに、敵の退避戦略と列国の干渉により解決不能に陥る可能性が高い支那事変は絶対に戦ってはならなかったのである。

 それでは、実際に石原が主張したように、日本が居留民とそれを保護する部隊を支那本部から撤退させ、対支戦争を回避していればその後歴史はどのような展開を見せただろうか。まず、日本軍が特に北支からいなくなってしまえば蔣介石は小躍りして喜んだはずで、国際情勢の変化に備えて引き続き自強をはかったか、うまくいけば掃共戦を再開できただろう。さらに日本が第二次世界大戦に際して中立の立場をとれば、アジアに植民地を持つ参戦国は日本に好意的態度を維持してもらう必要に迫られるし、あるいは大戦終結後に米ソ対立がはじまれば、アメリカをはじめとする自由主義陣営諸国にとっても満洲は対ソ戦略上重要な位置を占めることとなる。これらの過程において満洲国が国際的に承認された可能性は大いに考えられよう。また、支那事変がなければ中共の勢力拡大も限定的で、場合によっては日本やアメリカの支援を受けて史実とは逆に蔣介石が支那を統一できていたかもしれない。中華民国が真に主権国家としての体をなし、治安が維持されれば日本の企業や国民は平和裏に再進出できるのである。

 以上は最大限好意的な予測であるが、いずれにせよ支那事変は回避すべきであったことに変わりはない。日本軍が矛先を支那大陸に向けて蔣介石と無意味な抗争を繰り広げ、なおかつそこに権益を有する列国との間に軋轢を引き起こすような「間抜け」な行動は、日本が真に敵と見なすべきスターリンを大喜びさせるだけであった。こうした無益どころか不利益しか得るものがない戦争は避けられるものなら避けるのが合理的判断というものであろう。在支権益の放棄という一時的な損失を被ったところで、上記のようにあとで山ほどおつりがくる展開が見込めたのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献