牛歩の猫の研究室

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トラウトマン工作における新和平条件の決定について(高田万亀子『静かなる楯 米内光政』批判)

 石射猪太郎と風見章回想の食い違い

 トラウトマン工作における日本側の新和平条件案が決定した一九三七年一二月一四日連絡会議(最終決定は二一日閣議)の様子は、石射猪太郎外務省東亜局長が『外交官の一生』、風見章内閣書記官長が『近衛内閣』でそれぞれ伝えている。しかし両者は同じ会議に出たはずであるのに、その内容には多くの相違点が発見できる。主なものを摘記しておけば、

(一)和平条件案の説明をおこなったのは、石射は自身であったとしているが、風見は広田弘毅外相であったとしている。

(二)石射は多田駿参謀次長、末次信正内相、杉山元陸相賀屋興宣蔵相から出された異論により条件が加重されたとしているが、風見は陸海外三相が中心となって審議をおこなったが、彼らの間にとりたてて論議はなく、そのほかの出席者も黙って聞いているだけで、一応原案通り決定したとしている。

(三)石射は近衛文麿首相は終始沈黙していたとしているが、風見は条件に対する不満を口にした末次を近衛がたしなめる一幕があったとし、逆に末次を沈黙させたとしている。

(四)石射は結局陸軍案が採用されて会議が終わり、審議のやり直しを提案するも拒否されたとしているが、風見は一応原案通り決定した後、自身が和平成立の見込みを出席者に問いただしている途中で近衛が今日は散会しようと言い出し、結局審議はやり直しになったとしている。

 なぜこのようなことが起こったかを先に述べておくと、実は風見の方に記憶の混同があり、彼は一二月一三日と一四日の連絡会議の記憶をないまぜにしてしまっており、それを一四日連絡会議の出来事としてひとまとめにして書き記しているためである。このことは他の史料と照らし合わせることによって明らかにできるので、以下相違点についてコメントし、風見の回想に出てくる個々の出来事の正確な時日をできる限り特定したい。その前にひとつことわっておくと、日記というものは基本的に新鮮な記憶の残る当日か、もしくは数日内に書かれるものであるので、後年まとめられた回想録、ここでは風見章『近衛内閣』よりも信頼度が高いものとして扱う。風見には手記も存在するが(『風見章日記・関係資料 1936─1947』)、これも日記とはいえず、また、内容も本論で扱う部分に関しては『近衛内閣』とほぼ同様のためここでは使用しない。石射猪太郎『外交官の一生』は回想録と呼ぶべきものだが、自身の日記(『石射猪太郎日記』。以下、『石射日記』と略記)に依拠していると認められるため、内容は一応信頼できると判断した。

(一)まず、『石射日記』の一二月一三日の条を引用しておく。

「午後三時過総理官邸に於て聯絡会議。出席を求められ案の説明を求めらるべき拙者はいつまでも呼入れられず、うすさむい部屋にまつ事一時間半余漸く呼込まれたら何の事だ、陸軍案が議題になつて居た。外務大臣は知らぬ顔。山本海軍次官の発言にて漸く三省案が議題となる。と決つたら首相は他に用事ありとて退席。散会、明日午後三時半から続行ときまる」

 このように、一三日の連絡会議で石射が和平条件案を説明する機会はなかったが、同日記一四日の条には「〔連絡会議に〕我輩呼入れられて案の説明をなす」との記述があるため、広田が和平条件案を説明した(あるいは単に進行係をつとめた)とすればそれは一三日のことと判断できる。

※一三日の連絡会議で陸軍案、一四日の連絡会議で陸海外三省事務当局案の審議がおこなわれたことは以上の『石射日記』の記述により判明する。両案の違いを簡単に説明しておくと、全体的に陸軍案の方が厳しいが、最も大きな差異は北支における蔣介石政権の主権の扱いであり、参謀本部和平派が陸軍強硬派に妥協する形で作成された陸軍案はそれを否定し、同案を石射が修正した形の三省事務当局案ではそれを認めようとしている。

(二)多田駿参謀次長、末次信正内相、杉山元陸相賀屋興宣蔵相から異論が出たというのは『石射日記』の一四日の条と一致する。一方、「大本営陸軍参謀部第二課・機密作戦日誌」(『変動期の日本外交と軍事』。以下、「機密作戦日誌」と略記)によれば一三日の陸軍案審議は約一時間という短時間で終わっているので、あっさり原案通り決定したとする風見の回想は、一三日の陸軍案審議以外には考えられない。

(三)近衛が末次をたしなめる一幕があったのが一四日のことだというのは、一五日、山本五十六海軍次官が昨日の連絡会議で近衛が末次の強硬論に毅然と反論し、自身に従わせる一幕があったと述べていることから傍証できる(『西園寺公と政局』第六巻。以下、『原田日記』と略記)。ただし、風見はそれを和平条件案の審議終了後の出来事としているが、山本は会議の冒頭の出来事としている。これは当然、山本の証言が信頼でき、実際には一四日の連絡会議冒頭の出来事だった可能性が高い。そしてそう考えると、石射がこのことを知らなかったことも納得できる。『外交官の一生』によれば、石射が呼び込まれたときには閣僚や陸海軍関係者ら出席者は勢揃いし、すでに和平条件案も配布されており、すぐに説明に取りかかることができたという。ということは石射は必ずしも会議の開始と同時に呼び込まれたわけではなく、したがって会議冒頭に近衛が末次をたしなめる場面は目撃できなかったということではないだろうか。

(四)まず近衛が今日は散会しようと言い出したという点についてだが、石射は一三日の散会時の様子を「首相は他に用事ありとて退席。散会、明日午後三時半から続行ときまる」と日記に書いている。また、同日の連絡会議の様子を記した「機密作戦日誌」にも「午後ノ五時近衛退出 明日午後三時半ヨリヤルコトトナル」とあり、近衛が散会のきっかけを作ったのは一三日の連絡会議であることが明らかになる。次に審議はやり直しになったという点は、石射が述べるように一四日の連絡会議では結局陸軍案が採用されて会議が終わり、審議のやり直しを提案するも拒否されているのであり、事実ならばこれもまた一三日の話ということになる。そうであれば風見が和平成立の見込みを出席者に問いただしている途中で散会になったという点も一三日のことと考えられるが、石射の一三日の日記は(一)に引用したとおりで、散会時に会議は陸軍案審議を終えて三省事務当局案審議に移ろうとしていたのであり、風見の回想とは食い違いが生じている。この点については「機密作戦日誌」一三日の条に「見込ノ問題ガ先出デタリ」とあるので、これも風見の記憶違いで、正確には見込みの問題が出たのが先、陸軍案審議が後という順序だったのだろう。

 以上のように、風見の回想は出来事の順序に関して記憶の誤りが認められるが、(三)を除いて、大体において一三日の連絡会議における陸軍案審議の様子を述べているということが明らかにできたと思う。

 

 堀場一雄の伝える閣議決定

 さて、時日に関してもう一点明らかにしておかなければならないのは、当時参謀本部戦争指導班員だった堀場一雄が自著『支那事変戦争指導史』で伝えている、蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決定したとする閣議についてである。まず同書から当該部分を引用しておく。

「閣議の模様に曰く、広田外務大臣先づ発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの〔回答をするという〕結論に達し、其他皆賛同せりと」

 このように堀場は伝えているが、伝聞であるらしいことや、開催日が不明であることから一部に閣議の存在を疑う声もある。しかし、これもまた他の史料と照らし合わせることによって、同閣議決定が確かに存在することと閣議の開催日を明らかにできる。

 まず堀場は上記閣議の開催日を記していないのであるが、堀場の伝記である芦澤紀之『ある作戦参謀の悲劇』には出典は不明ながら一二月一〇日と明記されている。芦澤氏は同書執筆のために当時陸軍省部に在籍していた複数の人物に取材をしており、そのために時日を特定できたものと考えられる。

 また、『有馬頼寧日記』3の一二月一〇日の条からは同日閣議が、南京陥落後の蔣介石の態度を見定めてから対応を決めるとの結論を出していることがわかり(後掲)、この二日前の「一応拒絶シ蔣ノ反省ヲ促シ時ヲオキテ独大使〔ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使〕ニ当方ノ考ヘアル条件ヲ提示スル」(「機密作戦日誌」)という首・外・陸・海の四相間合意に沿った決定があったと判断できる。そのため「蔣介石氏カ眞ニ反省ノ實ヲ示シ」てくるのでなければ日本政府は和議に応じられない、とする「在京獨逸大使ニ對スル回答案」が一〇日に作成されている(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02030666700、支那事変関係一件/善後措置(和平交渉ヲ含ム)(A-1-1-0-30_43)(外務省外交史料館)」)。なお、同回答案からは、「大体敗者としての言辞無礼なり」とは蔣介石が和平交渉に留保を付けたことを指していること、とはいえさすがに文言は緩和されていることがわかる。

 さらに『石射日記』の一二月一〇日の条にも「閣議に於て前案通り決定ずみ。〔広田外務〕大臣上奏す」との記述があり、同日の「機密作戦日誌」の「仮ヒ〔ディルクセンに手渡す〕前文ト雖モ戦争指導上重大案件ヲ閣議決定シ外相ガ内奏シタルハ重大ナル越権行為ニ属ス」という記述と併せて考えるに(同日誌によればディルクセンに手渡される文書は「前文」と追送される「条文」から成るらしく、「前文」とは和議に応じられない理由だけが記された「在京獨逸大使ニ對スル回答案」を指すと考えるのが妥当である)、やはりこの日蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を閣議決定し、それを広田が上奏したと理解することができる。

 以上から、堀場の伝える閣議決定は一二月一〇日のことと断定してよい。また、閣僚の発言内容も次節以降に見るように各々の意向と一致しており、おおむね事実だと判断できる。

 

 高田万亀子『静かなる楯 米内光政』批判・一

 ところで、発行以来少なからず読まれ、評価されているものに高田万亀子『静かなる楯 米内光政』という書物がある(たとえば高坂正堯氏は「好提督・米内光政の失敗」『世界史の中から考える』で高田氏の同著書を「米内光政についての、恐らくはもっとも秀れた伝記」と紹介している)。同書はトラウトマン工作についても触れているのであるが、高田氏は〈政府は和平交渉に前向きだったがこれに反対する陸軍が横槍を入れ、そのために和平のチャンスが台無しになってしまった〉との理解に基づいて論述しており、事情をよく知らない読者はトラウトマン工作失敗の責がすべて陸軍にあったと解釈してしまうことが避けられない内容となっている。しかし高田氏が力を入れて論述しているその部分も、よく吟味してみると誤った認識や、ときに思い込みによって事実がねじ曲げられていることが明らかになる。虚偽が事実であるかのように広まるのはよいことではないので、ここで同書のトラウトマン工作に関する記述の誤りをいくつか指摘しておきたい。また、それにより同和平工作に関係した人物のスタンスも明らかにすることができると思う。なおトラウトマン工作の概要については別記事「石原莞爾と支那事変」の中の「トラウトマン工作はなぜ失敗したのか」の項(以下、「トラウトマン工作はなぜ失敗したのか」と略記)を参照されたい。

 まず高田氏の主張を一部引用する。

もし〔一九三七年一二月七日に〕陸軍〔下僚〕が騒がず、〔陸相官邸にて採択された〕省部の拒否決議がなかったら、八日の杉山の〔近衛、広田、米内に対するドイツ斡旋辞退の〕申し出ではなく、前日の四相会議の結論はそのまま連絡会議乃至は閣議に持ち込まれたであろう。そして主要四相一致の結論として、首相から、「独伊に仲介を依頼したところ、昨日中国側から受諾の回答があったので、条件はこれこれこのまま交渉を進めたい」と報告されたら、強硬論の強い閣僚達でも、それを覆す力は恐らくなかったと思われる。

 あたかも七日の四相会議の結論が「条件はこれこれこのまま交渉を進めたい」というものであったかのように述べているが、このとき決定したのはおそらく「独逸の斡旋を利用して日支直接交渉の新条件を独に提示すべき事」(『石射日記』)だけであって、どのような条件を提示するかについての合意は、これから述べるようにまだできていなかったのである。

 八日、政府首脳部は、陸軍下僚が従来の和平条件で交渉するのは納得できないと広田に対して憤慨していることについて口々にコメントしているが、たとえば近衛は次のように述べている。

「〔広田が〕『この話〔トラウトマン工作〕は戰況がもつと變化して來れば、またその状態によつて條件も違つて來るから、そこは心得てゐてくれ』といふことをよく先方〔ディルクセン〕に言つてゐるんだけれども、しかし陸軍あたりの若い連中は、さういふ條件附みたやうなことは全然無視して〔広田を殺すなどと騒ぐので困っている〕」

 要するに〈政府は和平条件を上乗せする用意があるのに、陸軍の若い連中は何を勘違いして騒いでいるのか〉ということである。米内光政海相は明確に次のように言い切っている。

「この問題は結局『新しい條件をまた出す』といふことを、廣田外務大臣も前から先方に言つてあるんだから、新たにまたもつと強い條件を出してもちつともかまはない」(『原田日記』第六巻)

 これらからわかるのは、七日の四相会議では条件面での決定は何もなかったということである。あったとすれば〈すでに予告していたのだから、条件の加重は当然〉という合意らしきものであろう。仮に〈以前提示した条件と同じもので交渉を進めよう〉といった合意ができていたとすれば、近衛や米内が上記のような発言をするわけがない。

 したがって高田氏が「条件はこれこれこのまま交渉を進めたい」などというのが七日の主要四相一致の結論であったかのように書くのは事実に反する。たしかに四相会議後に陸海外三局長は会議を開き、以前提示した条件に損害賠償要求の一項目を付加しただけの成案を得ているが(『外交官の一生』)、これはどう考えても四相の意向とは一致しておらず(後述も参照)、特に政府から具体的な注文を受けて作成されたものではないのだろう。しかし、従来の条件や、これに類する穏和な条件で交渉をおこなうことはもはや状況が許さなくなっていた。和平条件の検討がおこなわれた一〇日の閣議では蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決定しており、同閣議では「広田外務大臣先づ発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの〔回答をするという〕結論に達し、其他皆賛同」した(前掲『支那事変戦争指導史』)。

 なお、高田氏の書いた「トラウトマン工作参謀本部和平派」『政治経済史学』246という論文を読むと、蔣介石の申し入れ拒絶を決定し、和平条件の加重を招いたこの閣議は八日の杉山のドイツ斡旋辞退の申し出が「引金となった事だけは動かし難い」と断言している。しかしいうまでもなく陸相の意向だけで閣議決定はできないのであり、なぜ閣議決定に至ったかを検証するためにはそれ以外の主要閣僚の意向を明らかにしておく必要がある。

 まず杉山の申し出に近衛、広田、米内があっさり同意していることは看過できないのであるが(後述)、そのうち広田は杉山と会見した後、申し出のあった旨を外務事務当局に内話しており、外務事務当局が陸海事務当局に確認したところ、「陸軍内部も、和平反対に纏まったわけではないが、和平反対の声があまりに強くなったので、杉山陸相は例の大勢順応に走ったのだ。しかし、まだ脈はある」ことをつかんでいる(『日本外交史』20)。そこで石射は翌九日、交渉開始に踏み切るよう広田の説得にあたっているが、広田は「陸軍大臣に聴従」して聞き入れようとしなかった(『石射日記』)。しかし説得の結果はともかく、このとき石射が広田に対し陸軍の内情を伝え、「まだ脈はある」ことを強調したのはまず間違いない。付け加えておけば、「まだ脈はある」との情報が正しかったどころか過小評価ですらあったことは、一〇日朝になって陸軍は一転ドイツの斡旋を受け入れるという方針でまとまっている事実によって証明できる(同前)。

 これらのことから、広田は杉山の動きがスタンドプレイに過ぎないことを知りながら、一〇日の閣議では杉山に先んじて強硬論を吐いた可能性が考えられるのであるが、仮にそうではなかったとしても、広田は一一月二日に当初の和平条件をディルクセンに伝えた時点で「日本がこの戦争を継続することを強いられた場合には・・・条件ははるかに加重されるであろう」(三宅正樹『日独伊三国同盟の研究』)と付け加え、一一月一〇日には「〔ドイツ等が満洲国を承認しそうな形勢にあるため、これを支那に要求しない代わりに〕他のもつと重い條件を出すことができる」(『原田日記』第六巻)と言ってみたり、一二月七日にディルクセンが蔣介石の交渉受諾の意向を伝えた際には「一月前、すなわち日本の偉大なる軍事的成功の以前に起草された基礎の上に交渉を行なうことが未だ可能かどうか疑問に思う」「日本は、鉱物以外にも華北で他の権益を要求するのは当然だ」(三宅前掲書)と回答したりしていたのだから、一二月一〇日閣議における「斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難〔い〕」という意見は陸軍に強制されたものでもなんでもなく、自らの意思であったことはいうまでもない。

 また、この広田の意見に「全然同意を表し」た近衛も支那事変勃発後まもなく、「北支の特殊化絶対必要。支那の分割、そんな事にならぬとも限らぬ」(『石射日記』八月二〇日の条)と示唆していたが、九月には「これに一大鐵槌を加へまして直ちに抗日勢力の依つて以て立つ所の根源を破壊し徹底的實物教育に依つてその戦意を喪失せしめ、然る後に於て支那の健全分子に活路を與へまして、これと手を握つて俯仰天地に愧ぢざる東洋平和の恒久的組織を確立するの必要に迫られて來たのであります」(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001547600、大日記甲輯昭和12年(防衛省防衛研究所)」)と演説し、早くも蔣介石政権に代わる新政権の樹立を公言したのである。さらに一一月に入って北支に全支那を支配する新政権を樹立するという現地陸軍の意向を知ると、「むしろ宣統〔溥儀〕の復辟とならば名儀丈けは立つべし」と肯定的態度を示している(『小川平吉関係文書』1)。このように近衛が支那事変勃発後の早い段階から蔣介石との和平を見限り始めていたことは確実であり、次に挙げる事例から、一二月の南京陥落の頃には和平工作自体を無用と考えていたと判断できるのである。

 上記一二月一〇日の閣議に出席した有馬頼寧農相は次のように記録している。

「午前十時より閣議。外相より独大使と蔣介石との会見につき、先日の電報を有りの儘に報告。拓相、文相より蔣政権否認の意見あり。結局南京陥落と、四時に首相の声明あり。〔南京陥落により蔣介石が〕降服すれば認めるも、其れ以外なれば否認〔声明を発表〕することゝなる」(『有馬頼寧日記』3。〔 〕内の補記は一二月一一日「東京朝日新聞」の記事によった)

「拓相〔大谷尊由〕、文相〔木戸幸一〕より蔣政権否認の意見あり」とのことであるが、実は大谷、木戸、有馬の三名は二日前の一二月八日に近衛に呼び出されて私邸で面会し、トラウトマン工作について何らかの話し合いを持っていた(『有馬頼寧日記』3、『木戸幸一日記』上)。そして、一〇日閣議ではこの会合に呼ばれた閣僚二人から蔣介石政権否認の意見が出て、さらにその意見を近衛が閣議の結論として取りまとめているのである。こんなことは偶然では絶対にあり得ない。すなわち近衛は八日に蔣政権否認の意見を述べて閣議をリードするよう木戸らに依頼していたことが推測できるのである。風見章は「近衛氏は、これには駄目をおしておこう、あれには釘をさしておきたいと思うことを、同じ考えの第三者にやらせるという手口を、よく用いたものだ」(風見前掲書)、湯浅倉平内大臣は「近衞總理はどうも自分でなにか進んで人に言ふことが嫌ひだと見えて、みんな人をもつていろんなことを言はす」(『原田日記』第七巻)と評しているが、この件も例外ではないだろう。なお、一八日の閣議は抽象的な条件により蔣介石の意向を探ること、ドイツ大使の斡旋については広田外相に一任することを決めているが、これも一二月一四日の連絡会議で和平条件案が決定したあと、近衛が木戸のもとに使いをやって「それがその儘簡単に通過してしまふ様では未だ何となく不安に感ずるところがある」として、閣議で充分に審議するきっかけを作ってもらいたいと依頼したことが起因であったことが確認できる(『木戸幸一関係文書』)。

 近衛は当時、トラウトマン工作に対する考えを次のように明かしている。

〔南京も陥落し、蔣介石政権の崩壊まで〕もう一押しと云ふ所なり かゝる状勢にある際我より進んで条件を提示し講和を促すことは我に重大なる弱点なき限り軽々になすべきことでなく却てそれが為に彼の侮を受けて彼の戦意を復活せしめ大害を将来に招く恐ありと考へらる故に政府側としては独逸大使を通じての今回の交渉に対しても必ずしも中心より賛成せるに非ず」(「講和問題に関する所信」『現代史資料』9)。

 以上のように近衛はトラウトマン工作に乗り気ではなかっただけでなく、蔣介石の交渉受諾の申し入れが到着すると積極的にこれを妨害しにかかったとさえいえる。

 一方、米内の一〇日閣議における反応は不明だが、一四日の連絡会議で三省事務当局案を支持しているところを見ると和平交渉を完全に否定していたわけではないのだろう(『外交官の一生』)。さりとて一二月下旬には支那事変を和平解決する是非について「別に海軍はそんなに急ぐ必要もなにもないのだ」(『原田日記』第六巻)などと言っており、必ずしも早期和平が必須との信念があったわけではなかったのである。

 ここまで見たように、主要閣僚にトラウトマン工作に対する熱意があったとは到底言い難い。もし本当に熱意があったのであれば、一二月八日の杉山のドイツの斡旋を断りたいという本来重大な問題になり得るはずの申し出に、彼らは〈ドイツの斡旋を利用することは、陸相も同意してすでに四相会議で決定したはずだ〉と言って突っぱねるとか、せめて〈しばらく考えさせてくれ〉とでも答えて他の閣僚と対応を協議することもできたはずである。しかし、杉山は八日にまず近衛を訪問しているが(一二月九日「東京朝日新聞」)、その際の近衛の反応については同日午後、広田と会談した際に「一応独の斡旋を断り度し・・・近衛首相も其意向なり」と伝えている。すると杉山の申し出に広田も「それも可也と賛成」し、翌日になっても部下である石射の説得に耳を貸そうとはしなかった(『石射日記』)。そして杉山は八日に米内とも会談しているが、同日に首・外・陸・海の四相間に「一応拒絶シ蔣ノ反省ヲ促シ時ヲオキテ独大使ニ当方ノ考ヘアル条件ヲ提示スル」という合意ができたらしきところを見ると(「機密作戦日誌」)、米内もその日のうちにあっさり同意してしまったと考えられる。

 ところが高田氏は以上のような状況をよく調べもせず、〈近衛や広田、米内はドイツの斡旋受諾に前向きで、和平条件も以前と変わらないものを提示しようとしていた〉と無根拠に信じているから、トラウトマン工作がうまくいきそうだったのに、八日の杉山の申し出によって「ことはひっくり返っってしまった」(原文ママ。高田前掲書)という間違った結論が出てくるのである。しかし実相は、〈近衛や広田、米内はすでに予告していたのだから条件の加重は当然であるし、それ以前にドイツの斡旋などいつ断わっても問題ないと考えていた〉のであり、閣僚がそうした認識でいたからこそ一〇日の閣議決定は成立したのであった。

 そもそも小川平吉日記の一二月八日の条に「朝、永田町に〔近衛〕公を訪ふ。去二日、独大使より敵は北支領土並に行政権に触れざれば交渉開始すべしとなり、六日〔ドイツの斡旋〕謝絶に決定せりと」(『小川平吉関係文書』1)との記述が見られるように、八日の杉山の申し出以前に、おそらく近衛と一部閣僚の間において一旦はドイツの斡旋を断ることに決定していたのである。しかも七日になって陸軍下僚が騒ぎ出すが、同日の閣議はすでに「大勢としては南京政府否認の方向に向つてゐる」(一二月八日「東京朝日新聞」)という情勢であった。また、一〇日閣議では前述のように近衛のイニシアチブにより「〔南京陥落により蔣介石が〕降服すれば認めるも、其れ以外なれば否認〔声明を発表〕する」ことまで決めているのだが、「否認」云々の文言は少なくとも八日の陸軍決議には見られない(「機密作戦日誌」)。

 すなわち閣僚のこうした高姿勢は陸軍の態度とは無関係だったばかりか、場合によっては陸軍を上回っているのであり、これでは八日の杉山の申し出が蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶の「引金となった事だけは動かし難い」(高田前掲論文)とはとても言えない。広田が和平条件の加重は当然のことと考え、閣議では陸相を差し置いて強硬論を吐いたことや、近衛が積極的にトラウトマン工作を妨害しにかかっていた事例に鑑みても、杉山の申し出があろうとなかろうと政府が蔣介石の申し入れ拒絶を決めていたことは確実である。

 

 高田万亀子『静かなる楯 米内光政』批判・二

 さらに高田前掲書から引用する。

 苛酷といわれる新条件十一カ条も、閣僚等の強硬意見で加重されたように一般に思われているが、実はこれは参謀本部が主張した条件そのものなのである。閣僚や参議が参謀本部を上回る強硬意見を吐いたのは事実だが、それは決定案には一つも入ってない。言いかえれば陸軍、この場合は多田〔駿参謀次長〕だが、彼が主張したものはすべて通り、否定したものはすべて葬られたのが、トラウトマン工作における条件審議の実態だった。

 これを読んで疑問を感じないだろうか?多田駿にそれほどまでに強大な権力があったのかと。

 まず高田氏が誤解している点を明らかにしておく。高田氏は一二月一四日の連絡会議における三省事務当局案審議を指して「条件審議の初日」(高田前掲書)と書くように、この前日、すなわち一三日の連絡会議で陸軍案を審議したことを知らないのである(それは高田前掲論文からも明瞭に読み取れる。ただし、一三日に陸軍案を審議したことは『石射日記』にのみ明確に書かれていることで、高田氏が前掲書、前掲論文を書いた時点では刊行されておらず、やむを得ないことではある)。では陸軍案審議の状況がどうであったかといえば、おそらく風見が次のように伝えるとおりである。

「審議は、主として陸海外三相のあいだでおこなわれ、その間、ほかのものは、近衛氏をはじめ、だまってきいているだけであった。陸海外三相のあいだにも、とりたてて論議はなく、外相が、項目ごとに議題として、それに説明を加え、それについて、陸海両相からかんたんな質問があったりしたくらいなものであった。かくて和平条件は、原案どおり、いちおう決定ということになったのである」(風見前掲書。実はこれが一四日の三省事務当局案審議ではなく、一三日の陸軍案審議の様子を述べたものであったことは既述の通り)

 一方、一四日の三省事務当局案審議はどうであったかというと、石射によれば近衛と広田は発言せず、米内と古賀峯一軍令部次長が支持を表明したものの、多田、末次、杉山、賀屋から出された異論により条件は加重され、結局「陸軍案にして了わる」こととなったという(『外交官の一生』)。

 しかし石射は、どのような成り行きで「陸軍案にして了わる」ことになったのかについては詳らかにしておらず、そのため、その点については一応色々な推測ができる。たとえば〈三省事務当局案に条件が付け加えられ、その結果陸軍案と同様のものに変化した〉という解釈であるが、高田氏はそうした見解に立って、上記のように「多田・・・が主張したものはすべて通り、否定したものはすべて葬られたのが、トラウトマン工作における条件審議の実態だった」と主張している(高田氏は自身の前掲論文を論拠としているが、そこで直接的な証拠を提示できているわけではなく単なる類推である)。しかしそのような理解は非現実的といわねばならない。高田氏の主張を言いかえると、〈実は多田は連絡会議の結論を思うがままに操作できるほど絶大な権勢を有していた〉ということになる。もしそれが本当ならば、なぜ翌年一月にトラウトマン工作を打ち切るか否かで意見が対立したときに、多田はなすすべもなく政府側に押し切られてしまったのだろうか?連絡会議では「多田・・・が主張したものはすべて通り、否定したものはすべて葬」ることができたのではなかったのか?

 高田氏の主張に無理があるのは自明なので、ここで筆者の推定を述べておく。それは〈一四日の連絡会議では、前日に大きな反対もなく審議をパスした陸軍案の採用が決まった〉ということである。

 まず、このように考えるのが最も無理がないし、石射は『外交官の一生』において「条件の各項にわたって加重された点」を摘示しているが、この中には後日修正された点も含まれており、したがってこれは三省事務当局案と二一日最終決定条件との比較なのであって、一四日に条件加重された点を摘示したものではないのである(「南方の非武装地帯を上海周辺に限ったのが「華中占拠地に」と拡大され」た部分は一八日になって陸軍から修正が言い出された〔「機密作戦日誌」〕。「なお日本政府は、中国側より講和使節を日本に送ること、和平交渉に入るや否やの中国側回答は、年内になさるべきことを期待する旨が申し合わせられた」のも後日の話で、陸軍案にはなくて二一日最終決定条件に見られる)。

 そして筆者の推定を裏付けることができるのは次の史料である。すなわち外務省東亜局第一課の記録によれば、「陸軍側原案」が和平条件案として決定した日付は一四日となっているし、「政府トシテ最終的ニ決定セル回答振」(二一日)も「陸軍側原案」に基づいていたことが同記録に付されている説明文からわかるのである(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02030510700、支那事変関係一件 第一巻(A-1-1-0-30_001)(外務省外交史料館)」)。念のために補足しておくと、一四日に和平条件案として決定し、二一日の最終決定条件の基礎となったのはあくまで「陸軍側原案」なのである。いうまでもなく〈三省事務当局案に条件が付け加えられ、その結果陸軍案と同様のものに変化した〉ものは「陸軍側原案」とは呼ばない。そもそも〈三省事務当局案に条件が付け加えられ、その結果陸軍案と同様のものに変化した〉という推測は、〈実は多田は連絡会議の結論を思うがままに操作できるほど絶大な権勢を有していた〉という荒唐無稽な仮定が前提だから、絶対に成立するはずがない。こうした解釈を高田氏がしてしまったのは、やはり一三日に陸軍案審議がおこなわれていたという事実を知らなかったことが大きいのだろう。執筆当時に若干の史料的制約があったとはいえ、少し考えれば自身の主張のおかしさには気づけたと思うのだが。しかも氏は前出の外務省東亜局第一課の記録はしっかりと確認しているのである(高田前掲論文)。一四日に「陸軍側原案」が和平条件案として決定したとの文言を一体どのように解釈したのだろうか?

 ともあれ、石射の「陸軍案にして了わる」という感想は、〈一四日の連絡会議では、前日に大きな反対もなく審議をパスした陸軍案の採用が決まった〉と解釈すべきなのである。その詳しい経緯まで明らかにすることはできなかったが、想像するに、おそらく出席者から和平条件の加重要求が相次いで収拾がつかなくなったために、誰かが陸軍案の採用を提案したところ異議が出なかったというところなのだろう。

 

 高田万亀子『静かなる楯 米内光政』批判・三

 高田前掲書からの引用を続ける。次の記述は高田氏のトラウトマン工作に対する総括と言えそうな部分である。

 折角の和平交渉を挫折させた責任は、単に打ち切りの罪を論じて済むものではなく、その前、部内を統制できず、見込み不能の苛酷案を主張した多田の参謀本部と、これになす術がなかった政府〔近衛と広田〕がともに負うべきものではないだろうか。

 この記述が全面的に誤りであることはすでに明らかにできたと思う。まず「見込み不能の苛酷案を主張した多田」という部分は、先に確認したように高田氏の現実離れした想像の話である。したがって近衛や広田が多田に「なす術がなかった」という事実も存在しない。そもそも政府が従来の和平条件での交渉開始に前向きだったと思い込んでいるのが間違いで、高田氏の言うところの「見込み不能の苛酷案〔陸軍案〕」が持ち出されることになったのは、一二月一〇日の閣議が蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶、すなわち以前提示した条件での交渉拒否を決めたためなのである。この決定が陸軍の強要によるものでなかったことは先に述べたとおりであり、政府が自発的に強硬論に走ってしまうのでは参謀本部の方こそ「なす術がなかった」というべきであるし、それどころか、もし堀場一雄ら戦争指導班が同閣議決定取り消しのために決起し、陸軍首脳部に直訴していなければ(堀場前掲書)、トラウトマン工作は事実上一二月一〇日をもって頓挫していたのである。

 そして一〇日以降であっても陸軍案ではなく比較的穏健な三省事務当局案を採択することもできたはずだが、審議の際に陸軍案には大きな反対はなく、同案が異論の相次いだ三省事務当局案を退けて採択されたというのが連絡会議の実情であった。

 以上も既述のとおりだが、加えて三省事務当局案を審議した一四日連絡会議における近衛と広田の態度についても検討しておく。まず近衛について再確認しておきたいのは、彼はすでに蔣介石政権に代わる新政権の樹立に肯定的だったということである。したがって、この期に及んで北支における蔣介石政権の主権を認めようとする三省事務当局案など容認できるはずがなかったし、そもそも北支における経済権益の拡大、すなわち北支分治の実現は近衛内閣の当初からの対支政策でもあった(庄司潤一郎「近衛文麿像の再検討」『変動期の日本外交と軍事』。なお、近衛は盧溝橋事件後の七月一六日、「北支は經濟開發の意味において、一層必要あり」〔『一軍人の生涯』〕と述べている。北支派兵を容認した後にこうした発言をするということは、威嚇ないしは一撃によって要求を呑ませることができると考えていたということであり、認識としては陸軍拡大派と同程度であった)。

 庄司潤一郎氏は、末次信正が「蔣の交渉に応ず可らず」と公言する強硬論者であることを近衛が熟知したうえで、木戸幸一と画策し、天皇の反対をも押し切って内相に就任させていることを重視して「近衛は、彼自身は連絡会議等で表立った発言を避けながら、末次内相の強硬論に期待し、和平工作を裏から妨げようと企図したといえよう」と論じている(庄司「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」『新防衛論集』通巻59号)。この見方は、近衛が一四日の連絡会議の冒頭、「なまじつかな講和條件では駄目だ」などと強硬論を口にした末次に対し、「自分は反對である」として毅然と反論し、末次に「總理の意見に從ふ」と言わせたというエピソードと一見矛盾するが(『原田日記』第六巻)、一〇日閣議で蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決めたのは、そもそも「なまじつかな講和條件」で交渉することを嫌ったためなのであり、なおかつ近衛と末次は「蔣の交渉に応ず可らず」という考え方では一致しているのであるから、この両者の間に本質的な対立が生じるはずがない。近衛の発言がどこまで本気だったかはかなり怪しい。さらに付け加えると、近衛と末次は「旧知且つ常に時事を語り居たる」間柄であり(「荒木貞夫日記」『中央公論』一九九一年三月号)、また、木戸幸一が「首相は連絡会議にどう云ふ理由かは知らないが末次内相をつれて出席された」(『木戸幸一関係文書』)、「近衛はいろいろの交渉の場によく末次氏を同伴していた」(『木戸幸一日記』東京裁判期)と当時を回想するように、末次を連絡会議に出席させたのは近衛だったのである。そうであれば両者の間に打ち合わせがあった可能性も十分に考えられるが、いずれにせよ近衛はここでも強硬意見を他者(末次)に代弁させようとしたことは確実である。実際に末次は近衛の反論を受けて沈黙してしまったわけではなく、三省事務当局案の審議が始まるとこれに異論を唱えたり、隣席の米内に向かって「海軍はこんな寛大な条件でよいのか」などと詰問を放ったりして和平条件の加重を要求しているのであるが、近衛が再びそれを制止しようとした気配はないのである(『外交官の一生』)。

 次に広田の一四日連絡会議における態度について述べておけば、『石射日記』では「我方大臣一言も云はず」となっているが、一九四四年の石射の談話によれば、出席者からの異論により和平条件が加重されると「廣田外相モ亦自カラ筆ヲ執リテ原案ニ加筆スル」場面があったようである(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02030666700、支那事変関係一件/善後措置(和平交渉ヲ含ム)(A-1-1-0-30_43)(外務省外交史料館)」)。仮に加重された条件案に絶対不同意であればわざわざ「自カラ筆ヲ執」ることはあり得ないし、もともと条件加重には積極的だったのであるから、全面的か部分的かは別として、少なくとも強硬意見に同調していたとはいえよう。なお、同談話において石射は、三省事務当局案に「最強硬ニ反對シ」たのは末次信正であったとしており、条件加重の要求は無論多田ではなく、末次を中心におこなわれたと判断できる。このことからも多田の要求が全部通ったなどという高田氏の主張は成立しないのである。

 以上のように、政府が「見込み不能の苛酷案」を「多田の参謀本部」に無理やり呑まされたかのように述べる高田氏の理解は根本から間違っているのであり、トラウトマン工作失敗の端緒はあくまで陸軍が作り出したとの論法が通用しないことも重ねて強調しておく。

 

 高田万亀子『静かなる楯 米内光政』批判・四

 そして高田氏は参謀本部和平派と称される多田駿や堀場一雄の責任論を提起しているのだが、すでに明らかなようにそれにはほとんど意味がない。仮に彼らの努力により、陸軍省部が従来の和平条件での交渉開始を支持する態度を保持していたとしても、トラウトマン工作はやはり失敗していたはずだからであり、その理由はここまでに述べたように、政府側にも強硬論が存在し、従来の和平条件では納得できないという考えや、トラウトマン工作のみならず交渉相手である蔣介石政権自体を否定しようという動きがあったためである。しかし、そうした事実をまったく無視している高田氏にバランスのとれた批評など期待できるわけがない。

 たとえば高田氏は「ちなみに政府が打切を主張したのは誠意の有無でなく脈のない事にあった。こうして日本の進む道は、御前会議決定通り国民政府を相手とする交渉に期待をかけずゆく外なくなった」(高田前掲論文)と、あたかも政府はやむを得ず交渉を打ち切ったかのように無邪気に述べているのだが、実際にはこのとき政府は交渉打ち切りにむしろ積極的になっていたのであり、蔣介石を相手にしなくても傀儡政権相手に事態を収拾できると判断していたのである。この巨大な錯誤はどう頑張っても弁護不可能だろう。その点に関して言えば、陸軍強硬派の主張に参謀本部和平派がときに安易に妥協し、陸軍としての公式の態度や和平条件案を強硬なものにしてしまったことはたしかに褒められたものではないが、彼らにはあくまで蔣介石を相手に事変を解決すべきとの信念があったのである。高田氏は〈多田は陸軍の強硬論を抑えることができなかった〉とか〈堀場の思考には独善性がある〉などとして重箱の隅をつつくような批判を展開しているが、客観的に見て、心ならずも強硬論に屈してしまったことより、自発的に強硬論に走ってトラウトマン工作を失敗させた政府のほうがよっぽど問題であるし、独善性というならば蔣政権を相手にしなくても事変は片付くと判断し、あまつさえ蔣政権を「抹殺」するなどと内外に宣言することのできた政府の思考は次元が違うと思うのだが(ここに述べたことは別記事「トラウトマン工作はなぜ失敗したのか」を参照されたい)。残念ながら参謀本部和平派に対する批判は問題の本質から外れた、程度の低いあらさがしに終始してしまっているといわざるを得ない。

 結局高田氏のねらいは陸軍の責任をことさらに強調することで、トラウトマン工作の打ち切りに加担した米内の責任をうやむやにすることらしく、何気なく次のようなとんでもない一文を差し挟んでいる。高田前掲書からもう一か所引用する(丸括弧でくくったアルファベットは筆者によるもの)。

 臨時政府〔一二月一四日、現地陸軍が北京に成立させた新政権〕成立の報に米内は、「こんなことでは和平などできるわけがない」と珍しく風見書記官長に怒りをぶちまけ、首都南京の陥落に、親しい新聞記者には暗い顔を見せた。そこへ持ってきて連絡会議は強硬論ばかり、首相も外相もだんまりを決めこんで非常識な陸軍案を通してしまった(A)。会議の冒頭、涙を流さんばかりに和平を訴えた多田が、見込み不能の苛酷案を主張した(B)。

「何と馬鹿な。多田に部内を統制する力はない。相変わらずの陸軍だ」(C)

 平素必要最小限のことしか言わない米内が、風見の広田への質問を横取りして、「見込みゼロ」と言い切ったことに、彼の憤りもしのばれる(D)。

 シツコイところもある反面、淡泊過ぎるとさえ言われる米内は、十四日の連絡会議が終わった時、この工作に匙を投げる気持ちになっていなかったか(E)。

  誤りを指摘しておく。ただし、すでに論述したことの繰り返しになってしまうため、出典の表示は省略する。出典を含む詳細は本論の当該部分を参照されたい。

(A)一二月一三日の和平条件案審議において米内は「非常識な陸軍案」に特に反対することもなく、一応原案通り決定させている。そもそも陸軍案が持ち出されることになったのは一〇日閣議が蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決定したためであるが、米内は八日の杉山のドイツ斡旋辞退の申し出に同意していることからも、これに積極的に反対することはなかったであろう(一二月一一日「東京朝日新聞」は、一〇日閣議が「全閣僚意見の一致を見るに至」ったと報じている)。陸軍案を通してしまったのは近衛、広田と並んで米内も同様である。

(B)そのような事実はない。

(C)これは(A)の誤解と(B)の空想に基づいて高田氏が創作した米内の台詞である。

(D)高田氏は、和平条件が陸軍案で決定したことを受けて見込みが問題になったとの風見の回想を鵜呑みにしてこのように書いたようだが、実際には風見の記憶違いで、見込みが問題になったのは和平条件案審議のはじまる前で、しかも前日の出来事である。

(E)これは(A)~(D)の誤解に基づくと同時に、何の根拠にも基づかずに書かれた単なる想像である。

 上の引用文に見るように高田氏は〈陸軍のせいで和平条件が苛酷になり交渉不可能になった。したがってトラウトマン工作の打ち切りは仕方なかった〉という論法で米内を擁護しようとしているが、その試みは完全に失敗しているといわざるを得ない。また、和平交渉打ち切り決定後に「対手トセス」声明が発表されることを閣僚は是認していたのであるから、米内を含む政府が問われるべき責任は一和平工作を打ち切った云々のレベルの話ではなく、現に交戦している相手を否認するなどという愚昧としかいいようのない声明を発表して、以後外交による和平解決を不可能にしてしまったことなのである(別記事「トラウトマン工作はなぜ失敗したのか」)。どう好意的に見ても「対手トセス」声明はその後に悪影響しかもたらさなかったのだから、失策は失策だったと率直に認めて批判するのが歴史研究者の正しい態度ではないだろうか。「あそこで打切ったら収拾不能ときまるわけでもあるまい」(高田前掲論文)などという放言に至っては、もはや開き直り以外の何物でもない。事実誤認だらけの感情論で擁護されても米内は決して喜ばないだろう。

 以上、高田氏が誤った認識のもとに陸軍批判と政府擁護を述べていることが明らかにできたと思う。反論はまだまだ尽きないが、ここではトラウトマン工作に範囲をしぼって、なおかつ主要な論点についてのみ簡潔に反論することにした。

 さて、文中でも触れたが、高田氏が『静かなる楯 米内光政』や「トラウトマン工作参謀本部和平派」という論文を書いた時点では、刊行されていなかった史料が多々あり、このことが批評の基礎となるべき認識を歪める一因になったと思う。ただ、それ以上に高田氏の場合は思い込みが強すぎるのではないか。高田氏の歴史観があらわになっているのは次の一文である(高田前掲書)。

 一体この頃の陸軍というものを私達はどうとらえたらよいのだろうか。組織の首脳でさえ全く統制できない千匹猿、「八岐の大蛇」的な野放図な怪物に対抗するには、天皇、近衛、広田、米内、このだれを見てもあまりに誠実すぎるか、あるいはひ弱すぎたのかもしれない。それともここまで成長した巨大な悪(あえて言わせてもらう)には、どんな者でも対抗できないとみるほうが正しいのだろうか?

 このように述べたくなる心情は理解できなくはない。しかし陸軍は悪玉、海軍や政府は善玉だったとひとくくりにできるかといえば、歴史はそう単純なものではないだろう。しかるに高田氏は上のように単純な善悪二元論で割り切ってしまっており、また、諸々の主張もこうした固定観念のもとに展開しているのである。筆者は本論において、高田氏が政府首脳部のトラウトマン工作に対する姿勢を見誤っていることを重点的に批判したが、高田氏にとっては、「天皇、近衛、広田、米内、このだれを見てもあまりに誠実すぎるか、あるいはひ弱すぎた」のは論を俟たないことであり、平和回復に前向きではない可能性などあらためて検証してみる気にもならなかったものと想像される。そしてそのような強烈な偏見で史料を眺めては、誤った結論しか得ることができなかったのは当然である。

 

※参考文献は石原莞爾支那事変」に同じ。