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牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

別宮暖朗「石原莞爾批判」批判

 別宮暖朗という歴史評論家を名乗る人物が、インターネット上や著書で石原批判を展開しているのだが、その内容はといえばあまりに根本的な間違いが多い。しかし妙に影響力があるらしく、別宮氏の文章が出所と思われる情報が伝播してしまっているのを見かける。そこで、誤った情報を信じる人がこれ以上増えないよう筆をとった次第であるが、筆者の言いたいことは他の記事に書いているので、基本的に本稿はよっぽど興味のある人か、よっぽどの暇人でない限り読む必要はない。

  なお、本稿で筆者の述べることは、別記事「石原莞爾と支那事変とほとんど重複しているため、ここでは出典の表記は省いた。ただし同記事で触れていないことに限って出典を表記している。それ以外の記述は「石原莞爾支那事変」で出典を明示し考察を加えているので、詳細については、お手数ではあるがそちらを確認していただきたい。

 いざ書きはじめるとまったく気が進まなかったので、推敲がおろそかになっていること、webページは大丈夫と思うが、著書からの引用には誤字脱字があるかもしれないことはあらかじめお詫び申し上げる。⇒は筆者のコメントである。

 

「石原莞爾批判」(http://ww1-danro.com/topix-2/ishihara.html)

石原についてまず非難すべき点は、支那事変勃発時における判断の誤りである。全面戦争に訴える(ファルケンハウゼン)という蒋介石の意図を見誤り、陽動作戦にひっかかり当初部隊配置を誤ったことである。

⇒陽動作戦とは別宮『帝国陸軍の栄光と転落』(文藝春秋、二〇一〇年)によれば盧溝橋事件のことらしいが、事件を知った蔣介石は「倭寇は盧溝橋で挑発している.われわれの準備がまだ整っていないこの機に乗じてわれわれを屈服させようとしているのか」(七月八日の日記)と日本側を疑ったくらいだから蔣介石犯行説はあり得ない。しかも蔣介石は中央軍の北上をすぐさま決めてはいるが、その意図は「積極的に準備をして決心を示さなければ,平和的に解決することは不可能である」(七月一〇日の日記)というものであり、全面戦争などではなかった。

 

支那事変勃発時、1937年7月18日、次のように語っている(田中新一陸軍省軍事課長談。石原が杉山陸相に述べたもの)。

「本年度の動員計画師団数は30コ師団、そのうち11コ師団しか支那方面にあてられないから、到底全面戦争はできない。然るにこのままでは全面戦争の危険が大である。この結果は、あたかもスペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際、思い切って北支にあるわが軍隊を一挙に山海関までさげる。

そして近衛首相自ら南京に飛び膝づめで日支の根本問題を解決すべきである」

〔以下、別宮氏のコメント─筆者〕

これは程度の低い議論である。まず、本年度の動員計画とは参本が予算獲得のため年次計画をつくるもので、平時の机上計画である。戦争となれば、敵や作戦の情況によって新たな動員計画をつくるのは当然である。

 ⇒石原の発言の意味はこういうことである。すなわち、三十個師団の動員は当時の経済状況から見て不可能で、実際には十五個師団が可能と判断していた。そのうち四個師団は対ソ防備のために必要で、十一個師団を対支戦に用いることができるとの計算である(「回想応答録」『石原莞爾資料──国防論策篇』)。三十個師団の動員は「机上計画」に過ぎないと考えている人物に対して、それは「机上計画」だと批判するのはかなり賢くない。もっとも「これは程度の低い議論である」と謙虚に前置きしているぐらいだからあまり責めることはできないが。

 

石原は支那との全面戦争できないと断言するが、1937年の支那事変は全面戦争そのものであって、日本軍は勝利した。事実をもって石原の言は成立しない。

⇒盧溝橋事件後の七月三〇日、「対支一国全力作戦をもってするも容易に支那を屈服させる成算も立たない」と海軍に申し入れているように、勝利のおぼつかない戦争はやるべきではない、との意味で「全面戦争はできない」と言ったのである。それから日本が支那事変に勝利したなどと、ありもしないことを公言するのはやめたほうがよい。

 

次にナポレオンの比喩はゲリラ戦についてであるが、1937年においてゲリラ戦のようなものは発生しなかった。近代軍にたいしてゲリラ戦で対抗するためには良好な補給網をもつ必要がある。華南の交通はクリークを利用した舟運であり、ゲリラ戦ができるところではない。この段階では石原は、蒋介石の上海包囲作戦をまったく見通すことができなかった。

管見の限り、石原はいきなりゲリラ戦がはじまるなどとは一言も言っていない。七月一八日の段階では不明だが、少なくとも七月下旬には蔣介石が上海で戦端を開こうとしていることを見抜き、また、上海事変勃発時には支那軍が同方面に集中してくることを予想していたことが明らかになっている。

 

山海関までの撤退とは天津軍をさげることである。天津軍は北清事変講和条約によって、北京公使館地区の護衛のため駐屯が認められたものである。このときでも仏軍や伊軍は駐屯を継続していた。日本だけ責任を免れる(ただし居留民を犠牲にして)ことが得策だろうか?

最後の首脳同士の話し合いというのは論外である。ヤクザのトップ会談の決着のように外交は進まない。このとき日中間には満州国問題があった。さらにいえば、日本は中国全土を占める独裁政権樹立阻止を外交目的としていた。

懸案事項が解決されてトップは親密になれるのであって、ただ話をしても意味がない。

 ⇒平津地区の駐屯は、このときすでにロシア、ドイツ、オーストリアが継続を止めていた(『盧溝橋事件の研究』)。日本軍が駐屯を止めるのに誰に何の遠慮がいるのか不明。居留民云々も政府が引き揚げ命令を出して補償をすれば済む問題。また、首脳会談の目的は親密になることではなく懸案事項の解決であり、日本軍が北支から撤退し、既得権益を事実上放棄すればその大部分は解決する。満洲国問題は残るが、現在の日本を見てもわかるように領土問題の存在は首脳会談ができない理由にはならない。その成否はともかく、蔣介石は依然として和平解決を望んでおり、盧溝橋事件さえ片付けば全面戦争は回避されるのだから日本軍の北支撤退は得策だったに決まっている。蔣介石と戦っても、日本は失うものはあっても得るものは何ひとつない。

 

1937年8月18日16時すぎ、軍令部長、続いて参謀総長参内のとき天皇は次のように下問した。

「戦局漸次拡大し上海の事態も重大となれるか青島も不穏の形勢にある由 かくの如きにして諸方に兵を用ふとも戦局は長引くのみなり 重点に兵を集め大打撃を加へたる上にて我の公明なる態度をもって和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや 即ち支那をして反省せしむるの方途なきや」

これに対して石原莞爾は、参謀総長に次のような意見を述べた。

・陸軍兵力の一部を上海に、又要すれは青島に派遣して居留民の現地保護に任せしむ

・北支に対しては更に若干師団を動員増加(要すれは南満に控置す)し北部河北省及察哈爾省の主要地を占拠し敵か北上攻撃し来るあらは之を迎撃す

・前二項の態勢において戦争持久の場合に対処することとし何等かの関係によりて生ずる講和の機を待つ

・戦争の結末を求むる為に海軍の強力なる対南京空爆の成果に期待す

〔以下、別宮氏のコメント〕

日本の陸軍参謀本部作戦部長の天皇の希望に対する発言がこれである。河北省は察哈爾省には軍閥軍しかおらず、ここに陸軍を置いて、「何等かの関係」で講和の機運が生じるだろうか?講和とは戦局の変化によって生じるのであって、迎撃するために待機するとは、戦略的にまったく意味がない。

石原莞爾蒋介石がイニシアチブをとり先制攻撃してきた事実をなんとしても直視したくないようにみえる。この当時の参謀本部若手にとり石原莞爾は出世した英雄であったためか、部内ではあまり論難されていないが、そのそも石原のソ連脅威論は実効のあるものだろうか。そのあと中国には総計40個師団内外を派兵したが、このときを除いてソ連配備の関係から中国への派兵量が論じられることはなかった。

 ⇒天皇の意見が正しいかどうかは疑問がある。まず、それを実現しようとすれば政戦両略の一致が不可欠であるが、日本の軍人も政治家もそのための訓練を受けていなかった。そもそも彼らは支那の抗戦能力を著しく低く見積もっており、外交交渉によらずとも武力によって支那事変を解決できると信じられていたのである。一方、支那事変における蔣介石の一貫した戦略は国際的な対日干渉を引き起こすことであり、そのためには長期戦に訴えることも計画していた。したがって国際都市である上海での戦いを重視するとともに、すでに大陸奥地の開発にも取りかかっており、上海や南京を占領するだけでは彼を屈伏させることはできなかったのである。第二次上海事変以降、トラウトマン工作が失敗に終わり戦争が泥沼化してしまったのはこれらの要因のためであった。

 翻って石原は上記のような内外情勢を明確に認識しており、そのために上海への陸軍投入は支那事変の泥沼化を促進させる行為に他ならないと苦慮していた。そればかりか対支戦争はやがて列国との軋轢を招くことになるとの予想から、陸軍の上海出兵が大日本帝国破滅のポイント・オブ・ノーリターンになるとさえ判断していたのである。

 以上のことは従来指摘されてこなかったが、これらを把握しておかない限り石原が上海への陸軍部隊投入を嫌った理由は理解できないし、そもそも支那事変における石原の対応を正確に批評することは不可能。当然ながら別宮氏は以上を分析した様子もなく、そのために表層的な批判に終始してしまっている。「石原のソ連脅威論は実効のあるものだろうか」と疑問を呈しているのはそのもっともたるもので、それも石原にとっては対支戦線拡大の副次的な問題であった。なお、陸軍を北支に留めるという方策は、上海派兵を回避していた場合ならば効果を発揮し得たのであり、意味がないことはない。

 

海軍航空に期待する議論は当時の軍事界の流行ではるが、結果としては謬論である。当時の爆撃機は地上砲火に脆弱であった。96式陸攻は大きな被害を受けた。海軍をためにする議論としか思えないのだが。

⇒南京爆撃は、海軍軍令部が対支一撃論に基づいて策定した七月一二日「対支作戦計画内案」によって計画され、第三艦隊司令長官の命令により八月一五日から実行に移された(『中國方面海軍作戦』1)。要するに海軍が独自に計画し、実行に移したのである。嫌がる海軍に石原が無理矢理やらせたならその批判はわかるが、「期待す」と言っただけで「海軍をためにする議論としか思えない」とは意味不明。

 

8月31日、石原莞爾は近藤信竹軍令部第1部長を訪ね、次のように申し入れている。

上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞-江湾-閘北の線くらいであろう)北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。

陸軍統帥都としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。陸軍大臣は誰に吹き込まれたのか、穏和な平和条件には満足しないようである。

両統帥部で条件決定を促進したい。参謀総長は自ら陸軍大臣に話してもよいと言われている。陸海軍両次長の懇談により大綱を決めたい。国民は戦時体制になっているのに軍部は平時のままになっているので、大本営設置に進みたい。

〔以下、別宮氏のコメント〕

事実は上海方面に兵力をつぎ込むことにより、戦局は日本軍有利に転換した、石原の観測は軍人とも思えぬ誤ったものである。

 ⇒それは支那事変に深入りし過ぎないうちに和平解決を実現しなければならないという強いこだわりが言辞に表れたもので、一種のブラフに過ぎない。実際に陸軍兵力増強が避けられなくなると、「今度の作戦は可及的速やかに結末をつけたい。それで中支の作戦も上海付近ではおさまるまいから、崑山─太倉の線まで進出したところで終局としたい腹案だ。やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」と前言を翻し、上海を攻略して南京まで行こうと思えば行けると考えていたことを明らかにしている。

 

この時点で杉山陸相固執すべき講和案があったとは思えない。講和とは戦局が決定的にならねば機運が生じないのは自明である。蒋介石から攻められたことがまだわからない石原莞爾は日本が「寛大な」講和条件を示せば、戦争が止み、講和できると考える平和ボケした男であった。

⇒石原が和平条件の確定を急いだのは、「消耗戦争ニ於テハ戦争ノ目的(講和条件)ヲ確定シ置クコト特ニ切要ナリ」(昭和六年)というかねてからの戦争指導理論に基づいたもので、それにより目先の戦況に惑わされて条件が加重されることを防ぐと同時に、政戦両略の一致を図ろうとしていたのである。繰り返しになるが、蔣介石が上海で戦端を開こうとしていることは事前に見抜いていたのであり、「蒋介石から攻められたことがまだわからない」などという事実はない。なお、「平和ボケした男」といったような根拠のない悪口は批判ではなく中傷と呼ぶ。

 

9月27日、石原莞爾関東軍副長に更迭された。石原を嫌う東條英機が参謀長にいたため制御できると考えられたのであろう。そのあと第16師団長に板垣陸相が「強訴」したので親補されたが、直後予備役編入となり、軍人としての生命を終えた。これらの発言は支那事変初動に関するものであるが、国家が侵略をうけたとき、何をせねばならないかという点で危機管理の悪例を残した。

関東軍参謀副長への転出は、本人の希望と多田駿参謀次長の推挙によるもの。そもそも石原と東条が対立するのはのちの話で、石原の着任前、東条は「石原と仲よくやってゆくつもり」と言明し、甘粕正彦に二人の仲を取り持ってくれるよう依頼している(古海忠之『忘れ得ぬ満洲国』経済往来社、一九七八年)。

「国家が侵略をうけた」というのは、別宮前掲書によれば、蔣介石はファルケンハウゼンの献策を容れ、上海租界周辺の陣地戦で日本軍に勝てると踏んで、同地での攻撃に先立って陽動作戦として盧溝橋事件を起こすという戦争計画を発動させたことを指すらしいが、事実を三点だけ指摘しておく。

 第一に、前述の通り盧溝橋事件の蔣介石犯行説は成立しない。しかも事件後、彼は和平解決を望んでいた。第二に、ファルケンハウゼンは上海事変前に北支を視察し、北支決戦を主張している。第三に、蔣介石は上海事変のはじまった八月、「わが弱点はあまりにも多く、組織と準備はなきにひとしい。これをもって敵に応戦するのは実に危険千万だ」と日記に書いているように、勝利を確信するどころか負けることを心配していたといったほうがよい。

 反論すればきりがないが、別宮氏のいう蔣介石の戦争計画なるものは結果からの推論なのだろう。第二次上海事変は蔣介石による不戦条約違反の侵略、というのが持論らしいが(別宮暖朗兵頭二十八『戦争の正しい始め方、終わり方』並木書房、二〇〇三年ほか)、現実には侵略の定義など存在しなかったのだから(別記事「不戦条約は「侵略(aggression)」を定義したか」)、そのようなことを断定できるわけがない。「何をせねばならないかという点で危機管理の悪例を残した」と結論付ける前に、石原の思想を含め色んなことを一から見直されたほうがよい。

 

関東軍参謀に左遷され、その後、板垣陸相によって第16師団長に栄転した石原は、そこで竹田宮から支那事変初期の処置について質問を受けそれに答えている(『現代史資料9日中戦争2』「石原莞爾中将回想録」みすゞ書房)。

一般ノ空気ハ北支丈ケデ解決シ得ルダラウトノ判断ノ様デシタガ然ツ私ハ上海二飛火スル事ハ必ズ不可避デアルト思ヒ平常カラソウ言ツテ居ツタノデアリマシタ

抑々上海二飛火ヲスル可能性ハ海軍ガ揚子江二艦隊ヲ持ツテ居ル為デアリマス 何トナレバ此ノ艦隊ハ音支那ガ弱イ時ノモノデ現今ノ如ク軍事的二発展シタ時ニハ居留民ノ保護パ到底出来ズ一旦緩急アレバ揚子江二浮ソデハ居レナイノデアリマス

然ルニ軍令部ハ事変ガアル前二之ヲ引揚ゲルコトガ出来ナカツタ為事変後軍艦ヲ下航セシムル際漢ロノ居留民ヲ引揚ゲシムルコトトナリマシタ大体漢ロノ居留民引揚ハ有史以来無イコトデアリ若ツ揚子江沿岸ガ無事二終ツタナラバ海軍ノ面子ガナイコトニナリマス

即チ今次ノ上海出兵ハ海軍ガ陸軍ヲ引摺ツテ行ツタモノト云ツテモ差支ヘナイト思フノデアリマス(中略)

〔以下、別宮氏のコメント〕

これは虚言の塊である。この当時、英米仏も揚子江に砲艦を派遣していた。『和泉』が上海飛び火の原因というのは言うに事欠く虚言と言わざるを得ない。「飛び火」とは軍事用語ではない。軍人は「飛び火」したならば、誰が飛び火させたのか考えねばならない。

攻撃された自国軍(海軍)があって、その原因は、自国軍が砲艦を遊弋させていたからだという珍説は、単なる大アジア主義者の謬見ではなく、石原には日蓮宗儒教が根底にあり、中華主義(=中国は全部正しい)から離れることができなかったからであろう。

 ⇒石原の言う「飛火」とは、蔣介石が上海で挑戦してくる、ということを意味している。「「飛び火」とは軍事用語ではない。軍人は「飛び火」したならば、誰が飛び火させたのか考えねばならない」というのであれば、「〔盧溝橋〕事件は上海に飛火した」(『昭和天皇独白録』)と表現している天皇にも難癖をつければよい。

 また、早合点せずに石原の発言を最後までよく読んでほしいのだが、上海に戦火が拡大した原因は「自国軍が砲艦を遊弋させていたから」というのではなく、要するに海軍の面子がかかっていたからだと言っている。石原は一九三五年に「僕自身が北方でやったことを海軍が南方でやらかすのではないかという心配がある」(『大本營陸軍部』1)と発言しているように、かねてから海軍の南進論を警戒していた。そして盧溝橋事件後には「海軍はきっと上海で事を起す」(『作戦日誌で綴る支那事変』)と述べており、どうやら蔣介石が戦争を始めようとしていることを察知すると同時に、海軍がそれに便乗しようとしているとも観察していたようである(ちなみに笠原十九司『海軍の日中戦争』は、八月九日の大山事件は戦火拡大を望んでいた海軍による謀略との見方をしている。興味のある人は一読するとよい)。上海事変に際して「陸軍が強盗なら海軍は巾着切りだ」(高木清寿『東亜の父 石原莞爾』)と言ったというのは本当のように思われる。あるいは上海事変勃発前になされた、陸軍を派兵するよりは居留民を引き揚げるべきとの主張に同意しなかった海軍に対する皮肉のつもりなのかもしれないが、いずれにせよ「今次ノ上海出兵ハ海軍ガ陸軍ヲ引摺ツテ行ツタ」というのは紛れもない事実である。

 

⇒これ以降は目的不明の冗長な文が続くため、甚だしい誤りだけ指摘する。

 

石原は戦争を持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)に分類する。

⇒正しくは「決戦戦争」と「持久戦争」に分類したのである。また、これらは短期戦、長期戦とイコールではない。簡単にいえば、敵を武力だけで簡単に屈伏させることができる戦争を「決戦戦争」、敵を武力だけで屈伏させることが困難な戦争のことを「持久戦争」と定義しているのである。なお、これは石原の書いたものを普通に読めば理解できるから、知識ではなく読解力の問題である。たとえば、歴史の専門家ではなくとも鈴木博毅氏という人物は、『「超」入門 失敗の本質』(ダイヤモンド社、二〇一二年)という著書で石原の戦略を取り上げて、「「決戦戦争」とは、一つの大戦闘での勝敗がそのまま国家の勝ち負けを決めるとする思想だと考えるとわかりやすいでしょう」と解説している。繰り返すが、最低限の読解力があれば理解できるから、「「決戦戦争」とは短期戦のことです」などと書くことは絶対にないのである。

 

石原の論の根本はソ連警戒であり、また軍事的には上海で塹壕戦として膠着することを恐れたものである。

⇒石原が最も警戒したのは支那事変が泥沼化してしまうことで、ソ連はその副次的な問題。「上海で塹壕戦として膠着することを恐れた」という珍説はのちに別宮氏自らが否定している。『文藝春秋』に「小倉庫次侍従日記」が掲載されると、天皇の「支那事変で、上海で引かかつたときは心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来てるのを、陸軍は知らなかつた」という発言を見つけて無批判にそれを肯定している(別宮『日本の近代10大陸戦と世界』並木書房、二〇一〇年)。まさか「石原は上海に支那軍陣地が出来ているのを知らなかった。しかしそこで膠着することを恐れていた」という矛盾を主張するつもりはないであろうから、上記珍説は誤りであったと認めたものと判断する。そもそも前述のように、石原は上海を攻略して南京まで行こうと思えば行けると考えていたのであるから、「上海で塹壕戦として膠着することを恐れた」という珍説は最初から成立しない。なお、実際には、陸軍は上海に支那軍陣地が存在していたこと自体は把握しており、この天皇の回想は疑ったほうがよい。

 

ただ現実に戻れば石原と昭和天皇は1937年7月蒋介石が設定した上海決戦をめぐり対立のピークに達した。石原はこのとき満州事変開始の帰結がこれだったと気づき動転した。攻撃されたにもかかわらず反撃する策を立案できず、また得意の謀略=私的外交、船津工作に走った。軍人にもかかわらず、この子供のような弱気を愛するべき否かは人によって異なるのかもしれない。しかし国家は攻撃されたならば反撃し、友軍が孤立したならば救援せねばならない。

昭和天皇は石原の無能を見抜き、すぐさま上海決戦に応じる処置を要求した。攻撃をしようとしている人間に交渉を行い取りやめを頼んでも意味がない。国家と個人は異なる。石原は得意の長期戦不可避論を展開し煙に巻こうとしたようである。昭和天皇は自然科学者であり石原のようなロマンチストではない。1937年9月27日、石原は作戦部長の地位をおわれ、二度と重要な役職につくことはなかった。

 ⇒上海事変を「1937年7月」としているのは八月の誤りか?しかも蔣介石が上海戦で目指したのは国際的な対日干渉であって、日本に対する軍事的勝利ではない。したがって上海“決戦”では絶対にない。また、前述のように、石原は上海事変勃発の以前に、すでに蔣介石が上海で戦争を始めようとしていることに気付き、同時に陸軍の上海出兵が日本を滅ぼすもとになると判断していた。予測していたことが起こったのだから、あらためて「動転」などするわけがなく、実際には、石原は上海事変が起こると「もう終わった」と観念したかのようにつぶやいたのである。作り話はやめろといいたい。「石原は得意の長期戦不可避論を展開し煙に巻こうとしたようである」というのも同様。前述のように石原の言う「持久戦争」は、単なる長期戦とは異なる概念。こちらは誤読と作り話の合わせ技。

 それから、無知なのかわざとなのか知らないが、事実関係もごまかしてはいけない。「攻撃されたにもかかわらず反撃する策を立案できず、また得意の謀略=私的外交、船津工作に走った」とあるが、石原が上海への陸軍派兵を決めたのは八月一三日朝の話で上海事変のはじまる前。そもそも船津工作が始動したのは七月末で、蔣介石が攻撃命令を下したのは八月一四日早朝であり順番が全然違う。加えて、石原が船津工作に期待していたかどうかは実はかなり疑わしい。一方、天皇はその発言から、上海事変直前まで船津工作に期待していたことが明らかである。「石原と昭和天皇は1937年7月蒋介石が設定した上海決戦をめぐり対立のピークに達した」というのは空想の世界ではそうなのだろう。

 

昭和天皇による石原莞爾批判

~『文藝春秋』2007・4月特別号「小倉庫次侍従日記」解説半藤一利

昭和14年7月5日「后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出でたる所。「跡始末は何【ど】うするのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁、御前を退下す。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止【とどめ】らせらざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願ひ、他は明日遊ばされ度き旨言上、御前を下る。今日の如き御忿怒に御悲しみさへ加へさせられたるが如き御気色を未だ嘗て拝したることなし(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。

〔以下は半藤氏ではなく別宮氏の解説〕

板垣征四郎は、東京裁判で刑死するまで石原信者であった。板垣がもちだした陸軍人事とは石原莞爾の第16師団(京都)長補任に係るものであった。「御独語」と書くが、じっさいには板垣にやめるよう面罵したのであろう。そして板垣は、いっさい喋らず、天皇が黙ったところで退出する。残された天皇立憲君主として裁可せざるをえなかった。陸軍人事とは陸軍省が所轄する「軍政事項」であり、統帥権とは関係がない。このときすでに、日本の(軍)官僚は「省内お手盛り人事」に明け暮れていたのである。

 ⇒一体何を根拠に板垣征四郎が石原信者だったと断定したのだろうか。宮田昌明氏は『英米世界秩序と東アジアにおける日本』の中で、板垣の満洲事変後の行動から見て、彼が同事変に関わったのは名利心からであって、石原の理論や理念に共感したためではなかったと論じている。野村乙二朗氏は『毅然たる孤独 石原莞爾の肖像』の中で、板垣の陸相時代の行動から見て、やはり彼は石原の思想を理解しておらず、本当に理解できていたのは西尾寿造や多田駿くらいであったと論じている。筆者にも別宮氏の見解を否定できる材料がいくつかあるが、ここでは板垣による石原評だけ挙げておく。それは次のようなものである。

「石原のいうことは、実にとてつもないこともあり、誇大妄想狂のようなところもある。だが黙って聴いていると、中にちゃんといっていることがある。それをつかんで、やってゆけばよいのだ」(藤本治毅『石原莞爾』)

 これからわかるように、板垣は石原の人間性をかなり冷静に観察していた。筆者もこの石原評にまったく同感である。ともかく「信者」が教祖に向かって「誇大妄想狂のようなところもある」などと批判することはあり得ない。

 そして、天皇が「「跡始末は何【ど】うするのだ」等、大声で御独語遊ばされ」ていたという点について、別宮氏は「「御独語」と書くが、じっさいには板垣にやめるよう面罵したのであろう」と想像しているが、よく読めばそれは板垣の帰った後の話だと思うのだが(たとえば古川隆久昭和天皇』もそのように解釈している)。いずれにせよ、その想像は誤りである。天皇は翌日、畑俊六侍従武官長を呼び、昨日の板垣に対する発言について「辞表を提出せよといふ如き意味にあらず」(「陸軍 畑俊六日誌」『続・現代史資料』4)と伝えている。

 また、別宮氏の解説を読むと、板垣が石原の人事を持ち出したために天皇が激怒したとしか理解できず、本人もそう信じているのだろうが、それは事実とは異なる。実はこのとき宸襟を悩ませる問題は他にいくつもあった。第一にノモンハン事件。当時その真っ最中であり、天皇は同事件の拡大を懸念していた。第二に日本軍が天津英仏租界を封鎖していた問題。やはり天皇はこの問題を懸念し、速やかな解決を望んでいた。第三に寺内寿一大将のナチス党大会派遣の問題。天皇三国同盟に反対であった(同前)。同日の天皇と板垣のやりとりを記録したものに、「畑俊六日誌」と『西園寺公と政局』第八巻があるが、それらによると、天皇が激怒した最大の理由は、板垣が陸軍人事を持ち出したためなどではなく、寺内大将のナチス党大会派遣に関して、板垣が「防共枢軸の強化の為」と意に沿わない説明をしたためであったことがわかる。また、それをきっかけに日頃の板垣と陸軍に対する不満を爆発させたというのが事の真相であった。なお、その際、天津英仏租界封鎖の問題についても質したようである。

 ただし、石原に関する人事を天皇が容易に裁可しなかったことは事実である。別宮氏は冒頭に「昭和天皇による石原莞爾批判」と銘打っているくらいだから、天皇は「〔第二次上海事変の〕跡始末は何【ど】うするのだ」と石原の責任を追及したということにしたいのだろうが、残念ながらその可能性はない。裁可に難色を示した理由について天皇は、「〔石原は〕浅原事件に関聯し此際親補職に栄転せしむるは良心に対し納得し難く・・・」と明言しており、上海事変は何の関係もなかったのである。これは「〔ノモンハン事件の〕跡始末は何【ど】うするのだ」と解釈するのが自然だろう。

 それから、天皇は板垣の帰った後にすぐ陸軍人事を裁可したかのように書いているが、実際は七日後の七月一二日の話(「小倉庫次侍従日記」)。

 

昭和17年12月11日「閑院さんの参謀総長で今井が次長であり、石原莞爾が作戦部長であったが、石原はソヴィエト怖るるに足らずと云ふ意見であったが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変った」

昭和天皇蒋介石が上海陸戦隊を攻撃してきたとき、見捨てるのではなく反撃すべきだと石原に訴えたが、石原は臆病風に吹かれ拒絶した。石原にとってのソ連は口実でしかなく、内心ではスターリンに感心していたのである。

 ⇒繰り返しになるが、石原が上海への陸軍派兵を決めたのは一九三七年八月一三日朝の話で上海事変のはじまる前。石原は上海への陸軍派兵が大日本帝国に破滅をもたらすと判断していたが、上海の日本人を見捨てることはできず、やむなく二個師団で居留民保護だけをやろうとしたのである。一方、蔣介石が攻撃命令を下したのは一四日早朝。よって「昭和天皇蒋介石が上海陸戦隊を攻撃してきたとき、見捨てるのではなく反撃すべきだと石原に訴えたが、石原は臆病風に吹かれ拒絶した」などというのは作り話。

 また、これも繰り返しだが、ソ連警戒は石原にとって対支戦線拡大の副次的な問題。したがって対支戦線拡大を牽制するためにソ連の脅威を強調することはあり得るのであり、実際に石原の発言には、駆け引きの要素のあることがたびたび発見できる。

 それからソ連の国家経営には批判的で、スターリンには感心ではなく軽蔑の眼差しを向けていた。

 

別宮暖朗兵頭二十八大東亜戦争の謎を解く』(光人社、二〇〇六年)

一九三七年、石原は新たな試練に直面した。蔣介石が、上海特別陸戦隊を包囲して襲撃したのだ。石原は、動員を完了して攻撃命令を出している蔣介石に対し、和平交渉(船津工作)を呼びかけるものの、相手にされなかった。

 その時代の大戦争は必ずや持久戦〔「両軍が塹壕にこもり、戦線が動かない」〕になると「予言」していた手前、石原は上海における決戦はなんとか避けたかった。彼は、日本の軍事的・経済的プレゼンスを全て中国から引き上げることを主張した。

 ただ「逃げる」だけの方針を提案したのだ。

 ⇒「攻撃命令を出している蔣介石に対し、和平交渉(船津工作)を呼びかけ」たという事実のないことは前述の通り。

「その時代の大戦争は必ずや持久戦〔「両軍が塹壕にこもり、戦線が動かない」〕になると「予言」していた手前、石原は上海における決戦はなんとか避けたかった」というのは、これも前述のようにのちに別宮氏自らが否定している。そもそも「持久戦」ではなく「持久戦争」。また、上海事変前の石原の実際の予言は次の通り。

「今中支に出兵すれば事変は拡大の一途をたどり収拾不可能の事態になるのは火を見るより明らかである。たとえ中支でどんな犠牲を払おうとも出兵すべきでない」

 この発言からも「上海で塹壕戦として膠着することを恐れた」という珍説は否定される。そして作戦部長辞任時の予言は次の通り。

「今に大きな失敗を仕出かして中國から、台灣から、朝鮮から、世界中から日本人が此の狹い本土に引揚げなければならない樣な運命になります」

 石原が上海への陸軍派兵を避けようとしたのはこうした理由からであった。

「彼は、日本の軍事的・経済的プレゼンスを全て中国から引き上げることを主張した」というのはよくわからないが、思い当たるのは七月末の話。ただし、一方的に引き上げろというのではなく、満洲国の承認を交換条件に和平交渉に入るべきという主張。その後上海からの居留民引き揚げは言っているが、それは第二次上海事変が起こる前で、しかもその主張は一年前からのものである。また、再三述べているが、石原は八月一三日朝にはすでに上海への陸軍派兵を決めているのだから、上海事変勃発後に「ただ「逃げる」だけの方針を提案した」などというのも作り話。

 一方、現実にただ「逃げる」だけの方針を披露した人物がいるようである。以下引用。

【『文藝春秋』二〇〇九年四月号「教科書が教えない昭和史──あの戦争は侵略だったのか」半藤一利福田和也秦郁彦別宮暖朗、北村稔、林思雲】

北村 これまで一般には、日中戦争といえば、「日本が一方的に侵略し、中国が侵略された戦争」として論じられてきました。しかし、昨年、林さんと『日中戦争』という本をまとめるなかで、必ずしもそうではないことが分かってきたのです。日本の方がむしろ全面戦争を望まず、局地的な戦闘の段階で何とか食い止めたいと考えていたのに対し、中国側はドイツの軍事顧問団の力を借り、全面戦争に日本を引き込む計画を早くから練っていた。

林 日中間で大規模な戦争が開始された本当の発端は、一九三七年八月十三日に発生した第二次上海事変です。蔣介石は、五千人余りの日本海軍特別陸戦隊への総攻撃を命じました。中国側が仕掛けた戦争であったのは事実です。

北村 事変当時のニューヨーク・タイムズには、「日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した」、「日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである」との、上海に駐在していた各国の政府職員のコメントが掲載されています。

別宮 私もお二人と同意見です。一般に日中戦争のはじまりとされるのは、昭和十二年(一九三七)年七月七日の盧溝橋事件ですが、これは現地軍の偶発的な衝突に過ぎず、十一日には停戦合意が成立しています。全面戦争となるのは、第二次上海事変以降のことです。その意味で、日中戦争は中国の侵略(アグレッシヴ・ウォー)だったといえるでしょう。

秦 今の意見に、私は同意できません。盧溝橋事件の四日後の七月十一日、現地停戦協定が結ばれたものの、同じ日に、近衛文麿首相は官邸に政財界人や新聞記者などを招いて、鳴り物入りで「北支派兵に関する政府声明」を発表します。そして七月二十八日、日本軍は総攻撃を開始、北京・天津一帯を占領しました。さらに、この日、日本は内地から五個師団二十万人の派兵を決定している。

 すでに戦争は北で始まっていて、蔣介石は相対的に有利な南の上海で決戦することを求めただけでしょう。それは当然の判断で、中国が上海を攻めたから侵略だ、というのは成り立ちません。

半藤 これは議論が大きく分かれましたね。私は秦さんの見解に賛成ですが、まず簡単に日中戦争の経緯を振り返ってみましょう。

 まず七月七日の盧溝橋事件から北京占領までは、主な戦場は中国北部です。そして八月十三日、今度は蔣介石が上海に攻撃をかけ、空爆まで行なったので、十五日には日本の海軍が南京への渡洋爆撃を行ない、陸軍も上海派遣軍を編成にかかる──といったように、一気に全面戦争に突入していきます。その後、日本軍は上海で勝利し、その勢いで揚子江流域を攻め上がり、十二月十三日には首都だった南京を陥落させますが、蔣介石は南京から内陸部の重慶に逃げて行きます。日本は重慶爆撃などを行ないますが、戦線がいたずらに広がるばかりで、戦況は泥沼状態に陥ってしまう。

 しかも、さらに遡れば、満州事変の後、日本軍は内蒙古を攻め、華北五省も中国から分離して、自治政府を作らせる工作を進めます。いわばミニ満州事変を企てたわけです。そして、実際に一九三五年には冀東防共自治政府という傀儡政権をこしらえています。

 どう見ても、最初に北支で攻め進んでいるのは日本軍です。ただ、日本の国内で不拡大派と拡大派、正確には対中一撃派に議論が二分されたことは確かですね。満州事変の立役者、石原莞爾参謀本部作戦部長として不拡大を強く主張したのは有名です。しかし、現地で武力衝突が続くと、武藤章や田中新一といった一撃派の主張が力を持ち、ずるずると戦争に引き込まれていく。

北村 しかし、北京を占領した後に、日本は和平への動きを始めていますね。八月の初めに在華日本紡績同業会総務理事の船津辰一郎に和平工作を委任します。いわゆる船津工作です。日本側としてはむしろこれ以上戦線を拡大したくない、という気持ちが強かった。

秦 もし、日本に本当に戦意がないことを示したかったら、北京を占領した後で撤兵すればいい。もし北京から撤退していたら、蔣介石は上海を攻めていなかったでしょう。

 しかし、実際には、北京占領後も日本軍は動員と南下を続けています。和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない。

林 日中戦争より以前から、蔣介石は全面戦争を戦うための作戦計画を構想していました。北部にはあまり軍を送らず、上海など揚子江のラインに主力を集結させる。もし日本軍が攻めてきたら、奥地深くに本拠地を築き、日本軍をおびき寄せて消耗戦を行なう──というものです。そして、実際にその通りに戦争を進めています。

秦 その通りです。結果的に日本は中国の思う壺にはまってしまった。しかし、それも「もし日本が攻めてきたら」という防戦計画ですよ。

(中略)

福田 話は少し戻るのですが、決定的なのは日中戦争の前年、一九三六年十二月の西安事件だったと思います。

 このとき蔣介石は張学良に捕らえられ、中国共産党への敵対政策をやめ抗日戦争に路線変更することを余儀なくされます。これまで蔣介石が描いていた、まず共産党を叩いて中国を統一し、次に日本と対峙する戦略はここで大きく崩れてしまった。

 では、どうやって日本と戦うか。蔣介石の当時の日記を読むと、日本人は短慮で時間のスパンが非常に短い。やるときには徹底的にやるので警戒が必要ではあるが、結局、持久戦に持ち込めば、最後の勝利は自分たちのものだ、と記されている。

林 満州事変当時から、中国にも和平派と主戦派の論争がありました。和平派は領土の一部を与えてでも日本との戦争を避け、全力で近代化を果たすべきだという立場で、少数派ではありますが、国の中枢にある人やインテリが多かった。それに対して、主戦派は三つのグループに分かれます。第一に過激な学生や市民、第二に共産党、第三が地方軍閥です。

 そのなかで、蔣介石はむしろ和平派に属していました。これは当時の日記や証言から明らかですが、それをそのまま口にすると失脚してしまう。そこで考え出したのが、「中国を統一して、後に日本と戦う」戦略だったのです。

 しかし、福田さんが言われたように、西安事件でその路線は挫折します。蔣介石の秘書だった周仏海の回想録には、盧溝橋事件以降、湧き上がる抗日の声に苦慮する蔣介石の姿が描かれています。先ほど日本の指導者たちが熱狂的な世論に煽られて、戦争への道を進んでしまった、という指摘がありましたが、それは蔣介石にもあてはまります。さらに、強硬な反日抗日を売り物にして、隙あらば政敵を「日本に対して弱腰だ」と攻撃する共産党、地方軍閥といったライバルとも戦う必要がありました。

別宮 なるほど。それはまさに反日の嵐が吹き荒れた、近年の中国とまったく同じ構図ですね。

⇒「日中戦争は中国の侵略(アグレッシヴ・ウォー)だった」との持論を否定されても、蔣介石は「奥地深くに本拠地を築き、日本軍をおびき寄せて消耗戦を行なう・・・防戦計画」を準備していたとか、「盧溝橋事件以降、湧き上がる抗日の声に苦慮する蔣介石の姿」が見られたといった持論と明らかに相反する意見が出ても一切反論しようともせず、最後にはなぜか同調してしまっているのがひとりいる。どうやら別宮氏は自分の本に書いていることを自分で信じておらず、真に受けているのは氏の信者だけのようである。

 なお、以上を読んだ人は座談会がそういうものだと考えないほうがいい。たとえば西尾幹二氏は、秦郁彦氏と討論した際、内容はともかく自説を徹底的に主張し、反論されたら反論し返し、おまけに「私は歴史の専門家を信用していないのでね。ことに日本史の専門家と聞いただけで眉に唾する習慣なんですよ。ハハハ」とまで言い放っている(「田母神現象と「昭和史」論争」『WiLL』ワック、二〇〇九年八月号増刊)。

 

別宮暖朗『帝国海軍の勝利と滅亡』(文藝春秋、二〇一一年)

上陸〔上海特別陸戦隊〕本部が攻撃されても、実質上の陸軍の責任者であった石原莞爾参謀本部作戦部長は、「逃げた方がいい」と言い出すありさまだった。

⇒作り話。いい加減にしてもらいたい。

 

海相米内光政は蔣介石に現に上陸本部が攻撃されているのに、陸軍省と陸軍参謀本部が「拡大」「不拡大」を論じる無能に怒った。

⇒米内は支那空軍の爆撃、特にかつて座乗していた第三艦隊旗艦「出雲」に対する爆撃に怒っていたと当時の部下が証言している。実は米内は、弱い支那が強い日本相手に戦争などやれるわけがないと高を括っており、その予想を裏切って攻撃を仕掛けてきた蔣介石に激怒していたのである。なお、当時米内をのぞいて閣僚はほとんど不拡大論で、近衛文麿首相に至っては辞職を考える有り様であり、予想外の攻撃に動転した米内は閣議において賀屋興宣蔵相を怒鳴りつけたり、後で後悔することになる南京占領を口走ったりして、天皇にたしなめられる始末であった。さっさと上海から居留民を引き揚げさせればよかったのに、まさに「上海出兵ハ海軍ガ陸軍ヲ引摺ツテ行ツタ」(石原)のである。

 

支那事変の戦局は、昭和一二年一一月に入ると日本有利に傾き、蔣介石は駐華ドイツ大使トラウトマンの仲裁に応じ、日本側の休戦条件に応じる意向を示した。このトラウトマン工作は外務省と陸軍参謀本部が主導した。近衛文麿は面白くなかった。

 閣議で蔣介石の休戦申し込みを拒絶することに決定し、外務省・参謀本部の「言い値」を吊り上げることに決めた。敗者の休戦申し込みを拒絶する例は世界史上でも稀有であろう。

 ⇒蔣介石が一九三七年一二月二日、トラウトマンに肯定的な返事をしたのは事実だが、この時点で敗北を受け入れたつもりはなく、後日「倭に対する政策はただ徹底抗戦あるのみ,これ以外に方法はない」と思い直している(七日の日記)。したがって日本から加重された和平条件が伝達された際には、もし日本が条件を緩和でもしようものなら和戦をめぐって国民政府内で対立が起こりそうだったが、これだけ苛酷な条件ならばその可能性はなくなったので「大いに安堵した」(二六日の日記)と、むしろ不安が解消された様子であった。これでは蔣介石を「敗者」と呼ぶことはできないし、日本が支那事変に勝利した(別宮)と言うことも不可能である。

 それから、参謀本部がトラウトマンに接触を試みたこと、広田がディルクセン駐日ドイツ大使に和平の斡旋を依頼したことは事実であるが、その関係性は実のところ不明であり、「トラウトマン工作は外務省と陸軍参謀本部が主導した」とは断定できない。また、広田がディルクセンに伝えた和平条件は一〇月一日に首・外・陸・海の四相会議で決めた「支那事變對處要綱」がもとになっており「外務省・参謀本部の「言い値」」でもない。

 

海相米内光政は、上陸本部が攻撃にさらされてからの陸軍の態度に最早我慢できなかった。始め「逃げろ」といわれ、そのあと幾多の海軍空兵が犠牲になったとき、中途半端に休戦することは海軍将校団を代表する海相として認められるものではなかった。あくまで粘る多田駿参謀次長に

「それなら辞職する」

 と言い放った。海軍大臣の強い言葉に閑院宮参謀総長も断念するしかなかった。米内のこのときの好戦的態度について、今なお論争が絶えない。このとき海軍内で蔣介石の完全打倒について異論はなかった。

 ⇒まず誰も上海事変勃発後に「逃げろ」などと言っておらず、米内は蔣介石に対してひとりで勝手に怒り狂っていたというのが実態である。また、「中途半端に休戦することは海軍将校団を代表する海相として認められるものではなかった」というが、トラウトマン工作における和平条件案審議の際に、米内は比較的穏健な陸海外三省事務当局案を支持しており(『外交官の一生』)、「中途半端に休戦すること」も考慮している。

 それから一九三八年一月一五日の大本営政府連絡会議は午前と午後、二度開かれ、米内が政府の辞職をほのめかしたのは午後の会議であり、「海軍大臣の強い言葉に閑院宮参謀総長も断念するしかなかった」としているが、そもそも閑院宮は午後の会議は欠席している。さらに「このとき海軍内で蔣介石の完全打倒について異論はなかった」としてもいるが、午前の会議では交渉打ち切りに反対する多田駿に軍令部総長と同次長は同調している(『支那事変陸軍作戦』1)。

 なお、これは指摘しないわけにはいかないのだが、同会議において、米内が交渉打ち切り論の政府側に加担した理由のわかる史料は見つかっていない。にもかかわらず別宮氏が米内のその動機を石原の上海事変勃発時の対応で説明しようとするのは、単なる勘違いと違い、完全に自覚したうえでやっている作り話である。それならば誤解を招かないように、「これは実話に基づいたフィクションです」と最初に断わっておくのがよろしい。

 

さらに満州事変のときと異なり、マスコミはともかく、この段階では、米国ルーズベルト(Roosevelt)政権もまた国府軍機の上海租界空爆に怒り、日本の自衛であるとして、その後の軍事行動を批判しなかった。

⇒一九三七年一〇月、国際連盟総会は日本の軍事行動は自衛ではなく日本が加盟している九ヶ国条約、不戦条約の違反であると認定、アメリカ国務省も日本の行動が条約違反である点で連盟総会の結論と一致するとの声明を発表している。また、ルーズヴェルト大統領も国際的なアナーキーを惹起する国家は伝染病のキャリアのように隔離すべしと演説した。さらに一二月には、日本海軍機が米砲艦パネー号を撃沈した事件にアメリカ国民は激怒し、ルーズヴェルトは米英海軍力による対日経済封鎖を真剣に検討するほどであった。なお、イギリスも怒って上海事変勃発後に陸戦隊を撤退させろと日本に抗議している。上海等、中支で軍事行動をはじめたからこんなことになったのである。

 

蔣介石は抵抗し続けた。蔣介石も〔支那事変を〕終わらせる方法を発見できなかったのである。

⇒繰り返すが、支那事変における蔣介石の一貫した戦略は国際的な対日干渉を引き起こすことであり、そのためには長期戦に訴えることも計画していた。したがって蔣介石は日本に抵抗しつつ国際情勢の変化を待ち続け、最終的にそれを具現化させたのである。こうした事実を知らずして、蔣介石は上海租界周辺の陣地戦で日本軍に勝てると安易に考え対日戦に打って出た。したがって上海戦のあとはノープランだった、などと根拠のない思い込みをしているのだから、人物評が根本から狂ってしまうのは当然である。一方、常識のある人が石原の上海撤退論を評価するのはこのことをちゃんと理解しているからである。

 

⇒以上、批判というよりはただの間違いさがしになってしまった。批判するために別宮氏の著書を買い込んだが、もう飽きたのでこれで終わる。