牛歩の猫の研究室

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蔣介石の遠略

 ところで、蔣介石は支那事変の勃発以前にいかなる対日戦略を有していたのであろうか。その基本的枠組みについては一九三四年七月におこなった、廬山軍官訓練団における演説から明らかになる。このとき蔣は次のような構想を表明した。

「第二次大戦はいまや一九三七年までに起る可能性あるほど切迫し来たった・・・その大戦において日本の陸軍はソ連を敵とし海軍は米国を敵とするが故に、結局日本は敗戦すべく、その際が満州華北の失地を回復し中国の統一を完整する機会である・・・もしこれに先だって日本との単独戦争に入ることとなるならば、長期戦に訴えてその間の国際情勢の変化を待つ」(『太平洋戦争への道』4「解題」)

 無論その長期戦は、広大な国土を利用することを想定していた。次のようにも述べている。

「緒戦で敗退しても、私は、最後には必ず勝利を収めることができると信じている。こうした革命戦術(我々の血肉をもって敵の銃砲に抵抗すること)により、彼らが我々の一省を占領するには、少なくとも一ヵ月かかるだろう。計算すれば、彼らが我々の十八省を占領するには、少なくとも十八ヵ月必要である。この十八ヵ月間で、国際情勢の変化はすさまじいだろう。ましてや、必ずしも一ヵ月で我々の一省を占領できるとは限らないのだ」(「外侮を防ぎ民族を復興する」一九三四年七月一三日、黄仁宇『蔣介石』)

「戦争が始まれば、勢力が均衡した国家は決戦で戦争を終結する。だが、日本と中国のような、兵力が絶対的に不均衡な国家同士の戦争は、正式の決戦にこだわらない。日本は中国の最後のひとかけらの土地まで占領し尽くさなければ、戦争は終結できない。普通、二国間で開戦すれば、政治の中心の占領が要計である。しかしながら、対中国作戦に関しては、武力で首都を占領しても、中国の運命は制することはできないのである」(「友か?敵か?」一九三四年一二月、同前)

 以下においてさらに確認していくが、こうした「以夷制夷」戦略こそが蔣の一貫した対日戦略だったといえる。支那事変勃発後に国民政府は首都を南京から四川省重慶に移して抗戦を継続したが、すでに蔣は一九三三年八月に「大戦が勃発する前にどのようにひそかに準備を進め、敵に注目されず、西北と四川の経営に専念するか」(蔣介石日記の記述。黄自進「中日戦争の前奏:蔣介石と華北問題(1933‐1935)」『蔣介石研究』)との問題を提起していた。そのため蔣は満洲事変後においても「安内攘外」というスローガンを掲げて中国共産党の討伐を優先したが、中共を追撃する過程において四川省をはじめとする大陸奥地の支配力強化にも乗り出している(岩谷將「1930年代半ばにおける中国の国内情勢判断と対日戦略」『戦史研究年報』第13号)。そして一九三五年半ばに四川省における中共討伐を終結させると、同地の軍事拠点化を本格的に推進したのである(家近亮子『蔣介石の外交戦略と日中戦争』)。

 やがて支那事変が勃発すると、蔣は一九三七年一一月の国防最高会議において次のように述べている。

満洲事変から〔第一次〕上海事変を経て長城戦役に至るまで、私は焦りながらも、抗日戦争を行うための妥当な政策を定めることができなかった。(中略)しかしその後やっと抗日戦争の根本計画を定めたのである。この根本計画は、いつまでに決ったのであろうか。私は、今日各位にはっきりとお伝えする。それは民国24(1935)年、四川に入って中共を討伐する時であった。四川に到着してはじめて私は、我々の抗日戦争のやり方を見つけたと思った。なぜなら、対外戦争はまず後方の根拠地を必要とするからである。(中略)民国24年四川に入ってはじめて真の持久抗戦の後方を探しあてた。したがって、その時から戦争を実行する準備に力を注いだのである」(黄自進前掲論文)

 この言葉に偽りのないことは先に見たとおりである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献