牛歩の猫の研究室

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トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一

 日本政府は一九三八年一月一五日の大本営政府連絡会議においてトラウトマン工作の打ち切りを主張し、これに反対する参謀本部をねじ伏せ、翌日「仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國國交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」(『日本外交年表竝主要文書』下。以下、『主要文書』と略記)という声明を発表したのであるが、そこに至った理由を考える前に、簡単にトラウトマン工作の経緯を確認しておきたい。

 一九三七年一〇月二一日、広田弘毅外相はヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使に和平の斡旋を依頼し、一一月二日には和平条件を提示するとともに、戦争が継続された場合には条件がはるかに加重されることを強調した。なお、これに先立って石原ら参謀本部はドイツを仲介とした和平工作を独自に推進していたが、このことに広田は関知しておらず、また広田も陸軍との協議を経ることなくディルクセンに対する条件提示に踏み切っており、この二つの動きの関連性について断定的なことはいえないようである(宮田昌明「トラウトマン工作再考」『日中戦争の諸相』)。ただし、このとき提示された和平条件については一〇月一日に首・外・陸・海の四相会議で決められた「支那事變對處要綱」(『主要文書』)が基礎になっており、それは船津工作案が「再確認されたものであった」(石射前掲書)。

 一一月五日、同和平条件はトラウトマンから蔣介石に伝達されるも、ブリュッセルでの九ヵ国条約会議に期待していた蔣介石は受理を拒否した。しかし同会議が何ら有効な対日制裁を決定できずに閉幕すると、一二月二日、蔣介石は日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマンに伝えた。このころ支那側では動揺の空気が広がり、国民政府内で主要な地位を占めていた汪兆銘孔祥熙らは和平に積極的になっていた。しかし、五日には対日参戦を要請していたスターリンから参戦は不可能とする回答が届き、蔣介石は同日と翌日の日記に「ドイツ調停もまた望みがないようだ」「倭に対する政策はただ徹底抗戦あるのみ,これ以外に方法はない」と書いている(岩谷前掲論文)。

 一方、日本側でも小川平吉日記の一二月八日の条に「朝、永田町に〔近衛〕公を訪ふ。去二日、独大使より敵は北支領土並に行政権に触れざれば交渉開始すべしとなり、六日〔ドイツの斡旋〕謝絶に決定せりと」(『小川平吉関係文書』1)との記述が見られる。翌日以降の経過を見る限り同決定は取り消されたようであるが、すでに政府には交渉無用論が横行していたのである。

 七日、ディルクセンと会談し、蔣介石の意向を正式に伝達された広田は「一月前、すなわち日本の偉大なる軍事的成功の以前に起草された基礎の上に交渉を行なうことが未だ可能かどうか疑問に思う」と和平条件の加重を示唆する返答をおこない(三宅前掲書)、同日の四相会議はドイツの斡旋を利用し、新条件を提示することを申し合わせた(『石射猪太郎日記』)。また、この日トラウトマン工作に関する情報の一部が明らかになり「〔陸軍〕省部ノ下僚色メク」(「大本営陸軍参謀部第二課・機密作戦日誌」『変動期の日本外交と軍事』。以下、「機密作戦日誌」と略記)。

 翌八日、陸相官邸にて多田駿参謀次長を加えた会議が開かれ、「蔣ハ反省ノ色見エザルモノト認ム、将来反省シテ来レバ兎モ角現在ノ様ナ態度ニテハ応ジラレズ 併シ独逸大使迄ニハ新情勢ニ応ズル態度条件ヲ一応渡シテ置ク必要アリ」(同前)と決議した。その後、杉山陸相が広田外相を訪ね「一応独の斡旋を断り度し」「近衛首相も其意向なり」と申し出ると、広田もそれに賛成してしまった(石射前掲日記)。また、近衛のほか米内も杉山に同意したらしく、四相間に「一応拒絶シ蔣ノ反省ヲ促シ時ヲオキテ独大使ニ当方ノ考ヘアル条件ヲ提示スル」との合意ができたようである(「機密作戦日誌」)。

 そして一〇日の閣議は蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決定した。同閣議では「広田外務大臣先づ発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの〔回答をするという〕結論に達し、其他皆賛同」したという。ただしこの閣議決定は堀場一雄ら戦争指導班の熱烈な上申によって取り消されたとみられる(堀場前掲書)。加えて、同日陸軍は一転ドイツの斡旋を受け入れるという方針でまとまり(石射前掲日記)、一一日に参謀本部和平派が陸軍強硬派に妥協した形の陸軍案と(堀場前掲書、「機密作戦日誌」)、一二日に同案を石射猪太郎が修正した形の陸海外三省事務当局案が作成された(劉傑前掲書)。そして一三日の連絡会議で陸軍案、一四日の連絡会議で三省事務当局案の審議がおこなわれたが、厳しい条件が列記された前者案には特に反対意見が出なかった一方、これを緩和した後者案には異論が続出し、結局一四日の連絡会議は陸軍案を採用することを決めた(この間の詳しい経緯は別ページ「トラウトマン工作における新和平条件の決定について」を参照)。その後同案には若干の修正が加えられ二一日の閣議新和平条件の最終決定をみたが、政府の意向により抽象的かつ全体をカバーする四条件に改められてディルクセンに示されたのは二二日である。この新和平条件が支那側に伝わったのは二六日だが、条件を知った蔣介石は「倭はあるいは条件緩和によって我政府を惑わし,政府内部で対立,動揺を起こそうとしているのではないかと思っていた」「しかし(条件)を見て,大いに安堵した.条件とその方式がこれほど苛酷であれば,我国は考慮する余地がなく受諾の余地もない.相手にしないことに決めた」と感想を日記に書いている(岩谷前掲論文)。

 一方、日本側においては、すでに蔣政権否認論が台頭しており、七日の四相会議は前述のようにドイツの斡旋を利用することで一応合意したが、同日の閣議の様子については一二月八日「東京朝日新聞」が「〔近々予想される南京陥落と蔣介石の脱出により〕南京政府は最早や中央政府としての存在を失ひ一個の地方政權と見るほかないといふ意見は政府部内に有力となつてをり、七日の閣議席上に於てもこの問題に關し隔意なき意見交換を行つた結果大勢としては南京政府否認の方向に向つてゐるが、否認の聲明をなすべき時期〔一字判読不能。竝?〕に聲明の内容については諸般の情勢を考慮し愼重に決定する筈で何れ南京陷落の公報が到達次第、臨時閣議を開催して正式に協議することとならう」と伝えている。また、上記一二月一〇日の閣議に出席した有馬頼寧農相は次のように記録している。

「午前十時より閣議。外相より独大使と蔣介石との会見につき、先日の電報を有りの儘に報告。拓相、文相より蔣政権否認の意見あり。結局南京陥落と、四時に首相の声明あり。降服すれば認めるも、其れ以外なれば否認することゝなる」(『有馬頼寧日記』3。後半部分がややわかりにくいが、これは一二月一一日「東京朝日新聞」によれば、南京陥落の公報を待って、臨時閣議は開催せずに近衛首相談の形式で政府の見解と態度を内外に発表することとなった、との意味のようである)

 この決定に基づき近衛は一三日の南京陥落に際して、「北京、天津、南京、上海の四大都市を放棄した國民政府なるものは實體なき影に等しい」「然らば國民政府崩壞の後をうけて方向の正しい新政權の發生する場合は、日本はこれと共に共存共榮具體的方策を講ずる外なくなるであらう」(一二月一四日「東京朝日新聞」)と声明している。二四日には、「今後ハ必スシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セス之ト別個ニ時局ノ收拾ヲ計リツツ事態ノ進展ニ備ヘ・・・」(「支那事變對處要綱」(甲)『主要文書』)とする方針を閣議決定した。そして一九三八年一月一六日の「対手トセズ」声明の布石となったものが、一月一一日の御前会議において決定した「「支那事變」處理根本方針」である。ここでは「支那中央政府カ和ヲ求メ來ラサル場合ニ於テハ、帝國ハ爾後之ヲ相手トスル事變解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政權ノ成立ヲ助長シ、コレト兩國國交ノ調整ヲ協定シ、更生新支那ノ建設ニ協力ス、支那中央政府ニ對シテハ、帝國ハ之カ潰滅ヲ圖リ、又ハ新興中央政權ノ傘下ニ收容セラルル如ク施策ス」(『主要文書』)ることが確認されている。一三日には、一五日までに回答がなければトラウトマン工作を打ち切ることが決まった。

 一四日、支那側からの回答が到着したのであるが、内容は蔣介石政権が和を求めてきたものではなく、新和平条件の詳細を問い合わせるものであった。広田はこれを「支那側ニ誠意ナク徒ニ遷延ヲ策スルモノナリ」と断じ、その後の閣議では「最早斯ノ如キ遷延策ニ構ハズニ予定ノ通リ南京相手トセズトノ声明ヲナシ次ノ「ステップ」ニ入ルベキ」こと(「機密作戦日誌」)、声明発表の日取りを一六日とすることに意見が一致した(『有馬頼寧日記』4)。翌一五日の連絡会議で大本営はこれに反対し、支那側の確答を待つべきことを主張したが、政府は譲らず、米内に至っては内閣総辞職をほのめかす言辞で食い下がる多田駿を恫喝した。結局参謀本部は譲歩を余儀なくされ、一六日、政府は予定の通り「対手トセズ」声明を発表した。しかしこのとき支那側は「遷延策」を講じていたわけではなく、蔣介石を除く多数の人物は和平を望んでいたが、さりとて厳しい新和平条件を受け入れることもできず、態度を決めかねていたというのが実相なのであった。岩谷將氏は、もし日本側が当初の和平条件を維持していたならば、国民政府内の主流派は暫定的にこれを受け入れ、蔣介石もまた再考を迫られる状況が生じた可能性があったと論じている(岩谷前掲論文)。

 無論、参謀本部の交渉継続論が正しく、政府の交渉打ち切り論は完全に誤りであった。強調しておかなければならないのは、先に見たように、一四日の時点で交渉打ち切り決定後に「対手トセズ」声明が発表されることは既定方針だったのであり、閣僚はそれを是認していたのであるから、交渉の打ち切りと「対手トセズ」声明の発表は不可分だったということである。したがって交渉打ち切りの決定は単にトラウトマン工作を頓挫させたに留まらず、以後日本では国民政府を対手にしないことが公式な国策となり、少なくとも明らかに勝者とわかる条件でない限り和平ができなくなってしまった。また、当然ながら日支両国大使の引き揚げという事態を招き、政府は以後外交による和平の可能性を自ら潰してしまうこととなったのである。そのうえすでに列国に承認されている蔣介石政権を否認するという行為は、九ヵ国条約との絡みからも既存の国際秩序に対して挑戦状を叩きつけたに等しいのであり、列国を敵に回すことは国際的な対日干渉を志向していた蔣介石を利することに他ならず、この意味からも日本政府は墓穴を掘ったのであった。そもそも現に交戦している相手を否認してしまうような行為はどのように考えても重大な過失というしかない。

 たしかに新和平条件は厳しいものであり、支那側がそのまま受け入れることは不可能だったが、期待していた列国による紛争介入が起こらず、苦境に陥っていた支那側の態度からして交渉継続が可能だったことは確実である。そしてあくまで蔣政権を対手にしていれば、たとえトラウトマン工作が失敗に終わっても、いずれ正式な外交ルートを通じて交渉を再開することもできただろうし、同じテーブルにつけば和平条件を討議することも可能だったはずである。実際にトラウトマン工作の失敗によって蔣介石が徹底抗戦以外の可能性を完全に排除してしまったのかといえば決してそうではなく、一九三八年三月下旬の日記からは早くも和戦の決断をめぐって迷いはじめている様子が看取される(馮青前掲論文)。なお、このとき国際情勢に対する悲観的な展望を背景に、彼は満洲国を承認することも考慮したようである(鹿錫俊前掲書)。

 理由はどうであれ、一和平工作が頓挫したからといって有害無益な声明を発表して交渉の窓口を閉ざしてしまわなければならぬ道理はないのである。この件に関しては完全に政府の失策といわねばならない。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

海軍の南進論

 さらに、ここで海軍が推進した南進論を問題にしたい。

 南進論の起源については、日露戦争後の一九〇七年に制定された「帝国国防方針(以下、国防方針)」にさかのぼることができる。ここでは「南北併進」がうたわれ、陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国に設定したのであるが、もっとも、これは予算獲得のための作文に過ぎず、海軍にとっての“アメリカ”は陸軍に対抗する必要から持ち出されたものであり、本気で戦争になるなどとは考えていなかったのである。

「この時点で、日本は台湾を、アメリカはフィリピンを領有しており、隣国である。しかし、アメリカの満洲への野心に実効性はなく、移民問題は行政問題に過ぎない。両国には本質的な対立はなく、無理やりにでも対立しなければ戦争など起きようがない関係である。それだけに、海軍は安心して日本の行政部内で声高に仮想敵だと喧伝できた」(倉山満「八八艦隊建設」『歴史読本』二〇一〇年九月号)と指摘されるとおりであろう。

 その後、幾度か「国防方針」は改定されたのであるが、陸海両軍ともに相手に予算をとられまいとの対抗心から意思の統一ができず、国家戦略の分裂が解消されることはなかった。

 そして先に結論を言えば、そのような欺瞞が大日本帝国を破滅に追い込んだのである。そもそも対米戦争は、その主体となるべき海軍がやるといわない限り起こりようのない戦争であった。しかし海軍は勝算がなかったにもかかわらず、結局最後まで公の場では〈アメリカと戦えない〉と明言しなかったのである(たとえば大杉『日米開戦への道』下)。

 戦後に語られた以下の証言は、当時の海軍の事情をよく伝えている。

三代一就(開戦時の軍令部作戦課参謀)「私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカと戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。

 どういうことかというと、海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”と。そしてその分を、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんでですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」

高田利種(開戦時の海軍省軍務局第一課長)「それはね、デリケートなんでね、予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月間際になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです」「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあけたところを言えば」(『日本海軍400時間の証言──軍令部・参謀たちが語った敗戦』)

 要するに、三十年以上嘘の作文を作って莫大な予算をもらっていた手前、今さら〈アメリカと戦えない〉とは言い出せなかったのであり、この期に及んでも予算配分が海軍に不利になってしまうことを嫌ったのである。

 しかし、こうした事態を回避する機会がないわけではなかった。一九三五年八月、参謀本部作戦課長に着任した石原は従来の「国防方針」を問題視し、国防計画を一新すべく海軍との話し合いに入った。「国防方針」に対する石原の批判は次のようなものである。

「わが陸海軍には作戦計画はあるが戦争計画はない。これでは国防を全うすることはできない。今や世界列強は国防国策を基とし、外交を律し、軍備を整える準戦時時代に入っている。慢然と想定敵国を列挙して外交や国力と別個に、軍備だけをもって国防を全うしうるものではない。すみやかに戦争計画を策定し、国防国策大綱を制定しなければならない」(『陸軍部』)

 すなわち、国防政策の基準であるはずの大正十二年国防方針には国家戦略も軍事戦略もなく、時代錯誤の短期決戦思想にもとづいた作戦構想と所要兵力が示されているだけで、戦争指導構想がまったくないことを懸念したのであり、石原は、国防方針には国防を中心に考えた国策(国防国策)がまずあるべきで、それを実現するための政戦略、つまり戦争指導構想もない軍備と作戦計画だけでは、準戦時時代に入った現時点において国防をまっとうできないと考えたのである(黒野耐参謀本部陸軍大学校』)。

 また、このとき軍事力を拡大していた極東ソ連軍が現実的な脅威になっており、これに対処することが国家にとって喫緊の課題であることは誰の目にも明らかであった。そのような理由からも、石原は、まず対ソ軍備の完成に重点をおいて、今後十年間は満洲国の育成に専念すべきとの方針で海軍との調整をはかろうとしたのであるが、海軍はあらためて南進を主張し、これに真っ向から反対したのである。このときの海軍の態度は以下のように説明することができるだろう。

「この時期、日本はすでに満州国を承認して北進策を推進しており、ソ連が極東の軍事力を飛躍的に増強し、満州国の防衛が危うい状況にあった。したがって、国家全般の立場から考えれば、北進であろうが北守であろうが、実態としてはまず陸軍軍備を増強して、これに対応するのが急務であった。

 日本が米英の権益の中心である南方へ具体的行動を開始した場合、英米と直接衝突する公算が大きくなる情勢にあった。しかも、北方の脅威に対応する能力も不十分であり、対米持久戦争の準備も完成していなかったのであるから、南進は自ら二正面作戦を求める自殺的行為になりかねなかった。海軍がこのような矛盾した主張をする背景には、昭和一〇年末から無条約時代に入るため、対米自主軍備を早急に推進したいという要求があったのである」(黒野耐『日本を滅ぼした国防方針』)

 では、このとき海軍が対ソ軍備優先の国防計画に同意していれば、その後歴史はどのように動いただろうか。実は海軍の中にも陸軍に予算の優先権を譲るべきとの考えを持つものはおり、当時、及川古志郎第三艦隊司令長官(起案は岩村清一同参謀長)が海軍大臣軍令部総長に具申した意見は注目に値する。

 その要旨は、「日本がとるべき国策として南進・北進の二策があり、平和的に進出するにしても障害がある現状においては実力行使の必要が生じる。南進は米英、北進はソ連との衝突を意味する。日本は今好んで英米と衝突するよりも、まず後顧の憂いを除いたあとに南進に転じても遅くはない。米英と衝突する場合にソ中は米英に組することがあるが、ソ連を敵とする場合は中国本土でイギリスと協調することにより、米中を局外に立たすことも可能であり、欧州においてドイツと策応することもできる。対ソ戦を直近目標としても、つねに米英の干渉を排除する海軍力の整備の必要性は認められる」というものであったが、もし外交手段により極東ソ連軍を撤退させることができれば武力行使の必要はなくなるとも論じている(黒野前掲書。全文は『陸軍部』を参照)。

 これは戦略的にも見どころのある意見だといえるし、国家の全般情勢を考慮すれば当然の結論だったともいえる。「本案をもって進んだならば、日露戦争以後始めて陸海軍が主要想定敵国を共通の一国に限定でき、陸海軍が力を合せて対ソ戦備、対支協調、対英米静謐を得たかも知れないとさえ思われるのである」(『陸軍部』)という見方も決してあり得ない話ではなかったが、もちろんこれは海軍中央部の容れるところとはならなかった。

 そのため、海軍の主導により一九三六年六月三日に改定された「昭和十一年国防方針」においても、すでに見た海軍の身勝手な要求が反映されることになり、結局はソ連と並んでアメリカが引き続き仮想敵国とされ、しかも短期決戦を追求することが示されることとなった(同前。先に見たように、そもそも石原は「国防方針」では国防を全うできないと考えていたのだが、対ソ軍備の強化が緊急を要するためやむなく海軍の提案を呑んだのである)。

「つまり、国策・国家戦略の策定より先に、下位にある国防方針や軍備の整備計画そして作戦計画の大綱を策定しようと提案したのである。まさに本末転倒の提案であったが、海軍にとって、国防方針第二部の所要兵力すなわち「軍備の整備計画」こそが全てであり、国策への配慮などは二義的、つまり「国益より省益」というセクショナリズムそのものの思考といえた」(『近代日本の軍事戦略概史』)

 石原は二月頃にはすでに海軍との調整をあきらめており、陸軍独自で国防国策大綱(後掲)を推進することとなった。なお、石原は六月に参謀本部の改編をおこなっているが、このとき設立された戦争指導課は自らの構想を推進するための中枢組織となった(石原の作戦部長辞任後、戦争指導班に格下げ)。

 同時に、海軍は支那事変勃発の前後において露骨な南進への欲求を見せはじめていた。支那事変前年の北海事件(南支にある北海で邦人一名が暴徒に殺害された事件)と、その後起こった諸事件に際しては、海軍は全面戦争をも辞さない強硬態度を見せており、陸軍が協力を断ったために対支作戦は実行されなかったが、支那事変は海軍主導のもとに一年早くはじまっていた可能性もあったのである。しかし、このとき海軍は、対日テロとまったく無関係、かつかねてから南進の基地として目をつけていた海南島の占領を視野に入れるなど、実は対支作戦を将来の対英米戦準備の一段階として位置づけていたのであり、対支問題など二の次でしかなかったのである。そして海南島へは支那事変勃発後に強引に進出、太平洋上の満洲事変と呼ばれた(相澤前掲書)。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

米内光政と上海事変

 上海事変勃発に際しての米内の対応については、相澤淳『海軍の選択』が正確に考察していると信じられるので、基本的には同書に依拠し、若干の筆者の考察を加えながら確認していきたい。

 まず、米内は盧溝橋事件発生以来、陸軍派兵に対してはきわめて慎重な姿勢を見せていたことが注目される。そしてこうした姿勢は上海事変直前においてもまったく変わらず、同時点においては船津工作による解決に固執するという態度となって現れていたのである。そのため軍令部の陸軍派兵要求にも反対し、八月一一日におこなわれた伏見宮軍令部総長の要請に対しても「外交交渉には絶対的信頼を措かず然れ共(中略)成否は予想出来ざるも之を促進せしむることは大切なり」「今打つべき手あるに拘らず直に攻撃するは大義名分が立たず今暫く模様を見度し」などと述べ、米内はこれを拒否している。

 その後、船津工作が進展をみせなかったことから陸軍派兵に渋々同意したものの、上海で戦闘がはじまった八月一三日の時点でも、「上海から陸軍の派遣を要求して来ているのだが、こういう時に備えて駐屯させている陸戦隊だから、陸軍の派兵は好ましくないと思っている」(緒方竹虎『一軍人の生涯』)という心境を披瀝していたのである。

 ところがこのような米内の冷静な態度は、八月一四日深夜の閣議において一変してしまう。このとき米内は紛争の不拡大を訴える賀屋興宣蔵相を怒鳴りつけ、北支事変の全面戦争化、さらには南京占領まで主張するなど突如として強硬論に転向し、天皇は翌日拝謁した米内に対して「感情に走らぬように」と、注意とも取れる言葉を発しているのである。

 米内が態度を豹変させた理由は何だったのだろうか。陸軍派兵に否定的ですらあったものが、わずか一日にして全面戦争論に転向し、そればかりか敵国の首都占領まで口にしはじめるのは異常な変化であると言わざるを得ない。

 実は当時の部下であった扇一登によると、米内は八月一四日午前一〇時頃におこなわれた支那空軍の爆撃、特にかつて座乗していた第三艦隊旗艦「出雲」に対する爆撃に強い怒りを示していたという。過日、米内は次のような対支認識を表していた。

支那をまいらせるため、正面から、またはいわゆる謀略行使の結果として、武力をもって支那をたたきつけることを「強硬政策」というもののごとく、あるいは支那がいうことを聞かなければ頑強にいつまでも苦い顔をしてにらみつけてやることを「静観政策」と称するもののごとく、そのいずれも拙劣な政策であることは恐らく議論の余地がないところであろう。

 支那をまいらせるためにたたきつけるということは、支那全土を征服して城下の盟をなさしめることだろうが、それは恐らく不可能のことなるべし。支那のヴァイタル・ポイント〔急所〕は、いったいどこにあるのか。北京か南京か、広東ないしは漢口か長沙か重慶成都か、このように詮議してくると恐らくヴァイタル・ポイントの存在が怪しくなってくるだろう。

 つぎに日本の実力と国際関係から見て、支那本土に日本の実力をもって日本の意志どおりになし得る範囲はどうか。

 支那のヴァイタル・ポイントということと日本の実力ということを考えるとき、われわれは満州だけですでに手いっぱいであることと察する。このように考えれば、いわゆる強硬政策なるものが実際に即しない空威張りの政策であって、他の悪感をかう以外に一も得るところがないこととなる。

 日本は過去において済南に、また、ちかくは満州に上海において武力を発揮して支那の心胆を寒からしめ、戦さをしてはとうてい日本にかなわぬという感じを支那の少なくとも要路の者にうえつけたはずである。支那の海軍が日本海軍を畏敬しておることはいうまでもなく、ただに軍事上だけにかぎらず、恐らくあらゆる点において日本が優位にあることは、だれが見ても考えても合点のゆくところと考えられる。

 このように実力のある日本は、どうして支那に対しもっと大きな心と大国たる襟度をもって対応できないのであるか。犬や猫の喧嘩でも、弱者は強者にたいし一目も二目もおき、けっして正面から頭をあげ得るものでない。喧嘩をしていないときでも、弱者のほうから強者のほうに接近をもとめるということは、なかなか困難なものである──たとえ接近しようとする意志がうごいても。これが、すなわち弱者の強者にたいする心理状態なのである。

 優者をもって自認する日本が劣弱な支那にたいして握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ〔威厳〕を損しプライドをきずつけるものだろうか。いつまでもこわい顔をして支那をにらみつけ、そして支那のほうから接近してくるのを待つということは、いかにも大人気のない仕業であり、むしろ識者の笑いをかうにすぎないものといわねばならない。

 日本はよろしく、つまらない静観主義をさらりと捨て、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに努めるべきである」(「対支政策について」一九三三年七月二四日)

 このような対支認識が米内の中でほとんど変化していなかったことは、盧溝橋事件発生以降、「武力をもって支那をたたきつけること」に反対し、上海の情勢が悪化しても外交交渉による事態解決の方針を頑なに譲ろうとしなかったことから明らかである。また、蔣介石に対して個人的な信頼を置いてもいたのであった。

 すなわち米内は、蔣介石と話をつければ問題は解決できるのであって、よもや「弱者」である支那が「強者」である日本に挑戦してくることなどあるまいと高を括っていたのである。その証拠に、すでに支那中央軍の精鋭が上海の包囲を完了した八月一二日の時点でも、何と米内は「相変わらぬ悠揚たる態度」をみせ、「仮に上海で事が起こっても上海にいる陸戦隊で十分防いでみせる」などとうそぶいていたのである(『静かなる楯 米内光政』上)。米内は手記に「もし今回の蘆溝橋事件にたいし誤まった認識をもってその解決にあたったならば、事件が拡大することは火を見るよりも明らかである。そして、その余波は一ないし二ヵ月にして華中におよぶであろう。海軍大臣のもっとも懸念したのは、じつはこの点にあったのである」(『海軍大将米内光政覚書』)と書いているが、それも結局は、「陸戦隊で十分防」ぐことのできる程度の小競り合いが、上海で「仮に」起こるかもしれない、といったものでしかなかった。したがって支那軍が上海付近に防禦陣地を構築しているという情報も、米内の解釈は「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」「公言は出来ざれ共停戦区域には正規兵は居らず「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり」(八月一一日朝、陸軍派兵に反対しての発言。「中支出兵の決定」『現代史資料』12※)というのであって、蔣介石が上海で戦争をはじめる準備をしているとは思いもよらなかったのである。

 ところが支那空軍による爆撃は、米内にとって劣弱であるはずの支那が正面から立ち向かってきたことを意味しており、そのうえ軍令部や現地軍の要請を拒絶して作戦準備を遅延させていたこともあって、この期に及んで現実を突きつけられて動転し、感情のコントロールを失ってしまったものと考えられる。要するに、米内は独善的な期待を裏切って攻撃を仕掛けてきた蔣介石に怒っていたのである。

 

※これらの発言は米内流の駆け引きだったのかもしれない。たとえば「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」と述べる一方で、非武装地帯における「「トーチカ」塹壕等」の存在を認めるのは完全な矛盾である。ただし「「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり」というのは本心だろう。おそらく米内は日本が先に手を出さない限り戦争にはなり得ないと考えており、「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」「停戦区域には正規兵は居らず」、このほかにも「大山事件は一の事故なり・・・目下の処上海方面に大なる変化なし」(前掲「中支出兵の決定」)などと上海の情勢は緊迫してはいないと強調することで陸軍の派兵決定を避けようとしたものと考えられる。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原の辞任とその後

 石原の作戦部長辞任に関しては、一般に解任されたものと理解されているようである。たしかに武藤章は「追い出した」、石原は「追い出された」とそれぞれ述べているように、何らかの圧力があったのは事実である。しかしその一方で、石原の側から辞任を申し出ていたことも事実であり、多田駿参謀次長の慰留を固辞する形で参謀本部から転出したようである。人事局長だった阿南惟幾は次のように述べている。

「着任日浅い笠原〔幸雄少将〕と石原を交代させることには、私は大反対であった。が新任の多田参謀次長の切なる要求で、不同意ながらその要求にしたがった。石原は従来の関係上関東軍参謀副長を適任と思うという主張であった。今にして考えれば、有為の石原を、東条参謀長の下、不遇の地位に追い込んだことになった。

 笠原は、『石原は留りたいと思えば残り得たであろう。しかし本人が参謀本部を出たがっており、その困難な立場に多田次長が同情されたのであろう。多田、石原は仙台幼年学校の先輩─後輩であり、非常に親しかった』と述べていた」(今岡前掲書)

 この件については以下のような見解がある。

「九月下旬、今や石原以上にも不拡大路線の堅持を明確に打ち出した多田次長を迎えたことで、中央における不拡大路線の維持は多田に任せ、石原は、折からの石原罷免の声に呼応して関東軍参謀副長への転出を願い出たのでした。これはもはや破滅的なまでに手薄となることが確実となった関東軍の対ソ戦線に、自らの天分を投げ込むことで責任を果たそうという悲壮な決意であったと受け取れます。そうした意味では、九月二十七日付けの関東軍参謀副長への転出は、決して単なる左遷ではなく、むしろ石原の天分を生かそうという多田次長と阿南惟幾人事局長による格段の好意的配慮の賜でした」(野村乙二朗『毅然たる孤独 石原莞爾の肖像』)

 石原が対ソ支二正面作戦という最悪の事態を回避しなければならないと考えたであろうことは言を俟たない。しかしそれと同時に、当時石原が抱懐していた戦略上の要請からも満洲国の防衛には万全を期さなければならなかったのであり(後述)、このため石原は渡満するや、すぐさま対ソ戦対策に取りかかっている(『石原莞爾 国家改造計画』)。一方、翌年に石原が退役の意向を明らかにすると省部当局者は苦慮し、「石原が満州を去る事はロシア側に与える影響が心配」との声があがったというから(野村前掲書)、野村氏の指摘するような側面がたしかにあったのである。

 ところで、山口重次『悲劇の將軍 石原莞爾』という書物の中で、石原が参謀本部からの転出時に天皇に拝謁した際のエピソードが駒井徳三の談として紹介されている。それによれば石原は今次の事変の経過とこれに対する彼の見通し、次いで満洲国における王道楽土の政治様式、ソ連に対する完全防備の方法、陸軍の一部が侵略政策をもって日支親善を妨げている事情等を腹蔵なく述べたところ、天皇は「よく言うてくれた。全く石原の云う通りだ。日華相爭うことは、兩國々民のみでない、世界人類の不幸ともなるであろう。今後も、氣づいたことは、何でも言うてもらいたい」と答えたとのことである。

 鵜呑みにはできないが、一概にフィクションとも言い切れない。『昭和天皇実録』第七の昭和一二年九月二二日の条には「侍従長百武三郎より、南京・広東爆撃に関する言上をお聞きになる。その際、戦争は不幸である旨の御言葉あり」との記述があり、当時天皇が上記発言(とされるもの)のような考えを持っていたことが確認できる。また、これから述べるように天皇は石原に対し、肯定的評価と批判的評価の両方を持っていたことも事実である。付け加えると、その批判的評価の中には誤った情報に基づくものがあり、実はそれが歴史に少なからぬ影響を及ぼしているのである。一九三九年九月、畑俊六陸相は平林盛人憲兵司令官を呼び次のように伝言している。

「石原中将が今度第十六師団長に親補される事になった。陛下も石原君のことは、優れた人材とお認め遊ばされて居られるが、世間で兎かく“石原は政治に干渉する”やに噂するので、よく石原君に自重するよう、これは私からよりも君が石原君と同期生であり懇意の間柄ときいているから、君から伝えてくれ」(阿部博行『石原莞爾』下)。

 畑は同年五月から八月まで侍従武官長を務めており、短期間ではあったが天皇の信任は極めて厚く、八月阿部信行内閣の陸相就任も異例の天皇の指名によるものであった。したがって「陛下も石原君のことは、優れた人材とお認め遊ばされて居られる」というのは、直接知ることのできた天皇の石原に対する肯定的評価であり、それをありのままに伝えたものと考えられる。ただし、七月に板垣征四郎陸相(当時)が石原に関する人事(第十六師団長新補)を上奏したとき、天皇が容易に裁可しなかったことも事実である。しかしその理由について天皇は「〔石原は〕浅原事件〔※1〕に関聯し此際親補職に栄転せしむるは良心に対し納得し難く・・・」(「陸軍 畑俊六日誌」『続・現代史資料』4)と述べており、特に石原の能力を問題にしたわけではなかった。

 また、畑は石原に政治に干渉することは自重するようにとも伝えているが、これは天皇の石原に対する批判的評価と関係していると考えられる。伊勢弘志氏は次のように指摘している。

「石原が第十六師団長に就いたのは、板垣からの推挙によるものであった。・・・この人事に対して昭和天皇はかなり鮮明に懸念を表明しているのだが、それは石原が政治に干渉する性格であると評していたからであった。昭和天皇の石原に対する評価とは、西園寺公望からの助言によるものだったのであり、またそれは西園寺の秘書官である原田熊男からもたらされた情報である。原田が抱いた石原の印象とはまさに満州事変を強引に決行し、その後に財閥を打倒目標に含めた国内改造を目指す将校なのであり、つまり変節する以前の石原の姿であったろう〔※2〕。その後に変節し、東亜連盟を目指してからの石原の構想には日中戦争を解決する可能性があったわけであるが、原田は変節を知ってか知らずか石原が政治に干渉するとの印象を変えることはなく、西園寺も石原に悪印象を抱き続けた。西園寺を信頼した昭和天皇は、石原を重用しようとする近衛や板垣を信頼せず、そのことが蒋介石との和平工作の頓挫にもつながったということである」(『石原莞爾の変節と満州事変の錯誤』)

 さらに畑俊六の阿部信行内閣における陸相就任が天皇の指名であったことはすでに触れたが、実はこれには当初陸軍三長官会議が後任陸相を多田駿第三軍司令官と決定していたものを、天皇が「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ」と阿部に指示し、覆した経緯があった。海軍では天皇が多田を忌避した原因を、石原系の色彩があるためと観察していたようである。筒井清忠氏は次のように述べている。

「しかし、石原(派)こそは、日中戦争不拡大派であり、この時天皇の支持すべき陸軍軍人であったのだ。その石原派で、最も日中戦争の拡大に反対していた多田の陸相就任を天皇が潰したのだった。またしても歴史は皮肉というしかなく、多田が陸相になっていたらというイフは残り続けるであろう」(筒井「天皇指名制陸相の登場」『昭和史講義』2)

 

※1石原を失脚させるために東条英機が仕組んだとされる、石原の政治参謀である浅原健三が治安維持法違反容疑で東京憲兵隊に逮捕された事件。憲兵隊は浅原の「政権奪取五カ年計画」に左翼革命の陰謀を疑ったが、実のところ石原との合作である同計画は支那事変の防止と産業拡張を目的としたもので、結局石原に捜査が及ぶこともなく浅原の国外追放といううやむやな決着を見た(桐山前掲書)。同事件を捜査した大谷敬二郎(当時東京憲兵特高課長)は戦後、誰からの指図も受けていなかったと述べており(『昭和憲兵史』)、真相はわからないが、前出の野村氏は、原田熊雄が石原派の台頭を警戒していた事実を示し、彼こそが真に事件を起こしたとしている(野村前掲書)。

※2満洲事変当時、石原らは次は内地でクーデターを起こし、天皇を中心とする国家社会主義の国に改造し、財閥を打倒して富の平等分配を実現させるなどと豪語しているという話が伝わっていた。しかし本論で後述するように、こうした考えは参謀本部時代に完全に改めてしまうのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原発言に見られる駆け引き

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 上海事変勃発後の八月三一日、石原は次のように発言している。

「上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞─江湾─閘北の線くらいであろう)

 北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。

 陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい」

 さらに、「〔上海方面には〕増兵しても焼け石に水」とまで言っている。これらを素直に読めば、石原は上海戦線の膠着状態は打開できないと考えていたように思える。しかし、そのように解釈してしまうのは早計であろう。なぜならば、石原は九月六日に陸軍増派やむなしとみてこれに同意したあとは、前言を完全に翻しているのである。

 九月八日に海軍軍令部を訪れた石原は、次のように参謀本部の増派案を説明した。

「上海に三コ師団増派の件は昨七日上司の決裁を得た。二十五日までに内地を出発、十月上・中旬に決戦を行い、羅店鎮―大場鎮―真茹―南市の線を確保し、専守態勢を整えたのち、一部を満州に派遣する予定である。対ソ関係はますます不安となった。ソ連はすでに戦略展開を終わっている。北支では、十月上旬に保定を確保すれば一部を残して満州に派兵する考えである」

 続いて九月一〇日、石原は第一部各課長に対し以下のような指示を与えている(一部抜粋)。

「(一) 上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない

「(二) 上海に一撃を加えたのちは二~三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、じ余は満州に転用する」(『陸軍作戦』。今岡前掲書も参考にした)

 また、このとき上海戦線に赴くこととなった谷川幸造歩兵第百三連隊長に対しては、「今度の作戦は可及的速やかに結末をつけたい。それで中支の作戦も上海付近ではおさまるまいから、崑山─太倉の線まで進出したところで終局としたい腹案だ。やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」(藤本治毅『石原莞爾』)と説明している。

 このように石原の態度は、上海の陸軍兵力増強に同意した九月六日を境にガラリと変わっているのである。そして、それ以降の発言は言うまでもなく上海攻略が前提となっているのであり、「南京の攻略戦は実施しない」という発言からは、上海を攻略して南京まで行こうと思えば行けると考えていたことがわかる。さらに「やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」とも述べているように、石原が恐れたのは、実は上海戦線の膠着状態を打開できないことではなく、むしろ戦線が拡大し過ぎてしまうことだったのである。

 このほかにも石原は、八月一二日に「上海の現況では陸軍の上陸はとてもできない」と超消極的な発言をして、その場にいた海軍軍令部員を驚かせている。ところがその翌日の近藤信竹軍令部作戦部長との協議において、「とてもできない」はずの上海への陸軍派兵に同意したことについてはすでに確認したとおりである。前出の井本熊男は、この石原発言を「〔戦面の拡大を抑えるために〕海軍にも少し協力的な努力をさせようという狙いがあったと思われる」と観察している(井本『作戦日誌で綴る支那事変』)。『中國方面海軍作戦』1によれば、石原は近藤との協議の際、まず「出兵不同意」を表明し、近藤の「海軍において十分陸軍作戦の援助をなす旨」の約束を引き出して陸軍派兵に意見を変えたようである。もし石原が本気で「出兵不同意」を貫徹するつもりであれば、権限上それは可能であったが(動員派兵は作戦部長の所管)、結局そうはしていない。このことからも、石原の発言に駆け引きの性質があったと見る井本の観察は正しそうである。

 以上から、石原の戦局に対する当初の悲観的な見通しは、本心ではなく一種のブラフと見ることができる。陸軍増派を決めるのとほぼ時を同じくして、石原は多田駿参謀次長の同意を得て、蔣介石に戦争をやめて和平に応じるよう電報で呼びかけるという無茶なことも試みているが(「多田駿手記」『軍事史学』通巻94号。蔣からはご丁寧にも「時機遲キ」との旨の返事があったという)、要するに支那事変に深入りし過ぎないうちに和平解決を実現しなければならないという強いこだわりが、そうした言辞に表れたのである。

 なお、上記のように九月八日には「対ソ関係はますます不安となった。ソ連はすでに戦略展開を終わっている」と述べているが、果たしてこれも本音であろうか?というのは、支那事変勃発後にソ連の動向に対して特別な注意をはらっていたことは疑う余地はないが、翌年一月中旬、石原は「近衞さんもどうも思つたより駄目だ。一時も早くソ聯に對して滿洲の防備をしなければ、それはとても危險極まる話である。もう北支なんかどうでもいゝから、滿洲を固めてソ聯に對する準備をするより仕方がない」と池田成彬に述べる一方(『原田日記』第六巻)、近衛に対しては「露国は出で来らざるものとの見込」であるとまったく正反対のことを平気で言っており(小川平吉日記『小川平吉関係文書』1)、意図は不明だが、ともかくソ連の動向に関する発言とて駆け引きである可能性は否定できないのである。おそらく「対ソ関係はますます不安となった」云々という上記発言は、対支作戦にのめり込むのを牽制するためにソ連の脅威を必要以上に強調したものではないだろうか。後述するように、石原は間違いなく対支戦争そのものに重大な危険を感じていたのであり、ソ連に対する警戒はそこから派生した問題だったといえるのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?

 では、石原は上海で攻勢に出ようとしていた蔣介石の意図に気づくことができていたのであろうか。盧溝橋事件当時の予測について後年、このような発言を残している。

「一般の空気は北支丈けで解決し得るだらうとの判断の様でしたが、然し私は上海に飛火する事は必ず不可避であると思ひ平常からさう言つて居つたのでありました」(「回想応答録」)

 これだけでは判然としないが、この石原の言については戦争指導課長だった河辺虎四郎が聞いていたようで、後年、竹田宮の聴取に対し次のように回答している。会話を引用しておく。

殿下「其のずつと前未だ石原閣下が〔参謀本部に〕居られた時分に〔近衛が〕直接南京に乗込んで媾和談判をやらうと云ふ問題がありましたが・・・」

河辺「はい、ありました。八月頃だつたと思ひます。あれは石原閣下の発案でありませう。それには今田〔新太郎〕中佐あたりも非常に気合をかけて居りました。

 要するに事態の拡大の虞があると云ふので考へられたのです」

殿下「上海に事件を起すからといふのです」

河辺「兎に角相手の気持で・・・今にも事件が起るぞと云ふ風な気がする、之に引き摺られてズルズルと戦になると云ふことは甚だ相済まぬから兎に角やるのかやらぬのかと云ふことは本当に大政治家が向ふへ行つて突つかつて見るべきだと云ふ、石原閣下の考であつたと思ひます・・・」(「河邊虎四郎少将回想応答録」『現代史資料』12)

 竹田宮が「上海に事件を起すからといふのです」と発言しているが、他の箇所でも話をリードしようとしてこうした口調になっていることが確認できるため、すでに竹田宮はこの話を知っていたようである。ともかく石原が〈蔣介石が何らかの事件を起こして上海で戦争を始めようとしている〉という趣旨の発言をしていたことは確実である。そして石原の提唱した首脳会談の目的が、盧溝橋事件に端を発した北支事変の平和的解決を実現し、上海への戦火拡大を食い止めようとしたものであったこともわかる。

 浅原健三の回想はさらに具体的である。彼によれば、石原は七月三〇日の夕刻、満洲国協和会東京事務所を訪れ、浅原や影佐禎昭(後日、支那課長に着任)に次のように言ったという。

「もし、盧溝橋事件が北支から中支に飛び火すれば・・・、ということは、上海に飛び火するということだ。そうすると、もはや全面戦争は防ぐことはできない。もし、全面戦争になったとき、後ろからソ連に突かれたら、日本は負ける。敗北だ」「君は日本軍が発動しなければ、中支へなど、戦争が拡大するはずはないと思っているのだろう。大変な誤算だ。日本からは挑発しない。これは保証する。ところが、支那側がはじめるよ。蔣介石がやりきれなくなって、挑戦してくるよ。僕はこの最後ともいうべき事態を、そのときを目に見るように感ずるんだ」(桐山前掲書)

 以上から、石原は蔣介石が上海で戦端を開こうとしていることを見抜いていたということができる。また、上海事変勃発後(八月一五日)には飯沼守上海派遣軍参謀長に対し、「現時支那軍の使用しうる兵力は五個師、後方には数多の部隊あることもちろん」「対ソ関係のため上海派遣軍の兵力編組は最小限なり 従って作戦は相当困難なるものと思われるゆえに参謀本部としては細部は指示せず、思う存分やれ」(『陸軍作戦』)と作戦の見通しを連絡しているように、支那軍が同方面に集中してくるために二個師団では苦戦が免れられないということも予想していたようである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献

石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?

 出所はまったく不明なのであるが、ごく一部にみられる〈石原は上海事変勃発の際に陸軍を派兵しようとせず、上海にいる日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとした〉といった類の説にも一応コメントしておく。

 とはいえ、石原は上海事変が勃発する前に上海への陸軍派兵に同意しているのであり(本論「年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで」)、結論から言えば、それは最初から成立する余地のない誤った説である。このような話はおそらく石原が上海への陸軍派兵に否定的だったことを拡大解釈して持ち出されたものと思われるが、同時期の石原の意向はその言動からほぼ明らかにすることが可能なので、それについて述べておくことにしたい。

 まず、時日は不明であるが、上海方面の処置に関しては石原の次のような発言が伝えられている。

「上海が危険なら居留民を全部引き揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(『大東亞戰爭回顧録』)

 いつこのように主張したのか特定することはもはや不可能と思われるが、少なくとも確実にいえるのは、この発言は上海事変勃発以前のものであるということである。なぜならば、八月一三日朝におこなわれた近藤信竹軍令部作戦部長との協議においては、陸軍動員は予定通り実行することで合意しているし、しかも上海への陸軍派兵を正式決定することが予定されていた同日の閣議には反対しないことを申し合わせているのである(『陸軍作戦』)。よって、これ以降に石原が上海撤退を主張したとは考えられない(なお、上記石原発言について、戸部良一氏は「上海派兵の決定〔八月一三日〕に至る過程において」なされたとしている〔戸部前掲書〕。秦郁彦氏は八月一二日夜のことではないかと想像している〔秦前掲書〕)。さらに八月一五日には飯沼守上海派遣軍参謀長に対し、すでに上海における作戦の見通しについて連絡をおこなっていることからも(後掲)、上海事変勃発後も陸軍派兵に反対し続けていたなどという話は絶対に成立しないのである。

 また、八月一二日には海軍軍令部員に対して次のように述べている。

「当面の処置として動員下令は必要である。一方、極力外交交渉を行わねばならぬが成功の見込みがない。結局、上海の陸戦隊に若干の陸軍部隊を注入し、上海租界を固めて、徹底的爆撃を行うより手がなく、この際大いに考えなおす必要がある」(上海への陸軍派兵に反対しての発言。『陸軍作戦』)

「この際大いに考えなおす必要がある」と、何かの変更を提案した形跡があるが、これは七月一一日に決定していた上海を含む居留民現地保護の方針(「北支作戦に関する海陸軍協定」『現代史資料』9)についてである。それは次の石原の回想から特定することができる。

私は上海に絶対に出兵したくなかつたが実は前に海軍と出兵する協定があるのであります。其記録には何とあつたかは記憶して居りませんが、どうしても夫れは修正出来ないので私は止むを得ず次長閣下の御賛同を願つて次の様な約束をしたのであります。

 夫れは海軍が呉淞鎮と江湾鎮の線を確保する約束の下に必要なるに至れば速かに陸軍が約一ケ師団を以て同線を占領することとしたのであります」(「回想応答録」)

 すなわち上記八月一二日の発言は居留民現地保護の方針の撤回を海軍に提案したものであったといえる。では、陸軍派兵を取りやめて上海の日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとしたのかといえば、そのような解釈は不可能である。このとき同時に「当面の処置として動員下令は必要である」「結局、上海の陸戦隊に若干の陸軍部隊を注入し・・・〔「若干の陸軍部隊」と言っているが、同時点で二個師団の派兵が予定され、石原も承認していた〕」と述べているように、居留民現地保護の方針が変更できない場合に陸軍派兵の必要があると認めていたことは明白であり、したがって、やはり居留民の引き揚げを海軍に納得させようと試みたものと解釈できるのである。

 なお、石原が上海居留民の引き揚げを主張したのは上海事変直前がはじめてではない。この前年の一九三六年秋、支那において対日テロが頻発した際に海軍は全面戦争も辞さないほどの強硬態度をみせていたのであるが(後述)、実はこのときすでに石原は「支那に対して徹底的にやる目算はない〔支那を武力で屈伏させる目途が立たない、の意〕。武力を行使せず、中南支より居留民を引き揚げてもよいではないか」(今岡前掲書)と海軍に申し入れて、陸軍派兵に反対した経緯があったのである。そして盧溝橋事件後の七月三〇日にも再び「対支一国全力作戦をもってするも容易に支那を屈服させる成算も立たない」(『陸軍作戦』)と海軍に申し入れているように、一九三七年八月に上海への陸軍派兵に反対した意図は一年前とまったく同じなのであった。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献