牛歩の猫の研究室

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石原の辞任とその後

 石原の作戦部長辞任に関しては、一般に解任されたものと理解されているようである。たしかに武藤章は「追い出した」、石原は「追い出された」とそれぞれ述べているように、何らかの圧力があったのは事実である。しかしその一方で、石原の側から辞任を申し出ていたことも事実であり、多田駿参謀次長の慰留を固辞する形で参謀本部から転出したようである。人事局長だった阿南惟幾は次のように述べている。

「着任日浅い笠原〔幸雄少将〕と石原を交代させることには、私は大反対であった。が新任の多田参謀次長の切なる要求で、不同意ながらその要求にしたがった。石原は従来の関係上関東軍参謀副長を適任と思うという主張であった。今にして考えれば、有為の石原を、東条参謀長の下、不遇の地位に追い込んだことになった。

 笠原は、『石原は留りたいと思えば残り得たであろう。しかし本人が参謀本部を出たがっており、その困難な立場に多田次長が同情されたのであろう。多田、石原は仙台幼年学校の先輩─後輩であり、非常に親しかった』と述べていた」(今岡前掲書)

 この件については以下のような見解がある。

「九月下旬、今や石原以上にも不拡大路線の堅持を明確に打ち出した多田次長を迎えたことで、中央における不拡大路線の維持は多田に任せ、石原は、折からの石原罷免の声に呼応して関東軍参謀副長への転出を願い出たのでした。これはもはや破滅的なまでに手薄となることが確実となった関東軍の対ソ戦線に、自らの天分を投げ込むことで責任を果たそうという悲壮な決意であったと受け取れます。そうした意味では、九月二十七日付けの関東軍参謀副長への転出は、決して単なる左遷ではなく、むしろ石原の天分を生かそうという多田次長と阿南惟幾人事局長による格段の好意的配慮の賜でした」(野村乙二朗『毅然たる孤独 石原莞爾の肖像』)

 石原が対ソ支二正面作戦という最悪の事態を回避しなければならないと考えたであろうことは言を俟たない。しかしそれと同時に、当時石原が抱懐していた戦略上の要請からも満洲国の防衛には万全を期さなければならなかったのであり(後述)、このため石原は渡満するや、すぐさま対ソ戦対策に取りかかっている(『石原莞爾 国家改造計画』)。一方、翌年に石原が退役の意向を明らかにすると省部当局者は苦慮し、「石原が満州を去る事はロシア側に与える影響が心配」との声があがったというから(野村前掲書)、野村氏の指摘するような側面がたしかにあったのである。

 ところで、山口重次『悲劇の將軍 石原莞爾』という書物の中で、石原が参謀本部からの転出時に天皇に拝謁した際のエピソードが駒井徳三の談として紹介されている。それによれば石原は今次の事変の経過とこれに対する彼の見通し、次いで満洲国における王道楽土の政治様式、ソ連に対する完全防備の方法、陸軍の一部が侵略政策をもって日支親善を妨げている事情等を腹蔵なく述べたところ、天皇は「よく言うてくれた。全く石原の云う通りだ。日華相爭うことは、兩國々民のみでない、世界人類の不幸ともなるであろう。今後も、氣づいたことは、何でも言うてもらいたい」と答えたとのことである。

 鵜呑みにはできないが、一概にフィクションとも言い切れない。『昭和天皇実録』第七の昭和一二年九月二二日の条には「侍従長百武三郎より、南京・広東爆撃に関する言上をお聞きになる。その際、戦争は不幸である旨の御言葉あり」との記述があり、当時天皇が上記発言(とされるもの)のような考えを持っていたことが確認できる。また、これから述べるように天皇は石原に対し、肯定的評価と批判的評価の両方を持っていたことも事実である。付け加えると、その批判的評価の中には誤った情報に基づくものがあり、実はそれが歴史に少なからぬ影響を及ぼしているのである。一九三九年九月、畑俊六陸相は平林盛人憲兵司令官を呼び次のように伝言している。

「石原中将が今度第十六師団長に親補される事になった。陛下も石原君のことは、優れた人材とお認め遊ばされて居られるが、世間で兎かく“石原は政治に干渉する”やに噂するので、よく石原君に自重するよう、これは私からよりも君が石原君と同期生であり懇意の間柄ときいているから、君から伝えてくれ」(阿部博行『石原莞爾』下)。

 畑は同年五月から八月まで侍従武官長を務めており、短期間ではあったが天皇の信任は極めて厚く、八月阿部信行内閣の陸相就任も異例の天皇の指名によるものであった。したがって「陛下も石原君のことは、優れた人材とお認め遊ばされて居られる」というのは、直接知ることのできた天皇の石原に対する肯定的評価であり、それをありのままに伝えたものと考えられる。ただし、七月に板垣征四郎陸相(当時)が石原に関する人事(第十六師団長新補)を上奏したとき、天皇が容易に裁可しなかったことも事実である。しかしその理由について天皇は「〔石原は〕浅原事件〔※1〕に関聯し此際親補職に栄転せしむるは良心に対し納得し難く・・・」(「陸軍 畑俊六日誌」『続・現代史資料』4)と述べており、特に石原の能力を問題にしたわけではなかった。

 また、畑は石原に政治に干渉することは自重するようにとも伝えているが、これは天皇の石原に対する批判的評価と関係していると考えられる。伊勢弘志氏は次のように指摘している。

「石原が第十六師団長に就いたのは、板垣からの推挙によるものであった。・・・この人事に対して昭和天皇はかなり鮮明に懸念を表明しているのだが、それは石原が政治に干渉する性格であると評していたからであった。昭和天皇の石原に対する評価とは、西園寺公望からの助言によるものだったのであり、またそれは西園寺の秘書官である原田熊男からもたらされた情報である。原田が抱いた石原の印象とはまさに満州事変を強引に決行し、その後に財閥を打倒目標に含めた国内改造を目指す将校なのであり、つまり変節する以前の石原の姿であったろう〔※2〕。その後に変節し、東亜連盟を目指してからの石原の構想には日中戦争を解決する可能性があったわけであるが、原田は変節を知ってか知らずか石原が政治に干渉するとの印象を変えることはなく、西園寺も石原に悪印象を抱き続けた。西園寺を信頼した昭和天皇は、石原を重用しようとする近衛や板垣を信頼せず、そのことが蒋介石との和平工作の頓挫にもつながったということである」(『石原莞爾の変節と満州事変の錯誤』)

 さらに畑俊六の阿部信行内閣における陸相就任が天皇の指名であったことはすでに触れたが、実はこれには当初陸軍三長官会議が後任陸相を多田駿第三軍司令官と決定していたものを、天皇が「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ」と阿部に指示し、覆した経緯があった。海軍では天皇が多田を忌避した原因を、石原系の色彩があるためと観察していたようである。筒井清忠氏は次のように述べている。

「しかし、石原(派)こそは、日中戦争不拡大派であり、この時天皇の支持すべき陸軍軍人であったのだ。その石原派で、最も日中戦争の拡大に反対していた多田の陸相就任を天皇が潰したのだった。またしても歴史は皮肉というしかなく、多田が陸相になっていたらというイフは残り続けるであろう」(筒井「天皇指名制陸相の登場」『昭和史講義』2)

 

※1石原を失脚させるために東条英機が仕組んだとされる、石原の政治参謀である浅原健三が治安維持法違反容疑で東京憲兵隊に逮捕された事件。憲兵隊は浅原の「政権奪取五カ年計画」に左翼革命の陰謀を疑ったが、実のところ石原との合作である同計画は支那事変の防止と産業拡張を目的としたもので、結局石原に捜査が及ぶこともなく浅原の国外追放といううやむやな決着を見た(桐山前掲書)。同事件を捜査した大谷敬二郎(当時東京憲兵特高課長)は戦後、誰からの指図も受けていなかったと述べており(『昭和憲兵史』)、真相はわからないが、前出の野村氏は、原田熊雄が石原派の台頭を警戒していた事実を示し、彼こそが真に事件を起こしたとしている(野村前掲書)。

※2満洲事変当時、石原らは次は内地でクーデターを起こし、天皇を中心とする国家社会主義の国に改造し、財閥を打倒して富の平等分配を実現させるなどと豪語しているという話が伝わっていた。しかし本論で後述するように、こうした考えは参謀本部時代に完全に改めてしまうのである。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献