牛歩の猫の研究室

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石原莞爾と支那事変

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 はじめに

 一九三七年七月七日に盧溝橋事件が発生した後、陸軍参謀本部作戦部長という要職にあった石原莞爾(いしわらかんじ。“いしはら”は誤り)が、いわゆる不拡大方針を主張したことや、事変の泥沼化を警告したことはよく知られている。これは石原を主題にした書物以外でも、支那事変を扱った書物であれば必ずといってよいほど言及されるが、管見によれば石原がそうした主張をすることとなった根拠については意外にも十分な分析がされてこなかったようである。したがって参謀本部時代(一九三五年八月~一九三七年九月)前後に時期を限っても、彼が心の内を披瀝したと信じられる重要な発言が、それを直接聞いた人物により相当数記録、公刊されているにもかかわらず、ほとんど活用されていない。また、インターネット上の議論は言うに及ばず、プロの論考であっても明らかに誤った石原論が横行しているのが現状である。一方で的を射た論説も少なからず存在するが、ほとんどの場合深入りはしないのであり、物足りなさを禁じ得ない。

 本論の目的は、石原に関する史料の見直しをおこない、石原が対支戦争の有する危険性を認識するに至った背景を明確にすることにある。特に石原が唱えた「決戦戦争」「持久戦争」という概念を用いて、主に盧溝橋事件発生から作戦部長辞任までの言動を読み解いてみたい。そして、それを評価するためには石原の打ち出そうとした方策が現実にどのような効果をもたらす可能性があったのかについても考察する必要があるため、北支事変(盧溝橋事件以後の北支における紛争)ならびに支那事変(第二次上海事変以後の支那大陸全土における紛争)初期における諸々の事象についても再検討しておく。また、その過程において新たな責任論が浮上してくるので、石原以外の人物に対しても適宜批評を加えておく。

 出典を表記するにあたって、角田順編『石原莞爾資料──国防論策篇』は頻出のため『資料』と略記した。昭和十四年秋収録「石原莞爾中将回想応答録」(文中では「回想応答録」と略記)は同書からの引用である。同じ理由で、防衛庁防衛研修所戦史部『支那事変陸軍作戦』1、防衛庁防衛研修所戦史室『大本營陸軍部』1、原田熊雄述『西園寺公と政局』もそれぞれ『陸軍作戦』、『陸軍部』、『原田日記』と表記した。

 引用文中の〔 〕は筆者による注釈であるが、一部もともとあった注釈をそのまま引用している箇所もある。

「北京」という地名の盧溝橋事件当時の呼称は「北平(ペーピン)」であり、本論でもこれに倣っている。ただし、引用した文献に「北京」と表記されている場合はそのまま使用した。また、「平津」とは「北平・天津」の略称であり、「京津(北京・天津)」と同義である。

 文中の「上海事変」という語は、「第一次上海事変」と断りのない限り「第二次上海事変」のことを指している。

 

 決戦戦争と持久戦争

 石原の書き記したものや発言の中には、「決戦戦争」「持久戦争」という言葉が多く出てくるのであるが、最初にこれらを石原がどのような定義で用いていたのかを明らかにしておくことにしたい。

 まず、字面だけを見て「決戦戦争=短期戦」「持久戦争=長期戦」と解してしまうのは誤りである。石原自身の説明を確認してみる。

「戦争本来の目的は武力を以て徹底的に敵を圧倒するにあり。しかれども種々の事情により武力は、みずからすべてを解決し得ざること多し。前者を決戦戦争とせば後者は持久戦争と称すべし」

「決戦戦争に在りては武力第一にして、外交・財政は第二義的価値を有するに過ぎざるも、持久戦争に於ては武力の絶対的地位を低下するに従い、財政・外交等はその地位を高む。即ち、前者に在りては戦略は政略を超越するも後者に在りては逐次政略の地位を高め、遂に将帥は政治の方針によりその作戦を指導するに至ることあり」(石原『戦争史大観』)

 念のためさらに簡潔に説明したものも引用しておく。

「大体戦争には決戦戦争と持久戦争、短期決戦と長期戦争、殲滅戦争と消耗戦争と、二つに傾向が分れる。武力の勝ちが絶対的であればこれが決戦戦争です。武力で参つたと簡単にいはせることが出来ます。これが決戦戦争ですが、武力だけでは敵を屈伏せしむることの出来ない傾向の戦争を持久戦争と我々は云つて居るわけです」(「協和会東京事務所に於ける石原少将座談要領」『資料』)

 以上からわかるように石原は、敵を武力だけで簡単に屈伏させることができる戦争を「決戦戦争」、敵を武力だけで屈伏させることが困難な戦争のことを「持久戦争」と定義しているのである。それは「持久戦争は長期にわたるを通常とし・・・」(石原前掲書)といった記述からも、「持久戦争」と「長期戦」を異なる概念として使い分けていることが理解できる。たとえばこれが「長期戦は長期にわたるを通常とし・・・」では意味が重複してしまいおかしな文章になってしまう。

 さらに石原の言う「屈伏」についても定義しておきたい。石原は次のように述べている。

「作戦ノ目的ハ敵軍ヲ屈伏セシメルニアル。

 コレガタメニ敵軍主力ヲ撃滅シ、少クモコレヲ震駭セシメ、抵抗意志ヲ完全ニ挫折セシメネバナラヌ」(「国防論大綱」昭和十六年春『資料』)

 このことから、「屈伏」は「抵抗意志を完全に失った状態」と解釈することができる。筆者の手元にある辞書によれば、「屈伏」は「力尽きて服従すること」と説明されているので、一般的な用法とほとんど同じである。また、抵抗意志を失えば和を請うしかないのだから、「屈伏=降伏」と考えてもいいだろう。

 ついでながら、盧溝橋事件後に日本側で同事件の処理をめぐって対立したとされるふたつの考え方、「拡大方針」と「不拡大方針」についても定義しておく。まず、これらは名称に問題があるというべきなのだが、単に戦面を拡大するか否かの方針の違いと解釈することは誤りである。最大公約数的な説明をしておくと、「拡大方針」とは武力行使の効果に大きな期待を寄せ、それをもって日本側の要求を貫徹しようという考え方であり、「不拡大方針」とは武力行使の効果に限界のあることを認め、外交交渉により速やかに事態を収拾しようとする考え方である。このような理解が妥当であることは本論で追って明らかにすることができると思う。

 

 支那事変は持久戦争だった

 では、支那事変は決戦戦争と持久戦争、どちらに分類されるのだろうか。もちろん石原は持久戦争だと考えていたのであるが、その理由については次のように説明している。

「3 国土の広大

 攻者の威力が敵の防禦線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、自然に持久戦争となる。

 ナポレオンはロシヤの軍隊を簡単に撃破して、長駆モスコーまで侵入したのであるが、これはナポレオン軍隊の堅実な行動半径を越えた作戦であったために、そこに無理があった。従ってナポレオン軍の後方が危険となり、遂にモスコー退却の惨劇を演じて、大ナポレオン覇業の没落を来たしたのである。ロシヤを護った第一の力は、ロシヤの武力ではなく、その広大な国土であった。(中略)

 今次事変に於ける蔣介石の日本に対する持久戦争は中国の広大な土地に依存している。

 右三つの原因の中、3項〔国土の広大〕は時代性と見るべきではなく、国土の広大な地方に於ては両戦争の時代性が明確となり難い」(石原『最終戦争論』)

 つまり石原は、広大な国土が戦場となる戦争に関しては「自然に持久戦争となる」と考えており、広大な支那大陸が戦場となる支那事変についても、主に地理的要因によって持久戦争になってしまうと判断していたことがわかる。それは盧溝橋事件が起こると以下のように不拡大方針を説いていることからも(後付けの理屈ではないことが)明らかである。陸軍内においては、要旨次のように述べて説得を試みていたという。

「今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力、軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である」(武藤章『軍務局長 武藤章回想録』)

 また、兵力増派の要請に参謀本部を訪れた成田貢支那駐屯軍参謀とは次のような会話を交わしている。

石原「俺はナ、支那に駐在していた間に、四百余州を隈なく歩いた。そしてこの目ではっきり見て来たぞ。支那は広いよ。行けども行けども、果てしがない。河でも山でもスケールがちがう。あれじゃいくら意気ごんで攻めこんでみても、暖簾に腕押し、退くには退けず、とうとうこっちが根負けだよ」(中略)

成田「だから今すぐ動員して増援を得たら、目前の敵だけでも殲滅してケリをつけます。任して下さい」

石原「馬鹿言え、支那兵は逃げ足が早いぞ。どこまでも逃げて行く。それに漢民族の歴史を研究したか。昔から支那を獲りに行った他民族が、完全に漢民族を支配した奴がいるか。目の前ではハイハイと頭を下げるが、見えぬところじゃ勝手なことをしとる。そうこうするうちに、支配する民族がいつの間にか反対に同化されてしまう」

 対支武力行使を主張した武藤章参謀本部作戦課長に対してもこのように述べて反対している。

支那は広いぞ。どこまで行っても際限がない。満支国境で兵を止めるべきだ。万里の長城線は古来からの支那の国境だ。その線で交渉すれば、事変は必ず解決する」(今岡豊『石原莞爾の悲劇』)

 さらに浅原健三(八幡製鉄所ストライキを指導し検挙される。第一回普通選挙に当選。のちに石原に近づき政治工作に関与。支那事変前には石原の意を受け、政界や陸海軍の要人と面談を重ね日支不戦を説いた)、山口重次(満鉄に勤務。満洲事変勃発後は石原に協力して満洲国建国を後押し。その後満洲国官吏を歴任)にはそれぞれ以下のように打ち明けている。

「蔣介石は相当な戦術家だ。かならず長期戦にもちこむだろう。中国大陸は広大だ。どこまでも逃げていくだろう。抵抗する者はうち破ることができる。しかし、逃げる者には追う者が奔命に疲れる。食糧が足らないなら、まんじゅう一個で辛抱する支那兵だ。武器、弾薬が欠乏すれば、ゲリラ戦を展開するだろう。兵員が不足なら、支那には五億もの民がいる。広域な泥沢地帯、無限の山岳地、鉄道もなければ、道路もない。全大陸を縦横に走るクリークは世界無比の迷水路である」「奥地深く逃げ込まれたとき、追うに道もないが、日本軍への補給のすべもない。日本の軍事費は無限大に投じられても、効果がないだろう」「この戦争は十カ年を費やすも、解決点がない。結局、攻める者が敗北だ。断じて戦争をしてはならない」(桐山桂一『反逆の獅子』)

「若い参謀連中は『三ケ師団、三ケ月で支那を占領する』なんて、無責任なことを煽っているが、とんでもない放言だ。交通不便な、あの広い支那大陸だ。もし支那が国民ぐるみ、真剣になって持久戦を戦ったら、日本が大軍を遣って戦っても、中々、屈服できるものではない。『三ケ月、三ケ師団で支那を屈服する』なんて、とんでもない、たわ言だ」(山口重次『満洲建国への遺書 第一部』)

 このように石原は、支那事変を〈敵が広大な国土を利用した退避戦略によって決戦を避けてしまうため、武力だけで屈伏させることが困難になってしまう戦争〉、すなわち持久戦争だと予測していたのである。

 

 石原は長期戦不可避論者だったのか

「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」という石原の発言はあまりに有名だろう。そのため一部に〈石原は長期戦不可避論者だった〉との理解が存在するようである。しかし、盧溝橋事件以後の石原の言動を見れば、決してそうは言いきれないのである。

 まず、盧溝橋事件発生後、石原は近衛文麿首相に蔣介石との首脳会談を提案している(詳細は後述)。そして上海事変がはじまってからも、依然早期和平解決の可能性をさぐる石原は、馬奈木敬信参謀本部ドイツ班長をオスカー・トラウトマン駐支ドイツ大使に接触させて和平工作の端緒を作ろうとしているし(今岡前掲書、松崎昭一「日中和平工作と軍部」『昭和史の軍部と政治』2)、作戦部長を辞任後、トラウトマン工作がおこなわれている最中に父親の葬儀で帰国した際にも、参謀本部と接触して蔣介石との交渉打ち切りを阻止するよう熱心に説いたようである(『原田日記』第六巻、矢部貞治『近衛文麿』)。

 また、和平交渉が打ち切られてしまった後においても、「戦争規模ヲ成ル可ク縮小シ国力ノ消耗ヲ防キ、以テ戦争持久ノ態勢ヲ確立スルト共ニ好機ヲ把握シ速カニ和平ヲ締結ス」べきであると訴え、同時に「北支ノ軍権我ニ帰シ進ンテ漢口ヲ攻略シ得タリトスルモ、蔣政権ノ覆滅ハ尚望ミ難ク又、仮リニ蔣政権倒壊スルモ全土抗日ノ気運ハ断シテ解消スル事ナカルヘク、辺彊尺寸ノ国土存スル限リ国民党ヲ中心ニ長期ニ亘リ我ニ抵抗スヘキハ疑ヲ容レサル処タルヘシ 蓋シ斯ル場合ニ於ケル漢民族ノ抵抗ノ意外ニ強靭ナルハ歴史ノ教フル処ナリ」「従ツテ武力ノ絶対ヲ盲信シ即戦即決主義ニ依テ之ヲ屈セシメントスルハ四億ノ民ト近代的装備ヲ持ツ支那ヲ土民国「エチオピア」ト同視セントスルノ誤謬ヲ犯スモノタリ 対支戦ニ於テハ戦局ハ必スヤ長期化シ単ニ武力ノミナラス政治経済ノ綜合的持久戦トナルヘシ」と警告している(「戦争計画要綱」昭和十三年六月三日『資料』)。

 さらに支那事変の具体的な解決策については次のように述べている。

「もうかうなつては他に方法がない。蔣に對して全面媾和を申込むばかりだ。(註・對支作戰は一般の者の眼にはまだ行き詰らず寧ろ順調進展と見られたときのこと)若し聽き入れなかつたならばかうするぞといふ。それは奥地から撤兵すると共にあらゆる鐵道資材を撤去してくる。のみならず車輛・船舶等も殘さず撤收する。そして我としてはある小地域例へば天津・塘沽附近とか靑島附近とか又は上海附近をこじんまり占據して大部分の軍隊は内地へ引きあげる。かうすると敵も進攻も出來ず手も足も出ぬから恐らく媾和を受諾するだらう。これより外に戰爭をやめる手はない」(平林盛人「私の觀た石原莞爾將軍」『石原莞爾研究』。「支那事変処理方針」昭和十五年五月十日『資料』でも同様の構想が確認できる)

 以上の言動は、石原が〈長期戦を回避することは不可能ではない、また何とか回避しなければならない〉と考えていたことを示している。すなわち支那事変の早期解決を真剣に考え続けた石原が、長期戦不可避論者であるわけがないのである。石原に言わせれば、「国土の広大による持久戦争は、武力戦の重大さが、防禦威力の強大による持久戦争に比べて、多くの場合において低いと考へられる。それでも武力戦は依然戦争遂行の最も重要なる手段であることはいふまでもない。敵の心臓部を衝いて一挙に戦争の運命を決することは出来ないが、然し好機を捉へて敵の手足等の或る点に一大衝撃を与へて敵を震駭せしめ、それに乗じて巧な政略と相俟つて、和平の動機をつかまへることが可能な場合が尠くない」(「欧洲大戦の進展と支那事変」昭和十六年七月十八日『資料』)のであり、持久戦争は必ずしも長期戦を意味しなかった。

 ところが〈トラウトマン工作さえ成功していたら、支那事変は泥沼になるという石原の予言は外れていたじゃないか〉という意見をしばしばインターネット上で目にすることがある。しかし、そもそもドイツを仲介とした和平工作は他ならぬ石原の希望したことなのであり、少し考えればわかるはずなのだが、石原は自らの予言が外れることを心の底から願っていたのである。したがって彼は支那事変の泥沼化を阻止できなかった自らの指導力不足を反省し、退役時に「「事変はとうとう君の予言の如くなつた」とて私の先見でもある如く申す人も少くありません。そういはれては私は益々苦しむ外ありません」(「退役挨拶」昭和一六年三月『資料』)と述べている。

 石原が主張したのは「長期戦不可避論」ではない。正確には「持久戦争不可避論」と呼ぶべきものであった。それは本人が次のように明言するとおりである。

「〔支那事変は〕持久戦争不可避と考へまして戦争目的即ち講和条件の確定は本事変の当初から最も強調しました事で、どう云ふ条件で支那と協調するかと云ふ事に就いての石原の主張は、当時第二部長(渡久雄閣下病気で笠原幸雄課長部長代理)の反対及本間閣下の反対で同意されなかつたのであります」(「回想応答録」)

 

 早期和平解決にこだわった石原

 そして、上の発言で注目すべきは、「戦争目的即ち講和条件の確定は本事変の当初から最も強調しました」という部分である。たしかに盧溝橋事件後の七月三〇日には、「北平、天津平定時が和平の最良時機である。しかし参謀本部内の意見をまとめることができない状況であり、陸相も決心がつきかねている様子なので、海相からこれ〔和平条件〕を切り出してもらいたい」と海軍に要請しているし、八月三一日には「陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。陸軍大臣は誰に吹き込まれたのか、穏和な平和条件には満足しないようである。両統帥部で条件決定を促進したい」と、早急なる和平条件の決定を求める発言が認められる(『陸軍作戦』)。では、なぜ石原は支那事変において、和平条件の確定を急いだのであろうか。実は石原は早くから、次のような戦争指導理論を導き出していたのである。

「消耗戦争ニ於テハ戦争ノ目的(講和条件)ヲ確定シ置クコト特ニ切要ナリ」(「満蒙問題解決ノ為ノ戦争計画大綱(対米戦争計画大綱)」昭和六年四月『資料』。ここでいう「消耗戦争」とは「持久戦争」のことである。石原が「殲滅戦争」「消耗戦争」を「決戦戦争」「持久戦争」という名称にあらためたのは満洲事変後のことである〔『戦争史大観』〕)

 そして、その理由については西洋戦史の例を用いて説明している(同内容のため、以下はよりわかりやすく説明している『戦争史大観』から引用する)。

「〔フリードリヒ大王は〕全欧州を敵としてよく七年の持久戦争に堪えその戦争目的を達成した。それには大王の優れたる軍事的能力が最も大なる作用を為しているが、しかしよく戦争目的を確保し、有利の場合も悲境の場合も毫も動揺しなかった事が一大原因である事を忘れてはならぬ。持久戦争に於ては特に目前の戦況に眩惑し、縁日商人の如く戦争目的即ち講和条件を変更する事は厳に慎まねばならぬ。第一次欧州大戦ではドイツは遂に定まった戦争目的なく(決戦戦争より戦争に入ったため無理からぬ点が多い)、戦争後になって、戦争目的が論じられている有様であった。そしてこれが政戦略の常に不一致であった根本原因をなしている」

 すなわち政戦略を一致させる必要から、石原は和平条件(=戦争目的)の確定を急いだのであった。では、支那事変における石原の戦争目的とは何であったか。それは世界最終戦争に勝利するために東亜連盟を結成するという構想に基づき(後述)、原則的には蔣介石に満洲国を承認させる一方で、日本は支那本部におけるあらゆる権益を返還してしまうことであった(「回想応答録」ほか)。この点は強調しておくが、当初から〈支那事変は持久戦争である=蔣介石政権を武力だけで屈伏させることは困難〉という明確な見通しを持っていたからこそ早急な和平条件の確定を訴え、外交交渉による解決にこだわったのである。

 ところが戦争目的の定まっていなかった日本側では対応が場当たり的になってしまい、南京陥落という「目前の戦況に眩惑」したために、石原が「厳に慎まねばならぬ」とした和平条件の加重がなされてしまったばかりか、最終的には和平交渉を打ち切るという愚行をおかしてしまうこととなった。

 

 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで

 以下、盧溝橋事件以後における諸々の事象を再検討するにあたって、石原の動向および主な出来事を年表形式で簡単に確認しておくことにしたい。

一九三七年(昭和一二年)

・七月七日 盧溝橋事件発生(北平の郊外にある盧溝橋付近で夜間演習をおこなっていた日本軍〔支那駐屯軍〕が支那軍〔第二九軍。中央直轄部隊ではない。軍長は宋哲元〕既設陣地方向から銃撃を受け、これをきっかけに両軍が衝突するに至った事件)

・七月八日 早朝、事件発生の報が陸軍中央部に届く。参謀本部首脳部は石原の意見を容れ、事件不拡大と現地解決を根本方針とすることに意見一致。夜、支那駐屯軍司令官に対しさらなる武力行使は避けるよう指示

・七月一〇日 石原、参謀本部作戦課による北支への陸軍派兵案に同意

・七月一一日 昼、閣議において、関東軍(二個旅団)・朝鮮軍(一個師団)、内地師団(三個師団)の北支派兵を決定。夕、日本政府、事件の名称を「北支事変」とすることを発表、次いで派兵声明を発表。夜、現地停戦協定成立。参謀本部、内地師団の動員延期を決定(関東軍・朝鮮軍については予定どおり動員)。同日、参謀本部と海軍軍令部の間に「北支作戦に関する陸海軍協定」が成立

・七月一三日 大紅門事件発生(支那駐屯軍が第二九軍の襲撃を受け死傷者を出した事件。七月下旬の廊坊、広安門事件も同様の事件であるが、七月七日以来、このほかにも日本軍に対する攻撃が相次いだ)

・七月一七日 蔣介石、「最後の関頭」演説をおこなう(一九日公表)

・七月一八日 石原、杉山元陸相に「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」と警告、さらに北支の日本軍を山海関(満洲国の国境)まで後退させ、近衛が南京に飛んで蔣介石との膝詰め談判によって日支問題の解決をはかるべきことを意見具申

・七月二五日 廊坊事件発生

・七月二六日 夜、広安門事件発生。支那駐屯軍、北平・天津地区の第二九軍を膺懲するに決す

・七月二七日  深夜、支那駐屯軍司令官の報告を受けた石原、内地師団動員を決心。早朝、陸軍中央部において支那駐屯軍司令官の新任務付与(平津地区の支那軍膺懲)と内地師団動員を決定。朝、閣議の承認を得る

・七月二八日 支那駐屯軍、関東軍と朝鮮軍からの増援部隊とともに総攻撃を開始

・七月二九日 通州事件発生。支那駐屯軍、北平・天津地区を占領

・八月二日 船津工作はじまる

・八月九日 上海において大山勇夫海軍中尉殺害事件発生。これに伴い船津工作中絶

・八月一〇日 閣議において米内光政海相が上海への陸軍の動員派兵準備を要請、杉山陸相は了承。杉山が閣議から持ち帰ると石原は反対姿勢を見せるも、最終的には居留民保護のために最小限の兵力を派遣することで同意

・八月一二日 参謀本部作戦課は「上海、青島における居留民保護のため兵力派遣要綱」を策定。石原、これを決裁

・八月一三日 朝、石原は近藤信竹軍令部作戦部長を訪ね、上海への陸軍派兵は実行することで合意。閣議で上海派遣軍(二個師団)派兵を決定。夜、上海で戦闘がはじまる(第二次上海事変勃発)

・九月二日 日本政府、「北支事変」を「支那事変」に改称することを発表

・九月六日 石原、上海への陸軍兵力の増強(三個師団)に同意

・九月二七日 石原、参謀本部作戦部長を辞任

・一一月二日 トラウトマン和平工作はじまる

・一一月五日 第十軍(三個師団)、杭州湾上陸

・一一月一一日 上海占領

・一二月一三日 南京占領

一九三八年(昭和一三年)

・一月一一日 御前会議において「支那事変処理根本方針」決定

・一月一五日 大本営政府連絡会議、トラウトマン和平工作の打ち切りを決定

・一月一六日 日本政府、「爾後国民政府ヲ対手トセズ」声明を発表

 

※( )内の兵力は基幹兵力を示している。この年表を作成するにあたっては、『陸軍作戦』、『陸軍部』、今岡豊『石原莞爾の悲劇』、秦郁彦日中戦争史』、「中支出兵の決定」『現代史資料』12を参考にした。

 

 蔣介石の遠略

 ところで、蔣介石は支那事変の勃発以前にいかなる対日戦略を有していたのであろうか。その基本的枠組みについては一九三四年七月におこなった、廬山軍官訓練団における演説から明らかになる。このとき蔣は次のような構想を表明した。

「第二次大戦はいまや一九三七年までに起る可能性あるほど切迫し来たった・・・その大戦において日本の陸軍はソ連を敵とし海軍は米国を敵とするが故に、結局日本は敗戦すべく、その際が満州華北の失地を回復し中国の統一を完整する機会である・・・もしこれに先だって日本との単独戦争に入ることとなるならば、長期戦に訴えてその間の国際情勢の変化を待つ」(『太平洋戦争への道』4「解題」)

 無論その長期戦は、広大な国土を利用することを想定していた。次のようにも述べている。

「緒戦で敗退しても、私は、最後には必ず勝利を収めることができると信じている。こうした革命戦術(我々の血肉をもって敵の銃砲に抵抗すること)により、彼らが我々の一省を占領するには、少なくとも一ヵ月かかるだろう。計算すれば、彼らが我々の十八省を占領するには、少なくとも十八ヵ月必要である。この十八ヵ月間で、国際情勢の変化はすさまじいだろう。ましてや、必ずしも一ヵ月で我々の一省を占領できるとは限らないのだ」(「外侮を防ぎ民族を復興する」一九三四年七月一三日、黄仁宇『蔣介石』)

「戦争が始まれば、勢力が均衡した国家は決戦で戦争を終結する。だが、日本と中国のような、兵力が絶対的に不均衡な国家同士の戦争は、正式の決戦にこだわらない。日本は中国の最後のひとかけらの土地まで占領し尽くさなければ、戦争は終結できない。普通、二国間で開戦すれば、政治の中心の占領が要計である。しかしながら、対中国作戦に関しては、武力で首都を占領しても、中国の運命は制することはできないのである」(「友か?敵か?」一九三四年一二月、同前)

 以下においてさらに確認していくが、こうした支那人特有の「以夷制夷」戦略こそが蔣の一貫した対日戦略だったといえる。支那事変勃発後に国民政府は首都を南京から四川省重慶に移して抗戦を継続したが、すでに蔣は一九三三年八月に「大戦が勃発する前にどのようにひそかに準備を進め、敵に注目されず、西北と四川の経営に専念するか」(蔣介石日記の記述。黄自進「中日戦争の前奏:蔣介石と華北問題(1933‐1935)」『蔣介石研究』)との問題を提起していた。そのため蔣は満洲事変後においても「安内攘外」というスローガンを掲げて中国共産党の討伐を優先したが、中共を追撃する過程において四川省をはじめとする大陸奥地の支配力強化にも乗り出している(岩谷將「1930年代半ばにおける中国の国内情勢判断と対日戦略」『戦史研究年報』第13号)。そして一九三五年半ばに四川省における中共討伐を終結させると、同地の軍事拠点化を本格的に推進したのである(家近亮子『蔣介石の外交戦略と日中戦争』)。

 やがて支那事変が勃発すると、蔣は一九三七年一一月の国防最高会議において次のように述べている。

満洲事変から〔第一次〕上海事変を経て長城戦役に至るまで、私は焦りながらも、抗日戦争を行うための妥当な政策を定めることができなかった。(中略)しかしその後やっと抗日戦争の根本計画を定めたのである。この根本計画は、いつまでに決ったのであろうか。私は、今日各位にはっきりとお伝えする。それは民国24(1935)年、四川に入って中共を討伐する時であった。四川に到着してはじめて私は、我々の抗日戦争のやり方を見つけたと思った。なぜなら、対外戦争はまず後方の根拠地を必要とするからである。(中略)民国24年四川に入ってはじめて真の持久抗戦の後方を探しあてた。したがって、その時から戦争を実行する準備に力を注いだのである」(黄自進前掲論文)

 この言葉に偽りのないことは先に見たとおりである。

 

 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度

 一九三七年七月七日に盧溝橋事件が発生すると、蔣は断固とした対日姿勢を見せた。早くも翌八日には四個師団の増援(以下、通例にしたがって中央軍の北上と表記する)を決定し、一七日には日本に対する徹底抗戦を表明したとされる、いわゆる「最後の関頭」演説をおこなった。しかしこの時点において蔣が積極開戦を企図していたのかといえば、決してそうではなかったのである。

 蔣は八日の日記に次のように書いている。

倭寇は盧溝橋で挑発している.われわれの準備がまだ整っていないこの機に乗じてわれわれを屈服させようとしているのか.宋哲元を困らせようとしているのか.華北を独立させようとしているのか.今応戦を決心する時か.今倭は我と開戦するに利あらず」(岩谷將「日中戦争初期における中国の対日方針」『対立と共存の歴史認識』)

 この中で「われわれの準備がまだ整っていない」と述べているが、事実、盧溝橋事件後に連日開かれた軍首脳部の会議でも、揚子江の防衛施設が完成していないとか、空軍は未だ戦える状態にないといった、戦争の準備不足を指摘する声が相次いでいる。また、一九三六年から三年計画で、六〇個師を近代装備を備えた新型の師団「調整師」に改編する予定も二〇個師にとどまっており、蔣を補佐していたドイツ人軍事顧問団などはわずか八個師のみと判断していた(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』)。そして蔣自身も、支那軍の兵力と装備は日本軍に大きく劣っていると認識しており、後述するように結局八月になって開戦に踏み切るが、その時点でも「わが弱点はあまりにも多く、組織と準備はなきにひとしい。これをもって敵に応戦するのは実に危険千万だ」(蔣介石日記の記述。馮青「蔣介石の日中戦争期和平交渉への認識と対応」『軍事史学』通巻180号)と嘆じざるを得なかったのである。

 したがって盧溝橋事件発生時において、蔣にとって対日戦争は回避、ないしは少なくとも戦争準備が整うまでは先延ばししなければならなかったのであり、実のところ中央軍の北上を即刻決定するという対応も「積極的に準備をして決心を示さなければ,平和的に解決することは不可能である」(蔣介石日記、七月一〇日の記述。岩谷前掲論文)との考えに基づいていたのであった。また、「華北を独立させようとしているのか」という八日の日記の記述からもうかがえるが、一方で宋哲元に現駐屯地区の固守を命じており、北支の分離独立に対する警戒心も強かったのである(家近前掲書)。そして蔣は一一日の秦徳純(第二九軍副軍長)あての電報においても、「わが軍が積極抗戦の準備を行なって、必死の決意を示さなければ、和平解決(和平了結)などできるはずがない」との考えを明らかにし、一二日には文武高官を集めて「応戦するが戦を求めない(応戦而不求戦)、和戦両様の準備を行なう、つとめて局地解決を追求するが、万已むをえない時は一戦を惜しまない」との方針を決定している(安井三吉『盧溝橋事件』)。

 では、一七日の「最後の関頭」演説(後掲)にどのような意図があったのかといえば、これについては蔣の側近であった周佛海の回想が参考になる。周によれば、やはり蔣は日本を相手とする全面戦争など望んでいなかったといい、同演説も、盧溝橋事件発生後に抗日機運が漲った国内に向けてやむを得ず発表したというのが真相であったという。すなわち、当時蔣介石を対日戦に仕向けることで打倒蔣介石を実現しようと中共や地方軍閥が世論を煽っており、これを封じ込めるためにより強い調子で抗日を唱える必要に迫られたものであり、また、同時に「日本に対しても自らの決心を示すことで、中国への脅しが今回は通じないことを理解させ、日本を反省させて事件の解決を早める」ことを意図していたという(北村稔・林思雲『日中戦争』)。

 以上のように蔣は盧溝橋事件後、戦争回避を望んでいたが故に強硬態度を打ち出したということができる。一見矛盾しているようだが、このとき高揚する支那民衆および国民党内の抗日ナショナリズムを前に、もはや日本に対してあからさまに譲歩することが不可能になっていたのである。そのため蔣は、両国が対等な立場で原状を回復することが国内情勢上とり得る唯一の措置であり、これが認められないと彼の地位を保ち得ないと判断し、その旨イギリス大使を通じ数度にわたって日本側に訴えている(秦『日中戦争史』)。

 

 蔣介石はいつ戦争を決意したか

 以上のように、日本に対しては戦わずして勝つことを理想とし、本心では戦争を望んでいなかった蔣であるが、いざとなれば一戦も辞さない覚悟は決めていた。彼は対日戦準備のため、すでに一九三三年から上海─南京間に陣地線の構築を指示するとともに、一九三六年二月には中央軍官学校の教育長だった張治中に京滬区(南京上海地区)長官の兼務を命じており、上海事変勃発後、この方面に兵力を集中させて攻勢に出たことは予定通りの行動であった(深堀道義『中国の対日政戦略』、笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」『民国後期中国国民党政権の研究』)。事変勃発当時の蔣の考えについて、側近だった董顕光は次のように述べている。

「そのとき蔣介石は抗戦のための全面的な戦略を決定していた。これが世にいう“空間をもって時間に替える”戦略であつて、時間をかせぐために必要に応じて空間が放棄されるが、敵はそのような空間を得るために人的、物的に高価な代償を支払わねばならないのである。一種の焦土戦術がとられて中国軍の放棄した地域には敵の利用する家屋も食糧も残されない。この独特の戦略によつて日本軍は奥地深くおびき寄せられ、その戦線は稀薄に広がり輸送路は延びすぎて丸裸になつてしまうであろう。これが消耗戦の戦略であつて蔣介石は自惚れた日本軍が必ずこの消耗戦で崩壊すると信じていた。

 一方当面の危機に対して蔣介石は自らの好む戦場を揚子江の線に選び、そこに主力を集結するという現実的な方策を決定した。華北は補給線を維持することが困難だから、抗戦は続けても結局は敵手に落ちるものとして華北前線には大軍を増援しないことにした。中国軍の主力は揚子江流域の諸都市における決戦に備えて温存し、さらにもし揚子江の線が破れた場合は、奥地深く第三即ち最後の抵抗線を築く計画であつた」(董顕光『蔣介石』)

 では、蔣が上海での開戦を決意したのはいつだったのであろうか。蔣は七月一七日(一九日公表)の「最後の関頭」演説の中で以下のように述べている。

「・・・ひとたび最後の関頭にいたれば、われわれは〔あらゆるものを〕徹底的に犠牲にして、徹底的に抗戦するほかない。・・・わが東北四省〔満洲〕が占領されてすでに六年もの永きに及んでおり、これにつづいて生まれたのが塘沽協定であり、いまでは衝突地点はすでに北平の入口である蘆溝橋にまできている。もし蘆溝橋までが他国から圧迫され、占領されてもかまわないというのなら、わが五〇〇年来の古都であり、北方の政治・文化の中心であり、軍事上の重要地点である北平は、第二の瀋陽満洲国の都市、奉天〕になってしまうであろう。今日の北平がもし昔日の瀋陽になるとすれば、今日の河北、チャハルもまた昔日の東北四省になってしまうであろう。北平がもし瀋陽になるとすれば、南京がまたどうして北平の二の舞にならないというわけがあろうか。したがって、蘆溝橋事変の推移は中国の国家全体の問題にかかわるのであり、この事変をかたづけることができるかどうかが、最後の関頭の境目である

 さらに「蘆溝橋事変を中日戦争にまで拡大させないようにできるかどうかは、まったく日本政府の態度いかんにかかっており、和平の望みが断たれるか否かの鍵はまったく日本軍隊の行動いかんにかかっている。和平が根本から絶望になる一秒前でも、われわれはやはり平和的な外交の方法によって、蘆溝橋事変の解決をはかるよう希望するものである」として、「(一)どんな解決〔策〕であれ、中国の主権と領土の完璧性を侵害するものであってはならない。(二)冀察〔河北・チャハル地区〕行政組織に対するいかなる不法な変更も許されない。(三) 冀察政務委員会委員長の宋哲元などのような、中央政府が派遣した地方官吏については、なにびともその更迭を要求することはできない。(四)二九軍が現在駐留している地区については、いかなる拘束も受けない」という四ヵ条の解決条件を掲げている(「蔣介石の廬山談話」『中国共産党史資料集』8)。

 ここで具体的な解決条件(要するに日本軍が盧溝橋事件発生前の状態に復帰すること)を提示したのは、依然として和平解決に望みを残しているという意志の表明と受け取っていいだろう。それは七月二二日の時点でも、蔣はあらためて和平が最上の策との見解を示していることからも明らかである(家近前掲書)。さらに二三日に至ってはじめて現地停戦協定の内容を知るや、宋哲元に対し「領土的主権の範囲で損害を受けないのであれば、戦争を望み和平を望まないという理由はない。既に貴兄がその〔現地停戦協定〕三カ条に署名したならば、中央は当然同意し、貴兄とともにその責任を負う」と伝えているし(二三日発、蔣介石から宋哲元あて電報。「盧溝橋事件における国民政府外交部と冀察政務委員会」『人文研紀要』第51号)、二五~二七日に日高信六郎南京大使館参事官が高宗武外交部亜州司長や前外交部長の張群四川省主席と会談をおこなった際、彼らは国民政府が現地協定を容認する意向であることを明らかにし、特に蔣と密接に連絡しつつ交渉にのぞんでいた張群との間には、現地協定実行の見込みがつけば日本軍が撤兵の声明をなし、その後まず支那中央軍が南下、そして日本軍も撤兵するということに話し合いがまとまったようである(上村伸一『日本外交史』20)。蔣から外交交渉を一任されたとみられる高宗武は蔣の腹の内を次のように明かしている。

「蔣介石ハ終始日本ニ挑戦スル意志ナク戦ヘハ支那モ不利ニ終ルコトハ承知シオルモソノ周囲ニハ徒ラニ雑音(例ヘバ日本ハ事件一段落ノ上ハ今次ノ派兵ヲ期トシ川越大使ヲ南下セシメ警告〔原文ママ〕政府ニ対シ政治的難題ノ解決ヲ迫ルニ至ルベシ等ノ説)ノミ多キタメ今次事変ニ対スル日本ノ真意ヲ把握シオラス従ツテ蔣ハ日本側ガ支那ノ主権ヲ害シ余程ノ条件ヲ持出サントスルモノト憂慮〔している〕」(劉傑『日中戦争下の外交』)

 とはいえ日本軍の盧溝橋周辺からの撤兵を前提とするのであれば、現地協定を容認することに異存はなかったのである。このようにあくまで和平解決に望みをつないでいた蔣だが、同時期に立て続けに発生した廊坊事件(二五日)、広安門事件(二六日)を受けて開始された二八日の支那駐屯軍による総攻撃が、彼に和平が絶望になったと判断させるだけの重大な衝撃を与えたことは想像に難くない。

 翌二九日、北平の失陥を知った蔣は記者会見を開き「本日の平津の役で日本の侵略戦争が開始された」「今最後の関頭に至った」と声明を発表している(家近前掲書)。三〇日、かねてから上海に先制攻撃を加えるべきと考えていた前出の張治中は、「諸情勢ヨリ考エテ、宜シク主動的地位ニ立ツベキデアリ、先制攻撃ヲ行ウノガ我ニ有利ナリト信ズル」と意見具申をおこなっているが、南京からは「先制攻撃ヲ加エルベキデアル、但シソノ時期ハ命ヲ待テ」との返電があったという(深堀前掲書)。支那空軍の顧問だったアメリカ人、クレア・リー・シェンノートは三一日の日記に「南京から秘密の命令がもたらされた。戦争である。我が部隊は午後に移動を開始した」と書いている(『シエンノートとフライング・タイガース』)。

 これらからわかるとおり、支那側は七月二八日以降、明らかに上海での開戦に向けて動き出しているのである(正式に合意を見たのは八月六日の国防会議〔秦『盧溝橋事件の研究』〕、攻撃命令が下されたのは一四日早朝のようである〔深堀前掲書〕)。蔣自身は一九三八年一一月に、このあたりの経緯を次のように述べている。

「われわれの全軍隊を平津一帯に投入し、敵と一日の長短を争っていたなら、われわれの主力はとっくに敵に消滅され、中華民国はとっくに滅亡する危険があった。・・・だから、昨年平津を失った折、われわれは・・・敵と一城一地の得失を争わず、主力部隊を機動的に使い、逐次抵抗しつつ敵を消耗させ、先ず彼らを長江〔揚子江〕流域に誘いこもうとしたのである」(『中国革命と対日抗戦』)

「先ず彼らを長江流域に誘いこもうとした」、すなわち上海での開戦を決意したのは「昨年平津を失った折」であったとしている。そしてそれが事実であることは、一九三七年七月二七日の日記に「万一北平が陥落したならば,戦うか和すか,不戦か不和(議)か,また一面交渉一面抵抗の国策について慎重に考慮しなければならない」(岩谷前掲論文)と書きとめていることから裏付けられる。

 

 日支全面戦争を煽った中国共産党

 以上のように、日支が全面戦争に至ったのは盧溝橋事件に端を発する北支事変の収拾に失敗したためであったということができる。では、なぜ日支双方に平和的解決の意思があったにもかかわらず盧溝橋事件が拡大したのかといえば、その背景に中国共産党の強い影響力が存在していたことを看過することはできない。

 まず以下に述べるように、中共が日支紛争を惹起させようという意志を持っていたことは明白である。その目的は、一九三六年四月に彭徳懐毛沢東が張聞天にあてた電報が明らかにしている。

「この時機に蔣介石討伐令を発することは、戦略的にわれわれの最高の政治的旗印を曖昧にしてしまう。われわれの旗印は日本討伐令であり、内戦停止の旗印のもと一致抗日を実行し、日本討伐令のもとで蔣討伐を実行することである。これは国内戦争を実行し、蔣討伐を実行するのに最も有効な政治的旗印であり、その中心となるスローガンは内戦の停止である。このスローガン以外は今日において不適切である」(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』)

 すなわち偽装的に日本に対する共闘(抗日民族統一戦線の構築)を呼びかけて世論を煽り、蔣から抗日以外の選択肢を奪って国民党を日本との全面戦争に追い込もうとしたのである。いうまでもなく国民党と日本が干戈を交えることになれば、中共は国民党の軍事的脅威を回避できるばかりか、その疲弊に乗じて勢力を拡大し、政権を奪取するチャンスが生まれる。西安事件前、周恩来は「蔣自身よく知っていることですが、対日戦の始まるその日こそ、彼のヘゲモニーに没落の烙印が押される日となるのです」(エドガー・スノー中共雑記』)と予告した。支那事変がはじまると毛沢東は、日本軍との正面衝突を避け、遊撃戦をおこなうことを主張し、主要任務については、「八路軍勢力を拡充するとともに、敵の後方に中共の指導する抗日遊撃根拠地を建設することである」と指示を下している(謝幼田前掲書)。そしてこうした中共の戦術は、一九三五年八月のコミンテルン第七回大会における決議に基づいて指令されたものであった(『中国革命とソ連』)。

 もちろん蔣や、冷静に時局を観察していた国民党要人にとって、そうしたコミンテルン(=ソ連)や中共の戦術など百も承知であった。たとえば蔣は「〔コミンテルンの指導する〕“人民戦線”の目的は政府と中央軍を孤立させ、中共を生存しかつ発展させ、さらに彼らが再び軍備を整えて次の反乱と攻撃を準備させることにある。しかもその掲げる“抗日救国”の主張は、明らかに抗日の全面戦争を引起こし中共をして抗日陣営の背後で軍備を拡張し、機を見て政府を打倒し、全中国を支配させようとする企図を物語るものであった」(蔣介石『中国のなかのソ連』)、汪兆銘は「余は当時剿共の事業は決して中止すべからざるものと堅く信じて居った。何となれば共産党は唯コミンテルンあるを知り中国あるを知らず。彼等はコミンテルンの秘密命令を受け、階級闘争の看板を引下し抗日の看板を掲げ中国近年の民族意識を利用し日支戦争を挑発して居るのであるから、断じて斯るトリックに引掛ってはならぬと思った」(堀場一雄『支那事変戦争指導史』)とそれぞれ振り返っている。国民党の政治機関、CC団の領袖だった陳立夫によれば、支那事変以前、「蒋公も兄〔陳果夫〕も私も・・・中共ソ連の指図で動いていること」を見抜いており、また、ソ連の国策は「(一)枢軸国(独日伊)の連盟をぶち壊し、(二)東方では中日両国間の戦争を煽り西方では独仏間の戦争を促し、かくしてソ連が東西から敵の攻撃を受けず中立を保持することができるようにし、(三)蒋公側に降伏するよう中共に命じ、もって蒋公から国内の心配事をなくさせて抗日の決心を固めさせる」ことであると分析していたという(『成敗之鑑』上)。

 一九三六年一〇月、蔣は張学良麾下の東北軍を督戦して次のように叫んだ。

「対日戦争などを唱えてはならない。いまは日本の脅威を口にするときではない。今日日本との戦いを口にし、共産党と戦うべきでないというものは、中国軍人とはいえない。日本軍は遠くにいるが、共産主義者はまさにこの地にいるのだ」(エドガー・スノー前掲書)

 さらに一一月、洛陽軍官学校においては共産党を大漢奸と痛罵、「容共を唱える者は殷汝耕〔日本の傀儡政権である冀東防共自治政府委員長。国賊として逮捕命令が出されていた〕にも劣る」と訓示し、一二月には再び東北軍を「共産党を破ってから、日本を破るのだ。もし共産党を攻撃するよりも先に日本を攻撃するという者がいれば、それは私の安内攘外という政策に反対していることになり、すなわち私に反対していることになるから、捕らえねばならない」と戒めた(『張学良の昭和史最後の証言』)。なお同月、抗日を要求する張学良と楊虎城に対し、「共産軍が北西部で独立した地位を維持しているときに、対日戦争に立ち向かうのは自殺行為に等しい」(『「在支二十五年」米国人記者が見た戦前のシナと日本』下)と主張したという。

 しかし一九三五年以降、中共は各都市に成立した抗日救国団体を背後から操作していたと見られ、蔣によれば「北京、天津および華北各省だけでも“華北各界救国連合会”“北方人民救国大同盟”“京津(北京、天津)学生救国連合会”“京津文化界救国会”など三十以上の団体が生まれ、いずれも機関紙その他の出版物で千編一律にコミンテルンの指導する“人民戦線”の宣伝活動を行なった。これは上海その他の都市も同様であった」(蔣介石前掲書)。やがて一九三六年六月には全国組織である全国各界救国連合会が結成されるに至り(これには蔣の勢力拡大を喜ばない各地方軍閥が便乗し、積極的な支持を与えたようである〔『昭和史の天皇』15〕)、西安事件以後においては、もはや内戦を続行することは国内情勢上不可能になっていたのである。

 しかし元を正せば、反日を旗幟に自らの立場を強化しようとしたのは蔣自身である。それを中共に逆用され、彼らのペースにはまった形の蔣は、この時点において自縄自縛に陥っていたというべきであろう。「蔣介石の最高ブレインの一人」だった斐復恒が盧溝橋事件直後に述べた次のような見解は、まさに当時の彼の心のうちを代弁しているのではないだろうか。

「判りきっているよ。もう少しのところで、蔣さんの中国統一が出来そうになったのに、西安でつかまっちゃって、結局、当分は、『内戦停止』だとか『一致抗日』だとかの『国民的要望』に対して、蔣さんだって、真正面からは反対できないだろう。しかし、蔣さんは、中共のいうような対日即時開戦を極力避けたいのだ。だからといって、日本がこのうえ武力侵寇をやるなら、売られた喧嘩は買わねばならぬ、という境地だと思うね。それが中共の注文どおりになったとしても、不本意ながらも、やらねばなるまい」(松本重治『上海時代』下)

 一九三八年初頭、蔣は「これまで対日問題は世論のために完全に誤ってしまった」(岩谷前掲論文)と述べている。この発言は蔣が世論の圧力によって、自らの意に反する対日開戦に追い込まれてしまったことを明瞭に示すものである。そしてその抗日世論を煽動したのは、彼が認めるようにコミンテルンであり、その指令を受けた中共なのであった。

 加えて注目すべきは、中共が、北支で対峙していた支那駐屯軍と第二九軍を交戦させるべく画策していたことである。一九三六年八月には張聞天が劉少奇(党北方局書記)にあてて「第二十九軍に対する工作は特に重要であり、最大限に滲透せよ」との指令をくだしている(秦前掲書)。盧溝橋事件前、第二九軍は明らかになっているだけでも以下のような状況にあった。

「第二九軍には、中共党員も一定数活動していた。副参謀長張克侠は、その代表的な人物である。(中略)第二九軍には、こうした軍の作戦計画立案という重要部門にも中共党員が活動していた。その外、参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳などはいずれも共産党員であり、第二九軍の幹部であった。また、張経武、朱則民、劉昭らの党員は、将校に対する工作に当たっていた。張友漁は、張克侠の紹介で南苑の参謀訓練班の教官として兵士の思想教育を行なっていた。第三七師師長〔旅長の誤りと思われる─筆者〕何基灃のように党員ではないが(三九年一月入党)、共産党に近い立場の人々もいた。

 宋哲元が、こうした軍内の中共の活動をどの程度知っていたのかはわからないが、第二九軍の抗日姿勢にこうした軍内の共産党員の活動が少なからぬ役割を果たしていたことは注目されてよいだろう」(安井前掲書)

 もちろん当事者である宋哲元がそれに気付いていないわけがない。宋は盧溝橋事件後も日本軍と戦うことは望まなかったが、当時、第二九軍の統制については共産党の策動に懸念があると明かしている(池田純久『日本の曲り角』)。また、第二九軍の内部状況は南京でも知られており、参謀本部支那班長だった高橋坦は一九三六年九月頃何応欽軍政部長と会談を持つ機会があったというが、そのとき何は北平の情勢を気にかけ、宋哲元の第二九軍の中には共産党軍が入り込んでいて危険だから気を付けるようにと忠告されたという(『昭和史の天皇』16)。

 一方、中共が赤化工作をおこなっていたことは日本側でも知られており、北京特務機関補佐官の寺平忠輔は「中共が二十九軍を赤化させる重点を、三十七師に向けていたのは確かだった」と回想している(寺平『盧溝橋事件』。第三七師は盧溝橋で日本軍と交戦した部隊)。同じく北京特務機関員で、第二九軍軍事顧問だった桜井徳太郎は「あとでわかったことだが、北京大学には、例の文革で追放された劉少奇中共の北方総局主任ではいってきており、図書館員をやりながら学生運動を指導していた。運動といってもプラカードをただ掲げるような甘いものではなく、二十九軍の兵士にも積極的に働きかけるし、日本軍──支那駐屯軍の兵隊にもひそかに呼びかけていた形跡がある」(『昭和史の天皇』15)と回想している。さらに盧溝橋事件前に現地を視察した永津佐比重参謀本部支那課長は、平津地区に中共の秘密工作が浸透しているとの報告をもたらしており(『陸軍作戦』)、戦後には、「あの軍隊〔第二九軍〕はもともと馮玉祥という蔣介石に反旗をひるがえした将軍のものだった。ほかの支那の軍隊とちがって、日本あたりに踏みにじられてはならんという民族主義の教育が激しく、兵隊全部が日本に対してよい感情を持っていなかった。それに共産主義も浸透していたようで──、ともかく民族意識共産主義が猛烈という表現を使ってもいいくらいに高まっていたんです」(『昭和史の天皇』16)と述懐している。また、当時北平にあって、独自の情報網を構築していた小澤開作(小澤征爾の父)の耳には、第二九軍の中隊長以下は全員赤化しているという情報が入っていた(『石原莞爾と小澤開作』)。

 以上のように第二九軍が、中共の明確な戦略に基づいた工作の対象となり、その結果抗日思想が広汎に浸透していたことは否定しがたい。だとすれば盧溝橋事件後、中堅将校や兵士が日本軍に対し常軌を逸した挑戦的行動を繰り返した(たとえば寺平前掲書の記述などは非常に具体的である)ことも説明できよう。当時支那駐屯軍参謀だった池田純久は、「現地の日支両軍の情勢はいっこうに改善されず、私の憂慮したとおり、支那軍の下級幹部や兵には宋軍司令官の意図が徹底しておらず、侮日・抗日は依然としてあとを断たない。ことに支那軍の内部には共産分子が相当根強く食い込んでいて、彼らは共産党本部の指令で、日支両軍を衝突させようと企てていたのだから、宋軍司令官の「日本と戦うな」という指令は、結局宙に浮き、少しも実効を収めることができないのだった」(池田前掲書)と回想している。西安事件をスクープしたことで知られ、当時さまざまな情報に接していたであろう上海駐在のジャーナリスト、松本重治の証言も引用しておく。

「盧溝橋事件をおこしたのではないかもしれないが、なんらかの形で、日本軍がもっと侵攻してくる方向に誘導したのは、中国共産党ですよ。共産党は「北方局」をつくっています。一時、その書記長に劉少奇もなっていますよ。北京大学や燕京大学の学生をまず洗脳する、それから、学生を通じて二九軍の将校や下士官を洗脳したのです。だから、日中両軍が衝突したあと、紛争が拡大しないように、現地で協定を結ぼうとしても、学生や学生に洗脳された二九軍の若い将校、下士官がパチパチやって、現地協定をいつもつぶしてきた。そういうことではないでしょうか。

 華北に侵攻した日本軍は中国共産党にとって反面教師である、そう毛沢東は繰り返しいっています。日本軍の華北侵略は中国共産党にとって歓迎だった。中国の国民党と共産党が一緒に中国を防衛せざるをえなくなるのですから。現地で協定を結んで、日本軍が平津地区から撤退していたら、蒋介石は万歳じゃなかったか。逆にいえば、中国共産党が痛めつけられたことは間違いありません。そういうことが日本の軍部にはまったくわからなかった」

西安事件から盧溝橋事件までの七ヵ月間はいまにして思えば、日本の命運を決した時期でした。

 蒋介石西安事件が起こる前には、陝西・甘粛に追い込んでいた共産党の紅軍を壊滅させて国内統一を完成し、そのあかつきに、日本を相手に華北問題に取り組もうという心づもりをしていました。そこへ、思いがけずに西安事件が起こり、内戦停止を余儀なくされたのです。蒋介石の持っていたタイム・テーブルに大きな狂いが生じたわけです。「内戦停止」は「一致抗日」の目的のための手段だったのですから、現実の力関係で内戦停止が実現されると、「一致抗日」の風潮が高まり、それが先鋭化されることになります。蒋介石は「安内攘外」政策をかかげていましたが、「安内」が自分の計画した形ではなくとも、ともかく実現すると、蒋介石としては、国民の要望に応えて「攘外」、つまり抗日を進めなければならない立場に置かれたのです。

 しかし、蒋介石は、すぐれた戦略家ですから、「攘外」策をとるにしても、そこは慎重でした。蒋介石は中国の民心を統一するために抗日の姿勢はとっていましたが、中国の軍事力がまだ日本軍と真正面から戦えるようになっていないことをよく知っていました。対日戦争を始めれば、長期戦に持ちこむほかはなく、そうなれば、中国領土を一時的にせよ、少なからず失うことになる、また、中国民衆の生活を破壊することになる。そのことを承知している蒋介石は、中国の国力、とくに経済力を強くすることに努める一方、日中関係を悪化しないよう、とくに華北問題を解決するために日本との外交ルートを閉ざさないように心を砕いたのです。これに対して中国共産党は、西安事件のぼっ発とその結末を最大に活用して、蒋介石や国民党に日本軍となんとか戦わせようとしたわけです」(松本『昭和史への一証言』)

 たしかに盧溝橋事件発生後、蔣介石が日本の出方を見誤りすぐさま中央軍を北上させるという手段をとったことは、日本側の主戦論者を勢いづかせ、その後連鎖的に同事件を拡大させる要因になった。しかし、ともかくも現地軍の間に停戦協定が締結されたことは事実であり、また、蔣介石も表面的には強硬態度を装っていたが、本心では平和的解決を望んでおり、そのためには現地協定を認めることもあり得たのである。しかるに赤化工作の浸透した第二九軍は事件発生以来、日本軍に対する挑発を繰り返して幾度も停戦協定を蹂躙し、ついには七月二六日に広安門事件を引き起こし、事実上このために現地解決を不可能にしてしまったのである。すなわち、当時支那駐屯軍参謀長だった橋本群は「〔武力行使を〕現地で本当に決心したのは廣安門事件の時」で、その理由は居留民保護の任務が全うできなくなるとの判断からであったと述べており(「橋本群中将回想応答録」『現代史資料』9※)、一方、盧溝橋の失陥さえ容認することができなかった蔣介石が北平の失陥を容認できるわけがなく、彼もやむなく上海での開戦に踏み切らざるを得なくなったのである。

 無論、事ここに至った背景には複雑な経緯が存在するのであるから、支那事変勃発の責がすべてソ連中共にあるというのは誤りだが、その影響力を過小評価することもまた誤りであろう。支那事変の原因は日本陸軍の北支分治工作であったと説明されるのが常識になっているが、前出の陳立夫は一九九〇年、保阪正康氏のインタビューに答えて、支那事変を「演出」したのは関東軍の軍人などではなくソ連であったと断言している(『昭和陸軍の研究』上)。

 

※同事件は、北平城内の居留民保護に赴いた日本軍のトラック二六台が広安門通過中に内外に分断され小銃、軽機関銃、手榴弾による攻撃を受けたもの。橋本は部隊の半分は全滅したと判断したようである。なお寺平前掲書によれば、このとき攻撃を加えた第二九軍兵士は上官が制止するもきかず、半狂乱の体であったというから、第二九軍による計画的な攻撃というよりは末端兵士の暴走というのが実相ではなかっただろうか。中共は現地停戦協定を非難し、第二九軍をただちに対日開戦に踏み切らせることを要求する「日本帝国主義華北進攻に際しての第二次宣言」(『中国共産党史資料集』8)を七月二三日に発しており、タイミングからしてこの宣言が第二九軍兵士に作用した可能性も考えられよう。

 

 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン

 それでは、前述した経緯から上海で戦端を開いた蔣であったが、果たして彼は上海戦にどの程度の勝算を持っていたのであろうか。上海事変勃発後、次のように思考をめぐらせている。

「九月の半ばになると、蔣介石は「兵力を集中し、上海で決戦するか」、「奥地に(兵力を)配備し、長期抗戦か」または、「黄河以南に敵を誘い込み」、「南方戦場を主戦場とするか」を迷うようになる。そして、ついに「上海の損得(失った)は、最後の成敗には関係がない。必ずしもここに拘泥することはない」との結論に達するのである。すなわち、蔣介石は上海戦開始後一カ月で上海撤退を模索するようになるのであった」(家近前掲書。引用文中「 」内は蔣介石日記の記述)

 このように、九月中旬というかなり早い段階で「必ずしもここ〔上海〕に拘泥することはない」として撤退を考慮しはじめているのである。そして同時期に、翌日になって撤回したものの、一旦は白崇禧副参謀総長らの具申を受け入れ上海撤退を命じたようである(楊天石「1937、中国軍対日作戦の第1年──盧溝橋事変から南京陥落まで」『日中戦争の軍事的展開』)。

 蔣は、列国の権益が集中する上海で戦闘が起これば、日本軍の軍事行動に対する国際的な干渉が起こり、自国に有利な形で和平交渉ができるものと考えていた(家近前掲書)。このことから上海戦での勝利をまず追求したが、そこで敗れる可能性についても十分想定していたのだろう。正式に上海撤退を命じた後の一一月一六日の国防会議において、「こうした失敗の形勢は早くからわかっていたことであり意外ではない.われわれはなお主導の立場にあり,将来の勝利についてもまた主導的地位にある」と発言している(岩谷前掲論文)。また、蔣はすでに上海事変のはじまる以前に前出の張群に四川省主席就任を命じ、大陸奥地に位置する西康省の西昌には臨時司令部を設けていた。張群は「これは蔣介石がすでにそのときから、政府を四川、あるいは西康の奥深くに移しても、なお抗戦をつづける考えを持っていたことの表れであった」と述べているが(『日華・風雲の七十年』)、いざとなれば長期戦に持ち込むため、四川省の開発に取りかかっていたことは既述のとおりである。

 ところで、ドイツ人軍事顧問団長、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは盧溝橋事件後、トラウトマンに次のような内容の報告書を提出している。

「蔣は事態の平和的な解決を希望しているが、中国の国益を犠牲にすることはできないと考えている、現在、中国がひとつにまとまっているのは反日感情によるものであり、ここで降伏することは不可能、むしろ武力対立を選ぶに違いない・・・戦争は中国全土に拡大するだろう・・・中国が勝利するチャンスはかなりある・・・日本の勝利のためには軍の総力が投入されねばならないが、これはソ連の態度から考えてとうてい不可能である・・・したがってブロンベルク大将は、日本が必ず勝つと考えるべきではない」(七月二一日付、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使より外務省あて電報。ゲルハルト・クレープス「在華ドイツ軍事顧問団と日中戦争」『日中戦争の諸相』)

 そして八月九日に北支の視察から帰ってきたファルケンハウゼンは、「もし中国軍が一週間早く攻撃に出ていたら平津の日本軍を全滅できただろう。今からでも遅くはない」として北支決戦を主張したが、蔣の容れるところとはならなかった(秦前掲書)。その後、上海で戦闘がはじまると、日本軍を無血で奥地に引き入れて呑み込んでしまえばいいと考える国民政府軍将官に対してファルケンハウゼンは上海で戦うことを要求し、これを認めさせている。しかし上海で多くの損害を出したことによって、次に日本軍を大陸内部に誘い込み消耗させるという戦略を主張するに至ったが(「日中戦争期の中国におけるドイツ軍事顧問」『戦史研究年報』第4号)、もともと彼は日本と交戦状態に入った場合、揚子江流域地区の守りに集中し、空間を武器に使って日本軍を消耗させ、加えてゲリラ戦を展開することや(長谷川熙「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンと中華民国陸軍」『ドイツ史と戦争』)、四川省を最後の抵抗地区とすることなどを提言していたのであった(秦前掲書)。また、日本が対支戦争を遂行しようとする場合、極東に戦略的地歩を求めるソ連、経済的関心を持つ英米にも対処しなければならなくなり、これら各国を含む大規模な戦争に日本の財政力は耐えられないと分析したうえで、支那の対日戦略は「できるだけ戦いをひきのばし、できるだけ多くの外国の介入を待つ」ことであるべきとも提言していたようである(児島襄『日中戦争』第二巻)。

 なお、上海陥落が迫るとファルケンハウゼンは国民政府首脳部に和平をすすめているのだが、これはトラウトマンの要請を受けておこなったものであり、本人は和平に期待していなかった。そのためファルケンハウゼンは南京の防衛戦をおこなうことに反対しており、南京陥落に際しても、「中国は今後もかなり長期にわたって抗戦できる、南京の陥落は軍事面よりもむしろ政治上の意味をもつものだ」との判断を示している(ゲルハルト・クレープス前掲論文)。

 

 成就した以夷制夷

 その後、蔣は日本と戦いながら、国際情勢の変化を待ち続けた。もちろん日本に勝つ方法はそれを利用すること以外にはあり得ないのであり、かねてからの方針でもあった。国民政府は抗日戦の開始から特に次の三つを国際的解決戦略の柱としていた。

「第1に、国際連盟に対する提訴活動を再開し、日中衝突と中国の抗日戦に含まれた世界的意義を唱え、日中問題の国際化を促す。

 第2に、既存条約擁護を旗印にし、中国の正当性を強調しつつ、条約に違反した日本の孤立を深め、条約の履行を関係国に求める。

 第3に、国際情勢の変化すなわち英米ソら列国の対日干渉が必至であることを確信し、変化が来るまで如何なる苦難も忍んで抗日戦を堅持していく」(鹿錫俊『蔣介石の「国際的解決」戦略:1937─1941』)

 したがって支那事変勃発後、九月中旬に上海撤退を考慮しながら、その実行が先延ばしされたのは、やはり列国による介入を期待してのことだったようで、一一月三日からブリュッセルで開かれる九ヵ国条約会議では各国が怒って経済制裁を決断し、英米ソ連参戦を認めさせようと目論んでいた。同時期における「この上海戦は、外国人にやって見せるものだ」という発言は非常に象徴的である(楊天石前掲論文)。また、一一月一日、蔣は緊急軍事会議の席で「これから開催される九ヵ国条約会議は中国の運命と深く関わる会議であり、上海であと二週間奮闘すれば、国際的な同情が得られる」と力説している(劉傑前掲書)。七日、何応欽らの要請を受けて退却命令を出すが、翌日の日記に「これは戦略関係を考慮した撤退であり,われわれが力を使い切ったために退却するのではないことを敵に知らせ,彼らの追撃と再攻撃の企図を挫く.これは将来の戦局にとっては有利だが,九カ国条約会議に与える影響は甚大である」(岩谷前掲論文)と書いている。五日に蔣はトラウトマンを通じて伝えられた日本側の和平条件を拒否していたが、それはすでに明らかなように九ヵ国条約会議に大きな期待をかけていたためなのであった。そのため列国が支那事変にすぐさま介入してこなかったことは蔣にとって大誤算であり、上海戦で必要以上の犠牲を払うこととなってしまった。また、日本側が提示した和平条件を一度蹴ってしまったことは、同時に予告されていた条件加重を不可避なものにしてしまった。

 これらの点は楽観的に過ぎたと評するしかなく、蔣はその後、日本軍が疲弊し、国際干渉がおこなわれるまで三年は苦闘しなくてはならない、と認識を修正せざるを得なかったが、一九三九年になると、いずれ極東にも拡大するであろう欧州大戦に英仏の側に立って参戦し、「対日講和をなすときに、中日戦争と欧戦とを同時に連帯して解決する」という構想を日記に記している(家近前掲書)。一方、日ソ開戦への期待も高かったようであるが、日本と戦いながらアメリカに対しても積極的な外交を展開している。次の記述を引いておけば、蔣の最終目標が那辺にあったかは一目瞭然であろう。日本海軍が真珠湾攻撃をおこなったその翌日、蔣は日記にこのように記した。

「抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」(同前)

 以上のように、上海事変の時点ですでに日本は蔣の大戦略の中に取り込まれつつあったのであり、結果的にも一九四五年の日本の敗戦によって「以夷制夷」は実現した。たしかにその後、国共内戦に敗れて台湾に落ち延びることになってしまい、支那失地回復と統一を達成するという最終的な目的を果たすことはできなかった。しかし、苦境の中にあっても国際情勢の変化を待って粘り強く抗戦を続け、日本に勝利することには成功したのである。一方、何らの国家戦略を持たなかった日本は蔣介石に敗北した。この事実は厳しく受け止めなくてはならない。

 加えてトラウトマン工作に関してもコメントしておきたい。蔣の具体的な反応については後述するが、たしかに彼は南京陥落前に和平交渉に応じる姿勢こそ見せたものの、実のところこのドイツの斡旋にはまったく期待していなかった。

 他方で蔣は南京から退避する際に布告文を国民に発表しているのであるが、そこではまず、敵が中国を侵略する方法にはふたつあり、ひとつは日本が武力を用いて実行している「鯨呑」、もうひとつは共産主義の浸透にみられる「蚕食」であると述べ、我が国が恐れるべきは、知らず知らずのうちに我々の心をむしばんでしまう「蚕食」であり、はっきりと目に見える「鯨呑」は恐れるに値しないとし、また、「今日ノ形勢ハ寧ロ我ニ有利デアルトイエルノデアル。中国ガ持久抗戦シ最後ノ勝利ノ決手トナルノハ、南京ヤ大都市ニアルノデハナク、実ニ広大ナ全国ノ村々ト、民衆ノ強固ナ心ニアルノデアル」、あるいは「コノ五ヶ月間ノ抵抗デハ、敵ハ戦ワズシテ我ヲ屈服セシメヨウト欲シテイタガ、我ハ敵ヲ迎エ討チ終始屈セズ、敵ハソノ目的ヲ達シ得ナカツタ。敵ハ愈々深ク侵入シテ被動ノ立場ニ立タサレルコトニナツタ。敵ガワガ四千万方里ノ土地ヲ占領シヨウトシ、ワガ四億ノ民ヲ抑圧シヨウトスルニハ、一体ドレダケノ兵力ガ要ルノダト思ツテイルノデアロウカ。ワガ同胞ガ不撓不屈、前ガ倒レテモ後ガ継ギ、随所随所デ頑強ナ抵抗力ヲ発揮スレバ、敵ノ武力ハ遂ニ極マリ、最後ノ勝利ハ我ニ帰スルノデアル。イワユル抵抗必勝ノ信念ヲ抱クトハコノ事ヲイウノデアル」と述べている(「我軍ノ南京退出ニ当リ、蔣委員長ガ国民ニ告ゲタ布告文」一九三七年一二月一五日、深堀前掲書)。

 これが必ずしも強がりだと言い切れないのは、広大な国土を活用するという戦略は以前から提唱するとともに準備していたことであり、〈以後長期戦に持ち込めばそう簡単には負けない〉という自信は当然あったはずだからである。ファルケンハウゼンは本国からの命令で一九三八年七月に支那を去るのだが、彼も帰国にあたって「日本は広大な中国本土において終局的に敗北するであろう」(阿羅健一「日独防共協定のかげで中国の背後になぜドイツが」『歴史通』二〇一一年三月号)と述べたという。いわば蔣介石の「持久戦争不可避論」であり、彼は一二月二日に日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマンに伝えた際、「自分は日本がこの戦闘の結果勝利者となるという見解を受け容れることは出来ない」(三宅正樹『日独伊三国同盟の研究』)と強調することを忘れなかったように、この時点で敗北したという意識はなかったのである。したがってこの会見の翌日、蔣は日記に「対倭徹底抗戦の利害は、すべて国際情勢をみて定める」(岩谷前掲論文)と書いているとおり、戦争継続を選択肢から排除してはいないのであり、和平に応じるか否かは日支間の軍事情勢ではなくあくまで国際情勢に基づいて決定しようとしていたのであった。そして実際に蔣はその後、日本側の返答を待たずして和平の方を選択肢から排除してしまうのである(後述)。

 蔣介石の対日戦略を分析した鹿錫俊氏は次のように指摘している。

日中戦争の解決に当たって、中国は自らの秩序感と「国際的解決」戦略に基づいて、軍事よりも外交に重心を置き、局地での二国間の軍事的勝負を度外視し、国際的情勢の利害を大局として重要視した。そのため、日本は武力で全中国を制圧することができない限り、局地での軍事的優勢だけでは中国を屈服させることができない。換言すると、「国際的解決」の成功に対する中国側の期待を断念させることができない限り、中国との紛争を軍事的に収拾することもできないのである」(鹿錫俊前掲書)

 

 首脳会談成功の可能性

 蔣介石が盧溝橋事件後しばらくは平和的解決を求めていたが、日本軍の北平占領により戦争へと政策を転換せざるを得なかったことについてはすでに述べた。そうであれば、日本の出方によっては局地解決も不可能ではなかったはずである。

 石原の事件不拡大の努力の中で特に目を引くのは、近衛に対する蔣介石との首脳会談の提言であるが、まず七月一二日に、風見章内閣書記官長を通じて同案が申し入れられている。しかし、日本陸軍支那軍双方の統制に疑問が残るとして、一六日に石原に見合わす旨の返答があった(風見「手記 第一次近衛内閣時代」『風見章日記・関係資料 1936─1947』)。しかし、これで石原があきらめたわけではなく、一八日、石原は杉山陸相に北支の日本軍を山海関(満支国境)まで後退させ、近衛が南京に飛んで蔣介石との膝詰め談判によって日支間の根本問題の解決をはかるべきことを意見具申している。なお、それに対し同席していた梅津美治郎陸軍次官は「実はそうしたいのである。しかしそれは総理に相談し、総理の自信を確めたのか」と反問している(『陸軍作戦』)。

 ただし、以下に述べるように首脳会談によって日支諸懸案の全面的解決をはかるという発想自体は特別ではなく、石原の提言とは無関係に近衛も独自に構想していた。松本重治によれば、近衛が蔣介石と直接交渉をおこなうという考えは組閣直前に政治学者の蝋山政道から進言されていたという(『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』)。また、国策研究会の矢次一夫も石原と同時期に、近衛と親しい岩永祐吉同盟通信社社長に対し、近衛が陸海外三大臣と統帥幕僚長を従えて南京に乗り込み、蔣介石と直接交渉することを提案しており、これを受けて岩永はすぐさま近衛の説得にあたっている(矢次『昭和動乱私史』上)。

 近衛自身は当時を回想して「蘆溝橋事件が起ると間も無く嘗ての記憶を呼び起し、早速蔣介石氏と直接膝つき合せて話をする以外事件の擴大を防止する方法がないと思ひ・・・」と、首脳会談が自らの発意であったことを手記に書いており(近衛『失はれし政治』。「嘗ての記憶」とは以前接触した駐日支那大使の秘書・丁紹仍が国交調整をあきらめていないことを言明し、今後の連絡のために近衛側の人物として宮崎龍介秋山定輔を指名していたこと)、また、風見も石原から申し入れのあった七月一二日の時点で、すでに近衛には首脳会談の構想があったと述べている。風見が翌日、石原の申し入れを近衛に伝えた際、本来軽々に決断できるものではないはずであるのに、「若しよく目的を達し得べしとならば、貴下と共に南京に飛ぶを辞せず、今病臥すれども医師看護婦を同行せばよし」と即答できたのはそのためであろう(風見前掲手記)。七月一六日、近衛は米内と会見し、広田外相を蔣介石と直接交渉させ日支間の根本問題を解決する案のあることを明かし条件付きでの同意を得ているが(『海軍大将米内光政覚書』)、翌日には「廣田外務大臣をこの場合南京へやつて、日支兩國間の外交の急轉換をやりたい」「もし廣田がいけなければ自分がみづから行つてもいゝ」と決意を示し、「政治的になるべく大きく解決したい。各國をして日本に領土的野心のないこと、徒らに武力使用を欲せざることを知らせ、合理的な要求をして歸つて來れば、もし事柄が不成立に終つても、日本の立場と意圖が列國に明かになるから、それでよい」と述べている。後日、これを伝え聞いた元老西園寺公望は「それはもう支那には寧ろ不信用な廣田をやるよりも、近衞自身が出かけて行く方が非常にいゝぢやないか」との意見であった(『原田日記』第六巻)。さらに一八日の五相会議はこうした近衛の意向に基づいて、支那側に一方的に譲歩を強いる形での日支諸懸案の全面的解決に乗り出すことで合意を見た。なお、新聞や財界なども全面的解決を主張する状況であった(庄司潤一郎「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」『新防衛論集』通巻59号)。

 したがって近衛が首脳会談を独自に構想していたのであれば、一六日に石原に見合わす旨の返答をしながら、むしろ乗り気になっていることも不思議ではなく(もっとも見合わす旨の返答は風見の独断であったが)、引き続き石原の意見に耳を貸すこともあり得たわけである。二二日に牧野伸顕と会談した近衛は、石原から要旨次のような進言があったことを打ち明けている。

「今日の如く枝葉に捕はれ其場、其時の出来事に偓促〔齷齪〕する様にては、日支両国間の紛糾絶ゆる事なかるべく、就ては総べて従来の行懸かりを放棄して北支政権を断念し、其代はり満州事〔自〕体を承認せしめ、以て百八十度の廻転を遂行するの外策なし、内閣此方針を採用せば陸軍は決して異議を挿む様な事は断じて為さしめず、幸ひ過日来の行詰まりも一段落を告げたるに付、至急此根本方針に付交渉を進められ度し」

 そこで石原の解決案を聞いた牧野が「此点は大に留意する価値ある旨指摘」したところ、近衛も同感を表し「其含みにて日支両方に渉り準備工作を試みたし」と述べた(『牧野伸顕日記』)。

 そして近衛は秋山定輔を通じ宮崎龍介を密使として支那に派遣しようするが、この動きは陸軍に察知され、秋山と宮崎は憲兵隊に逮捕されてしまった。しかし、おそらくこの少し以前に、近衛から渡支するよう要請された西園寺公一が七月下旬、上海において支那側要人との接触に成功しており、彼は盧溝橋事件の解決と満洲国の承認を条件として首脳会談を開くことを打診したが、宋子文がこれを蔣介石に伝えたところ、またしても日本の圧力に屈することを要求するものであり和平条件としては問題外とされた(戸部良一『ピース・フィーラー』)。西園寺の回想によれば、宋子文との会談において、満洲国承認に関しては宋が難色を示したため「承認」を取り下げて「今後お互いに觸れない」ことを提案したようであるが、盧溝橋事件の解決は額面通りで、その中に北支政権(日本の傀儡である冀東防共自治政府)の解消等の譲歩は含まれていなかったようである(『貴族の退場』)。そうであれば近衛が携行させた和平条件は、軍事的圧力を背景に満洲国承認を一方的に要求するものということができ、蔣介石が一蹴してしまったのも当然であった。とはいえ、北支政権の解消を提案していれば蔣介石が満洲国承認に応じたかといえば、事態がどう転ぶかまだわからなかったこの時点においてはそれも不可能であったと思われ、いずれにせよここは余計な波風を立てる満洲国問題など持ち出すべきではなく、盧溝橋事件の局地解決を優先すべきであった。宋子文も西園寺に対し「中國に、面子を失わせるようなことを、この際持ち出すのは、却つて大變な逆效果です。遠くの火事場から、わざわざ火種を取つて來て、身近に放火するようなものです」(同前)と警告せずにはいられなかったのである。犬養健によれば、石原は満洲国の領土権を返上し、その代わりに満洲と北支に経済合作地帯を作るという解決案をもって首脳会談に臨むことなども近衛に進言していたという(『揚子江は今も流れている』)。これが事実ならば蔣介石は確実に肯定的反応を示しただろうが、このとき彼が最も神経をとがらせていたのはやはり盧溝橋事件の推移であって、同事件が拡大するのであれば国交調整交渉は後回しにするほかなかったのである。

 以上の理由から、一触即発の時期にあえて全面的国交調整を試みようとする首脳会談案が妙案だったとはとてもいえないが、それよりは石原が一方で盧溝橋事件の拡大に危機感を覚え、「本紛争を中止するためには北支の日本軍を満支国境以北に後退せしむるも可なり」(影佐禎昭「曾走路我記」『現代史資料』13)と考えたことの方に注目したい。

 まず、さしあたり北支から日本軍を撤退させるだけでも日本に戦争をはじめる考えのないことが明らかになって破局は回避できていたに違いない。蔣介石に和平解決の意志がまったくなかったのであれば逆効果だが、すでに見たとおりそうした事実はなく、彼にとって盧溝橋事件さえ平和的に解決できれば戦争に訴えなければならない理由は存在しなかったのである。そして日本が北支における既得権益を事実上放棄したうえであれば、蔣介石も首脳会談の提案に乗ってみる気になったのではないだろうか。しかも日本のトップが乗り込んでくるという形ならば、仮に交渉が決裂しても彼の面子に傷はつかない。それでも蔣介石が満洲国を公然と承認することは不可能だったと思われるが、日本が先手を打って譲歩を示すことで国交調整交渉は適当なところで妥結点を見出せたように思う。首脳会談において盧溝橋事件の手打ちと国交調整に関する大筋の合意ができれば、細かい部分は後日の外交当局間交渉に譲っても問題はなかったはずである。

 ただし、以上を実行しようとすれば陸軍強硬派などが反発したことが予想されるが、「近衛がその気になりさえすれば、天皇の優諚を拝し、和戦の大権の負託を受けて南京に飛ぶことはできたはず」(大杉一雄『日中戦争への道』)であり、そうとなれば強硬派も表立って反対することはできなかったのである(「優諚」が軍を統制し得る威力を有していたことは、大杉一雄『日米開戦への道』下を参照)。おそらくそのような効果を狙ったのであろう、実際に参謀本部戦争指導課ではいち早く「速ニ近衛首相(止ムヲ得サレバ広田大臣)ハ聖諭ヲ奉戴シ危局ニ対スル日支和戦ノ決定権ヲ奉シ直接南京ニ至リ国民政府ト最後的折衝ヲ行フ」(「緊急措置ニ関スル意見」七月一一日『太平洋戦争への道』資料編)とする計画が作成され、先に見たように石原が風見を通じて申し入れをおこなっている。

 近衛の南京乗り込みを提案した前出の矢次一夫は当時「この場合近衛のことだから、天皇の勅命によって統帥権の委任を受けることも可能ではあるまいか」(矢次前掲書)と推測していたが、たしかに近衛は天皇の信任を得ており、また前述のように元老西園寺公望も近衛の南京行きに賛成だったのであるから、天皇から意見を求められた場合にはその実行を進言しただろう。付言しておけば政府側においても「首相直ちに南京に飛ぶとせば支那駐屯軍を満洲まで後退させ置くだけの用意は必要」と判断されていたのであり(風見前掲手記)、筆者も近衛の決心一つで支那駐屯軍を満洲まで後退させ、南京に乗り込むことは実現可能であったと考える。

 日本軍の北支撤退は全面戦争を確実に回避できる最大のチャンスであり、また、あの当時の危機的状況では、そうした非常手段に訴える以外に解決の方法はなかったと思われる。将来を洞察し、大局的見地に立って思い切った決断をくだせる人物がいなかったことが残念であるが、後述するように、石原を除いて、支那との戦争が原因で国家が滅亡に瀕するなどとはほとんど誰も考えなかったのである。

 

 船津工作成功の可能性

 支那事変前の和平の試みとしては船津工作もよく知られるが、こちらはどうだっただろうか。これは七月末の天皇の「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」という近衛への示唆によってはじまり、すでに時局収拾案が立案検討されていた陸海外の合意のもと政府レベルに引き上げられて推進されたものであるが、これを受けて川越茂駐支大使と支那側和平派に後押しされた高宗武外交部亜州司長が上海において会見したのは八月九日のことであった(石射猪太郎『外交官の一生』、島田俊彦「「船津工作」など」『日中戦争と国際的対応』、戸部前掲書。当初は船津辰一郎在華日本紡績同業会理事長を高宗武と会談させる計画であったが、川越茂が割り込んできたため予定通りにはいかなかった)。和平条件は以下のとおり。

停戦交渉案の要点

一、塘沽停戦協定その他、華北に存する従来の軍事協定は一切解消せしめる

一、特定範囲の非武装地帯を設ける

一、冀察・冀東両政府を解消し、国民政府において任意行政を行う

一、日本駐屯軍の兵力を事変前に還元せしむる

一、停戦の話し合い成立したるときは、中日双方において従来の行き懸りを棄て、真に両国の親善を具現せんとするニュー・ディールに入る

国交調整案の要点

一、中国は満州を承認するか、あるいは満州国を今後問題とせずとの約束を隠忍の間になすこと

一、中日間に防共協定をなすこと

一、中国は全国に亘り邦交敦睦令を徹底せしめること

一、上海停戦協定を解消する

一、日本機の自由飛行を廃止する

一、両国間の経済連絡貿易の増進を図ること

──しかし蔣は、八月五日に日本との和平交渉を拒絶する方針を決定しており(家近前掲書)、八月九日の時点においてはすでに戦意は固かったといえる。しかも会見がおこなわれた当日、上海では大山勇夫海軍中尉殺害事件が発生し、高宗武は急きょ南京に引き返すこととなり以後の交渉は途絶してしまった。高は川越茂と会見した翌日、松本重治を訪ね、次のように話し長嘆息したという。

「川越さんの話によれば、東京では、近衛内閣の陸・海・外三省の合意で、中国に対して前例のないほどの寛容な態度に決したとの話、おまけに、川越さんも熱が籠った話しぶりなので、こちらも、きわめて欣快至極であった。しかし、東京のほうで、新しい姿勢が、せめて一週間前か、二週間前に出来ていたら、ほんとによかったのに、と思わざるを得ない。昨夕大山事件などが突発してから、形勢が急激に悪化してきた。だから、上海附近での中日両軍の衝突でも起ったとすれば、外交では、もう何もできないことになる」(松本『上海時代』下)

 これはまったく高の述べるとおりで、天皇は八月七日、伏見宮軍令部総長に「現在ヤツテイル外交工作(Fノ件)ガウマクイケバヨイガ」と述べ、九日に閑院宮参謀総長が内蒙方面への作戦の裁可を求めたときには、「外交解決ノ動キアル旨外相ヨリ上奏アリシガ、カゝル際戦面ノ拡大ハ如何」と質したり(戸部前掲書。天皇は一二日に至って「かくなりては外交による収拾は難しい」〔『昭和天皇実録』第七〕と述べているように、ギリギリまで船津工作による解決を希求していたのだった)、また、米内も一一日、「之を促進せしむることは大切なり」と主張したりするなど(後述)、日本側においてかなり期待された船津工作であったが、残念ながら完全に機を逸していたといわざるを得ない。

 では、船津工作に石原はどう関わったのであろうか。実はそれはよくわかっていないのだが、少なくとも石原は七月末に外交交渉を推進する姿勢を見せており、この時期に和平工作をおこなうことに前向きだったのは確かだろう。ただし、その解決条件は、満洲国の承認と引き換えに、支那本部における日本の権益(治外法権、北支特殊権益、陸海軍の駐兵権、租界など)をすべて返還してしまうという船津工作案とは比較にならないほど思いきったものであり(七月三〇日、嶋田繁太郎軍令部次長に対する申し入れ。『陸軍作戦』)、また、「折柄滞京中の在華紡績同業会理事長船津辰一郎氏に停戦案と全面的国交調整案を授け、上海に急行してもらい、船津自身の仄聞した日本政府の意向として、右両案を密かに高宗武亜州司長に試み、その受諾の可能性を見極めたうえで、外交交渉の糸口を開く」(石射前掲書)という外務省案に沿った私人まで介在させる回りくどい交渉のやり方も、後述するように石原にとって積極的には賛成しかねるものであったと考えられる。

 一方で確実なのは、依然として近衛と蔣介石の直接交渉をあきらめてはいなかったということである。石原が「近衞首相自ら南京に飛び、蔣介石と膝づめで日支の根本問題を解決すべき」(七月一八日の発言。『陸軍作戦』)との持論を終始変えなかったことは、支那事変がはじまってからも、「兩者の間に邪魔者が居つて解決を困難にしてゐる」という考えを述べ、近衛が南京に行かなかったことを指して「近衞首相の優柔不斷のために事變解決の絶好の機會を逸したのは殘念です」と痛憤したり(岡本永治「豫言」『石原莞爾研究』)、後年「これは今考へても大きな政治的の手でありましてもう少し徹底てやつたならばと残念であります」「本格の上海の戦の起つた後には南京をとる直前がよい機会だつたと思ひます」と後悔していることからも明らかである(原文ママ「回想応答録」。なお、これらにおいて船津工作にはまったく言及がない)。そして石原の首脳会談への期待の高さは、近衛と蔣介石の会談を「最後的折衝」と位置付けていることからもうかがえる(前掲「緊急措置ニ関スル意見」)。これには“最後の切り札”といった意味もありそうで、これで駄目なら戦争も辞せずという覚悟が感じられる。事実、当時石原は和平に関して、「私の原案は、中国に求めるところは『満洲国の独立』を認める、ただこの一つだけだ」と述べる一方で、「今は中共が主導権を握っているから徹底抗日を主張して講和に応じないことも充分あり得ることだ」とも述べており、その場合はやむを得ない事情を声明宣伝したのち対支作戦に入ることも想定していたのである(山口前掲書)。

 以上からわかることは、石原がこだわったのはあくまで首脳会談であり、船津工作に反対こそしなかったものの、実はその効果には懐疑的であったということである。満洲国の承認のみに絞った解決条件でも和平は危ういと感じていたのに、非武装地帯の設置など日本側の要求が増大した船津工作案で、確実な和平成立を期していたということは論理上あり得ない。そればかりか同工作は政府レベルに引き上げられたあと和平条件が陸軍の意見で次々に改訂されており(島田前掲論文)、そうした対応を絶対不可としていた石原は事態の推移を苦々しく眺めていたはずである(本論「早期和平解決にこだわった石原」)。外務省東亜局長だった石射猪太郎は八月五日の日記で、和平条件の上乗せを要求する陸軍当局に対し、「縁日商人の様な駆引」だと奇しくも石原と同じ表現を用いて批判しているが(同前参照)、当時石原も同様の感想を抱いていたことは疑いようがない。結局船津工作は、石原にとって日支和平に対する「邪魔者」の介入以外の何物でもなかったと思われる。

 

 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?

 ところで、天皇は次のような回想を残している。

支那事変で、上海で引かかつたときは心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来てるのを、陸軍は知らなかつた」(昭和十七年十二月十一日「小倉庫次侍従日記」『文藝春秋』二〇〇七年四月号)

 また、風見章も「日本の陸軍は、その陣地に出っくわすまでまったく知らずにいて、ひどくめんくらったのだそうである。・・・当時、消息通のあいだでは、いったい陸軍は、あれほど諜報機関に大金を投げいれていて、どうしたというのだ?がらにもなく、政治家気どりで、国の政局面などにばかり頭をつっこんでいるから、そんなへまをやるのだとの非難の声が、たかかったものである」(風見章『近衛内閣』)と回想し、近衛も当時「なほ上海でも北支でも陸軍の調査が極めて不充分であつて、たとへば〔第一次〕上海事變後五年を經過してゐる今日、その五年の間に防禦に非常な工作を施してをつたのに、それをまるで知らなかつたといふのは、出先の陸軍軍人も政治とか外交にあまりに沒頭して、本職を忘れてゐたかの感がある」(『原田日記』第六巻)などと厳しく陸軍を批判している。

 ただし、これらが正確かどうかは一考を要する。たとえば支那側が上海停戦協定に違反し非武装地帯に防禦陣地を構築していたことは、一九三七年六月に英・米・仏・日・支等関係各国委員が出席した停戦協定共同委員会で問題となっており、これは日本の一般紙でも報じられている(六月二六日「東京朝日新聞」。同紙は八月上海事変直前にも支那軍が陣地を盛んに構築しつつあると連日報道している)。すなわち、支那軍は防禦陣地の存在を秘匿できていたわけではなかったのであり、このことは内地の一般市民でさえ新聞を読めば知ることができたレベルの情報だったのである。では、現地で情報収集にあたっていた陸軍の上海駐在武官が、目の前で支那軍が陣地構築をおこなっていることにまったく気付かなかったなどということがあり得るのだろうか?

 もちろんそんなことはあり得ない。当時上海陸軍武官府で経済調査にあたっていた岡田酉次の回想を引用する。

「私は、あらかじめ現地にあって経済調査に従事した一人として、他の戦友が行なっていた地誌資料の収集がいかに困難であったかに一言触れておきたい。

 当時の上陸地点上海の郊外は、以前からの日華協定により中国軍隊の駐屯は認められず、保安隊により警備されることになっていたが、失地の回復や植民地化からの脱却を呼号する民衆の動向、特に西安事件後の国共合作による抗日気勢は、該方面における日本人の行動をほとんど不可能にさせた。ときに私も経済調査のかたわら地誌調査担当の戦友を援助するつもりで、いまだできもしなかったゴルフバッグを自動車に持ち込み、ゴルフ姿で江湾ゴルフ倶楽部に往復する途上、故意に道を誤ったふりをして、構築されつつある陣地の一端を偵察する奇策に出た記憶がある。

 たとえば、内陸交通網の調査一つをとってみても、日本でみるような地図など到底望むべくもなく、見取り図程度の入手ができれば喜んだのであった。陰にその従業員にわたりをつけて外資有力石油会社等の保有する部分的航空写真を手に入れ、新道路の建設などを知る場合もあったが、聞けば外国石油会社はバスの奥地運行とガソリン売込みの商売上、中国政府の道路建設計画には直接間接に相当食い入っておる様子があったからである。あらゆる調査資料に関して、英米等の商社は宣教師の奥地布教や商略の巧みさからそれらの諸資料の入手に恵まれていたようであった。こうして苦心のうえ入手した資料も、その要所の確認には現地の実視が望ましく、これには中国人を利用したり、あるいは自ら、仁丹、味の素など、奥地広告塔建設の請負人一行に加わってクリーク用小舟艇で長期旅行を余儀されたようだった。私の担当する経済調査も、これと大同小異で、官庁統計の入手などはとうてい望みもなく、学校図書館をあさったり、在来の内外商社や親日中国人に依頼したのであるが、私などに接する中国人は、ときにその行動範囲を逸して逮捕され、あるいは行方不明になる者まで生じ、遺族などに気の毒な思いをかけた例もあった。日本側で比較的まとまった資料があったのは同文書院で、同院の学生には卒業に当たり奥地で実地調査をすることが許されていたからであった。前に触れた兵要地誌に一部誤って記述されていたということなども、こんな事情から、あるいは避け得なかったエラーであったろう」(『日中戦争裏方記』)

 上海駐在武官は構築されつつある防禦陣地の偵察をおこなっていたが、上海郊外や内陸部での行動には制限がともない、兵要地誌の調査研究を自由に行うことができなかったのだという。当時の同僚のミスをかばうためにこのように書いた可能性も考慮しなければならないが、以下に見るようにその必要はなさそうである。上海派憲兵だった塚本誠の体験記も引用しておく。

「七月蘆溝橋事件が伝わると、上海にも何か事態が発生するのではないかという不吉な予感が上海に起こった。果然七月二十四日、陸戦隊の一水兵が行方不明になり、陸戦隊は蘇州河以北の警備地区に配兵し検問を開始する。流言が飛んで避難民の流れは連日連夜洪水のようにつづく。その中には上海郊外の住民まで加わって来た。このことは支那軍が上海周辺の非武装地帯に陣地を構築し始めているという情報を裏づけるものであった。(中略)

 憲兵はこのさい支那軍進出の真偽を偵察すべきであると考え、私服の憲兵数人を出し、私も借り物のゴルファー姿で、支那側の検問所をどうやら通りぬけて江湾ゴルフ場近くまで出かけた。途中半完成のトーチカを二、三見つけたが兵隊はいない。これで支那軍が進出していることは事実であり、夜間に工事を実施しているものと判断した。が、これ以上のことは私は任務上まだ許されていない」(塚本『ある情報将校の記録』)

 本来の任務ではなかったが、憲兵である塚本も「支那軍が上海周辺の非武装地帯に陣地を構築し始めているという情報」を得ていた。そして上海事変前にそれを偵察した際、駐在武官と同じくゴルフ客になりすましたとしている。どうやらそれが上海郊外を偵察する際の彼らの“常套手段”だったようである。では、なぜそのようなカモフラージュをおこなう必要があったのかといえば、それはやはり、日本人が上海郊外を自由に調査できる状況ではなかったということである。この方面の防衛の責任者である張治中が「特ニ上海デハ敵方ニサトラレナイヨウニ、巧妙ナ隠蔽手段ヲ用イテ工事ヲ進メネバナラナカツタ」(深堀前掲書)と回想するように、支那側が防禦陣地の構築を秘匿しようとしたのは自然な心理で、当初から日本軍の行動を警戒し、制限しようとしていたことは確かである。

 このように現地での調査には限界があったが、支那軍の陣地構築の状況をいくらかはつかんでいたことも事実であった。一九三七年八月一六日、参謀本部調製「上海及南京附近兵要地誌概説」の「軍事施設」の項には、「上海附近上陸點及楊子江流域重要地點竝南京要塞地帯ニ對シ近時盛ニ増強新設ヲ行ヒツツアリ」との記述が見られる(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13032680500、上海及南京付近兵要地誌概説 昭和12年8月16日(防衛省防衛研究所)」)。防禦陣地の詳細な配置図は発見できなかったが、少なくとも既設陣地の存在を知っていたからこそ「増強新設ヲ行ヒツツアリ」という表現になったのである。このためか、陸軍中央部も中支の情勢にまったく無関心だったわけではなく、一九三七年五月には永津佐比重支那課長が現地情勢を調査するため支那へ出張し、上海の視察もおこなっており、塚本の案内で第一次上海事変の戦跡である廟行鎮を訪れている(塚本前掲書)。六月には、支那が対日作戦の戦備を急いでいるとの情報を耳にした石原、武藤章が作戦課の公平匡武、井本熊男に支那各地の偵察旅行を命じており、公平が上海付近の視察をおこなっている(『陸軍部』)。

 以上から、陸軍は上海周辺に防禦陣地が構築されていることを事前に知っていたと一応結論付けることができる。たしかにその把握の程度は完璧には程遠く、事変勃発後、陸軍内からも情報を担当する支那課の調査の誤りを批判する声があがった。現地での調査が困難だったのであれば、人員を増加するなどしてむしろ調査に力を入れなければならなかったのであり、彼ら情報担当者の怠慢は非難されるべきである。実は第一次上海事変の際にもぞんざいな調査で作戦に悪影響を及ぼすという同じ誤りを犯していたというから(『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』)、この件に関しては弁護の余地はない。

 しかし、「日本の陸軍は、その陣地に出っくわすまでまったく知らずにいて、ひどくめんくらったのだそうである」(風見)といった批判は正確とはいえず、「出先の陸軍軍人も政治とか外交にあまりに沒頭して、本職を忘れてゐたかの感がある」(近衛)などという口舌に至っては、現地の状況を知らない者の単なる憶測でしかない。上聞に達したのも、おそらくこうした風聞の類だったのではないだろうか。

 

 近衛文麿と七月一一日の派兵声明

 近衛内閣は盧溝橋事件の発生を受け、七月一一日に「今次事件ハ全ク支那側ノ計畫的武力抗日ナルコト最早疑ノ餘地ナシ」と断定する北支派兵声明(全文は「華北派兵に關する聲明」『日本外交年表竝主要文書』下を参照)を発表したのであるが、この政府の対応がその後の成り行きを考えるとき、きわめて重大な意味を持っていたように思われるので、簡潔に触れておくことにしたい。

 石射猪太郎は声明を発表した際の様子を次のように観察している。

「内閣は閣議決定に基づいて、その晩「重大決意をなし、華北派兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなす事に決した」旨の声明を発したのみか、翌一二日夜政界、言論界、実業界の多数有力者を首相官邸に集め、首相自ら政府の決意に対して、了解と支援を求めた。行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ」(石射『外交官の一生』)

 あろうことか政府が率先して日本国民の戦争熱を煽動しはじめたのである。その結果、満洲事変には批判的であった政党や財界も一致してこれを支持、新聞社の多数も強硬な一撃膺懲論に同調することとなった(秦『日中戦争史』)。これには国内でも「政府の採りたる、いはゆる、擧國一致鼓吹の態度は・・・一般民衆の對支強硬態度を不必要に煽動し、また、現地の軍を刺激して、さらぬだに、強きに失する進撃論をいよいよ燃えあがらしむるにいたりたる傾向あるは、遺憾にたへず」(『小山完吾日記』)と批判的な感想を持つ者もあったが、このまったく余計な声明はもちろん支那側にも伝わっており、前出の斐復恒は当時、「内地師団の華北への出兵問題についての東京からのニューズで、華北のみならず全中国の若いものは、今までにないほど激昂している」(松本前掲書)と述べている。支那の官民が、ついに日本が関内(長城以南)への進攻を決意したと解釈しても仕方なかっただろう。

「これは中国側の反発を強めただけでなく、日本国内においても事変解決をはかる上で「昂揚セシ国民意識ニ対シ如何ニスベキヤ〔七月中旬、陸海統帥部間でのやりとり〕」という厄介な問題を生み出した。要するに、これによって日中両国では強硬論が勢いを得てしまったのである」(戸部前掲書)という指摘のほか、派兵声明が及ぼした悪影響を重視し、「その後全面戦争に移行するまで試みられた各方面の平和的解決への努力をほとんど相殺するものであったことは疑いがない」(秦前掲書)とする見解もある。

「派兵を決定することはやむを得なかったとしても、機密にしておけばよかったので、何も政府声明としてぎょうぎょうしく公表することはなかった」(大杉『日中戦争への道』)のはいうまでもないし、それ以前に陸軍の派兵案を否決することもできたはずである。派兵声明を発案したのは風見章であり、マスコミ出身の風見は強硬姿勢を打ち出すことにより内閣の人気浮揚を意図したものと見られるが(筒井清忠近衛文麿』)、そもそもこのような人物を書記官長に据えるという近衛のパフォーマンス人事にも問題があったのではないだろうか。この点については当時商工相だった吉野信次が次のように批判している。

「だいたいさ、風見氏みたいな“野人”をさ、書記官長にもってきたのは近衛さんのミスではなかったか。いろいろ風見氏も努力したんだろうが、なんていうかな、あの人はわれわれとは水と油みたいなもんだろう。同じ政治家といっても、われわれはテクノクラートに属する方だし、片方はただ大向こうをうならせるだけのパーティ・ポリティシャン(政党人)というか、人気をとるわけだ。すべてにとって──。性格が合わんわけだよ。

 したがって、われわれ行政技術者を内閣に入れてみたところで、われわれのいうことなんか、てんで近衛さんの耳に達しなかったと思うな。近衛さんという方は、このあとでも、人気取りというか、初物ぐいなんじゃないの。だからそれが誤ったのさ、国を──。あれ、もう少し地道な政治家であったならば、そういうことなかったと思うけど──」(『昭和史の天皇』16)

 風見は「近衛氏は、人がわるいというか、茶目気たっぷりというか、たとえば人事問題などでは、人をアッといわせて、かげでひとりニタリニタリ笑っているといったような、罪のない芸当をよくやったものだ」と評しているが、「世間からは、意外の人事としてうわさされた」(風見前掲書)風見の書記官長起用がまさにこの例である。国家の危急にあたって自らの趣味を優先させるのは、「罪のない芸当」どころか犯罪的ですらある。余談であるが、支那事変勃発後に近衛は板垣征四郎陸相東条英機次官のコンビでその解決をはかろうとしたのだが、それに失敗すると、板垣の陸相就任は多田駿参謀次長と石原の計画だったとか、東条の次官就任は梅津美治郎の要求だったなどと嘘をついて、自らの意思でおこなった人事の責任をすべて他人になすりつけるという「芸当」も披露している(筒井『昭和十年代の陸軍と政治』)。

 付け加えておけば、近衛という男の首相に就任してからの最大の関心は政治犯(とくに二・二六事件関係者)の大赦にあったのであり、支那事変がはじまるとやる気を無くしてしまい、もう辞めたいを連発して、周囲の懸命の慰留によってかろうじて首相の座に留まっていたような状態であった(『原田日記』第六巻)。ところが世論を煽ることには余念がなく、九月一一日には日比谷公会堂において「政府主催国民精神総動員大演説会」を開催し、近衛の勇ましい言葉が聴衆の喝采とともに日本放送協会のラジオ中継によって全国に届けられた。演説会場から拍手と歓声を電波に乗せ、聞き手に国家との一体感を感じさせようとしたのはナチスの手法であり、近衛が総裁を務める日本放送協会はそれを研究、応用したのである(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』メディアと民衆・指導者編)。

 後述するように以上の近衛内閣の対応は、支那事変を泥沼化させる伏線となるのであった。

 

 石原と盧溝橋事件

 しかしながら政府が派兵声明を発表することができたのは、七月一〇日に石原が作戦課による北支への陸軍派兵案に同意してしまったからである。その理由は支那中央軍が北上しているという不正確な情報を過大視してしまったためで、「現在日本軍の処理は石原少将に全責任がかかっています。中国中央軍の北進は、あなたの映像だと私は思います。応急派兵も内地の動員準備も停止されたら、その映像は消えましょう」と説得する河辺虎四郎参謀本部戦争指導課長に対し、石原は「貴公の兄貴の旅団〔北平の支那駐屯歩兵旅団〕が全滅するのをおれが見送ってよいと思うか!」と感情的に叱りつけている(河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』)。この判断が派兵声明発出を許し、結果的に事態収拾を困難にしてしまったことはしばしば指摘されるが(たとえば秦前掲書)、この間の石原の様子については戦争指導課員だった稲田正純が注目すべき証言をしているので引用しておく。

「石原さんは頭は冴えているけれど、体が弱いのです。事変が始まってからは、夜ほとんど寝ていないでしょう。朝出てくると真赤な目をしているのです。夜通し石原さんのところには人が押しかけてくるものですから、とうとう女中が夜逃げしたりしましてね。河辺虎四郎さんが、「朝、部長の言うことは相手にするな」と言ったことがあります。当時作戦担当の武藤とは、ことごとに意見が合わない。参謀本部一般の空気も一撃主義で、部長は戦争阻止に孤軍奮闘していました。子飼いの戦争指導課だけが部長の味方だったので、よく私たちの部屋に来て石原一流の突飛とも思える注文を出したりしたものでした。弱い身体でと気の毒に見ていましたが、始めの動員だけは案外でした。橋本群さんがそのときの天津軍〔支那駐屯軍〕の参謀長でしたが、ずいぶん苦労していました。実際、あとで、「あのときの動員だけはひどい目にあった」と言っていましたよ。なんといっても、せっかく事件収拾の運びがうまくいっていたのに、あの動員で事態はまったく根底からひっくり返ったのですからね。あの動員はまちがいでした。あれだけ政治のことを考える石原さんが動員に同意したというのは、京津地方万一の場合を考えぬわけにはいかなかったといいながら、やはり疲れで、たぶん精神衰弱ぎみだったとしか思えません」(中村菊男『昭和陸軍秘史』)

 盧溝橋事件発生後、不拡大方針を打ち出した石原が、七月九日の時点で「事件解決のためには兵力を使わぬ方がよい」(『陸軍作戦』)と判断していたのは自然な反応だったといえよう。ところがその翌日、河辺と口論してまで陸軍派兵案を決裁したのであるが、この間に関東軍は有力な一部を満支国境に集中を始め、いつでも越境して支那駐屯軍の危急に備えるバックアップ態勢をととのえていたのであり、これをもって平津地区の変局に対処する手があったにもかかわらず石原が考慮した様子はない(秦『盧溝橋事件の研究』)。では、石原が北支派兵を不可避と考えるようになったのかといえば、盧溝橋事件の一ヵ月前、石原は外務省の幹部会において「わが国防上最も関心を持たなければならぬのは、ソ連への護りである。中国に兵を用いるなどはもってのほかだ。自分の目の玉の黒いうちは中国に一兵だも出さぬ」と所信を表明していたというが、七月一三日に石射猪太郎と会談した際、依然としてその決意に変わりがないことを明言している(石射前掲書)。北支派兵の過失に気付いたのであれば、一一日朝に石原が近衛の私邸を訪れ「本日の閣議で陸軍側の動員案を否決してくれ」と頼み込み近衛を驚かしたという真偽不明のエピソードも(広田弘毅伝記刊行会『広田弘毅』)、筆者にはあり得ることのように思われる。いずれにせよ事変当初、石原の態度は明らかに一貫性を欠いているのである。

 七月一〇日といえばまだ事件発生から日は浅く、「精神衰弱ぎみ」とは言いすぎであろうが、もともと体調がすぐれないのであれば一、二日寝られないだけでも判断力が低下するということはあり得る。おそらくそんなところに支那中央軍北上の情報が飛び込んできたために、北支の日本軍と日本人居留民が重囲に陥ることを恐れて性急に陸軍派兵に同意してしまったのではないか。そうであれば当時の精神状態では、自らの決断が内外に及ぼす影響についてはじっくりと考慮してみる余裕もなかったのであろう。

 ただし、石原の性格にはもともと粗放な面があったことも否定できない。作戦課の陸軍派兵案に安易に同意してしまったことを堀場一雄(一九三七年三月~戦争指導課員。支那事変の早期解決に力を注いだ)に非難されたとき、石原は弱気を見せて「武藤を作戦課長にしたのは失敗だった。河辺と逆の方がよかったかも知れない」とつぶやいたというが(芦澤紀之『ある作戦参謀の悲劇』)、この発言は常識で考えた場合あまりに不可解である。有名なエピソードであるが、この前年、満洲に赴き関東軍首脳部に内蒙工作の中止を命じた石原に対し、武藤章は「本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍されました時分、・・・よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」と反論して統制に服さなかった過去があった(『今村均回顧録』)。そうであれば、いざというときに再び同様の行動に出ることは容易に想像できたはずである。どうやら石原は、「兵隊は頭が硬いといって馬鹿にされるが、武藤のような有能な人間がいる。武藤以上の男は今見あたらない」(武藤前掲書)と評するなど、武藤の能力を高く買っていたようである。そうだとしても、自らの命令に反抗した前科のある人物をわざわざ参謀本部に呼び寄せて重要ポストを与えるなどというのは無頓着にも程がある。稲田はこの人事に際して、飼い犬に手をかまれる結果になってしまうのではないかと疑ったというが(中村前掲書)、おそらく石原以外の人間は同様に感じていたことだろう。

 また、同年春、陸軍中央部は関東軍を北支工作から手を引かせるために支那駐屯軍の増強を実行したのであるが、河辺などはその必要はないと感じていたばかりか、北支のデリケートな空気を考慮すればむしろ支那側を刺激しトラブルの原因になりかねないと判断しており、これに同意した石原に納得がいかなかったという(河辺前掲書)。そして河辺の危惧したとおり、増強された支那駐屯軍、なかんずく豊台駐屯の部隊が同地に配置されていた第二九軍との間に小競り合いを起こし、のちには演習中に盧溝橋事件に遭遇したのである。石原は豊台への駐屯は反対で、通州への移転を希望していたが(「日支国交調整要領」『資料』)、この場合は支那駐屯軍増強という手段自体が誤りであった。

 さらに一九三七年初頭に、石原が大命降下のあった宇垣一成の内閣成立を阻止したことは、近衛内閣を出現させ、結果的にではあるが最悪の体制で日支紛争に突入することとなってしまった。宇垣は盧溝橋事件に際して近衛内閣の派兵決定には批判的で、外交交渉を優先することを考えているのであり、翌年の外相就任までには蔣介石を相手として事変の解決をはかることを信条とするに至ったのである(『宇垣一成日記』2)。もし宇垣が首相として盧溝橋事件にのぞんでいた場合、日本側の対応はおのずから異なるものとなっていたはずで、少なくとも余計な声明を連発していたずらに事態を悪化させることはなかったであろう。

 以上、石原の判断ミスを概観したが、もしそのときどきに適切な対応がとられていれば、盧溝橋事件は起きなかったか、あるいは起きても局地解決に成功していた可能性がある。しかもそれらの過誤は最低限の配慮があれば防げたはずであった。石原は満洲事変を主導したと目されていただけに、盧溝橋事件後、石原の不拡大方針は説得力を欠き、部下の独走をコントロールすることができなかったというのはよく指摘されることであるが、盧溝橋事件を拡大させる素地はそれ以前に石原自身の不用意な判断によって十分につくり上げられていたといわねばならない。石原の負うべき責任もまた重大である。

 

 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?

 出所はまったく不明なのであるが、ごく一部にみられる〈石原は上海事変勃発の際に陸軍を派兵しようとせず、上海にいる日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとした〉といった類の説にも一応コメントしておく。

 とはいえ、石原は上海事変が勃発する前に上海への陸軍派兵に同意しているのであり(本論「年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで」)、結論から言えば、それは最初から成立する余地のない誤った説である。このような話はおそらく石原が上海への陸軍派兵に否定的だったことを拡大解釈して持ち出されたものと思われるが、同時期の石原の意向はその言動からほぼ明らかにすることが可能なので、それについて述べておくことにしたい。

 まず、時日は不明であるが、上海方面の処置に関しては石原の次のような発言が伝えられている。

「上海が危険なら居留民を全部引き揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(『大東亞戰爭回顧録』)

 いつこのように主張したのか特定することはもはや不可能と思われるが、少なくとも確実にいえるのは、この発言は上海事変勃発以前のものであるということである。なぜならば、八月一三日朝におこなわれた近藤信竹軍令部作戦部長との協議においては、陸軍動員は予定通り実行することで合意しているし、しかも上海への陸軍派兵を正式決定することが予定されていた同日の閣議には反対しないことを申し合わせているのである(『陸軍作戦』)。よって、これ以降に石原が上海撤退を主張したとは考えられない(なお、上記石原発言について、戸部良一氏は「上海派兵の決定〔八月一三日〕に至る過程において」なされたとしている〔戸部前掲書〕。秦郁彦氏は八月一二日夜のことではないかと想像している〔秦前掲書〕)。さらに八月一五日には飯沼守上海派遣軍参謀長に対し、すでに上海における作戦の見通しについて連絡をおこなっていることからも(後掲)、上海事変勃発後も陸軍派兵に反対し続けていたなどという話は絶対に成立しないのである。

 また、八月一二日には海軍軍令部員に対して次のように述べている。

「当面の処置として動員下令は必要である。一方、極力外交交渉を行わねばならぬが成功の見込みがない。結局、上海の陸戦隊に若干の陸軍部隊を注入し、上海租界を固めて、徹底的爆撃を行うより手がなく、この際大いに考えなおす必要がある」(上海への陸軍派兵に反対しての発言。『陸軍作戦』)

「この際大いに考えなおす必要がある」と、何かの変更を提案した形跡があるが、これは七月一一日に決定していた上海を含む居留民現地保護の方針(「北支作戦に関する海陸軍協定」『現代史資料』9)についてである。それは次の石原の回想から特定することができる。

私は上海に絶対に出兵したくなかつたが実は前に海軍と出兵する協定があるのであります。其記録には何とあつたかは記憶して居りませんが、どうしても夫れは修正出来ないので私は止むを得ず次長閣下の御賛同を願つて次の様な約束をしたのであります。

 夫れは海軍が呉淞鎮と江湾鎮の線を確保する約束の下に必要なるに至れば速かに陸軍が約一ケ師団を以て同線を占領することとしたのであります」(「回想応答録」)

 すなわち上記八月一二日の発言は居留民現地保護の方針の撤回を海軍に提案したものであったといえる。では、陸軍派兵を取りやめて上海の日本人居留民と海軍陸戦隊を見捨てようとしたのかといえば、そのような解釈は不可能である。このとき同時に「当面の処置として動員下令は必要である」「結局、上海の陸戦隊に若干の陸軍部隊を注入し・・・〔「若干の陸軍部隊」と言っているが、同時点で二個師団の派兵が予定され、石原も承認していた〕」と述べているように、居留民現地保護の方針が変更できない場合に陸軍派兵の必要があると認めていたことは明白であり、したがって、やはり居留民の引き揚げを海軍に納得させようと試みたものと解釈できるのである。

 なお、石原が上海居留民の引き揚げを主張したのは上海事変直前がはじめてではない。この前年の一九三六年秋、支那において対日テロが頻発した際に海軍は全面戦争も辞さないほどの強硬態度をみせていたのであるが(後述)、実はこのときすでに石原は「支那に対して徹底的にやる目算はない〔支那を武力で屈伏させる目途が立たない、の意〕。武力を行使せず、中南支より居留民を引き揚げてもよいではないか」(今岡前掲書)と海軍に申し入れて、陸軍派兵に反対した経緯があったのである。そして盧溝橋事件後の七月三〇日にも再び「対支一国全力作戦をもってするも容易に支那を屈服させる成算も立たない」(『陸軍作戦』)と海軍に申し入れているように、一九三七年八月に上海への陸軍派兵に反対した意図は一年前とまったく同じなのであった。

 

 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?

 では、石原は上海で攻勢に出ようとしていた蔣介石の意図に気づくことができていたのであろうか。盧溝橋事件当時の予測について後年、このような発言を残している。

「一般の空気は北支丈けで解決し得るだらうとの判断の様でしたが、然し私は上海に飛火する事は必ず不可避であると思ひ平常からさう言つて居つたのでありました」(「回想応答録」)

 これだけでは判然としないが、この石原の言については戦争指導課長だった河辺虎四郎が聞いていたようで、後年、竹田宮の聴取に対し次のように回答している。会話を引用しておく。

殿下「其のずつと前未だ石原閣下が〔参謀本部に〕居られた時分に〔近衛が〕直接南京に乗込んで媾和談判をやらうと云ふ問題がありましたが・・・」

河辺「はい、ありました。八月頃だつたと思ひます。あれは石原閣下の発案でありませう。それには今田〔新太郎〕中佐あたりも非常に気合をかけて居りました。

 要するに事態の拡大の虞があると云ふので考へられたのです」

殿下「上海に事件を起すからといふのです」

河辺「兎に角相手の気持で・・・今にも事件が起るぞと云ふ風な気がする、之に引き摺られてズルズルと戦になると云ふことは甚だ相済まぬから兎に角やるのかやらぬのかと云ふことは本当に大政治家が向ふへ行つて突つかつて見るべきだと云ふ、石原閣下の考であつたと思ひます・・・」(「河邊虎四郎少将回想応答録」『現代史資料』12)

 竹田宮が「上海に事件を起すからといふのです」と発言しているが、他の箇所でも話をリードしようとしてこうした口調になっていることが確認できるため、すでに竹田宮はこの話を知っていたようである。ともかく石原が〈蔣介石が何らかの事件を起こして上海で戦争を始めようとしている〉という趣旨の発言をしていたことは確実である。そして石原の提唱した首脳会談の目的が、盧溝橋事件に端を発した北支事変の平和的解決を実現し、上海への戦火拡大を食い止めようとしたものであったこともわかる。

 浅原健三の回想はさらに具体的である。彼によれば、石原は七月三〇日の夕刻、満洲国協和会東京事務所を訪れ、浅原や影佐禎昭(後日、支那課長に着任)に次のように言ったという。

「もし、盧溝橋事件が北支から中支に飛び火すれば・・・、ということは、上海に飛び火するということだ。そうすると、もはや全面戦争は防ぐことはできない。もし、全面戦争になったとき、後ろからソ連に突かれたら、日本は負ける。敗北だ」「君は日本軍が発動しなければ、中支へなど、戦争が拡大するはずはないと思っているのだろう。大変な誤算だ。日本からは挑発しない。これは保証する。ところが、支那側がはじめるよ。蔣介石がやりきれなくなって、挑戦してくるよ。僕はこの最後ともいうべき事態を、そのときを目に見るように感ずるんだ」(桐山前掲書)

 以上から、石原は蔣介石が上海で戦端を開こうとしていることを見抜いていたということができる。また、上海事変勃発後(八月一五日)には飯沼守上海派遣軍参謀長に対し、「現時支那軍の使用しうる兵力は五個師、後方には数多の部隊あることもちろん」「対ソ関係のため上海派遣軍の兵力編組は最小限なり 従って作戦は相当困難なるものと思われるゆえに参謀本部としては細部は指示せず、思う存分やれ」(『陸軍作戦』)と作戦の見通しを連絡しているように、支那軍が同方面に集中してくるために二個師団では苦戦が免れられないということも予想していたようである。

 

 石原発言に見られる駆け引き

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 上海事変勃発後の八月三一日、石原は次のように発言している。

「上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞─江湾─閘北の線くらいであろう)

 北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。

 陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい」

 さらに、「〔上海方面には〕増兵しても焼け石に水」とまで言っている。これらを素直に読めば、石原は上海戦線の膠着状態は打開できないと考えていたように思える。しかし、そのように解釈してしまうのは早計であろう。なぜならば、石原は九月六日に陸軍増派やむなしとみてこれに同意したあとは、前言を完全に翻しているのである。

 九月八日に海軍軍令部を訪れた石原は、次のように参謀本部の増派案を説明した。

「上海に三コ師団増派の件は昨七日上司の決裁を得た。二十五日までに内地を出発、十月上・中旬に決戦を行い、羅店鎮―大場鎮―真茹―南市の線を確保し、専守態勢を整えたのち、一部を満州に派遣する予定である。対ソ関係はますます不安となった。ソ連はすでに戦略展開を終わっている。北支では、十月上旬に保定を確保すれば一部を残して満州に派兵する考えである」

 続いて九月一〇日、石原は第一部各課長に対し以下のような指示を与えている(一部抜粋)。

「(一) 上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない

「(二) 上海に一撃を加えたのちは二~三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、じ余は満州に転用する」(『陸軍作戦』。今岡前掲書も参考にした)

 また、このとき上海戦線に赴くこととなった谷川幸造歩兵第百三連隊長に対しては、「今度の作戦は可及的速やかに結末をつけたい。それで中支の作戦も上海付近ではおさまるまいから、崑山─太倉の線まで進出したところで終局としたい腹案だ。やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」(藤本治毅『石原莞爾』)と説明している。

 このように石原の態度は、上海の陸軍兵力増強に同意した九月六日を境にガラリと変わっているのである。そして、それ以降の発言は言うまでもなく上海攻略が前提となっているのであり、「南京の攻略戦は実施しない」という発言からは、上海を攻略して南京まで行こうと思えば行けると考えていたことがわかる。さらに「やむを得ず戦線が進出するとしても蘇州の線で止め、絶対に南京までは出したくないのだ」とも述べているように、石原が恐れたのは、実は上海戦線の膠着状態を打開できないことではなく、むしろ戦線が拡大し過ぎてしまうことだったのである。

 このほかにも石原は、八月一二日に「上海の現況では陸軍の上陸はとてもできない」と超消極的な発言をして、その場にいた海軍軍令部員を驚かせている。ところがその翌日の近藤信竹軍令部作戦部長との協議において、「とてもできない」はずの上海への陸軍派兵に同意したことについてはすでに確認したとおりである。前出の井本熊男は、この石原発言を「〔戦面の拡大を抑えるために〕海軍にも少し協力的な努力をさせようという狙いがあったと思われる」と観察している(井本『作戦日誌で綴る支那事変』)。『中國方面海軍作戦』1によれば、石原は近藤との協議の際、まず「出兵不同意」を表明し、近藤の「海軍において十分陸軍作戦の援助をなす旨」の約束を引き出して陸軍派兵に意見を変えたようである。もし石原が本気で「出兵不同意」を貫徹するつもりであれば、権限上それは可能であったが(動員派兵は作戦部長の所管)、結局そうはしていない。このことからも、石原の発言に駆け引きの性質があったと見る井本の観察は正しそうである。

 以上から、石原の戦局に対する当初の悲観的な見通しは、本心ではなく一種のブラフと見ることができる。陸軍増派を決めるのとほぼ時を同じくして、石原は多田駿参謀次長の同意を得て、蔣介石に戦争をやめて和平に応じるよう電報で呼びかけるという無茶なことも試みているが(「多田駿手記」『軍事史学』通巻94号。蔣からはご丁寧にも「時機遲キ」との旨の返事があったという)、要するに支那事変に深入りし過ぎないうちに和平解決を実現しなければならないという強いこだわりが、そうした言辞に表れたのである。

 なお、上記のように九月八日には「対ソ関係はますます不安となった。ソ連はすでに戦略展開を終わっている」と述べているが、果たしてこれも本音であろうか?というのは、支那事変勃発後にソ連の動向に対して特別な注意をはらっていたことは疑う余地はないが、翌年一月中旬、石原は「近衞さんもどうも思つたより駄目だ。一時も早くソ聯に對して滿洲の防備をしなければ、それはとても危險極まる話である。もう北支なんかどうでもいゝから、滿洲を固めてソ聯に對する準備をするより仕方がない」と池田成彬に述べる一方(『原田日記』第六巻)、近衛に対しては「露国は出で来らざるものとの見込」であるとまったく正反対のことを平気で言っており(小川平吉日記『小川平吉関係文書』1)、意図は不明だが、ともかくソ連の動向に関する発言とて駆け引きである可能性は否定できないのである。おそらく「対ソ関係はますます不安となった」云々という上記発言は、対支作戦にのめり込むのを牽制するためにソ連の脅威を必要以上に強調したものではないだろうか。後述するように、石原は間違いなく対支戦争そのものに重大な危険を感じていたのであり、ソ連に対する警戒はそこから派生した問題だったといえるのである。

 

 石原の辞任とその後

 石原の作戦部長辞任に関しては、一般に解任されたものと理解されているようである。たしかに武藤章は「追い出した」、石原は「追い出された」とそれぞれ述べているように、何らかの圧力があったのは事実である。しかしその一方で、石原の側から辞任を申し出ていたことも事実であり、多田駿参謀次長の慰留を固辞する形で参謀本部から転出したようである。人事局長だった阿南惟幾は次のように述べている。

「着任日浅い笠原〔幸雄少将〕と石原を交代させることには、私は大反対であった。が新任の多田参謀次長の切なる要求で、不同意ながらその要求にしたがった。石原は従来の関係上関東軍参謀副長を適任と思うという主張であった。今にして考えれば、有為の石原を、東条参謀長の下、不遇の地位に追い込んだことになった。

笠原は、『石原は留りたいと思えば残り得たであろう。しかし本人が参謀本部を出たがっており、その困難な立場に多田次長が同情されたのであろう。多田、石原は仙台幼年学校の先輩─後輩であり、非常に親しかった』と述べていた」(今岡前掲書)

 この件については以下のような見解がある。

「九月下旬、今や石原以上にも不拡大路線の堅持を明確に打ち出した多田次長を迎えたことで、中央における不拡大路線の維持は多田に任せ、石原は、折からの石原罷免の声に呼応して関東軍参謀副長への転出を願い出たのでした。これはもはや破滅的なまでに手薄となることが確実となった関東軍の対ソ戦線に、自らの天分を投げ込むことで責任を果たそうという悲壮な決意であったと受け取れます。そうした意味では、九月二十七日付けの関東軍参謀副長への転出は、決して単なる左遷ではなく、むしろ石原の天分を生かそうという多田次長と阿南惟幾人事局長による格段の好意的配慮の賜でした」(野村乙二朗『毅然たる孤独 石原莞爾の肖像』)

 石原が対ソ支二正面作戦という最悪の事態を回避しなければならないと考えたであろうことは言を俟たない。しかしそれと同時に、当時石原が抱懐していた戦略上の要請からも満洲国の防衛には万全を期さなければならなかったのであり(後述)、このため石原は渡満するや、すぐさま対ソ戦対策に取りかかっている(『石原莞爾 国家改造計画』)。一方、翌年に石原が退役の意向を明らかにすると省部当局者は苦慮し、「石原が満州を去る事はロシア側に与える影響が心配」との声があがったというから(野村前掲書)、野村氏の指摘するような側面がたしかにあったのである。

 ところで、山口重次『悲劇の將軍 石原莞爾』という書物の中で、石原が参謀本部からの転出時に天皇に拝謁した際のエピソードが駒井徳三の談として紹介されている。それによれば石原は今次の事変の経過とこれに対する彼の見通し、次いで満洲国における王道楽土の政治様式、ソ連に対する完全防備の方法、陸軍の一部が侵略政策をもって日支親善を妨げている事情等を腹蔵なく述べたところ、天皇は「よく言うてくれた。全く石原の云う通りだ。日華相爭うことは、兩國々民のみでない、世界人類の不幸ともなるであろう。今後も、氣づいたことは、何でも言うてもらいたい」と答えたとのことである。

 鵜呑みにはできないが、一概にフィクションとも言い切れない(『昭和天皇実録』第七の昭和一二年九月二二日の条に「侍従長百武三郎より、南京・広東爆撃に関する言上をお聞きになる。その際、戦争は不幸である旨の御言葉あり」との記述が確認でき、天皇が上記発言〔とされるもの〕のような考えを持っていたことは事実である。ただし、同書には九月末前後に石原が拝謁したとの記述は見当たらない。しかし山口前掲書によれば石原は閑院宮参謀総長に帯同して参内したとあるので、省略された可能性は残る)。なぜならば天皇は石原に対し、肯定的評価と批判的評価の両方を持っていたからである。そしてその批判的評価の中には誤った情報に基づくものがあり、実はそれが歴史に少なからぬ影響を及ぼしていた。

 一九三九年九月、畑俊六陸相は平林盛人憲兵司令官を呼び次のように伝言している。

「石原中将が今度第十六師団長に親補される事になった。陛下も石原君のことは、優れた人材とお認め遊ばされて居られるが、世間で兎かく“石原は政治に干渉する”やに噂するので、よく石原君に自重するよう、これは私からよりも君が石原君と同期生であり懇意の間柄ときいているから、君から伝えてくれ」(阿部博行『石原莞爾』下)。

 畑は同年五月から八月まで侍従武官長を務めており、短期間ではあったが天皇の信任は極めて厚く、八月阿部信行内閣の陸相就任も異例の天皇の指名によるものであった。したがって「陛下も石原君のことは、優れた人材とお認め遊ばされて居られる」というのは、直接知ることのできた天皇の石原に対する肯定的評価であり、それをありのままに伝えたものと考えられる。ただし、七月に板垣征四郎陸相(当時)が石原に関する人事(第十六師団長新補)を上奏したとき、天皇が容易に裁可しなかったことも事実である。しかしその理由について天皇は「〔石原は〕浅原事件〔※1〕に関聯し此際親補職に栄転せしむるは良心に対し納得し難く・・・」(「陸軍 畑俊六日誌」『続・現代史資料』4)と述べており、特に石原の能力を問題にしたわけではなかった。

 また、畑は石原に政治に干渉することは自重するようにとも伝えているが、これは天皇の石原に対する批判的評価と関係していると考えられる。伊勢弘志氏は次のように指摘している。

「石原が第十六師団長に就いたのは、板垣からの推挙によるものであった。・・・この人事に対して昭和天皇はかなり鮮明に懸念を表明しているのだが、それは石原が政治に干渉する性格であると評していたからであった。昭和天皇の石原に対する評価とは、西園寺公望からの助言によるものだったのであり、またそれは西園寺の秘書官である原田熊男からもたらされた情報である。原田が抱いた石原の印象とはまさに満州事変を強引に決行し、その後に財閥を打倒目標に含めた国内改造を目指す将校なのであり、つまり変節する以前の石原の姿であったろう〔※2〕。その後に変節し、東亜連盟を目指してからの石原の構想には日中戦争を解決する可能性があったわけであるが、原田は変節を知ってか知らずか石原が政治に干渉するとの印象を変えることはなく、西園寺も石原に悪印象を抱き続けた。西園寺を信頼した昭和天皇は、石原を重用しようとする近衛や板垣を信頼せず、そのことが蒋介石との和平工作の頓挫にもつながったということである」(『石原莞爾の変節と満州事変の錯誤』)

 さらに畑俊六の阿部信行内閣における陸相就任が天皇の指名であったことはすでに触れたが、実はこれには当初陸軍三長官会議が後任陸相を多田駿第三軍司令官と決定していたものを、天皇が「どうしても梅津か畑を大臣にするようにしろ」と阿部に指示し、覆した経緯があった。海軍では天皇が多田を忌避した原因を、石原系の色彩があるためと観察していたようである。筒井清忠氏は次のように述べている。

「しかし、石原(派)こそは、日中戦争不拡大派であり、この時天皇の支持すべき陸軍軍人であったのだ。その石原派で、最も日中戦争の拡大に反対していた多田の陸相就任を天皇が潰したのだった。またしても歴史は皮肉というしかなく、多田が陸相になっていたらというイフは残り続けるであろう」(筒井「天皇指名制陸相の登場」『昭和史講義』2)

 

※1石原を失脚させるために東条英機が仕組んだとされる、石原の政治参謀である浅原健三が治安維持法違反容疑で東京憲兵隊に逮捕された事件。憲兵隊は浅原の「政権奪取五カ年計画」に左翼革命の陰謀を疑ったが、実のところ石原との合作である同計画は支那事変の防止と産業拡張を目的としたもので、結局石原に捜査が及ぶこともなく浅原の国外追放といううやむやな決着を見た(桐山前掲書)。同事件を捜査した大谷敬二郎(当時東京憲兵特高課長)は戦後、誰からの指図も受けていなかったと述べており(『昭和憲兵史』)、真相はわからないが、前出の野村氏は、原田熊雄が石原派の台頭を警戒していた事実を示し、彼こそが真に事件を起こしたとしている(野村前掲書)。

※2満洲事変当時、石原らは次は内地でクーデターを起こし、天皇を中心とする国家社会主義の国に改造し、財閥を打倒して富の平等分配を実現させるなどと豪語しているという話が伝わっていた。しかし本論で後述するように、こうした考えは参謀本部時代に完全に改めてしまうのである。

 

 米内光政と上海事変

 上海事変勃発に際しての米内の対応については、相澤淳『海軍の選択』が正確に考察していると信じられるので、基本的には同書に依拠し、若干の筆者の考察を加えながら確認していきたい。

 まず、米内は盧溝橋事件発生以来、陸軍派兵に対してはきわめて慎重な姿勢を見せていたことが注目される。そしてこうした姿勢は上海事変直前においてもまったく変わらず、同時点においては船津工作による解決に固執するという態度となって現れていたのである。そのため軍令部の陸軍派兵要求にも反対し、八月一一日におこなわれた伏見宮軍令部総長の要請に対しても「外交交渉には絶対的信頼を措かず然れ共(中略)成否は予想出来ざるも之を促進せしむることは大切なり」「今打つべき手あるに拘らず直に攻撃するは大義名分が立たず今暫く模様を見度し」などと述べ、米内はこれを拒否している。

 その後、船津工作が進展をみせなかったことから陸軍派兵に渋々同意したものの、上海で戦闘がはじまった八月一三日の時点でも、「上海から陸軍の派遣を要求して来ているのだが、こういう時に備えて駐屯させている陸戦隊だから、陸軍の派兵は好ましくないと思っている」(緒方竹虎『一軍人の生涯』)という心境を披瀝していたのである。

 ところがこのような米内の冷静な態度は、八月一四日深夜の閣議において一変してしまう。このとき米内は紛争の不拡大を訴える賀屋興宣蔵相を怒鳴りつけ、北支事変の全面戦争化、さらには南京占領まで主張するなど突如として強硬論に転向し、天皇は翌日拝謁した米内に対して「感情に走らぬように」と、注意とも取れる言葉を発しているのである。

 米内が態度を豹変させた理由は何だったのだろうか。陸軍派兵に否定的ですらあったものが、わずか一日にして全面戦争論に転向し、そればかりか敵国の首都占領まで口にしはじめるのは異常な変化であると言わざるを得ない。

 実は当時の部下であった扇一登によると、米内は八月一四日午前一〇時頃におこなわれた支那空軍の爆撃、特にかつて座乗していた第三艦隊旗艦「出雲」に対する爆撃に強い怒りを示していたという。過日、米内は次のような対支認識を表していた。

支那をまいらせるため、正面から、またはいわゆる謀略行使の結果として、武力をもって支那をたたきつけることを「強硬政策」というもののごとく、あるいは支那がいうことを聞かなければ頑強にいつまでも苦い顔をしてにらみつけてやることを「静観政策」と称するもののごとく、そのいずれも拙劣な政策であることは恐らく議論の余地がないところであろう。

 支那をまいらせるためにたたきつけるということは、支那全土を征服して城下の盟をなさしめることだろうが、それは恐らく不可能のことなるべし。支那のヴァイタル・ポイント〔急所〕は、いったいどこにあるのか。北京か南京か、広東ないしは漢口か長沙か重慶成都か、このように詮議してくると恐らくヴァイタル・ポイントの存在が怪しくなってくるだろう。

 つぎに日本の実力と国際関係から見て、支那本土に日本の実力をもって日本の意志どおりになし得る範囲はどうか。

 支那のヴァイタル・ポイントということと日本の実力ということを考えるとき、われわれは満州だけですでに手いっぱいであることと察する。このように考えれば、いわゆる強硬政策なるものが実際に即しない空威張りの政策であって、他の悪感をかう以外に一も得るところがないこととなる。

 日本は過去において済南に、また、ちかくは満州に上海において武力を発揮して支那の心胆を寒からしめ、戦さをしてはとうてい日本にかなわぬという感じを支那の少なくとも要路の者にうえつけたはずである。支那の海軍が日本海軍を畏敬しておることはいうまでもなく、ただに軍事上だけにかぎらず、恐らくあらゆる点において日本が優位にあることは、だれが見ても考えても合点のゆくところと考えられる。

 このように実力のある日本は、どうして支那に対しもっと大きな心と大国たる襟度をもって対応できないのであるか。犬や猫の喧嘩でも、弱者は強者にたいし一目も二目もおき、けっして正面から頭をあげ得るものでない。喧嘩をしていないときでも、弱者のほうから強者のほうに接近をもとめるということは、なかなか困難なものである──たとえ接近しようとする意志がうごいても。これが、すなわち弱者の強者にたいする心理状態なのである。

 優者をもって自認する日本が劣弱な支那にたいして握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ〔威厳〕を損しプライドをきずつけるものだろうか。いつまでもこわい顔をして支那にらみつけ、そして支那のほうから接近してくるのを待つということは、いかにも大人気のない仕業であり、むしろ識者の笑いをかうにすぎないものといわねばならない。

 日本はよろしく、つまらない静観主義をさらりと捨て、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに努めるべきである」(「対支政策について」一九三三年七月二四日)

 このような対支認識が米内の中でほとんど変化していなかったことは、盧溝橋事件発生以降、「武力をもって支那をたたきつけること」に反対し、上海の情勢が悪化しても外交交渉による事態解決の方針を頑なに譲ろうとしなかったことから明らかである。また、蔣介石に対して個人的な信頼を置いてもいたのであった。

 すなわち米内は、蔣介石と話をつければ問題は解決できるのであって、よもや「弱者」である支那が「強者」である日本に挑戦してくることなどあるまいと高を括っていたのである。その証拠に、すでに支那中央軍の精鋭が上海の包囲を完了した八月一二日の時点でも、何と米内は「相変わらぬ悠揚たる態度」をみせ、「仮に上海で事が起こっても上海にいる陸戦隊で十分防いでみせる」などとうそぶいていたのである(『静かなる楯 米内光政』上)。米内は手記に「もし今回の蘆溝橋事件にたいし誤まった認識をもってその解決にあたったならば、事件が拡大することは火を見るよりも明らかである。そして、その余波は一ないし二ヵ月にして華中におよぶであろう。海軍大臣のもっとも懸念したのは、じつはこの点にあったのである」(『海軍大将米内光政覚書』)と書いているが、その懸念も結局は、陸戦隊で「十分」対処できる程度の小競り合いが、上海で「仮に」起こるかもしれない、といったものでしかなかった。したがって支那軍が上海付近に防禦陣地を構築しているという情報も、米内の解釈は「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」「公言は出来ざれ共停戦区域には正規兵は居らず「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり」(八月一一日朝、陸軍派兵に反対しての発言。「中支出兵の決定」『現代史資料』12※)というのであって、蔣介石が上海で戦争をはじめる準備をしているとは思いもよらなかったのである。

 ところが支那空軍による爆撃は、米内にとって劣弱であるはずの支那が正面から立ち向かってきたことを意味しており、そのうえ軍令部や現地軍の要請を拒絶して作戦準備を遅延させていたこともあって、この期に及んで現実を突きつけられて動転し、感情のコントロールを失ってしまったものと考えられる。要するに、米内は独善的な期待を裏切って攻撃を仕掛けてきた蔣介石に怒っていたのである。

 

※これらの発言は米内流の駆け引きだったのかもしれない。たとえば「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」と述べる一方で、非武装地帯における「「トーチカ」塹壕等」の存在を認めるのは完全な矛盾である。ただし「「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり」というのは本心だろう。おそらく米内は日本が先に手を出さない限り戦争にはなり得ないと考えており、「上海附近に於て支那側の停戦協定蹂躪の確証なし」「停戦区域には正規兵は居らず」、このほかにも「大山事件は一の事故なり・・・目下の処上海方面に大なる変化なし」(前掲「中支出兵の決定」)などと上海の情勢は緊迫してはいないと強調することで陸軍の派兵決定を避けようとしたものと考えられる。

 

 海軍の南進論

 さらに、ここで海軍が推進した南進論を問題にしたい。

 南進論の起源については、日露戦争後の一九〇七年に制定された「帝国国防方針(以下、国防方針)」にさかのぼることができる。ここでは「南北併進」がうたわれ、陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国に設定したのであるが、もっとも、これは予算獲得のための作文に過ぎず、海軍にとっての“アメリカ”は陸軍に対抗する必要から持ち出されたものであり、本気で戦争になるなどとは考えていなかったのである。

「この時点で、日本は台湾を、アメリカはフィリピンを領有しており、隣国である。しかし、アメリカの満洲への野心に実効性はなく、移民問題は行政問題に過ぎない。両国には本質的な対立はなく、無理やりにでも対立しなければ戦争など起きようがない関係である。それだけに、海軍は安心して日本の行政部内で声高に仮想敵だと喧伝できた」(倉山満「八八艦隊建設」『歴史読本』二〇一〇年九月号)と指摘されるとおりであろう。

 その後、幾度か「国防方針」は改定されたのであるが、陸海両軍ともに相手に予算をとられまいとの対抗心から意思の統一ができず、国家戦略の分裂が解消されることはなかった。

 そして先に結論を言えば、そのような欺瞞が大日本帝国を破滅に追い込んだのである。そもそも対米戦争は、その主体となるべき海軍がやるといわない限り起こりようのない戦争であった。しかし海軍は勝算がなかったにもかかわらず、結局最後まで公の場では〈アメリカと戦えない〉と明言しなかったのである(たとえば大杉『日米開戦への道』下)。

 戦後に語られた以下の証言は、当時の海軍の事情をよく伝えている。

三代一就(開戦時の軍令部作戦課参謀)「私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカと戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。

 どういうことかというと、海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”と。そしてその分を、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんでですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」

高田利種(開戦時の海軍省軍務局第一課長)「それはね、デリケートなんでね、予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月間際になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです」「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあけたところを言えば」(『日本海軍400時間の証言──軍令部・参謀たちが語った敗戦』)

 要するに、三十年以上嘘の作文を作って莫大な予算をもらっていた手前、今さら〈アメリカと戦えない〉とは言い出せなかったのであり、この期に及んでも予算配分が海軍に不利になってしまうことを嫌ったのである。

 しかし、こうした事態を回避する機会がないわけではなかった。一九三五年八月、参謀本部作戦課長に着任した石原は従来の「国防方針」を問題視し、国防計画を一新すべく海軍との話し合いに入った。「国防方針」に対する石原の批判は次のようなものである。

「わが陸海軍には作戦計画はあるが戦争計画はない。これでは国防を全うすることはできない。今や世界列強は国防国策を基とし、外交を律し、軍備を整える準戦時時代に入っている。慢然と想定敵国を列挙して外交や国力と別個に、軍備だけをもって国防を全うしうるものではない。すみやかに戦争計画を策定し、国防国策大綱を制定しなければならない」(『陸軍部』)

 すなわち、国防政策の基準であるはずの大正十二年国防方針には国家戦略も軍事戦略もなく、時代錯誤の短期決戦思想にもとづいた作戦構想と所要兵力が示されているだけで、戦争指導構想がまったくないことを懸念したのであり、石原は、国防方針には国防を中心に考えた国策(国防国策)がまずあるべきで、それを実現するための政戦略、つまり戦争指導構想もない軍備と作戦計画だけでは、準戦時時代に入った現時点において国防をまっとうできないと考えたのである(黒野耐参謀本部陸軍大学校』)。

 また、このとき軍事力を拡大していた極東ソ連軍が現実的な脅威になっており、これに対処することが国家にとって喫緊の課題であることは誰の目にも明らかであった。そのような理由からも、石原は、まず対ソ軍備の完成に重点をおいて、今後十年間は満洲国の育成に専念すべきとの方針で海軍との調整をはかろうとしたのであるが、海軍はあらためて南進を主張し、これに真っ向から反対したのである。このときの海軍の態度は以下のように説明することができるだろう。

「この時期、日本はすでに満州国を承認して北進策を推進しており、ソ連が極東の軍事力を飛躍的に増強し、満州国の防衛が危うい状況にあった。したがって、国家全般の立場から考えれば、北進であろうが北守であろうが、実態としてはまず陸軍軍備を増強して、これに対応するのが急務であった。

 日本が米英の権益の中心である南方へ具体的行動を開始した場合、英米と直接衝突する公算が大きくなる情勢にあった。しかも、北方の脅威に対応する能力も不十分であり、対米持久戦争の準備も完成していなかったのであるから、南進は自ら二正面作戦を求める自殺的行為になりかねなかった。海軍がこのような矛盾した主張をする背景には、昭和一〇年末から無条約時代に入るため、対米自主軍備を早急に推進したいという要求があったのである」(黒野耐『日本を滅ぼした国防方針』)

 では、このとき海軍が対ソ軍備優先の国防計画に同意していれば、その後歴史はどのように動いただろうか。実は海軍の中にも陸軍に予算の優先権を譲るべきとの考えを持つものはおり、当時、及川古志郎第三艦隊司令長官(起案は岩村清一同参謀長)が海軍大臣軍令部総長に具申した意見は注目に値する。

 その要旨は、「日本がとるべき国策として南進・北進の二策があり、平和的に進出するにしても障害がある現状においては実力行使の必要が生じる。南進は米英、北進はソ連との衝突を意味する。日本は今好んで英米と衝突するよりも、まず後顧の憂いを除いたあとに南進に転じても遅くはない。米英と衝突する場合にソ中は米英に組することがあるが、ソ連を敵とする場合は中国本土でイギリスと協調することにより、米中を局外に立たすことも可能であり、欧州においてドイツと策応することもできる。対ソ戦を直近目標としても、つねに米英の干渉を排除する海軍力の整備の必要性は認められる」というものであったが、もし外交手段により極東ソ連軍を撤退させることができれば武力行使の必要はなくなるとも論じている(黒野前掲書。全文は『陸軍部』を参照)。

 これは戦略的にも見どころのある意見だといえるし、国家の全般情勢を考慮すれば当然の結論だったともいえる。「本案をもって進んだならば、日露戦争以後始めて陸海軍が主要想定敵国を共通の一国に限定でき、陸海軍が力を合せて対ソ戦備、対支協調、対英米静謐を得たかも知れないとさえ思われるのである」(『陸軍部』)という見方も決してあり得ない話ではなかったが、もちろんこれは海軍中央部の容れるところとはならなかった。

 そのため、海軍の主導により一九三六年六月三日に改定された「昭和十一年国防方針」においても、すでに見た海軍の身勝手な要求が反映されることになり、結局はソ連と並んでアメリカが引き続き仮想敵国とされ、しかも短期決戦を追求することが示されることとなった(同前。先に見たように、そもそも石原は「国防方針」では国防を全うできないと考えていたのだが、対ソ軍備の強化が緊急を要するためやむなく海軍の提案を呑んだのである)。

「つまり、国策・国家戦略の策定より先に、下位にある国防方針や軍備の整備計画そして作戦計画の大綱を策定しようと提案したのである。まさに本末転倒の提案であったが、海軍にとって、国防方針第二部の所要兵力すなわち「軍備の整備計画」こそが全てであり、国策への配慮などは二義的、つまり「国益より省益」というセクショナリズムそのものの思考といえた」(『近代日本の軍事戦略概史』)

 石原は二月頃にはすでに海軍との調整をあきらめており、陸軍独自で国防国策大綱(後掲)を推進することとなった。なお、石原は六月に参謀本部の改編をおこなっているが、このとき設立された戦争指導課は自らの構想を推進するための中枢組織となった(石原の作戦部長辞任後、戦争指導班に格下げ)。

 同時に、海軍は支那事変勃発の前後において露骨な南進への欲求を見せはじめていた。支那事変前年の北海事件(南支にある北海で邦人一名が暴徒に殺害された事件)と、その後起こった諸事件に際しては、海軍は全面戦争をも辞さない強硬態度を見せており、陸軍が協力を断ったために対支作戦は実行されなかったが、支那事変は海軍主導のもとに一年早くはじまっていた可能性もあったのである。しかし、このとき海軍は、対日テロとまったく無関係、かつかねてから南進の基地として目をつけていた海南島の占領を視野に入れるなど、実は対支作戦を将来の対英米戦準備の一段階として位置づけていたのであり、対支問題など二の次でしかなかったのである。そして海南島へは支那事変勃発後に強引に進出、太平洋上の満洲事変と呼ばれた(相澤前掲書)。

 

 トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一

日本政府は一九三八年一月一五日の大本営政府連絡会議においてトラウトマン工作の打 ち切りを主張し、これに反対する参謀本部をねじ伏せ、翌日「仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス、帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ、是ト兩國國交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」(『日本外交年表竝主要文書』下。以下、『主要文書』と略記)という声明を発表したのであるが、そこに至った理由を考える前に、簡単にトラウトマン工作の経緯を確認しておきたい。

 一九三七年一〇月二一日、広田弘毅外相はヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使に和平の斡旋を依頼し、一一月二日には和平条件を提示するとともに、戦争が継続された場合には条件がはるかに加重されることを強調した。なお、これに先立って石原ら参謀本部はドイツを仲介とした和平工作を独自に推進していたが、このことに広田は関知しておらず、また広田も陸軍との協議を経ることなくディルクセンに対する条件提示に踏み切っており、この二つの動きの関連性について断定的なことはいえないようである(宮田昌明「トラウトマン工作再考」『日中戦争の諸相』)。ただし、このとき提示された和平条件については一〇月一日に首・外・陸・海の四相会議で決められた「支那事變對處要綱」(『主要文書』)が基礎になっており、それは船津工作案が「再確認されたものであった」(石射前掲書)。

 一一月五日、同和平条件はトラウトマンから蔣介石に伝達されるも、ブリュッセルでの九ヵ国条約会議に期待していた蔣介石は受理を拒否した。しかし同会議が何ら有効な対日制裁を決定できずに閉幕すると、一二月二日、蔣介石は日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマンに伝えた。このころ支那側では動揺の空気が広がり、国民政府内で主要な地位を占めていた汪兆銘孔祥熙らは和平に積極的になっていた。しかし、五日には対日参戦を要請していたスターリンから参戦は不可能とする回答が届き、蔣介石は同日と翌日の日記に「ドイツ調停もまた望みがないようだ」「倭に対する政策はただ徹底抗戦あるのみ,これ以外に方法はない」と書いている(岩谷前掲論文)。

 一方、日本側でも小川平吉日記の一二月八日の条に「朝、永田町に〔近衛〕公を訪ふ。去二日、独大使より敵は北支領土並に行政権に触れざれば交渉開始すべしとなり、六日〔ドイツの斡旋〕謝絶に決定せりと」(『小川平吉関係文書』1)との記述が見られる。翌日以降の経過を見る限り同決定は取り消されたようであるが、すでに政府には交渉無用論が横行していたのである。

 七日、ディルクセンと会談し、蔣介石の意向を正式に伝達された広田は「一月前、すなわち日本の偉大なる軍事的成功の以前に起草された基礎の上に交渉を行なうことが未だ可能かどうか疑問に思う」と和平条件の加重を示唆する返答をおこない(三宅前掲書)、同日の四相会議はドイツの斡旋を利用し、新条件を提示することを申し合わせた(『石射猪太郎日記』)。また、この日トラウトマン工作に関する情報の一部が明らかになり「〔陸軍〕省部ノ下僚色メク」(「大本営陸軍参謀部第二課・機密作戦日誌」『変動期の日本外交と軍事』。以下、「機密作戦日誌」と略記)。

 翌八日、陸相官邸にて多田駿参謀次長を加えた会議が開かれ、「蔣ハ反省ノ色見エザルモノト認ム、将来反省シテ来レバ兎モ角現在ノ様ナ態度ニテハ応ジラレズ 併シ独逸大使迄ニハ新情勢ニ応ズル態度条件ヲ一応渡シテ置ク必要アリ」(同前)と決議した。その後、杉山陸相が広田外相を訪ね「一応独の斡旋を断り度し」「近衛首相も其意向なり」と申し出ると、広田もそれに賛成してしまった(石射前掲日記)。また、近衛のほか米内も杉山に同意したらしく、四相間に「一応拒絶シ蔣ノ反省ヲ促シ時ヲオキテ独大使ニ当方ノ考ヘアル条件ヲ提示スル」との合意ができたようである(「機密作戦日誌」)。

 そして一〇日の閣議は蔣介石の交渉受諾の申し入れ拒絶を決定した。同閣議では「広田外務大臣先づ発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの〔回答をするという〕結論に達し、其他皆賛同」したという。ただしこの閣議決定は堀場一雄ら戦争指導班の熱烈な上申によって取り消されたとみられる(堀場前掲書)。加えて、同日陸軍は一転ドイツの斡旋を受け入れるという方針でまとまり(石射前掲日記)、一一日に参謀本部和平派が陸軍強硬派に妥協した形の陸軍案と(堀場前掲書、「機密作戦日誌」)、一二日に同案を石射猪太郎が修正した形の陸海外三省事務当局案が作成された(劉傑前掲書)。そして一三日の連絡会議で陸軍案、一四日の連絡会議で三省事務当局案の審議がおこなわれたが、厳しい条件が列記された前者案には特に反対意見が出なかった一方、これを緩和した後者案には異論が続出し、結局一四日の連絡会議は陸軍案を採用することを決めた(この間の詳しい経緯は別記事「トラウトマン工作における新和平条件の決定について」を参照)。その後同案には若干の修正が加えられ二一日の閣議で新和平条件の最終決定をみたが、政府の意向により抽象的かつ全体をカバーする四条件に改められてディルクセンに示されたのは二二日である。この新和平条件が支那側に伝わったのは二六日だが、条件を知った蔣介石は「倭はあるいは条件緩和によって我政府を惑わし,政府内部で対立,動揺を起こそうとしているのではないかと思っていた」「しかし(条件)を見て,大いに安堵した.条件とその方式がこれほど苛酷であれば,我国は考慮する余地がなく受諾の余地もない.相手にしないことに決めた」と感想を日記に書いている(岩谷前掲論文)。

 一方、日本側においては、すでに蔣政権否認論が台頭しており、七日の四相会議は前述のようにドイツの斡旋を利用することで一応合意したが、同日の閣議の様子については一二月八日「東京朝日新聞」が「〔近々予想される南京陥落と蔣介石の脱出により〕南京政府は最早や中央政府としての存在を失ひ一個の地方政權と見るほかないといふ意見は政府部内に有力となつてをり、七日の閣議席上に於てもこの問題に關し隔意なき意見交換を行つた結果大勢としては南京政府否認の方向に向つてゐるが、否認の聲明をなすべき時期〔一字判読不能。竝?〕に聲明の内容については諸般の情勢を考慮し愼重に決定する筈で何れ南京陷落の公報が到達次第、臨時閣議を開催して正式に協議することとならう」と伝えている。また、上記一二月一〇日の閣議に出席した有馬頼寧農相は次のように記録している。

「午前十時より閣議。外相より独大使と蔣介石との会見につき、先日の電報を有りの儘に報告。拓相、文相より蔣政権否認の意見あり。結局南京陥落と、四時に首相の声明あり。降服すれば認めるも、其れ以外なれば否認することゝなる」(『有馬頼寧日記』3。後半部分がややわかりにくいが、これは一二月一一日「東京朝日新聞」によれば、南京陥落の公報を待って、臨時閣議は開催せずに近衛首相談の形式で政府の見解と態度を内外に発表することとなった、との意味のようである)

 この決定に基づき近衛は一三日の南京陥落に際して、「北京、天津、南京、上海の四大都市を放棄した國民政府なるものは實體なき影に等しい」「然らば國民政府崩壞の後をうけて方向の正しい新政權の發生する場合は、日本はこれと共に共存共榮具體的方策を講ずる外なくなるであらう」(一二月一四日「東京朝日新聞」)と声明している。二四日には、「今後ハ必スシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セス之ト別個ニ時局ノ收拾ヲ計リツツ事態ノ進展ニ備ヘ・・・」(「支那事變對處要綱」(甲)『主要文書』)とする方針を閣議決定した。そして一九三八年一月一六日の「対手トセズ」声明の布石となったものが、一月一一日の御前会議において決定した「「支那事變」處理根本方針」である。ここでは「支那中央政府カ和ヲ求メ來ラサル場合ニ於テハ、帝國ハ爾後之ヲ相手トスル事變解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政權ノ成立ヲ助長シ、コレト兩國國交ノ調整ヲ協定シ、更生新支那ノ建設ニ協力ス、支那中央政府ニ對シテハ、帝國ハ之カ潰滅ヲ圖リ、又ハ新興中央政權ノ傘下ニ收容セラルル如ク施策ス」(『主要文書』)ることが確認されている。一三日には、一五日までに回答がなければトラウトマン工作を打ち切ることが決まった。

 一四日、支那側からの回答が到着したのであるが、内容は蔣介石政権が和を求めてきたものではなく、新和平条件の詳細を問い合わせるものであった。広田はこれを「支那側ニ誠意ナク徒ニ遷延ヲ策スルモノナリ」と断じ、その後の閣議では「最早斯ノ如キ遷延策ニ構ハズニ予定ノ通リ南京相手トセズトノ声明ヲナシ次ノ「ステップ」ニ入ルベキ」こと(「機密作戦日誌」)、声明発表の日取りを一六日とすることに意見が一致した(『有馬頼寧日記』4)。翌一五日の連絡会議で、交渉打ち切りを主張する政府と、交渉継続を涙ながらに訴える多田参謀次長が対立したことは有名であるが、政府は前日の合意に従って参謀本部に反対したのである。米内に至っては内閣総辞職をほのめかす言辞で多田を恫喝した。結局参謀本部は譲歩を余儀なくされ、一六日、政府は予定の通り「対手トセズ」声明を発表した。しかしこのとき支那側は「遷延策」を講じていたわけではなく、蔣介石を除く多数の人物は和平を望んでいたが、さりとて厳しい新和平条件を受け入れることもできず、態度を決めかねていたというのが実相なのであった。岩谷將氏は、もし日本側が当初の和平条件を維持していたならば、国民政府内の主流派は暫定的にこれを受け入れ、蔣介石もまた再考を迫られる状況が生じた可能性があったと論じている(岩谷前掲論文)。

 無論、参謀本部の交渉継続論が正しく、政府の交渉打ち切り論は完全に誤りであった。強調しておかなければならないのは、先に見たように、一四日の時点で交渉打ち切り決定後に「対手トセズ」声明が発表されることは既定方針だったのであり、閣僚はそれを是認していたのであるから、交渉の打ち切りと「対手トセズ」声明の発表は不可分だったということである。したがって交渉打ち切りの決定は単にトラウトマン工作を頓挫させたに留まらず、以後日本では国民政府を対手にしないことが公式な国策となり、少なくとも明らかに勝者とわかる条件でない限り和平ができなくなってしまった。また、当然ながら日支両国大使の引き揚げという事態を招き、政府は以後外交による和平の可能性を自ら潰してしまうこととなったのである。そのうえすでに列国に承認されている蔣介石政権を否認するという行為は、九ヵ国条約との絡みからも既存の国際秩序に対して挑戦状を叩きつけたに等しいのであり、列国を敵に回すことは国際的な対日干渉を志向していた蔣介石を利することに他ならず、この意味からも日本政府は墓穴を掘ったのであった。そもそも現に交戦している相手を否認してしまうような行為はどのように考えても重大な過失というしかない。

 たしかに新和平条件は厳しいものであり、支那側がそのまま受け入れることは不可能だったが、期待していた列国による紛争介入が起こらず、苦境に陥っていた支那側の態度からして交渉継続が可能だったことは確実である。そしてあくまで蔣政権を対手にしていれば、たとえトラウトマン工作が失敗に終わっても、いずれ正式な外交ルートを通じて交渉を再開することもできただろうし、同じテーブルにつけば和平条件を討議することも可能だったはずである。実際にトラウトマン工作の失敗によって蔣介石が徹底抗戦以外の可能性を完全に排除してしまったのかといえば決してそうではなく、一九三八年三月下旬の日記からは早くも和戦の決断をめぐって迷いはじめている様子が看取される(馮青前掲論文)。なお、このとき国際情勢に対する悲観的な展望を背景に、彼は満洲国を承認することも考慮したようである(鹿錫俊前掲書)。

 理由はどうであれ、一和平工作が頓挫したからといって有害無益な声明を発表して交渉の窓口を閉ざしてしまわなければならぬ道理はないのである。この件に関しては完全に政府の失策といわねばならない。

 

 トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二

 さて、風見は盧溝橋事件発生当時の国内の様子を次のように回想している。

「ことに、ひそかに心配したのは、むこう見ずの強硬論がもちあがることであった。そのころは、一般国民のあいだにも、はたまた政界にあっても、中国をあまく見くびるという気風がみなぎっていた。一方、前年来、中国における抗日の勢い、すこぶるはげしく、それがため日本同胞にしてその犠牲となり、殺害された者もあったという事件に刺激されて、ひとつ、中国をとっちめてやるがいいといったような考えをいだく者も、すくなくなかった。また財界方面でも、中国市場を顧客とする製造業者や貿易業者の方面では、抗日気勢にあおられた排日貨運動に、ひどく手こずっていたおりもおりとて、ひとたたき、たたいてみせて、へたばらせるほうがいいかも知れぬとして、日本が、ことごとに強硬態度に出ることを希望しているものも、すくなくなかった」(風見前掲書)

 事実、盧溝橋事件が起こると、事件発生からまだ間のない七月一二日には早くも、日本経済連盟会と日本工業倶楽部は共同で「今次の北支事変に対して帝国政府の執りたる措置は万やむを得ざる自衛的行動と認め両団体はここに緊急理事会を開催し政府を支援することを決議す」と表明している(坂本雅子「「財界」に戦争責任はなかったか」『日本近代史の虚像と実像』3)。また、日本各地の商工会議所などの経済人から支那駐屯軍司令官にあてて激励の電報が届き、その内容は申し合わせたように「積極的に支那を討て」というものであったといい(池田前掲書)、高松宮も「財界の人も、海軍が早く立ち上つたら支那浙江財閥は大打撃をうけるだらうから、早く立つ姿勢を示して脅威すべしと進言する人もある」(『高松宮日記』第二巻)と日記に書いている。真偽は不明であるが、浅原健三によれば、盧溝橋事件後に石原は近衛と極秘会談をおこない同事件の平和的解決を直談判したというが、その内容を武藤章にリークして大騒ぎにさせた人物がおり、それは新興財閥である石原産業の石原広一郎だったとしている(桐山前掲書)。

 堀場一雄は次のように指摘している。

「軍需生産に当る企業家も、支那事変が短期に終息するのでは、拡張施設に投資するのを躊躇せざるを得ないので、心ひそかに拡大長期化するのを念願していた者もないとは保証し得ないのであった。

 これらが輿論を作り出し、対支膺懲の国論を盛り上げ、政府も、国論や政党の動向に迎合し、勢い強い声明を発し、和平条件にも過酷の要求を中国側に強いるという結果になる傾向もないでもなかった」(『陸軍部』)

 たしかに一〇月一日に首・外・陸・海四相で決められた「支那事變對處要綱」においては、戦局の拡大につれて増大する「国民の戦果に対する期待」を満足させるために賠償や合弁会社設立などの利権を要求することが考慮されているし(『陸軍作戦』)、広田は新和平条件をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えるにあたって、「中国政府が受け入れるとはとても思えない」と難色を示す同大使に対し、「軍事情勢の変化と世論の圧力があるので、これ以外にありえない」と反論している(服部龍二広田弘毅』)。このときディルクセンは本国に「日本内閣の主要閣僚たちは、野戦軍と産業界との圧力の下で、これらの原則をあまりに穏和過ぎると考えており、蔣介石に対する全滅をめざす戦いを遂行出来るように、中国がこれらの原則を拒否することを望んでいる」旨を秘密の情報源から知り得たと報告している(三宅前掲書。テオ・ゾンマー『ナチスドイツと軍国日本』ではこれを広田の談話としている)。なお、前出の稲田正純によれば、梅津美治郎陸軍次官も賠償金の要求を主張していたが、彼は主戦論者というわけではなく、その理由は在支居留民がひどい目にあっており、賠償金を取らなければ戦後の処理ができないということにあったようである(中村前掲書)。陸軍とて世論を無視するわけにはいかなかったのである。

 さらに、政府が和平交渉の打ち切りを急いだ理由については、以下のような見解がある。

「広田外相があの時どうしてあのように強気に交渉打切の態度に出たか一寸考えられないことで、もつと粘つてもよかつたのではないかと思うが、その理由として一つ考えられることは、一月二十日から議会が再開されるので、議会では必らず論議に上るこの和平問題を議会対策としてその再開前に早く結論を出して置こうと考えたのではなかろうか。それに内閣書記官長の風見章氏も記者的性格の持主で構想をまとめることの上手な人で、支那の新興勢力と手を組むとの一つの夢を議会で打出そうとしたのではなかつたかとも推測している」(『木戸幸一日記』東京裁判期)

 多田駿も手記に次のように記している。

「政府ガ強硬ナリシハ近々議會ガ開カレ其ノ對策ノ爲ナリシナラン。・・・政府ハ支那ヲ輕ク見、又滿洲國ノ外形丈ヲ見テ樂觀シ爲ナランカ」(多田前掲手記)

 堀場一雄も同じように見ていた。

「而して〔交渉打ち切り期限と定めた〕一月十五日とは何ぞや。急進論の燃焼の外、政府は一月二十日よりの議会開始を基準となしあり。国家の運命を決する大事を議会対策の便宜より割出す。本末顚倒も甚しきものなり」(堀場前掲書)

 すなわち、当時の政府の思惑については次のような説明ができるだろう。

「政府は中国側の回答に「誠意」なしとして和平工作を打ち切ったが、和平工作を試みたこと自体に対して議会内の強硬派から批判・非難を向けられるおそれがあった。政府声明の発表には、そうした批判や非難の矛先をかわす、あるいは少なくともそれを鈍らせるというねらいが込められていたのではないかと思われる」(戸部前掲書)

 そうであれば「議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。逆に言うと、議会と世論が弱ければ和平工作は成功していたかもしれないというのが実相なのであった」(筒井『近衛文麿』)という見方もできる。

 ここまで見たように、近衛内閣のポピュリズム的性格がトラウトマン工作に及ぼした影響はかなり大きかったといえよう。しかし、「そもそも世論をたきつけたのは近衛内閣にほかならず、その世論が内閣に跳ね返ってきたのである」(服部前掲書)。今度はそれに迎合する形で対支態度を硬化させ、最終的に蔣政権を否認してしまったのであるから、あまりに拙劣な対応であったと評するほかない。

 

 トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三

 以上は日本政府が和平交渉を打ち切った動機についてであるが、次にそれを是とした背景を探ってみたい。

 交渉打ち切り決定当時の状況について堀場一雄は次のように述べている。

「戦争指導当局は現政権否認後に来るものは長期戦にして、少くも四、五年に亘る覚悟を必要とし、兵力を更に増加し戦費を継続することは国際情勢及我が国力上不適当とする旨数字を掲げて累説し、放慢なる決心に陥るを防止せんとせるも、大勢は戦争次期段階の本質を究明せんとするの誠意に乏しく、滔々として強硬論のみ横溢せり」(堀場前掲書)

 また、「政府は未だ今後来るべき長期戦の実体を認識し居らず」(同前)とも観察していたのであるが、この見方は正確である。たとえば近衛は南京陥落直前に次のようなまったく見当はずれの発言をしている。

「もうとても自分には堪へられない。南京が陷落して蔣介石の政權が倒れる。で、日本は蔣政權を否認した聲明を出すが、その時が、ちやうど自分の退き時だと思ふから、その時に辭めたい」(『原田日記』第六巻)

 さらに政府は一九三八年一月一八日に「対手トセズ」の意味について、「國民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスルノテアル」(『主要文書』)との補足的声明を発表し、近衛は同日おこなわれた記者会見で「日本は飽く迄も蔣政權壞滅を計る」(一月一九日「東京朝日新聞」)、広田は二月一日の衆議院予算総会で「日本は之を撲滅する考へでゐる」(二月二日、同前)とそれぞれ述べているが、これらの発言に関しては必ずしも世論や議会対策のためだったとは言い切れない。近衛は南京を落とせば蔣介石政権を打倒できるという程度に考えていたが、後日あらためて「〔南京も陥落し、蔣介石政権の崩壊まで〕もう一押しと云ふ所なり」(「講和問題に関する所信」『現代史資料』9)と戦局の見通しについて述べている。広田が戦局をどのように捉えていたかは不明だが、近衛がのちに「どうも自分も廣田も、あまりに蔣政權打倒といふことを徹底的に言ひ過ぎた・・・」(『原田日記』第七巻)と反省の弁を口にしているところを見ると、近衛の認識と大差はなかったといえよう。広田はディルクセン駐日ドイツ大使に当初の和平条件を提示した際、「日本がこの戦争を継続することを強いられた場合には、日本は中国が完全に敗北するまでこれを遂行するであろう」(三宅前掲書)と強調していたが、単なる示威というわけではなかったようである。また、米内も例外ではなく、一九三七年一二月下旬に支那事変を和平解決する是非について「別に海軍はそんなに急ぐ必要もなにもないのだ」(『原田日記』第六巻)と言っており、支那事変の先行きを危惧していた様子は感じさせないし、翌年半ばにも「作戰部としては、今日事變に際してそれで行つていゝんだと思ふ」と漢口攻略を肯定する発言をしている(『原田日記』第七巻)。

 なお、天皇は盧溝橋事件後に、一挙に大軍を送って叩きつけ、短時間に引き揚げるという作戦方針を上奏した杉山陸相に「果してそれが思ふやうにできるか」と疑問を呈しているし(『原田日記』第六巻)、一九三八年の漢口作戦前には、板垣征四郎陸相閑院宮参謀総長に対し「一體この戰爭は一時も速くやめなくちやあならんと思ふが、どうだ」と述べ、「蔣介石が倒れるまではやります」と答える両者に不満を見せていることからも(『原田日記』第七巻)、決して対支作戦を楽観していたとは思えないが、残念ながらトラウトマン工作の打ち切りが決定した当時、和平交渉継続を主張する参謀本部ではなく戦争継続を選択した政府側に同調しているのである(『原田日記』第六巻)。戦争継続が本当に危険だと思えば政府に再考を促すこともできたはずで、このとき天皇の見通しにも誤りが生じていたことは否めない。

 そして「対手トセズ」声明発表の理由については、近衛自身がのちに次のように記している。

「これは帝國政府は國民政府を相手とせずして帝國と共に提携するに足る新興新政權の樹立發展を期待し、それを以て兩國國交調整を行はんとの聲明である。この聲明は識者に指摘せられるまでもなく非常な失敗であつた。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」(近衛前掲書)

 風見の説明によれば、

「そもそも、かかる方針にきりかえたのは、(一)すでに南京をすてた国民政府は、そのころは、その基地を四川の重慶にうつしていたが、こんな調子では、やがては国民の信頼をうしない、地方の一政権に転落してしまうにちがいない。(二)したがって、しきりに長期抗戦をさけんでいるが、それはほろびゆくものの悲鳴で、日本としては、長期戦にひきずりこまれるという心配はなくなったといっていい。(三)当然、新政権の成立を誘導し、これをたすけて、もりたててゆくことにより、日本の要求を貫徹するにたる時局収拾のみちが、おのずから開かれるのだとする認識にもとづくものであったのは、いうまでもない」(風見前掲書)

 要するに日本政府は、〈面倒な和平交渉をおこなわなくても、蔣政権をいずれ崩壊に追い込むことができる。そして蔣政権に代わる傀儡政権を相手に事態の収拾をはかることが可能である〉と、支那事変の行く末を楽観視していたのである。換言すれば、政府は蔣政権など武力だけで屈伏させることができる、すなわち支那事変を「決戦戦争」だと考えていたのである。

 その一方で石原は、「南京・漢口・廣東など奪取したからといつて、蔣介石は絶對にこんなことでは參らぬ」(平林前掲文)と後日述べているように、蔣政権を武力だけで屈伏させることは困難、すなわち支那事変は「持久戦争」だと確信していた。「対手トセズ」声明が出された四日後に近衛を訪問した石原は、時局について「極度の悲観論」を開陳し、やがて「鮮満をも失ふに至らん」と、政府とは逆に大日本帝国が崩壊するだろうと警告している(『木戸幸一日記』下)。

 さらに石原の影響力が残る戦争指導班では、高島辰彦中佐が一九三七年一〇月中旬に、「課長兼務の形にて第二課(作戦)の戦争指導の主務は、いろいろの方面から力をそがるる傾向となり、上海戦の作戦外形上の勝利のために、軍事作戦に努力の主力を向ける空気が濃厚となりたるは、支那事変の本質に遠ざかるものにて憂うべき事態なり」と日記に書いている。一一月一七日には「徹底した武力戦をもって大鉄槌を加える以外に、事変解決の方法はない」と主張する服部卓四郎参謀本部編制班員に対し、堀場一雄が「貴様ほどの奴がどうしてわからないのだ。蔣介石は徹底的に抗戦の意志を明らかにしている。しかも国民の戦争継続意志も強い。さらに中国大陸はわれわれが考えているよりはるかに広い。武力戦は、結局泥沼戦争となって際限のつかないものになってしまうのだ。第一、事変の局地的勝利によって日本が得られるものは一体なんなのだ」と反論している(芦澤前掲書)。このように戦争指導班では〈支那事変を武力だけで解決することは不可能。結局蔣介石を相手にした外交交渉によって解決をはかるしかない〉という認識が常識になっていたのである。多田駿も二月四日の連絡会議において、武力による蔣政権壊滅を主張する末次内相に対し、「武力ダケデハナイ外交、政略、経済等ニ依リテ潰滅ガアルデナイカ、武力武力デハイケナイ」と反論している(「機密作戦日誌」)。

 また、石射猪太郎も早期和平解決に努力した人物だが、支那事変当初、「支那軍に徹底的打撃を与へる事は到底不可能」という石原の発言を伝え聞いて「私の予見も其通り」と同意していた(石射前掲日記、八月一九日の条)。

 すでに明らかなように、トラウトマン工作に対する姿勢は支那事変の見通しと直結していたのである。すなわち政府がトラウトマン工作を打ち切り、蔣政権を否認するなどという愚行を犯してしまったのは、支那事変を武力だけで解決できると考えてしまったことが根本原因であった。もしその不可能を正しく予測できていれば、トラウトマン工作に対する態度は自ずからもっと慎重なものになっていたはずである。

 

「日本は支那を見くびりたり」

 では、当時の日本人は支那の力量をどの程度に見積もっていたのであろうか。盧溝橋事件当時の陸軍の状況について、井本熊男は次のように証言している。

「石原第一部長は前年来、日支関係の破綻を回避するため、対支外交方針緩和の実現、北支及び満州に出張して現地軍の策動を抑えるなど各種の努力を傾けていたが、盧溝橋事件か起ると主として省部(陸軍省参謀本部)内において下僚、同僚、首脳部に対し不拡大堅持のための説得に精魂を尽した。その趣旨は、

「今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支全面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦を行い、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力、軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期することが必要である」

 というのであった。

 第一部長は第三課の室に来て、課長以下全員に対し、何回か右の説得に努めた。また近衛首相に対しても理解を得るように工作していたようである。

 石原部長に同調する人は省部を通じ若干あったが、極めて少数であってしかも石原少将より若年の人々であった。故に不拡大勢力は著しく弱く、極端にいえば石原少将単独の主張であった。省部の首脳およびほとんど全部の幕僚は対支観において石原部長と正反対であった。すなわち「支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せば直ちに屈従する。この際支那を屈伏させて概して北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相俟って対ソ戦略態勢を強化することが必要で、盧溝橋事件はそれを実現するため、願ってもない好機の到来を示すものである。」というのである。

 この考え方は満州事変以来陸軍指導層の変らない対支観、対支施策であった。満州事変の主役者関東軍参謀石原中佐も当時はこの考え方であったが、その後四、五年の間に前記のような思想に飛躍的に変化したのであった。

 武藤課長の考え方は陸軍の指導層主体と同じであって、特に前任の関東軍第二課長(情報、謀略)時代に信念的なものとなっていたようである」(武藤前掲書)

 そして盧溝橋事件発生の報が参謀本部に伝わると、武藤が「愉快なことが起つたね」(「河邊虎四郎少将回想応答録」『現代史資料』12)と言い、支那課長の永津佐比重大佐は、

「日本は動員をやつたら必ず上陸しなければならぬと考へるから控目の案になるのだ、上陸せんでも良いから、塘沽附近までずつと船を廻して持つて行けばそれで北京とか天津はもう一先づ参るであらう」(同前)

「石原の云うことは間違っている。支那は、小兵力を以て脅しただけで屈伏する。この際一撃を加えて、我方針の貫徹を図ることが最善の方策である」(井本前掲書)

 支那班長の高橋担中佐は、

「内地動員の掛声或は集中列車の山海関通過にて支那側は屈伏する」(堀場前掲書)

 兵要地誌班長の渡左近中佐は、

「精々保定の一会戦にて万事解決すべし」(同前)

などと、それぞれとんでもない観測を述べていたのであるが、極めつけは杉山陸相の「事變は一ケ月位にて片付く」(近衛前掲書)という天皇への上奏だろう。

 このように陸軍では従来どおり、支那に対しては威嚇によって日本側の要求を貫徹できるのであり、要求が通らない場合でも、一撃を加えればたちどころに降伏してしまうと考えられていたのである。そうした考え方は上海に戦火が拡大しても本質的な変化は見られなかった。

 松井石根上海派遣軍司令官は八月一八日に参謀本部首脳部と懇談した際に南京攻略を主張しているが、その意図は一六日の日記によれば、「一挙南京政府ヲ覆滅スルヲ必要トス」(「松井石根大将陣中日記」『南京戦史資料集』2)というのであった。しかもこのとき南京さえ攻略すれば蔣介石は下野するだろうと完全な見当違いを述べている(同前)。参謀本部支那課の見込みはさらに甘く、上海をとれば蔣介石はすぐ手を上げるだろうとの意見だったという(中村前掲書)。

 一方、海軍軍令部においても、中支・南支に戦局が拡大した場合、航空爆撃と沿岸封鎖などによって支那を短期間に屈伏させることが可能であるという、海軍の一撃論とでもいうべき甘い見通ししか持っていなかった(相澤前掲書)。高松宮は一九三七年七月一六日の日記に「海軍にも、この際支那を一つタヽイて、サツト引クがよいと云ふ説が盛んである」(『高松宮日記』第二巻)と書いているが、このような発想には陸軍の一撃論者との差異が見出せない。上海の長谷川第三艦隊司令長官も上海、南京を占領することにより蔣介石を屈伏できると考えていた(「対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申」昭和十二年七月十六日『現代史資料』9)。

 また、既述のように七月一一日の派兵声明は風見の発案によるものだったのであるが、近衛自身も支那を侮り、強硬な戦意さえ見せれば必ず折れてくるという誤った見通しを持っていたのである(岡義武『近衛文麿』)。

 さらに伊藤正徳によれば、「大多数の国民は、勇壮無比のわが陸軍の楽勝を、大人と子供の相撲のように簡単に考えていた」(『軍閥興亡史』3)といい、尾崎秀実は「上海をとれば支那が参るであろう」「南京が陥ちれば勝負は決ったのである」との安易な見通しが事変当初、多数の国民の間に存在したとしている(「長期戦下の諸問題」『尾崎秀実著作集』第二巻)。

 以上のように、当時の日本人の大半は支那ナショナリズムや抗戦能力を過小評価しており、言わば国家規模で認識を誤っていたといえる。天皇は次のように述べている。

支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」(昭和十五年十月十二日「小倉庫次侍従日記」)

「結局、日本は支那を見くびりたり」(昭和十六年一月九日、同前)

 

 日本は持久戦争に対応できなかった

 石原は、支那事変は広大な支那大陸を舞台にした持久戦争であると考えていたが、これは客観的にも妥当な認識といえるだろう。すなわち蔣介石政権を武力だけで屈伏しようとすれば、いたずらに戦線だけが広がって泥沼化必至だったのである。そのような事態を回避するためには、適当なところで矛を収めて結局外交交渉によって解決を図ることが必要であり、もし和平が成立しない場合には戦線を縮小して国力の消耗を防がなければならなかったのである。石原が、このことを確たる理念として保持していたことについては先に確認したとおりであり、すでに満洲事変前には次のように考えていた。

消耗戦争ハ武力ノミヲ以テ解決シ難ク政戦略ノ関係尤モ緊密ナルヲ要ス 即チ軍人ハヨク政治ノ大綱ヲ知リ政治家ハ亦軍事ノ大勢ニ通セサルヘカラス

 英国ノ如キ国防大学ノ設立目下ノ一大急務ナリ」(「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」昭和六年四月『資料』)

 しかし、支那事変勃発時においても政戦略は完全に乖離しており、閣議で報告される戦況は新聞報道にすら劣るものであったといい(矢部前掲書)、近衛は「一體軍の作戰なりなんなりについて、何にもきいてをりません。爲すがまゝにたゞ見てをるより仕方がありません」(『原田日記』第六巻)と天皇に訴えるような状況だったのである。そこで大本営政府連絡会議が設けられたものの、これとて政治と軍事を統合できる組織には到底なり得なかった。風見によれば、大本営の中でも陸海軍は戦略すら一元化できず、そのうえ連絡会議においても陸海軍の反対によって戦略を議題にすることができなかったという(矢部前掲書)。

 このように、石原のいう「政戦略ノ関係」は等閑視されてしまった感があるが、それは以下に示す情勢と深く関わっていた。黒野耐氏は当時の陸軍を次のように概観している。

第一次大戦以降の主流となる長期にわたる持久戦争を戦いぬくためには、政治・外交・軍事・経済など国家の全機能を総合的に運用する戦争指導の概念が必要だったが、陸大における教育は依然として作戦指導の観念から脱皮できていなかった。(中略)

〔このため戦争指導に関しては一部の先覚者が個人的研究をおこなっているにすぎなかったが、〕先覚者の中でも、戦争指導に関する学術的研究の第一人者が石原莞爾であった。石原は大正十一年から約三年間ドイツに駐在して、フリードリッヒ大王とナポレオンの戦争史を研究し、戦争形態の歴史的変遷から、持久戦争の到来とその後に出現する決戦戦争の戦争指導を理論化し、参謀本部第二課長として戦争指導計画の作成を推進した。(中略)

ただ、陸軍の戦争理論や戦争指導の研究が制度として実施されたわけではないから、全体的にみれば陸大では戦争指導の教育がおこなわれなかったといっても過言ではない。したがって石原が参謀本部に登場するまでは、戦争指導計画を作成するという観念すらなく、国防方針と作戦計画しか存在しなかった」(黒野『参謀本部陸軍大学校』)

 こうした傾向は陸軍に限らなかった。総力戦研究所所長を務めた飯村穣はこのように述べている。

「わが国では戦術研究は盛に行なわれたが、戦争術の研究は、戦争指導の研究は、行なわれず、戦争指導の研究教育は、昭和一五年秋に創設せられ、私が初代所長になった、内閣直属の総力戦研究所で始めて行なわれた」

「当時わが陸軍の戦術思想は、速戦即決攻撃一方の戦法であり、海軍戦術は、見敵必殺の電光石火的な超短期戦であった。しかし、事戦争となると、速戦即決や、電光石火的に片づけ得る予想敵国は、当時の日本には一つもない。ソ連然り、米国然り、支那また然りである。・・・また、戦史の、戦争史の、研究によれば、戦争のみならず、あらゆる作戦も戦闘も、結局は、戦力の消耗により、片がつくものである。しかるにわが国には、消耗持久の戦法の研究が殆んどない」(『続兵術随想』)

 陸軍の場合は次に指摘されるような思想が背景にあった。

日本陸軍の用兵思想は建軍当時から日清・日露戦争に至る間のみならず、その後も作戦上では第二次大戦の初期までドイツ流兵術の影響を受けていた。第一次大戦でドイツ軍は敗れたが、それでも戦略・戦術の面、とくにその殲滅戦法はわが国防方針、用兵綱領の主旨に合致するものとして、その研究熱は俄然高まっていった。第一次大戦で兵力劣勢のドイツ軍が優勢なロシア軍の兵力分離に乗じて、その各個撃滅に成功したタンネンベルヒの会戦はその適例とされた。第一次大戦後の大正十年、陸軍の偕行社から刊行された『殲滅戦』にはドイツのシュリーフェン元帥の殲滅戦の思想が解説され、その研究の必要性が強く切望されている。

 かくて昭和三年に制定された『統帥綱領』には作戦指導の本旨を、

「敵軍戦力ヲ速カニ撃滅スルタメ、迅速ナル集中、潑剌タル機動力及ビ果敢ナル殲滅戦ハ特ニ尊ブ所トス」

 と示し、また翌四年に公布された師団級以下を対象とする『戦闘綱要』も、

「戦闘一般ノ目的ハ敵ヲ圧倒殲滅シテ迅速ニ戦捷ヲ獲得スルニ在リ」

 として、殲滅戦法の採用が本決りになったのである」(『陸軍参謀』)

 石原はこのような風潮を、「日露戦争ノ僥倖的成功ト吾国情ノ戦争持久ニ不利ナル為メ且ツハ欧洲軍事界ノ趨勢ニ盲従スルノ結果我国軍ハ益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ」(「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」昭和六年四月『資料』)と批判しているが、まさに支那事変においても以上のような短期決戦思想に、支那軍の実力に対する侮蔑感が加わって、武力のみで簡単に決着をつけることができると考えられていたのである。以下に示すエピソードは、そうした当時の日本の空気をよく伝えていると思われる。

 一九三八年三月に東久邇宮が寺内寿一北支那方面軍司令官を訪問した際、漢民族を武力で制圧することは不可能、したがって速やかに戦争をやめたほうがよいとの旨の意見を述べたところ、「軍司令官、軍參謀長ともに顏の色を變へ卓を叩いて非常に怒つて、そんな考へは誰の考へですか、近衞總理がそんなことでもいつてゐるのですか。一體全體日本國内でいまどき和平などといふことを考へてゐるものがあるからして、この戰爭は思ふやうに捗らないのだ。蔣介石軍は打ち破らなければならない」と声を荒らげるような状況だったといい(『天皇陛下』)、また、同様に松井石根支那方面軍司令官も蔣政権を打倒すべきとの意見を持っており、南京陥落後には速やかに同政権を否認すべきであると杉山陸相に進言している(『松井石根南京事件の真実』)。杉山はトラウトマン工作の打ち切りに際して「蔣介石を相手にせず屈服する迄作戦すべし」(堀場前掲書)と主張しているが、「便所のドア(押せばどちらにでも動くの意)」と揶揄された杉山である。陸軍の大多数の意見を反映していると見るべきであろう。

 片や和平解決を主張し続けていた戦争指導班などは参謀本部で孤立してしまい、あまつさえ「その気概軟弱にして軍人にあるまじき者ども」というレッテルを張られる有り様であった。また、秘密裡に進められていたトラウトマン工作を暗号解読によって知った海軍軍令部員が、“犯人”は堀場一雄と見て、これを糾弾すべく怒鳴り込んできたこともあったという(芦澤前掲書)。堀場は強硬派と激論を交わすことしばしばで、時には身の危険を感じることもあったのだろう、当時実弾を装填した拳銃を机の引き出しに忍ばせて執務にあたっていたと自著に記している。同時期、和平工作に関与していた本間雅晴参謀本部情報部長もひそかに死を覚悟し、毎日身を清め、下着をかえて出勤したそうである(角田房子『いっさい夢にござ候』)。石原の指示を受けてトラウトマンと接触した馬奈木敬信は、「何しろ当時は省部の間では主戦論者が多く、大多数を占めていたので、和平工作なんていうものは、非常に勇気のいることであった」(今岡前掲書)と回想している。

 さらに政府要人の中にも南京占領後も和平交渉による解決を主張する参謀本部に対し、「いったい何を考えているのか了解に苦しむ」と非難する者があったという(井本前掲書)。近衛などは支那事変勃発後のかなり早い段階から蔣介石政権に代わる傀儡政権の樹立に肯定的になっており、蔣介石の交渉受諾の申し入れが到着すると和平条件案審議の過程において積極的にトラウトマン工作を妨害しにかかっている(別記事「トラウトマン工作における新和平条件の決定について」)。

 加えて外務省にはすでに上海における日本軍の勝利をもって、蔣政権が事実上崩壊したと見なす向きさえあり(劉傑前掲書)、川越茂駐支大使は一九三八年一月七日、「〔中支に〕新政權が出現するには日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ、それと同時に〔支那民衆の支持を得るために〕漢口を中心とする國民黨政權の武力を壓縮する必要もあらう」(一月八日「東京朝日新聞」)と談話を発表した。風見は同談話が発表された理由について、北支に続いてすでに中支にも陸海外提携のもと新政権を組織しようとする工作が進められていたためだったのではないかと推測している(風見前掲書)。したがって新和平条件に対する支那側回答に接した広田が支那側に誠意なしとして交渉の打ち切りを主張したときも、「閣議も主務大臣たる外相がそのように考えるなら致し方ないというようなことで比較的簡単に考えられていた」(『木戸幸一日記』東京裁判期)のである。

 また、石射猪太郎は日本国内の情勢を以下のように回想している。

「事変発生以来、新聞雑誌は軍部迎合、政府の強硬態度礼賛で一色に塗りつぶされた。「中国膺懲」「断固措置」に対して疑義を挿んだ論説や意見は、爪の垢ほども見当らなかった。人物評論では、「明日の陸軍を担う」中堅軍人が持てはやされ、民間人や官吏は嘲笑を浴びせられた。(中略)

 この〔一九三七年九月初旬に開かれた臨時〕議会における演説で近衛首相は、事変の局地収拾方針を全面的かつ徹底的打撃を中国に加える方針に切り換える旨を明らかにし、その目的を達するまでは、長期戦を辞さないと説き「諸君と共に、この国家の大事を翼賛し奉ることを以て誠に光栄とする」と結んだ。予めこの演説の草稿を入手した私は、「軍部に強いられた案であるに相違ない。中国を膺懲するとある。排日抗日をやめさせるには、最後までブッたたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持ってゆくというのか。アキレ果てた非常時首相だ」(日記から)と罵った。

 元来好戦的であるうえに、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は意気軒昂、無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数台の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景は東京の街頭風景になった。暴支膺懲国民大会が人気を呼んだ。

「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには華北か華中かの良い地域を頂戴するのは当然だと思った。

 地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは蓆旗〔むしろばた〕で外務省に押しかける」と詰め寄られた。(中略)

世を挙げて、中国撃つべしの声であった」(石射『外交官の一生』)

 角田房子氏は、「南京陥落の報は日本中に万歳の声をまき起し、国民はちょうちん行列や旗行列に浮かれた。敵の首都占領は、戦い全体の勝敗が決したと受けとられ、中国の降伏による終戦も間近であろうとの期待さえ生まれた」としている。氏は南京の陥落した日、歌舞伎座にいたが、陥落を祝して踊る役者に観客は狂気のような拍手を送り、「チャンコロ、思い知ったかあ」とのかけ声が飛んだと自身の体験も伝えている(角田房子前掲書)。

 そして朝日新聞なども、上海が陥落すると「〔結果はどうであれ〕一意南京を目指して進撃するの他はない」(一一月一六日「東京朝日新聞」社説)と無責任に煽動し、したがって南京陥落前には「支那内外よりする調停説の俄に擡頭し來つたことは、大に警戒を要するところである」(一二月六日、同前)と和平を迷惑がり、南京陥落の翌日に現地陸軍が北支に傀儡政権(中華民国臨時政府)を樹立すると「歡喜慶祝に堪へざるところである」(一二月一五日、同前)と述べている。「対手トセズ」声明が発表されると各紙これを礼賛した(『石射猪太郎日記』)。

 外務省東亜局第一課長だった上村伸一は当時の情勢を次のように述べている。

「〔南京陥落後〕軍部内の大勢は急激に和平に背を向けて、北京新政権の育成強化により、事変を自主的に収拾するの方向へと進んだ。それは軍部内強硬派が初めから主張していたところだが、南京の占領により、蔣介石の運命もすでに極まったと称し、軍の大勢を制するに至ったからである。日本の世論も、南京の陥落により、有頂天になって軍強硬派の主張に同調し、閣僚連までがいい気になって、苛酷な新和平条件及び「支那事変対処要綱」〔甲〕を決定して、和平交渉よりは自主的収拾に傾いたのである」(上村前掲書)

 河辺虎四郎、稲田正純はそれぞれ以下のように回想している。

「対支判断において、蔣介石は、わが武力に屈して軍門に降るというようなことはない。長期持久戦争を指導しうるであろうと多田次長や石原部長は考えていた。これに対して多くの者は、支那の力を軽視して、恐らくポッキリ折れるだろうと考え、上海を陥して南京へ行く前に手を挙げてくるだろうというのであった。したがって、講和の条件についても権益主義におちいり、真に国力、国防力を明察して至当の判断を下し、あくまですみやかに終戦に導くという熱意がなかった。国民が一番強気で、次が政府であり、参謀本部が国家全般を憂慮して最も弱気であった」(『陸軍部』)

「〔陸軍には支那を思い通りに支配できると考えるものが大勢いた。〕ですから、支那事変は早期にやめようという当時の参謀本部首脳の意向には、賛成するものがいなかった。新聞にしても、世論でも“暴支膺懲”といって、やめろという声はなく、海軍でもそうでした。ここまできて参謀本部はなにをいうのか、という気持だったのですね。もっとも海軍の上層部は違っていましたが、それでも南支那勢力を拡張するというのなら双手をあげて賛成なのです」(中村前掲書)

 しばしば〈トラウトマン工作さえ成功していたら、支那事変は短期間で終わっていたのだ〉と、あたかもトラウトマン工作がちょっとした判断ミスか何かで失敗したかのような意見をインターネット上で目にするが、それは後世の後知恵というものであって、以上に見たように当時の日本人の常識では〈蔣介石ごときを降伏させることはそう難しいことではない。故に強いて和平による解決を求める必要もないのだ〉と考えられていたのである。したがって、暴支膺懲論が世論を席巻し、なおかつ軍の大勢を占める強硬派と政府が軌を一にするような状況では、一握りの和平論者がいくら頑張ってみたところで同工作が成功するはずなどなかったと結論付けるほかない。

 しかし、日本人がその誤りに気付くまでにそう時間はかからなかった。石原と対支武力行使をめぐって対立した武藤章は、上海、南京を攻略すれば支那事変は解決すると考えていたようであるが、その後も支那が降伏する気配を見せない状況に、「どうだろうかね。いくらやってもダメというなら国としても考え直さなければなるまいがのう・・・」、あるいは、「やっぱり石原さんの云った通りであった」とつぶやくこともあったようである(武藤前掲書)。

 さらに近衛なども、一九三八年の半ば頃には早くも「一月十六日の〔「対手トセズ」〕声明は、実は余計なことを言つたのですから・・・」(『宇垣一成日記』2)と漏らしている。旧態依然とした戦争観を持っていたのは軍人も政治家も同様だった。堀場一雄は次のように指摘している。

「戦争形態は既に総力戦に進化しあり。又支那事変の本質は大持久戦なるに拘らず、軍及政府の要路に於て、総力戦及大持久戦に関する理解認識共に不十分なるもの多し。

 我国が戦争手段として思想、政治、経済等の面に於て、積極性乏しき為勢ひ武力を重視し、更に之を偏重するの一般的傾向あり。然れ共世代は進化して列国は各種戦争手段を操縦して、総力戦を指導しあり。乃ち我亦攻防両勢共に、武力外各手段をも併せ一途に統合運用すべきに拘らず、依然として戦争は武力戦従って戦争は軍人なるの旧思想行はれ(偶々総力戦を口にする者も多くは本質を把握せず)、総力戦の指導を阻碍せり」(堀場前掲書)

 すなわち政治・外交・軍事・経済など国家の全機能を総合的に運用しなければ勝利することができない持久戦争に、当時の日本が確実に対応することは不可能だったといえる。支那事変勃発後、小川愛次郎という老志士が石射猪太郎のもとを訪れ「日本はbattleには勝つてもwarに敗れる」(石射前掲日記)と警告しているが、言い得て妙だろう。

 そして、このことは誰あろう蔣介石によって見抜かれていた。蔣が第二次世界大戦の勃発を予測し、もしそれ以前に支那が日本と単独で戦うことになった場合には、長期戦に持ち込んで国際情勢の変化を待つという戦略を持っていたことは前に見たとおりだが、この戦略の成算は次の点にあると考えていたのである。

「日本は、経済・内政・統帥などの武器以上に重要な要素が完備していないから、国際的規模〔の戦争〕においては決して最後の勝利をえることができない」(『太平洋戦争への道』3)

 大日本帝国の命運は、まさに蔣が見通したとおりの結末をみた。慧眼と言うべきだろう。その後日本は、支那と同様にアメリカに対しても決戦戦争を挑み、むなしく戦線を拡大して国力を消耗するというまったく同じ過ちを犯してしまった。

 ついでながら述べておくと、戦後になって、石原は外国人記者に対し、私が対米戦争を指導していれば勝っていた云々と言ったと伝えられるが、実際にはあの時点における開戦には断固反対であり、「陸軍はアジアの解放を叫んで、どうやら英米との戦争を企てている様子だが、その実は石油が欲しいからだろう。石油は米国と妥協すればいくらでも輸入出来る。石油のために一国の運命を賭して戦さをする馬鹿がどこにあるか」(『日本軍閥暗闘史』)、「支那事変をこのままにして、さらに手を拡げて新たな戦争を始めたら必ず国を滅ぼす」(井本前掲書)、「〔米英打倒を叫ぶ〕參謀本部の頭は狂つてゐる」(「明日に生きる石原先生」『石原莞爾研究』)、「殘念ながらもう日本も駄目だ。朝鮮、樺太、台灣など皆捨てて一日も早く明治維新前の本土にかへり、ここを必死に守つたなら何とかならぬこともあるまいが、今の儘では絶對に勝利の見込はない」(平林前掲文)、「生産力からいつても、二十対一のひらきがある。アメリカと戦つてもとうてい勝目はない」(田村眞作『愚かなる戦争』)などと、この種の発言は枚挙にいとまがないのであるが、戦う前から日本必敗を断言していたことを指摘しておく。

その理由は後で見るように、日本が国策を展開するためには、まずそれに見合った国力を養うことが先決だと考えていたためであり、石原の国防計画によればあのタイミングにおける対米開戦などもってのほかだったのである。

 

 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由

 すでに見たように、石原は盧溝橋事件後、北支への陸軍派兵は認めたものの、特に上海方面への派兵には可能な限り抵抗し、居留民の引き揚げをもって対処すべきと主張したのである。では、石原はなぜ上海への陸軍派兵を嫌ったのだろうか?先に結論を述べるならば、それは決して大げさではなく、陸軍の上海出兵が日本の敗戦に結びつくと確信していたからである。

 石原は後年、「不拡大方針の決定経緯」について以下のように振り返っている。

「今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります。然るに責任者の中には満洲事変があつさり推移したのと同様支那事変も片附け得ると云ふ通念を持つものもありました。私共は之は支那の国民性を弁へて居らん議論で、殊に綏遠事件により彼を増長せしめた上は全面的戦争になると謂ふ事を確信して居つたのであります。事変始まると間もなく傍受電により孔祥凞は数千万円の武器注文をどしどしやるのを見て私は益々支那の抵抗、決意の容易ならざるを察知致しました(日本の三億円予算と比較)。即ち此際戦争になれば私は之は行く所まで行くと考へたので極力戦争を避けたいと思ひ又向ふも避けたい考へであつた様でありますのに遂に今日の様になつたのは真に残念であり又非常なる責任を感ずる次第であります」(「回想応答録」)

 盧溝橋事件後に不拡大方針を打ち出したのは、日支紛争の長期化を予想していたためなのだというが、これは当時の発言からも事実と見て間違いない。同事件発生後、石原は「出兵は北支のみに限定して、青島や上海には出兵してはいけない」(武藤前掲書)と述べ、紛争はあくまで北支に留めることを主張した。そして福留繁軍令部作戦課長に上海への陸軍派兵を求められると、次のように述べて反対している。

「今中支に出兵すれば事変は拡大の一途をたどり収拾不可能の事態になるのは火を見るより明らかである。たとえ中支でどんな犠牲を払おうとも出兵すべきでない」(福留繁『海軍生活四十年』)

 そして上海事変が勃発すると浅原健三に対し、「浅原君、もう終わった」「もう俺の力ではどうにもならん。これから先はもう収拾に努力するだけだ。しかし、見通しはない。俺はもう軍人を辞めたい」(桐山前掲書)と諦観したかのように言い、作戦部長を辞任する頃には「国家にも、人間と同じように運命というものがあるものらしいですな。とうとう支那との戦争は拡大することになりました。それには私が邪魔になるから満州に放逐したのです。今後は日本が敗けても満州が崩れないように固めましょう」(横山銕三「石原精神の中国における栄光と受難」『石原莞爾のすべて』)、「山口さん、これで私も肩の荷が卸りたような気がする。止むを得ない。日本は亡国です。せめて満洲国だけでも独立を維持するようにしましょうなあ」(山口重次『満洲建国への遺書 第一部』)、「日本は、樺太も、台湾も、朝鮮もなくなる・・・本州だけになる・・・」(田村前掲書)、「日本はこれから大變なことになります。まるで糸の切れた風船玉のやうに、風の吹くまゝにフワリフワリ動いて居ります。國に確りした方針といふものがありません。今に大きな失敗を仕出かして中國から、台灣から、朝鮮から、世界中から日本人が此の狹い本土に引揚げなければならない樣な運命になります」(岡本前掲文)と方々で日本の敗戦を口にしている。

 実は石原が最終的に日本の命取りになると確信していたのは、支那事変が長期化した際の列国の動向であった。石原は一九三一年四月、「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」という文書の中で「吾人カ支那中心ノ戦争ヲ準備セント欲セハ東亜ニ加ハリ得ヘキ凡テノ武力〔アメリカ、ソ連、イギリス〕ニ対スル覚悟ヲ要ス」との見解を示していた。一九三六年八月策定の「対ソ戦争指導計画大綱」には、「英米ノ中立ヲ維持セシムル為ニモ支那トノ開戦ヲ避クルコト極メテ緊要ナリ」という一文が見られる(『資料』)。裏返して言えば、〈支那と開戦すれば英米の干渉は必至である〉と見ていた証左といえる。したがって支那事変がはじまってからも、「上海は欧米諸国の勢力圏であるから手を拡げる考えはない」(『陸軍部』)と述べ、一九三八年五月には秩父宮に対し要旨次のような意見具申をしている。

「日華事変は即時兵をおさめて、中国本土から撤兵すべきである。・・・中国本土の占領などはいささかの利益もなく、日中両国間の溝を深め、米ソ両国に漁夫の利と侵略主義の口実を与えるのみで、日本の国力を消耗するだけである。こんな戦いを続けていけば、日本はやがて米ソ両国から徹底的に叩かれるときがくるであろう」(阿部前掲書)

 同様に、第十六師団長時代(一九三九年八月~一九四一年三月)にも「支那といくさをしていると今に世界中を相手にいくさしなけりゃならなくなる!」(藤本前掲書)と言ったという。その後、日本はまさしく世界中を敵に回して敗戦国となった。

 しかしこうした石原の危機意識と、持久戦略を戦争指導方針として対日戦にのぞんでいた蔣介石に反して、日本軍は石原が喝破したようにあくまで「益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ」(本論「日本は持久戦争に対応できなかった」)という形勢であった。当時の日本軍の特殊な思想について、井本熊男は次のように述べている。

「わが方の戦術、戦略は徹底した殲滅方針であり、決戦主義であった。歩兵操典に至るまで戦争指導上の概念であるべき速戦即決を謳い、あらゆる教範に「戦捷の要は敵を包囲してこれを戦場に捕捉殲滅するに在り」と強調していた。故に敵が強大であるからといって、戦闘を断念して退却するような考え方はなかったのである。その徹底した考え方から、敵もまた同様に、われと決戦するつもりでいるように判断したのである。徐州付近に集った四十万の敵は、わが軍と決戦を交えるであろうと考えて、わが方は徐州を包囲して、敵を全部つかまえて撃滅するつもりであった。

 ところが、敵は前述の如く逃げた。この場合、わが方の決戦思想をもって支那側を見ると、その退却は決戦に敗れた結果と見える。そのため支那は大きな敗戦感を抱いており、それは降伏につながると判断し勝ちであった。そのことが、この事変間対支判断を誤った一大原因であった。

 既述の南京占領後、トラウトマン工作時期におけるわが方の強気にも、このような敵情判断が影響していたと考えられるのである」(井本前掲書)

 そして、そうした悪習の根源は先に見たように陸軍大学校における教育にあったのである。那須義雄(陸軍少将、元陸軍省兵務局長)は陸大教育の欠点について次のように証言している。

「戦術的に勝つことに努力するは当然乍ら、特に徒らに決戦に勝つことのみを強調する。これは欧米戦術に心酔した力の戦いを尊重した結果であり、窮極において戦いは心の戦い、心理戦であることを忘れたきらいがある。つまり力の戦いが勢い真実に反する「強気」の傾向を呼び、紊りに硬直して、殆んど退くことを知らぬ。固より弱音をはかない主義は戦陣のこととて、大切ではあるが、真実に反して形式に堕し迎合に傾く時において行き過ぎの強ガリとなり、持久戦略の欠如となり況んやゲリラ戦の如きは夢にも考えなかった。従ってこの理解は乏しかった。

石原莞爾教官が古戦史でフリードリッヒの持久戦略を、また日露戦史で若干東洋的戦争哲学、兵站補給などの再認識を呼びかけた教官がいたのは印象的であったが、所詮大勢とはならず、特に大東亜戦争において兵站軽視の弊風があったことと考え合せると、「決戦戦略偏重の強がりの弊も度がすぎた」と痛感されるのである」(『陸軍大学校』)

 ひるがえって蔣介石はこのように考えていた。

「長期戦においては、一時の進退をもってその勝敗を決することは出来ない。戦略的な撤退が予定していた結果を達成できるならば、それもまた勝利である」(一九三八年六月三日の日記、家近前掲書)

 つまり、日本軍は決戦を交えようと支那軍を追いかけていったというわけであるが、蔣介石にとっては戦争の終局的な勝利を得られればそれでよかったのであり、目先の勝敗にこだわって無用な戦闘をおこなうつもりはなかったのである。では、このように日支が完全に食い違った戦略で戦えばその結末はどうなるであろうか。石原は次のように予想した。

「緒戦では戦果を収めるだろう。それに酔うて拡大方針をとるだろう。だが中国は広いのだ。懐に入って踠くだけだろう。都市をたたけば参るだろうと思うが、そうはゆかない。いくらでも奥地に逃げ場所がある。線路を押さえるとお手上げと思うが、それは日本人的感覚だ。アミ傘の人力が蟻のような列で石炭をはこぶ。広い野原でいくらでもゲリラができるのだ。中国人は最低の生活に耐えて辛抱がよい。日本は消耗戦に疲れ果てるだろう」(曺寧柱「石原莞爾の人と思想」『永久平和への道』。これは第十六師団長時代の講演での発言であるが、事変前からの一貫した持論であったことは明らかである〔本論「支那事変は持久戦争だった」〕)

 したがって「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」という有名な言葉はこのような文脈で理解されるべきであり、石原がそうした予測に基づいて、特に上海への陸軍派兵に反対したのは当然であった。換言すれば、当時の日本には持久戦争を戦うための準備がまったくなく、政戦両略を駆使して適当なところで戦争を確実に終結に導くといった芸当は絶対不可能であったし、それ以前に持久戦争を戦っているという自覚すらなかったことに危惧の念を抱いたのである。これらの不備を石原が看取していたことはすでに触れたが、のちに語った陸軍大学校批判や政府批判にもその点はありありと現れているので引用しておく。

石原の考へを率直に申しますと陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導し得ないのであります。即ち今度の戦争でも日本の戦争能力と支那の抗戦能力、「ソ」英米の極東に加ふる軍事的政治的威力とそれを牽制し得る独逸と伊太利の威力等を総合的に頭に画いて統轄して、日本が対支作戦にどれだけの兵力を注ぎ込み得るかを判定し戦争指導方策を決定し得られなければなりませんのに其の間の判定能力のある人は参謀本部に一人もないと思ひます。又持久戦争は参謀本部だけでは決定できないので御座いまして、詳細は統帥部政治部各当局が協力して方針を決定し若し意見の一致を見ることの出来ない場合に於ては御聖断を仰いでなさるべきものであります。

 然るに斯した戦争指導も出来ず統帥部政治部の各関係省部が自由勝手なことをやり之を纏める人が一人も居ないのは陸大の教育が悪いからで、大綱に則り本当の判断をやる人が一人もないからだと思ひます。即ち総合的の判断をなし得る知識を持って居らないのであります」(「回想応答録」)

支那の戦争について我々はどういふ戦争かといふと、日支戦争が始まると若干師団を動員してパッとやると屈伏すると、簡単に考へて居つたのが日本国民の常識のやうでしたが、これは近世殊に満洲事変以後の支那の真面目な建設に対して自惚れ或は国民の目を蔽ふて居た為めであります。不幸にして私達の心配が適中しまして、支那人はなかなか参つたといひません。私に言はせれば、よく世間ではソラ廣東をやれ、漢口をやれといふが、大体に於いて政治家がさういふ作戦上の事を往々いふのは、其の国が統制力を失つて居る時で、戦がうまく行かないことです。(中略)漢口を取つたとしても、私は、蔣介石政権は或は崩壊するかも知れないが、崩壊しない方が絶対的であらうと思ふ。仮りに蔣介石が倒れたとして支那四億の人間は屈伏するか、私はこれはだんじて屈伏しないと見て居ります。かへつて蔣介石政権でも潰れてしまつたら、共産党国民党のこんがらがつた利権あさり、或は軍閥などが卍巴となつて、支那の中はガタガタして簡単に屈伏なんて思ひもよらないと私は考へて居ります。言ひ換へると、此の日支戦争は最初から私達が云つて居るやうに、これは持久戦争であります。去年の七月から持久戦争の決心でやらなければならんのに、南京を取つたからこれから持久戦争だなんてことは、日本の賢明なる政治家諸君が、戦争の本質に対する研究が足りないといふことを、明瞭に証明して居ると私は思ひます。(中略)

 徹底的に支那を屈伏するとか、強いことを仰しやる方がありますが、それが為めには私は申します、数十個師団の兵を数十ケ年支那にもつて行つて、全部押へてグッとやるんです。無理が通れば道理引つ込むといふことがあるが、そこまで行けば始めて支那は屈伏します。(中略)結局本当に徹底的に支那を屈伏せしむるには、それだけの決心を持たないで中途半端にチョコチョコやるなんてことは、相当考へものであります。(中略)それで斯ういふことを──まだ大きな声でいつてはいけない事と思ひますが、私は事件が始つた時、これは戦を止める方がいいといつた。やるならば国家の全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべきものだと思つた。然しどちらもやりません。ズルズル何かやつて居ます。掛声だけです。掛声だけで騒いで居るのが今日の状況です。で、私は、私の理想からいけば、東洋で日支両民族が今戦ふ必要はないと思ふ。戦ふべきではないと思ふが、然し戦争は始まつて居ます。始まつて居る今日は先づ少なくとも絶対的に大勝利を得なければなりません。(中略)

 私は三ヶ月ぶりで東京に来ましたが、東京の傾向はどうも変です。満洲も絶対にいいことはありませんが、東京はいい悪いではありません、少し滑稽と思ひます。阿片中毒者─又は夢睡病者とかいふ病人がありますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には映ります」(「協和会東京事務所に於ける石原少将座談要領」昭和十三年五月十二日『資料』)

 

 なぜ兵力の逐次投入となったのか

 そして以上のような日本は持久戦争に対応できないという認識が、作戦指導に影響を及ぼすことになったのも自然な成り行きであった。すなわち石原は、当初から陸軍の上海出兵の目的は居留民保護の範囲に限定しなければならないと考えており(井本前掲書)、その後の兵力増強についても異常ともいえるほどの慎重姿勢にならざるを得なかったのである。その理由は、苦戦している上海に陸軍増派が必要なことはおそらく承知しつつも、中島鉄参謀本部総務部長が「〔元来石原は〕イクラ積極的ニヤツテモ結局、戦略持久戦ニ陥リ、カヘツテ抜キサシナラヌ様ニナルト判断シテ居タ」(『陸軍部』)と述べるように、用兵上の深刻なジレンマに直面していたためであった。また、それに留まらず、石原は対支戦争の泥沼化は列国の干渉を招き大日本帝国破滅の起因になり得るとも判断していたのであり、後日、荒木貞夫は「上海救援石原反対、石原新京に在りて仕方がない負けるんだと嘆息した」(小川平吉日記、一一月二四日の条『小川平吉関係文書』1)と石原の様子を伝えているが、これはやはり〈負け戦をやる破目になるから上海への陸軍派兵には反対だった〉という趣旨の発言をしたと解釈できる。この少し前に満洲を視察した東郷茂徳は石原から「事変がこのままに推移すれば百万の出兵を要し、日本の資源は枯渇することになる」(『時代の一面』)という言葉を聞いている。

 ところが、そうした石原の抱いた懸念はまったく分析されず、結果だけを取りあげて、当時から現在に至るまで兵力の逐次投入だったとの皮相的な批判が繰り返されてきたのであるが、そもそも陸軍参謀本部の一部長という立場では持久戦争を指導することなど不可能であるし、仮に石原が中支において敵に大打撃を与えることを決意したとして、事変の性質を正しく理解し、なおかつ政府・統帥部間の意見調整をはかって軍事的勝利を講和につなげるという経綸の才を発揮し得た人材が一体どこにいたというのだろうか。否、むしろ日本軍が全力を挙げて上海攻略に取りかかっていれば、前述のように蔣介石は九月中旬には早くも撤退を視野に入れていたのだから、支那軍はこのときまでに退却を開始して、損害は逆に少なくなっていた可能性が高い。一方日本側でも、上海で苦戦し一撃論の誤りが実証されたにもかかわらず、強硬態度に出て和平交渉を打ち切ってしまった史実から推考するに、上海陥落が早まればますます支那軍与し易しの観念に傾いていたことが予想される。この傾向は蔣介石を武力で打倒できるとの判断を助長させることはあっても、蔣介石との話し合いによって戦争を止めようという方向には決して作用しなかったであろう。とはいえ兵力を小出しにするという石原の用兵が正しかったとまでは絶対に言えないが、この件に関しては弁明の余地は大いにあるように感じられるのである。

 また、〈石原はソ連の対日参戦を恐れるあまり兵力を逐次投入した〉という批判もあるが、それも日本の持久戦争遂行に対する石原の懸念を把握できていないことから来る誤解である。すでに確認したように、石原がまず憂慮したのは、持久戦争の準備もないまま支那と戦争をはじめて、その結果どこまでも戦線が拡大してしまうことであった。そして、そのような事態に陥ることは対ソ兵力が手薄になることを意味しており、同時にソ連に後背を衝かれてしまう可能性を増大させるのであって、ソ連に対する警戒は対支戦線拡大の副次的な問題だったと見るべきである。つまり裏を返せば、当初からソ連の対日参戦に備えることを強く訴えなければならなかったのは、対支戦争の長期化という結果が見えていたためであった。石原の思考がこのようなものであったことは本人が明確に述べるとおりであるので、念のため「回想応答録」の当該部分を再掲しておく。

「今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります

 

 最終戦争論

 よく知られるように最終戦争論という石原独自の思想は一冊の本にもなっており、一般には日蓮信仰のドグマや、日本とアメリカが決勝戦を戦うという結論部分がクローズアップされ、読者に奇妙な印象を与えているようである。たしかに石原の説明には論理の飛躍としか言いようのない部分が散見され、石原自身も戦後に「最終戦争が東亜と欧米との両国家群の間に行なわれるであろうと予想した見解は、甚しい自惚れであり、事実上明かに誤りであったことを認める」(「新日本の進路」『石原莞爾選集』7)と率直に反省するしかなかったのである。

 しかしその反面、最終戦争を準備するために確立しようとした国家戦略については別の評価が必要と思われるのである。なぜならば、支那事変前に打ち出されたそれに関しては、彼のリアリストとしての一面が多分に反映されているのであり、その線に沿って進む限りは結果的にせよ国益にかなっていたといえるのである。以下、その石原の抱懐した戦略の概要を明らかにしつつ批評することにしたい。まずそれには支那事変の前年に明文化された国防計画を検討することが有効と思われるので、「国防国策大綱」(昭和十一年六月三十日『資料』)という文書を確認しておく。

「一 皇国ノ国策ハ先ツ東亜ノ保護指導者タル地位ヲ確立スルニアリ之カ為東亜ニ加ハルヘキ白人ノ圧迫ヲ排除スル実力ヲ要ス

二 蘇国及英米ノ圧迫ニ対抗スル為ニハ所要ノ兵備特ニ航空兵力ヲ充実スルト共ニ日満及北支ヲ範囲トシ戦争ヲ持久シ得ル万般ノ準備ヲ完了スルコト肝要ナリ

三 先ツ蘇国ノ屈伏ニ全力ヲ傾注ス 而シテ戦争持久ノ準備ニ就テ欠クル所多キ今日英米少クモ米国トノ親善関係ヲ保持スルニ非レハ対蘇戦争ノ実行ハ至難ナリ(中略)

四 兵備充実成リ且戦争持久ノ準備概ネ完了セハ蘇国ノ極東攻勢政策ヲ断念セシムル為積極的工作ヲ開始シ迅速ニ其目的ノ達成ヲ期ス 而シテ戦争ニ至ラスシテ我目的ヲ達成スルコトハ最モ希望スル所ナリ(中略)

五 蘇国屈服セハ適時之ト親善関係ヲ結ヒ進テ英国ノ東亜ニ於ル勢力ヲ駆逐ス(中略)

六 (中略)対蘇戦争ノ為現下ノ対支政治的工作ハ南洋方面ノ諸工作ト共ニ英米殊ニ米国トノ親善関係ヲ保持シ得ル範囲ニ制限スルヲ要ス 此間新支那建設ノ根本的準備ニ力ヲ払フ(中略)

七 蘇英ヲ屈セハ日支親善ノ基礎始メテ堅シ 即チ東亜諸国ヲ指導シ之ト共同シテ実力ノ飛躍的進展ヲ策シ次テ来ルヘキ米国トノ大決勝戦ニ備フ」

 注目すべきは、石原が将来の対米戦を目標とした戦略を明示し、その第一段階として、まずソ連の極東攻勢を断念させるため、軍備の充実(満洲国の完成)に全力を傾注しようとしていたことである。なお、石原は満洲事変前後には支那本部をも領有することを考え、アメリカの参戦により持久戦争を戦うことになれば軍隊の自活をおこなう、すなわち「戦争を以て戦争を養う」ことを説いていたが、この時点では以下にも述べるように「平和を以て国力を養う」構想に変質していることに注意したい。

 補足しておけば、石原は世界最終戦争が起こる時期を一九七〇年頃と予想し、それまでにアメリカを上回る生産力や科学力を養わなければならないと考えていたのであるから、「国防国策大綱」は三十年程度の将来を見据えた構想であったといえる。そして対米戦に先立ち、日満支を中核とする東亜連盟(東アジア諸国による国家連合)を結成して、東亜諸民族を指導し生産力の大拡充を図ることが必要だとしており(『最終戦争論』)、これに関しては妥当性に欠けると評するほかないが、他方「日支親善ハ東亜経営ノ核心ニシテ支那ノ新建設ハ我国ノ天職ナリ 然レトモ白人ノ圧迫ニ対シ十分ナル実力無クシテ其実現ハ至難ナリ」(前掲「国防国策大綱」)というのであって、また、別の機会には「口先だけで、おどしても、支那人は、腹の中で笑つてゐる、要は、日本が、實力をたくはへることだ」(西郷鋼作『石原莞爾』)と述べるように、少なくとも支那が現在の実力不十分な日本に唯々諾々と追従するとは考えておらず、いずれにしても国力向上を先決としていたのであった。

 当時の石原の腹案については、河辺虎四郎の回想が詳しい。

「私はかなり以前からいろいろの機会において、石原氏の思想に触れていたが、このたびはじめて同氏の直下に勤め、しかも同氏のそれまでの職任〔戦争指導課長〕を受けついだわけであるから、この際改めて部長である同氏の所信をきこうと考え、着任後まもない某日〔一九三七年三月〕、同氏をその自宅に訪ねた。その際同氏の私に語ったところによれば、同氏は早晩西洋諸民族間の大動乱が必ず起こるであろうことを予想し、これに対しては日本は直接この動乱の中に投じなければならぬ道義上にも利害上にもなんらの理由がない。したがって全然局外にあるべきだと信じていた〔堀場前掲書によれば、「十二年頃戦争指導当局はソ聯の産業及軍備の充実計画竝に之に伴ふ仏英米の軍備動向より見て、一九四二年(十七年)前後には世界戦争勃発すべしとの判断を有しあり」とある〕。そしていまや鋭意満州国の発育を助長し、日華満三国の親和関係を強化して、東洋の平和を維持しながら、わが国防実力、ひいて国家地位の安泰を得るように努力することが、日本国殊に中央統帥部の焦眉の急務であると見ていた。そしてまた、石原氏は、その近年における中国国民の反日憎日感も、日本国民の反省にもとづく自重心の向上と、日本国力の充実ができるに従い、自然に消えてなくなるであろうし、しかもそれによって、三国間に真の親好と相互尊敬の事実が現われるものと信じ、ここに実質的に現在はなはだ心細いわが国防的ポテンシャルを速急に高めねばならぬ理由の根拠があるとした。また、それ故にこそ殊に当時の陸軍としては、深く自重して、自らの実質を向上進歩するように、努力するとともに、在外軍隊も対ソ対華ともに慎重自制の態度を固く持し、かりそめにも国際葛藤の動因を誘発するおそれのあるような過ちを犯さぬよう万般の注意を加えることが必要だと強調していた」(河辺前掲書)

 ところで、日本と蔣介石の国民党を戦わせようとし、また、その結果利益を得たのは誰か。それは毛沢東であり、スターリンであったことは否定できない事実である。たしかに蔣介石自身も対日戦の準備を進めていたが、それは日本が戦争を仕掛けてきた場合の準備というべきで、大局的に見れば共産主義者の筋書き通りに動かされていたといっても過言ではない。盧溝橋事件の第一報が入ると、毛沢東は「災禍を引き起こすあの厄介者の蔣介石も、ついにこれで日本と正面衝突さ!」、張聞天は「抗日戦争がついに始まったぞ!これで蔣介石には、われわれをやっつける余力がなくなっただろう!」といって喜んだというが(『毛沢東』)、これとは対照的に、蔣介石は支那事変勃発後に開かれた会議の場で、「奴らが抗戦しようとするから、国家がこんなありさまになったのだ!」(『我が義弟 蔣介石』)と感情的になって声を荒らげることがあったという。自らの意志で日本と対決しようとした人間は絶対にこんなセリフは吐かない。共産主義者の手の内を知り尽くしながら、対日戦をはじめざるを得ない状況に追い込まれてしまった無念がこのように言わせたのである。なお、スターリンは一九三八年二月、蔣介石との戦争にまんまと飛び込んでくれた日本を評して、「歴史というのはふざけるのが好きだ。ときには歴史の進行を追い立てる鞭として、間抜けを選ぶ」(『日本人が知らない 最先端の「世界史」』)と述べている。

 一方、石原はこうした状況を把握したうえで戦争に反対していた。盧溝橋事件が起こると以下のように発言している。

「芦溝橋の事件は八路〔中国共産党軍〕の謀略かも判らない状態である。通州事件は明らかに敵の襲撃を受けて、日本機関と在留日本人が全滅して敵軍隊の志気をたかめ、国民の敵愾心を煽っている。支那は、昨年の十二月、西安事件国共合作が復活したとはいっているが、蔣介石の国民党が毛沢東共産党に屈した形である。中国共産党は国際共産党コミンテルン〕に煽動されて中国の抗日戦争を煽っている。共産党の謀略に乗って日中戦争を起こしてはならぬ」(山口前掲書)

 この意味でも、日本が本当に警戒すべきであったソ連を目下の最大の敵と見なし、これに備えて無用な対外戦争を回避しつつ、満洲国に蟠踞し国力充実に専念すべきという石原構想は、当時の日本にとってきわめて適切なものであったといえる。以上から次のような評価を与えることも可能だろう。

「日本には、ボルシェビキや、ヒットラーらの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。(中略)

 ただ一つ戦略らしいものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。

 支那事変前年の昭和十一年八月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみを敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としている。

 そして、盧溝橋事件後は事件の不拡大に努め、その後昭和十三年六月に至る三次の戦争計画要綱では、「戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ」「速やかに和平を締結する」ことを主張している。

 まさに蔣介石との戦争に日本を巻き込み、米英とも対決させようというソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった」(岡崎久彦『重光・東郷とその時代』)

 ここまで見たように、この時期に石原が有していた戦略は内外の情勢判断が基礎になっていたのである。そして石原が支那事変に反対した真意はもはや明らかであろう。すなわち、来るべき第二次世界大戦に際してフリーハンドを確保しておくことや、ソ連に漁夫の利を与えないようにすることなどを念頭に据え、盧溝橋事件発生後の拡大方針に反対した石原の意見が「目下は専念満洲国の建設を完成して対「ソ」軍備を完成し之に依つて国防は安固を得るのである。支那に手を出して大体支離滅裂ならしむることは宜しくない」(「西村敏雄回想録」『現代史資料』12)というものであったように、日本の国防を盤石なものにすることを最優先課題としていたのであり、それは自己の構想を推進するための土台でもあった。故に、満洲国の完成も見ないうちに、敵の退避戦略と列国の干渉により解決不能に陥る可能性が高い支那事変は絶対に戦ってはならなかったのである。

 それでは、実際に石原が主張したように、日本が居留民とそれを保護する部隊を支那本部から撤退させ、対支戦争を回避していればその後歴史はどのような展開を見せただろうか。まず、日本軍が特に北支からいなくなってしまえば蔣介石は小躍りして喜んだはずで、国際情勢の変化に備えて引き続き自強をはかったか、うまくいけば掃共戦を再開できただろう。さらに日本が第二次世界大戦に際して中立の立場をとれば、アジアに植民地を持つ参戦国は日本に好意的態度を維持してもらう必要に迫られるし、あるいは大戦終結後に米ソ対立がはじまれば、アメリカをはじめとする自由主義陣営諸国にとっても満洲は対ソ戦略上重要な位置を占めることとなる。これらの過程において満洲国が国際的に承認された可能性は大いに考えられよう。また、支那事変がなければ中共勢力拡大も限定的で、場合によっては日本の支援を受けて史実とは逆に蔣介石が支那を統一できていたかもしれない。中華民国が真に主権国家としての体をなし、治安が維持されれば日本の企業や国民は平和裏に再進出できるのである。

 以上は最大限好意的な予測であるが、いずれにせよ支那事変は回避すべきであったことに変わりはない。日本軍が矛先を支那大陸に向けて蔣介石と無意味な抗争を繰り広げ、なおかつそこに権益を有する列国との間に軋轢を引き起こすような「間抜け」な行動は、日本が真に敵と見なすべきスターリンを大喜びさせるだけであった。こうした無益どころか不利益しか得るものがない戦争は避けられるものなら避けるのが合理的判断というものであろう。在支権益の放棄という一時的な損失を被ったところで、上記のようにあとで山ほどおつりがくる展開が見込めたのである。

 

 石原は対ソ開戦論者だった?

 石原の国家戦略に関しては、〈昭和一七年頃ソ連と戦争をはじめるつもりだった〉との見方がある。たしかに昭和一一年七月、戦争指導課策定の「戦争準備計画方針」には「昭和十六年迄ヲ期間トシ対「蘇」戦争準備ヲ整フ」とあり、翌月には「対ソ戦争指導計画大綱」が作られている(『資料』)。これらを額面通りに受け取れば、石原が近い将来の対ソ戦を決意していたとみることは可能だろう。

 しかし、前述のように、石原は「持久戦争不可避」との理由で支那との戦争を恐れていたのであるから、その支那よりもはるかに国土が広大で、なおかつ支那よりも強力な軍隊を持つソ連を相手に、気軽に戦争をはじめたとはどうしても思えないのである。後年のことであるが、当然ながら石原は「日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい」、すなわちソ連を武力だけで屈伏できる見込みはない、との認識を示し、さらにアメリカはフィリピン、ソ連は極東ソ連領を利用して日本の政治、経済的中枢を空襲できるが、日本にはそれが不可能だとして、「この見地から空軍の大発達により我が軍も容易にニューヨーク、モスクワを空襲し得るに至るまで、即ちその位の距離は殆んど問題でならなくなるまで、極言すれば最終戦争まではなるべく戦争を回避し得たならば甚だ結構であるのであるが、そうも行かないから空軍だけは常に世界最優秀を目標として持久戦争時代に於ける我らの国防的地位の不利な面を補わねばならない」と述べている(一九四一年二月『戦争史大観』)。

 石原の描いた国家戦略においては、ソ連の極東攻勢を断念させることを第一の目標としていたことについてはすでに触れたが、それに関して「戦争ニ至ラスシテ我目的ヲ達成スルコトハ最モ希望スル所ナリ」(前掲「国防国策大綱」)と説明されていることを見逃すことはできない。では、戦争以外のどのような手段によってソ連に対処しようとしたのだろうか。昭和一〇年九月、石原は杉山元参謀次長に次のように意見具申している。

「速ニ所要ノ兵力ヲ大陸ニ移駐スルコト刻下第一ノ急務ナリ コレカ為恐ラク日蘇間ニ国境兵力増加ノ競争ヲ惹起スヘシ 然レトモ困難ナル蘇国ノ極東経営ニ対シ我迅速適切ナル北満経営ニヨリ彼ヲ屈服セシムル能ハサレハ我国運ノ前途知ルヘキノミ 此経営競争ニヨリ先ツ露国ノ極東攻勢ヲ断念セシムルコトハ昭和維新ノ第一歩ナリ」(「為参謀次長」『資料』)

 また、前述の国防計画刷新の際、海軍側のカウンターパートとなった福留繁に対しても次のように主張している。

「“北守南進”の提案は是非撤回してくれ、陸軍は今後は満州国を固めることに専念し、決してこれ以上手を延ばして、ロシアと事を構えるようなことはしない。今海軍に北守南進を持ち出されると、陸軍は評判が悪いだけに満州国経略の腰を折られることになる。満州国が固まるまでこの提案を待ってもらいたい」(福留前掲書)

 石原の部下であった稲田正純は、石原のスタンスをこのように説明している。

「石原さんの戦争観というのは、今後十年間は絶対に戦争してはならぬ、その間に世界最大の軍事力を誇るソ連陸軍に一応対抗できる軍備をしようということで“戦争せざる参謀本部”をつくり上げるところに力点を置いていた」(『昭和史の天皇』16)

 参謀本部時代の石原が考えていたのは要するにこういうことだろう。

〈当面の目標は、ソ連に戦わずして勝つこと、すなわち満洲国においてソ連が極東攻勢を断念せざるを得ないほどの対ソ軍備を実現することである〉

 結論を急げば、そもそも石原は前述したように第二次世界大戦の発生近しと予測し、これに参戦するつもりがないばかりか、国力充実のためにソ連および支那とは静謐を保たなければいけないと考えていたのであって、わざわざ第二次世界大戦が勃発すると予想していた昭和一七年にあわせて、しかも困難な持久戦争を強いられることが明白なソ連に対し戦争を仕掛けることなどあり得るわけがないのである。また、昭和一一年の時点で、満洲国の完成のために「少クモ十年間ノ平和ヲ必要」(「日満財政経済調査会」昭和二十一年『資料』)としていたのであって、昭和一六年までに準備を整え、昭和一七年に対ソ戦を開始するのでは計算が合わない。それどころか浅原健三は「最低限度、十年間は戦争しちゃいかん。できうるならば三十カ年やっちゃいかん」という石原の言葉を聞いているのである。浅原は石原の構想を次のように説明している。

ソ連の進行にともなって、日本がこれに打ち勝つためには、あせってはならない。二十年くらいの時間を稼いで、一意満州の産業開発をおこない、日本戦力の培養に努力することであるとした」「この大望が実現せられるとき、日本は確信を持って、ソ連と雌雄を決すべきである。日本がソ連に勝てば、日支の葛藤は必然に解消する。日本は確信をもつまで、いかなる国とも、問題を起こさない事が有利であり、とくにソ支両国に対してしかりである。という思想を(石原は)抱いていた」(桐山前掲書)。

 石原の「三十カ年」不戦の方針については稲田正純も「石原さんの考えは、何度もいうように戦争はしない。戦争体制が整うには三十年はかかると判断していたんです」(『昭和史の天皇』15)と証言している。

 これもまた、先に引用した『戦争史大観』における主張と符合しており、当面の対ソ戦回避論である。石原は大東亜戦争がはじまると「本来からいえば、成し得れば準決勝戦時代の今日は不戦一勝を得たいのであります」(一九四二年一月三日「国防政治論」『石原莞爾選集』5)と未練ありげに言っているし、戦後にもやはり「私は最終戦争時代の必至を信じ、日本が武器をとつてこれを戦う覚悟を要するものと主張していた。そして最終戦争以外の戦いは極力これを回避すべしとの持論を終始変えなかつたものである」(「兄の憶い出」『資料』)と主張しているが、これらが自己弁護などでないことはもはや説明を要しない。

 以上から、石原は対ソ開戦論者だったといえるかもしれないが、その時期は来るべき世界最終戦争(決戦戦争)の時代であり昭和一七年前後ではなかったのである。故に昭和一一年に作られた対ソ戦計画は、「十年平和維持の希望が達成されずに対ソ戦争が勃発する場合を想定しての計画であつた」(角田順「解題 石原の軍事的構想とその運命」『資料』)と解釈するのが正しい。

 

 石原の経済体制再編論

 そして石原が一九三五年八月、参謀本部作戦課長就任後に生産力拡充計画に乗り出した理由も、軍事力を拡大していた極東ソ連軍に早急に対処することにあったのであり(「回想応答録」)、ひいては世界最終戦争に備えるためであった。そこで石原は統制経済の導入を構想するのであるが、それをソ連の模倣と見ることは適切ではない。まず、次のようにソ連の行く末を的確に予見していたことが注目される。

「ソヴィエットと云ふものは実験室のようなもので、今まで行はれなかつたようなことを非常に強い観念の力で新しい社会建設の試験をやつて居るのであります、・・・人類の為に驚くべき犠牲を払つて大実験をやつて居りますあの努力は結局不成功に終りませう」(「世界戦争観」昭和十四年三月十日『資料』)

 参謀本部時代、ソ連の実態についてはモスクワに駐在していた堀場一雄らの調査報告を通じて把握していたようである(芦澤前掲書)。このような結論に行き着いたのは、あらゆる企業活動を国家統制下に置くソ連社会主義の弊害を十分に認識していたためであった。日本で実施されるべき統制経済について石原がどのように計画していたか、当時の彼の思想の一端がうかがえるいくつかの発言を一九三七年発行の西郷前掲書から引用しておく。

「資本主義の特長は、生かさなければならぬ。軍需工場の如きも、自分としては、大兵器廠の擴充の如きは、反對である」

「國營工場が課された使命は、現在で、既に、終つてゐる。もうこれ以上の發達は國營工場において望み得ない」

「優秀なる飛行機も、優秀なる兵器も、また優秀なる商品も、民間工場において、その有する資本主義的特質を生かした、技術の研究努力によつてこそ、完成されるものと確信してゐる」

 統制経済体制への移行の限界については、はっきりと次のように述べている。

「日本が、國家社會主義に墜するのなら、最早、何をか言はんやである」

 これらを、たとえば統制経済に対する世上の不安を和らげるための言辞と解釈するのは誤りである。陸軍中枢から外れた一九三九年九月にも「マルクス主義流行以來、資本家排撃は一の支配的觀念となり、マルクス主義排撃の急先鋒すら、利潤追求の故を以て資本家を攻撃する實状である。然し利潤の追求が許されてこそ經濟能力は種々の困難を克服して高められてゆくのである」(杉浦晴男名義「昭和維新論」)と述べているように、ソ連のやり方を丸写ししたのでは競争原理が働かず、国力の低下を招いて早晩失敗すると考えていたのである。ましてや自国民に弾圧を加えるなど論外だった。次のように、スターリンに対して冷やかな視線を向けていたこともわかる。

ソ連は非常に勉強して、自由主義から統制主義に飛躍する時代に、率先して幾多の犠牲を払い幾百万の血を流して、今でも国民に驚くべき大犠牲を強制しつつ、スターリンは全力を尽しておりますけれども、どうもこれは瀬戸物のようではないか。堅いけれども落とすと割れそうだ。スターリンに、もしものことがあるならば、内部から崩壊してしまうのではなかろうか。非常にお気の毒ではありますけれども」(『最終戦争論』)

 ただし、参謀本部着任前の仙台第四連隊長時代(一九三五年四月)には「非常時と日本の国防」と題した講演において、自由競争を否定し、「自由主義経済の滅亡も、ここに至って必然であります」と断言しており(成澤米三『人間・石原莞爾』。しかし、その一方ですでにソ連の国家経営を愚劣と批判しており、ソ連社会主義への移行を主張したものではない)、上記のような構想が確立されたのは参謀本部時代のことといえる。

 以上のように、当時石原は社会主義に傾倒していたわけでも、資本主義を絶対視していたわけでもなかった。次に引用する石原に近い人物の評はそのあたりの思想を的確に説明していると思われる。

「〔東亜連盟に賛同した者の中には社会主義者やその同調者が多く、そのため石原自身もアカ呼ばわりされることもあった。〕しかし石原さんは自ら、

「私ほど共産党より憎まれるべき者はない」

と言っていた通り、到底、相容れぬものがあったのです。それは石原さんの「国体観」であり、破壊と残忍と専制に対する憎悪であったのであります。

 石原さんは、資本主義の長所も欠点も、また社会主義ないし共産主義の長所も欠点も知り尽していて、何とかしてこれらの長所ばかりを取り入れて、その短所を取り除いたような更に高い指導原理を見つけ出そうと腐心されていたようであります」(田中久「軍の異端者・石原莞爾の経綸」『資料で綴る石原莞爾』)

 したがって石原は満鉄経済調査会の宮崎正義(ロシア留学の経験があり、その後入社した満鉄でもロシア研究をおこなった。マルクス経済に精通)に経済政策の立案を依頼するのであるが、宮崎が作成したものはソ連で実施しているような市場経済を否定した全面的統制ではなく、市場経済に立脚しつつも官僚主導の部分的統制を織り込んだ日本独自の経済統制システムであり、ソ連等の経済政策を参考にしつつも、やはりそれを単に模倣したものではなかった(詳しくは小林英夫氏の一連の著作〔『「日本株式会社」を創った男』、『超官僚』、『「日本株式会社」の昭和史』〕を参照。なお、小林氏は宮崎の立案した経済システムが、その後の総力戦体制や、戦後復興期、高度成長期においても存続し、活用されたとも論じている)。

 

 上海撤退の合理性

 石原が一九三七年八月に上海撤退を主張したことは前述のとおりであるが、日本が蔣介石と戦争をする場合、そのような選択肢もあり得たはずである。では、もし上海撤退が実行されていれば、事変の推移はどのように変わっていただろうか。

 事変当初、第三国には次のような見解を持つ人物がいた。

「このころ、米国武官J・スチルウェル〔Joseph Stilwell〕大佐は、こんご日本側が採用する政策として次の三案が考えられる、と推理していた。

「A」=戦線を一定地域に限定し、兵力と補給を確保して持久し、中国側の疲労を待つ。

「B」=全面撤退して全面戦争をさける。

「C」=全面戦争をさけるつもりで、兵力を逐次投入して全面戦争にまきこまれる。

 そして、大佐の結論は──

「Aが上策、Bが中策、Cが下策だ。Aの場合は蔣介石側は勝利を得られず、内外の支持を失って政治的失脚をまねくはずだからだ。Bも良い。蔣介石にとっては成功だが、そのあとは必ず共産党との戦いになり、日本が再進出する機会が期待できる。

 しかし、AB両策は、いずれもよほど冷静で辛抱強い国民と政府でなければ、実行できない。日本には無理で、日本がえらぶのは下策イコール蔣介石にとっての最上策だろう」(児島襄『日中戦争』第三巻)

 蔣介石は中支で日本を全面戦争に引きずり込もうとしていたのであるから、スティルウェルが言うところの「A」策をとろうとすれば、北支に戦線を留めるのが現実的であったといえる。そしてそれができていれば、スティルウェルが指摘するように、蔣介石は勝利を得る術を完全に失うことになる。その場合、彼に残された選択肢は北支で日本軍に決戦を挑むか、この方面から内陸に引き込むかであるが、前者に関しては絶対にあり得ない。

 まともにぶつかって日本軍を撃破できるくらいなら、最初から上海など攻めずに手っ取り早く北上して満洲を“奪還”しに来ていたはずであるし、蔣介石がその可能性を考慮しなかったことは、先に見たようにファルケンハウゼンの北支決戦案を却下し、のちに「われわれの全軍隊を平津一帯に投入し、敵と一日の長短を争っていたなら、われわれの主力はとっくに敵に消滅され、中華民国はとっくに滅亡する危険があった」(前掲『中国革命と対日抗戦』)と述べているとおりである。

 一方、日本側でも戦線が北支に留まっている限り、和平条件が降伏を迫るほど過大になるといった事態や、ましてや蔣介石政権を否認してしまうような事態は起こりようがなく、陸軍拡大派といえども、この時点において支那と全面戦争をはじめるつもりでいたわけではない。したがって、上海出兵が回避されていれば、適当なところで和平が成立する見込みはあったように思う。次のようなシナリオも想定できただろう。

「日本は一時上海から撤退して、その収益を列強の監視下においておいた方が良かったかもしれない。そうすれば列強はたやすく誘い込まれて、中国に対して政治的防衛の立場に着くのが関の山だったろう。そこで日本は華北の完全な掃討に全力を集中し、然る後に揚子江下流への侵入の威嚇態勢をとることもできたろう。更に、おそらく内外の援助を得て南京政府に停戦交渉を押しつけることもできたかもしれないのだ」(『アジアの戦争』)

 実際に蔣介石のスポンサーであるイギリスは対独問題が切迫していた折、中南支に存する自国の権益が侵害されない限り日本とは協調する方針だったようである(秦『日中戦争史』)。列国が紛争不介入の態度を明確にしたうえで停戦勧告をおこなえば、蔣介石としてはこれに応じざるを得なかっただろう。すでに確認したとおり、彼は和戦を日支間の軍事情勢ではなく国際情勢に基づいて決定しようとしていたのである(本論「成就した以夷制夷」)。

 無論、和平が実現しなかった可能性も否定できないが、上海出兵さえなければ、次から次へと兵力をつぎ込む必要も生じなかったはずで、陸軍は念願だった北支の確保に専念して、結局占領地域が中南支までは及ばなかったことも考えられるのである。しかるに列国の権益が集まる上海で全面戦争に突入してしまった日本に対しては、以下のような国際的反応が待ち受けていた。

 一九三七年八月一六日、在日イギリス代理大使ドッズは外務省に対し、「上海の事態は、日本の陸戦隊の存在により悪化しつつある。したがって、陸戦隊の撤退が問題を解決する鍵」であると申し入れ、二一日の公文では「陸戦隊員二名の射殺に対し、上海全体にわたる日本の軍事行動は均衡を失す」と日本を非難している(上村前掲書)。

 また、十月五、六日の国際連盟総会は二三国諮問委員会の二つの報告と一つの決議案を採択した。第一の報告では「中国に対する日本の軍事行動は紛争の起因となった事件とは絶対に比較にならぬ大規模なものと認めざるを得ない」とし、日本の軍事行動は自衛ではなく日本が加盟している九ヶ国条約、不戦条約の違反であると認定した。そして第二の報告で連盟の採るべき処置として、連盟国たる九ヶ国条約署名国の会議をなるべく早く招集することを勧告した。同日アメリカ国務省も、日本の行動が条約違反である点で連盟総会の結論と一致するとの声明を発表したのである。

 十月五日フランクリン・ルーズヴェルト大統領がシカゴで行なった隔離演説は各地で大きな反響を呼んだ。大統領は国際的なアナーキーを惹起する国家は伝染病のキャリアのように隔離すべしと主張した(臼井勝美『日中戦争』)。

 当時の列国の世論は支那に同情的かつ日本には批判的で、支那の責任を論じる日本の言説は「外国へは例によって満州事変以来の詭弁としか響かなかった」(石射『外交官の一生』)のであり、広田外相は事変勃発後、欧米諸国に日本の正当性を訴えるべく宣伝外交を試みているが(服部前掲書)、もはや宣伝の巧拙の問題ではなかった。ジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は九月、すでに広田と面会し日本軍の南京爆撃に対し強く抗議していたが、翌月日本の宣伝外交について次のように記している。

「彼らの基本的主題は日本が自衞上中國と戰つているというのだが、どんな風に表わそうと、こんな馬鹿なことに耳をかす米國人は一人もいはしない。米國人は先天的に中國に同情的であつたし、現在とて同情的であるばかりか、ほとんど通常的に弱者に同情する。日本は中國の土地で戰つているのではないか。それ以上に何をいう必要があるか」(『滞日十年』上)

 しかし、以上のような非難を受けたのは日本が揚子江流域で軍事行動を拡大したためというべきで、イギリスは中支における権益が侵害されるようになると、アンソニー・イーデン外相は英米海軍による共同示威行動に訴えて、日本の軍事行動を抑止する方策の可能性をワシントンに打診している。当初、国内の孤立主義的風潮のためこれに応じることのなかったアメリカであったが、一二月一二日、日本海軍機が揚子江に遊弋する米砲艦パネー号を撃沈した事件をきっかけにアメリカ国民は激昂し、結局日本側がアメリカの解決要求を全面的に受け入れ事件の迅速な解決を見たために発動されなかったものの、このときルーズヴェルトは米英海軍力による対日経済封鎖を真剣に検討していたのである(『日米関係通史』)。

 さて、支那側にとってもうひとつの方策は日本軍を北支から内陸に引き込むというものだが、これも支那にとって有利には働かない。日本軍に戦争開始と同時に北支からの南下を許してしまえば、戦局が決定的に悪化してしまうと考えられていたのである。

 上海事変勃発後の八月二〇日、陳誠廬山軍官訓練団教育長は蔣介石に対し、次のように提案している。

華北戦況の拡大はもう避けられない、敵が華北で優勢を得たら、必ず所有する快速装備を利用して南下して武漢に向かうはずである。これは我々に不利である。上海の戦況を拡大して敵を牽制した方が良い」(楊天石前掲論文)

 陳立夫は次のように回想している。

「南京が陥落して漢口に撤退するとき、私は気が気でなかった。日本の大軍が南から粤漢線沿いに、そして北からは平漢線沿いに進み、南北両方向から漢口を包囲したらどうしたらよいのか。私はこの問題を蒋委員長にぶつけて教えを請うた。すると蒋委員長はこう言った。「それはありえない。日本人には絶対にそんな大きなことをする勇気はない。我々は一歩一歩地歩を固めて進み、ゆっくりと敗戦を転じて勝利を収めればいい」この蒋公の判断は明察だった」(『成敗之鑑』下)

 これは支那事変がはじまってから約半年後、漢口へ撤退する際のやりとりであるが、支那側はこの時点でもこれだけ日本軍が南北の方向に作戦行動をとることを心配していたのである。では、支那側は一体何を恐れていたのだろうか。蔣介石の次男である蔣緯國は、その理由を次のように説明している。

「漢口は中国の心臓地区であり、かつ日本人もそうした認識をもっている。そこで日本軍が「速決戦略」をとるならば、かれらの陸軍は北京〔北平〕を奪取した後、京漢〔平漢〕鉄道に沿って南下作戦を展開し、直接広州〔広東〕を目指すか、あるいは広州から北上する一部と漢口で合流する作戦に出るであろう」

 そして日本が京漢線と粤漢線をおさえることに成功すれば、「漢口以東の長江〔揚子江下流の最も富裕な地区の人力と物力を、中国がそれを西遷して新しい抗戦基地の建設に使用する前に全部おさえてしまい、中国が持久作戦を維持できないようにすることも可能」であり、「かりに日本軍がさらに東に向けて進撃すれば、中国軍主力は京漢線と粤漢線以東の地区に追い込まれ、海岸線を背にして決戦を余儀なくされる」ことになり、「もし国軍が補給線を失った上で決戦を迫られれば、たとえ将兵がいかに忠勇であっても、撃滅されてしまうのは免れがたい」。

 そこで蔣介石は、「主力を華東地区に集中して、上海方面に戦場を開き、この方面の敵に対して攻勢をかけて、日本軍の作戦路線を長江に沿って東から西に向かわせるように仕向けた」のだという(『抗日戦争八年』)。

 付け加えておけば、こうした蔣介石の戦略には乗らずに日本軍が北支から南下していた場合、当時支那に対し列国の中で唯一軍事援助をおこなっていたソ連の武器輸送ルートを遮断することもできていたのであり(楊天石前掲論文。当時支ソ間には山西省を経由する二つの武器輸送ルートがあり、そのうちの一つが日本軍の進出により機能しなくなったとき、蔣介石は「痛恨の極み」と心情を表現した。そこで蔣介石はもう一つのルートを守るため、日本軍の南下を遅らせようと、ますます上海での戦闘に力を注いだという)、また、事変当初支那は対外貿易の大半を沿岸部都市を経由したルートに頼っていたことから(『中国抗日戦争史』)、内陸交通の要衝である漢口を早期に攻め落とし、さらに粤漢線に手を伸ばして同路線上の重要地点を押さえるだけでも、支那に物資輸送の面で大打撃を与えることができたのである。

 史実では漢口と、粤漢線の始点のある広東は支那事変勃発から一年以上経過した一九三八年一〇月に陥落するが、そのときでさえ蔣介石は「〔南京陥落以来〕過去十カ月の抗戦期間における武漢の地位の重要性は、華西の再建準備を守る保壘となり南北の輸送線の連鎖点として貢献したことである」(漢口陥落に際しての声明。董顕光前掲書)と漢口が依然として戦略的重要性を有していたことを認めているし、国民政府指導部では列国の介入が見込めないことに加えて、広東が陥落すると援助物資があっても輸送ができなくなるとの判断から対日和平論が台頭し、それに同調した蔣介石も和平条件面での譲歩を考慮するほどであった(鹿錫俊前掲書)。このような反応は上海や南京陥落時には見られなかったのであり、また、たとえばビルマルートの開通が一九三八年一二月であるように、漢口や広東を占領する時期は早ければ早いほど国民政府に与える衝撃は大きくなっていただろう。完全な経済封鎖は物理的にも不可能であったが、当時国民政府は武器、弾薬、飛行機等のほとんどすべての供給を外国に依存しており(「日本の対中経済封鎖とその効果(一九三七~四一)」『軍事史学』通巻171・172合併号)、それら必要物資の当面の供給を滞らせるという“国際情勢の変化”を引き起こすことによって、蔣介石に妥協を強要することは可能だったのである。

 あるいは日本軍が早々に漢口に迫れば、支那側が同地の防衛にこだわり決戦が生じた可能性も否定できない。大陸奥地に退いても必要物資が得られなければ継戦は不可能だからである。なお、日本軍との決戦を避け、ゲリラ戦を展開することを決めたはずの中共でさえ、当時「西班牙人民はマドリッドを二年に亙って保持した。武漢の労働者及び中国軍隊の勇気を以て武漢を保持し得ないことはあるまい。・・・第三期抗戦全問題の重要なる組成部分と中心点は武漢の政治経済であり、武漢の保衛の成否が第三期抗戦に対して極めて大なる影響あるのみならず、且つ内政外交方面に対しても大なる影響があり、従って第三期抗戦の成敗は武漢保衛と極めて重要なる関係がある」と見解を機関誌に発表し、漢口死守を主張していた(「漢口攻略の意義」尾崎秀実前掲書)。

 現実に陸軍の中には、石原の「保定の線へ進出すると結局漢口まで行ってしまうようになる」(秦前掲書)といった悲観論(?)のほか、「上海戦開始と同時に最初から一気に漢口目ざして、南京など傍目もふらずに突貫作戦をやれ、三個師の精兵があれば可能だ、先回りして奥地要点を占領しなければ、打倒蔣介石の効果は挙がらぬ」という積極論もあったという(福留前掲書)。後者はスタート地点が上海、兵力三個師団という実現性はともかくとしても、先回りして奥地要点を占領すべきという発想は正しい。また、広東占領が一九三七年秋以来検討され、同年一二月には実行寸前までいったように、援蔣ルートの遮断も早くから陸海軍の視野に入っていたのである(「昭和十二年における南支上陸作戦の頓挫」『政治経済史学』155)。もし日本があくまで決戦戦争を追求し、上海へ差し向けなければならなかった兵力も含めて北支に大軍を投入していたならば、戦線が急速に南へ拡大することは必定であり、支那事変の様相はかなり変わったものになっていたに違いない。

 以上のように陸軍の上海出兵を回避していた場合には、どう転んでも日本に有利な展開が期待できたのである。わざわざ守りを固めている上海に上陸して、列国の対日感情を悪化させながら支那軍の退路は開けっ広げてあげておくという、蔣介石の用意した罠にみすみす飛び込むような戦い方が賢明だったとはとてもいえない。支那側がもっとも恐怖したのは日本軍が上海へ寄り道せずに北支から南下して退路と物資輸送路を断ってしまうことだったのだから、その通りをやって効率的かつ徹底的に蔣介石を叩けばよかったのである。昨今、支那事変は蔣介石が仕掛けたと強調する意見をよく目にするが、蔣介石に非があるのであればなおさらそうすべきだったはずである。しかもその場合には揚子江下流の防禦陣地など無用の長物と化すのだから、上海には戦わずして再上陸できたであろう。

 

 米内光政の責任論

 しかしながら、実際には日本側では陸軍を上海に派兵し、支那と全面戦争をはじめるという選択がとられたわけだが、そこに一体どのような戦略が存在していたのだろうか?それは「暴支膺懲」という具体性のないスローガンの示すように戦争目的など皆無であり、端的に言えば米内がひとりで勝手に怒り狂い、まわりの人間は追随してしまっただけである。八月一四日の閣議においては、政府声明の発出や南京占領の必要性を口にする米内に対し、外相は政府声明の発表に反対して不拡大論をとなえ、蔵相は経費の点から不満の意を表明し、陸相は対ソ関係の懸念があるので、大兵力は使用できず、南京に前進するのはむずかしいと答え、いずれも消極的で煮えきらぬ態度に終始したのであり(『太平洋戦争への道』4)、近衛のごときは上海に戦火が及んだ時点で政権を投げ出すことを考えたと告白している(『平和への努力』)。それ以外であれば、中島知久平鉄相が「いっそのこと、中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないか」と安易に述べ、永井柳太郎逓相が「それがいい」と同意しているように(風見前掲書)、相変わらぬ対支観を持った人物がいたのみであった。ところで、このとき南京占領を主張した米内であったが、のちにそれが実現するとどういうわけか暗い顔をしていたという(『海軍の昭和史』)。おそらく頭に血が上って南京占領を叫んだものの、冷静さを取り戻すとその大きなマイナス面が見えてきたのだろう。

 八月一三日に米内と会見した朝日新聞緒方竹虎によれば、米内は「一たび中支に陸軍を派遣したら、最早や局地解決の望みはなくなり、事変は底知れぬ泥沼に陥る」(緒方前掲書)ことを憂慮していたというが、事実であれば事は重大である。陸軍の上海出兵の結果が予測できていたのであれば、なぜ居留民の引き揚げを第一に考慮しておかなかったのか?すでに見たように石原は、第二次上海事変直前はもちろん、その約一年も前から見通しのない戦争をはじめるよりは居留民を引き揚げさせるべきと海軍に申し入れていたし、第一次上海事変の際には大蔵大臣だった高橋是清も居留民の引き揚げを断行すべきと主張しているのである(臼井勝美『満州事変』)。そのような主張をしたのは、いうまでもなく陸軍の上海出兵が日本の国益を損なうと判断したからである。ところが、米内は盧溝橋事件が起こると不拡大方針を支持していたにもかかわらず、中支に関しては話は別で、早くも七月二〇日には、陸相に対しこの方面に戦火が拡大した場合の陸軍派兵を約束させており(今岡前掲書)、上海からの撤退を提議する気などさらさらなかった。すなわち日本が「底知れぬ泥沼に陥る」こととなり、国防を危うくしようとも、上海という海軍の縄張りだけは絶対に手放したくなかったのである。国家の重大事に直面した米内が守り抜こうとしていたものは、国益ではなくあくまで省益であった。

 なお、支那事変勃発後には陸海外三相の協議により居留民現地保護の方針を変更して青島の居留民引き揚げが実行された例があり(『陸軍作戦』)、また、上記のように上海事変勃発時には米内を除く政府首脳部は陸軍派兵に消極的で、陸軍拡大派といえども基本的には「成ルヘク北支ニ限定セル作戦ニ依リ支那軍ヲ撃破シ作戦目的ヲ達成ス」(七月一六日、作戦課起案「情勢判断」同前)ることを希望していたのであるから、もし米内が陸軍に派兵を約束させるのではなく上海居留民の引き揚げを決断していれば、少なくとも政府においては大きな反対はなかっただろう。そしてすぐさま上海居留民に引き揚げ命令を出していれば余裕をもって撤退を完了できていたのである。しかるに米内が、蔣介石が戦争を仕掛けてくることなどあるわけがないと高を括り、「仮に上海で事が起こっても上海にいる陸戦隊で十分防いでみせる」と誤断してしまったことが、上海撤退のための貴重な時間を空費してしまった最大の原因であった(本論「米内光政と上海事変」)。あるいは支那空軍が上海爆撃をおこなった八月一四日以降でも、蔣介石に対する誤った認識を改めて陸軍派兵の閣議決定を取り消すことも可能だったはずである。その場合の撤退は相当な危険が伴うことが予想されるが、それはそこに至るまでに手を打たなかった米内の責任なのである。

 いずれにせよ、上海事変に際して反撃を主張した米内であったが、それはほとんど個人的な復讐のために陸軍将兵を上海に引きずり出したというのが実相であって、その以前においても彼が最優先したのは海軍の省益だったのである。北支の局地戦を無意味に上海に拡大させ、支那事変泥沼化への道を開いた米内の責任は極めて大きいと言わざるを得ないのではないだろうか。

 

 満洲事変は歴史上の“起点”か?

 石原については、彼が引き起こした満洲事変に根強い批判がある。それは〈石原が中央の統制に従わず満州事変を成功させたために、陸軍に独断専行と下剋上の風潮が蔓延した。そのため功名心にはやった現地軍が華北分離工作を推進し、やがて日中戦争が起こると中堅幕僚は石原に反抗してこれを拡大させ、行き着くところ太平洋戦争に日本を巻き込んだ〉という通説的理解によるものであろう。しかし、この種の歴史観に過度の単純化があることは否めない。

 たとえば従来現地軍の独断により推進されたと説明されることの多かった北支分治工作については、宮田昌明『英米世界秩序と東アジアにおける日本』が必ずしも満洲事変の連鎖反応として生じたのではないことを論証している。同書では、満洲事変後においても日本の対支政策は関東軍と現地外交官が協力する形で一定の秩序が確立されていたこと、しかしそれを破壊した北支分治工作の策動には統制派の頭目である永田鉄山の積極的な支持が存在していたことを明らかにしており、永田らの陸軍における権力掌握、換言すれば穏健な対支政策を支持していた皇道派の追い落としと、保身のためにそれに協力した政官界の誤断が北支分治工作のみならず二・二六事件を引き起こしたと論じている。永田鉄山については、往々に陸軍の統制を回復させようとした良識派との評価がなされてきたが、同書はそうした見解に厳しくも論理的な批判を加え、管見では最も説得力のある永田像を提示している。

 永田の戦略構想については川田稔『昭和陸軍全史』が詳細な分析をおこなっている。同書も北支分治工作は実際には永田ら陸軍中央の了解、または指示のもとに開始されたとの見方をしているが、永田の考えによれば次期世界大戦は不可避で、なおかつ国家総動員を必要とする消耗戦となるのであり、これを戦い抜くためには不足資源を支那大陸に求めなければならなかったのである。なお、武藤章は永田の配下で彼の強い影響を受けて北支分治工作を推進していた経緯があり、永田の死後、石原が同工作を中止させたことが盧溝橋事件後の両者の対立につながったと指摘している。

 補足しておくと、陸軍の下剋上を象徴する出来事として、武藤が不拡大方針を主張する石原に対し、あなたが満洲事変のときにおやりになったことを見習っているのです云々と反論して盧溝橋事件を拡大させたというエピソードが流布されているが、事実ではない。『今村均回顧録』に明記されているように、それは盧溝橋事件前の、しかも前年の満洲におけるエピソードなのであり、同事件が拡大したのは実際には石原自身の判断ミスによるところが大きい(本論「石原と盧溝橋事件」)。たしかに支那事変において現地軍が独断で戦線を拡大したのは事実だが、その先鞭をつけ、さらに事態の悪化を決定づけたのは近衛内閣である。支那事変初期における政策決定については本論でも検証したが、北支派兵声明の発表とその後の世論の煽動(一九三七年七月一一日~)、上海への陸軍派兵の決定(八月一三日)、トラウトマン工作における和平条件の加重(一二月)、「爾後国民政府ヲ対手トセズ」声明の発表(一九三八年一月一六日)等、政府が“暴走”してしまうことも珍しくなく、陸軍参謀本部はこれに引きずられ続けたのである。

 また、支那事変が長期化したからといってアメリカとの戦争が不可避になったわけではなかったはずである。たとえば野村實氏は、開戦前の国内情勢を分析したうえで、東条内閣であっても、海軍大臣に避戦を主張できる適切な人物が就任していればさしあたり開戦は回避され、その間にドイツの敗退がはじまり対英米戦の不可能を悟ることになったはずであると結論付けている(「海軍の太平洋戦争開戦決意」『史學』第56巻第4号)。一方で、陸軍の横暴さを強調する意見が依然としてあるが、当時海軍中枢にいた嶋田繁太郎(海相)や岡敬純(軍務局長)は、陸軍側の動きが心配で政策決定に影響したことはまったくないと証言しているし、榎本重治(海軍書記官)も昭和十六年に陸軍がクーデターに出る懸念はいささかも感じられなかったと述べている(同前)。いずれにせよ対米戦に確たる勝算がない以上、海軍は一貫してその不可能を明言すべきであった。しかし、それができなかったのは日露戦争後から陸軍と予算ぶんどり合戦を繰り広げてきた結果なのである。

 そもそも「十五年戦争」なる用語があるが、満洲事変をある種の歴史の起点として扱うことは正しいのであろうか。仮にその十年前のワシントン会議によって国際協調が真に実現し、列国が権謀術数を排するとともに、中華民国が当事者能力のある政府のもと不平等条約改正を目指して地道に努力している途上に、関東軍が突然平和を破り満洲を独立させたならば、それは間違いなく一大エポックというべきだろう。しかし実態はその正反対であって、満洲事変以前、列国は国際協調関係に忠実であろうとした日本を尻目に自国利益を優先し、そのうえ支那の排外運動の標的となった日本は条約上の権利が侵害され、危害は居留民にも及んだ(『満州事変と重光駐華公使報告書』)。そしてこうした情勢が陸軍中堅幕僚グループに危機感を抱かせ、彼らの間で満蒙問題解決が合意されたことで石原や板垣征四郎関東軍に送り込まれたのである(『二・二六事件とその時代』)。一般には、たまたま関東軍にいた石原が、最終戦争論に基づいて突如として満洲事変を起こしたと理解されているようであるが、それは事実とは異なる。柳条湖事件が起こるまでには少なくとも日露戦争終結以来の複雑な外的、内的要因の積み重ねが存在するのであり、満洲事変はむしろその帰結として見るべきであろう。この議論に関しては筒井清忠満州事変はなぜ起きたのか』を参照されたい。

 以上に述べたことが、石原を弁護する意図があってのものでないことは強調しておかなければならない。満洲事変が直接的にも間接的にもその後の政策の幅を狭めたことは否定のしようがなく、これを現地で主導した石原の責任が軽くなるわけではないことは言を俟たない。筆者が批判したいのは、満洲事変の勃発によって、あたかも敗戦へのレールが一直線に敷かれてしまったかのように述べる粗雑で短絡的な歴史観である。日本国内だけに目を向けて恣意的に歴史に起点を設けたり、特定の人物や集団を意図的に悪役に仕立て上げたりする、またはそうした叙述を鵜呑みにしてしまうことは、過去に何が起こったかを正確に知る努力をやめてしまうこととイコールなのであり、それでは歴史から教訓を学ぶことなど決してできるはずがないのである。

 特に盧溝橋事件以後、日本の好戦的な世論が政策決定に悪影響を与えたことについては本論でも強調した点のひとつである(この傾向は支那側においてより顕著であり、中共は世論を最大限に利用し蔣介石を抗日戦に追いやったことも忘れてはならない)。日本国民に責任の一端があったかどうかはともかく、反省すべき点がなかったとは絶対に言えない。仮に反省点なしとするならば、国家の岐路に際して再び合理性を欠いた世論を醸成し、国策を誤った方向へ後押しするかもしれない。戦前は陸海軍の活躍に快哉を叫んでおきながら、戦後になると今度は軍事アレルギーを起こし、あらゆる戦争を悪と断罪してしまった極端な国民性を見るにつけ、その思いを強くするのである。政治家が世論におもねるのは民主主義国家の宿命(早い話が世論に逆らえば選挙で落とされる)であって、政治の側に本質的な変化は期待できない以上、やはり国民自身がイデオロギーや偏見を排した史実を教訓にすべきであろう。

 

 おわりに

 本論では、北支事変ならびに支那事変初期における石原の言動を検証したが、同時に国内外の情勢についても多くの記述を割いた。彼の言動と、その背景にある認識や思想を評価するためには、それを把握しておくことが必要不可欠と考えたためである。

 内外情勢のうち、もっとも重要なのは蔣介石の意思であるが、二〇〇六年から「蔣介石日記」の公開がはじまり、近年それを利用した研究書や論文が次々に発表されたことで徐々に明らかになってきた。従来、蔣介石がいつ対日開戦を決意したかについて議論があったが、彼は盧溝橋事件後に強硬態度を見せたものの、内心では和平解決を望んでおり、七月末の支那駐屯軍による総攻撃を受けて開戦の決意を固めざるを得なかったというのが真相であった。そして支那事変における蔣介石の一貫した目標は国際的な対日干渉を引き起こすことであり、そのためには長期戦に訴えることも計画していた。したがって国際都市である上海での戦いを重視するとともに、すでに大陸奥地の開発にも取りかかっており、上海や南京を占領するだけでは彼を屈伏させることはできなかったのである。

 一方、日本国内に目を移せば、軍人や政治家は持久戦争(敵を武力だけで屈伏させることが困難な戦争)を戦い抜くための教育を受けておらず、また、彼らの認識では武力による一撃を加えるだけで蔣介石を簡単に屈伏させることができるというのであって、そもそも持久戦争を戦っているとの自覚すらなかった。したがって南京攻略後にトラウトマン工作を成功させ、戦争を止めておけばよかったというのは理想だが、南京の陥落は蔣介石政権は一地方政権に転落したも同然という錯覚をもたらし、そのため和平交渉の成功を願う者は極めて少数派であって、外交による解決などとても望めなかったのが当時の実情だったのである。

 支那事変初期における石原の対応を論じるとき、最低でもこれらの事実を把握しておかなければ空論のそしりを免れないであろう。以上を踏まえて石原が上海出兵に反対したことを批評するならば、蔣介石の戦略をかなりの程度正確に予想すると同時に、日本における持久戦争遂行上の不備を問題視していた石原が、上海出兵に反対したことは現実に即した妥当な判断であったと評せる。上海権益に執着したせいで、無用な戦争に巻き込まれて最終的に上海を守れていないどころか、満洲も朝鮮も台湾も何もかも失ってしまい、そのうえ本土が焼け野原になってしまっては元も子もない。その後、終戦までに浪費された莫大な戦費(『昭和経済史』上によれば約七五五八億円)や、計り知れない人的、物的被害もあわせて考えれば、上海権益などさっさと放棄したほうが良かったに決まっている。

 なお、これは後講釈や十五年戦争史観のような結果論ではない。すでに見たように、石原は支那と全面戦争になればその解決は困難で、最終的には列国との軋轢を招くことになるとその後を正確に見通し、作戦部長辞任時に日本は亡国となって海外領土をすべて失うことになるだろうと予言していたのである。「上海が危険なら居留民を全部引き揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(前掲『大東亞戰爭回顧録』)との石原の言は事実となった。上海出兵が大日本帝国破滅のポイント・オブ・ノーリターンになると判断していた石原にとって、海外の一権益ごときのために国家の運命を賭して戦をはじめるなど愚策以外の何物でもなかったのである。

 石原の判断について、戦前戦後に外相を務めた重光葵は次のように評価している。

「上海に事が起ることは、もはや上海だけに止まらず、一歩誤まれば、戦争は中支、南支に波及し、海軍の南進政策の端緒となる」のであり、そのため「支那事変が中支及びそれ以南に拡大されて行くことは、日本の戦闘力の分散であって、北方の防備を薄くする危険があるし、国防国家の十分出来上がっておらぬ今日、用兵は最小限度に止め、北支以外への出兵は、犠牲を忍んでも思い止まらねばならぬ」という石原ら参謀本部の考えこそ「統帥に責を負うものの理由ある意見であった」(『昭和の動乱』上)。

 戸部良一氏は、『文藝春秋』二〇〇八年一〇月号に掲載された「新・東京裁判──国家を破滅に導いたのは誰だ」という座談会で、上海事変の際に戦略よりも海軍の面子を優先し、難色を示す石原ら陸軍に派兵を認めさせた米内の責任を問う福田和也氏の発言を受けて、次のように述べている。

「確かに上海事変では海軍の責任が問われますね。しかし、戦争が上海に拡大したのは、蔣介石が敢えて日本を挑発したという側面も大きい。

 華北では日本側が非常に優勢でしたが、上海であれば精鋭の直系軍が使える、と蔣介石は考えたのでしょう。その上で、上海で戦端を開いて列強を巻き込み、日本側を交渉の場に引っ張りだして互角の立場で交渉しようという戦略をたてた。そうした思惑に海軍が乗せられてしまったんです」

 この両氏のように当時の歴史に通暁してはいなくとも、あの場当たり的な上海への陸軍派兵が招いた不幸な結果さえ知っていれば、それが正しかったなどとはとても言えないはずである。そういう意味では、石原の対応で問題となるのは上海事変時ではなく、やはり不拡大方針(正確には早期和平解決方針)が最も効果を発揮し得た盧溝橋事件直後の七月一〇日に、作戦課による北支への陸軍派兵案に安易に同意してしまったことだというのが、平凡ではあるが筆者の結論である。

 

 主要参考文献

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大杉一雄『日米開戦への道』上・下(講談社、二〇〇八年)

小林英夫『日中戦争』(講談社、二〇〇七年)

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近衛文麿『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六年)

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矢部貞治『近衛文麿』上・下(弘文堂、一九五二年)

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服部龍二広田弘毅』(中央公論新社、二〇〇八年)

服部龍二NHKさかのぼり日本史』外交篇[2]昭和“外交敗戦”の教訓(NHK出版、二〇一二年)

石射猪太郎『外交官の一生』(中央公論社、一九八六年)

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東郷茂徳『時代の一面』(中央公論社、一九八九年)

重光葵『昭和の動乱』上(中央公論新社、二〇〇一年)

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岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP研究所、二〇〇三年)

臼井勝美『日中外交史研究─昭和前期─』(吉川弘文館、一九九八年)

木戸幸一著・木戸日記研究会編『木戸幸一日記』上・下(東京大学出版会、一九六六年)

木戸幸一著・木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』(東京大学出版会、一九六六年)

木戸幸一著・木戸日記研究会編『木戸幸一日記』東京裁判期(東京大学出版会、一九八〇年)

有馬頼寧著・尚友倶楽部・伊藤隆編『有馬頼寧日記』3、4(山川出版社、二〇〇〇年、二〇〇一年)

宇垣一成著・角田順編『宇垣一成日記』2(みすず書房、一九七〇年)

牧野伸顕著・伊藤隆・広瀬順晧編『牧野伸顕日記』(中央公論社、一九九〇年)

西園寺公一『貴族の退場』(文藝春秋新社、一九五一年)

西園寺公一西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』(アイペックプレス、一九九一年)

西園寺公一に対する検事訊問調書」「西園寺公一に対する予審訊問調書」『現代史資料』3(みすず書房、一九六二年)

小山完吾『小山完吾日記』(慶應通信、一九五五年)

犬養健揚子江は今も流れている』(文藝春秋新社、一九六〇年)

矢次一夫『昭和動乱私史』上(経済往来社、一九七一年)

尾崎秀実『尾崎秀実著作集』第二巻(勁草書房、一九七七年)

勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上・下(文藝春秋、一九八四年)

高宮太平天皇陛下』(酣燈社、一九五一年)

児島襄『天皇』3(文藝春秋、一九八一年)

小堀桂一郎昭和天皇』(PHP研究所、一九九九年)

山田朗昭和天皇の軍事思想と戦略』(校倉書房、二〇〇二年)

古川隆久昭和天皇』(中央公論新社、二〇一一年)

伊藤之雄昭和天皇伝』(文藝春秋、二〇一四年)

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「小倉庫次侍従日記」『文藝春秋』(二〇〇七年四月号)

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岩谷將「日中戦争初期における中国の対日方針」劉傑・川島真編『対立と共存の歴史認識』(東京大学出版会、二〇一三年)

黄自進『蒋介石と日本』(武田ランダムハウスジャパン、二〇一一年)

山田辰雄・松重充浩編『蔣介石研究』(東方書店、二〇一三年)

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張群著・古屋奎二訳『日華・風雲の七十年』(サンケイ出版、一九八〇年)

蔣緯國著・藤井彰治訳『抗日戦争八年』(早稲田出版、一九八八年)

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ラルフ・タウンゼント著・田中秀雄・先田賢紀智訳『暗黒大陸 中国の真実』(芙蓉書房出版、二〇〇四年)

フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著・田中秀雄訳『中国の戦争宣伝の内幕』(芙蓉書房出版、二〇〇九年)

黄文雄『蔣介石神話の嘘』(明成社、二〇〇八年)

松本重治『上海時代』上・中・下(中央公論社、一九七四年~一九七五年)

松本重治『昭和史への一証言』(毎日新聞社、一九八六年)

榎本泰子『上海』(中央公論新社、二〇〇九年)

市古宙三『世界の歴史20 中国の近代』(河出書房新社、一九九〇年)

宮脇淳子著・岡田英弘監修『真実の中国史』(李白社、二〇一一年)

毛沢東著・小野信爾・藤田敬一・吉田富夫訳『抗日遊撃戦争論』(中央公論新社、二〇〇一年)

ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著・土屋京子訳『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上・下(講談社、二〇〇五年)

遠藤誉『毛沢東』(新潮社、二〇一五年)

日本国際問題研究所中国部会編『中国共産党史資料集』8、9(勁草書房、一九七四年)

謝幼田著・坂井臣之助訳『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』(草思社、二〇〇六年)

エドガー・スノー著・小野田耕三郎・都留信夫訳『中共雑記』(未来社、一九六四年)

エドガー・スノー著・松岡洋子訳『中国の赤い星』(筑摩書房、一九七二年)

エドガー・スノー著・森谷巌訳『アジアの戦争』(筑摩書房、一九七三年)

ジョン・B・パウエル著・中山理訳・渡部昇一監修『「在支二十五年」米国人記者が見た戦前のシナと日本』上・下(祥伝社、二〇〇八年)

『別冊正論Extra.15──中国共産党 野望と謀略の90年』(産経新聞社、二〇一一年)

ボリス・スラヴィンスキー、ドミートリー・スラヴィンスキー著・加藤幸廣訳『中国革命とソ連』(共同通信社、二〇〇二年)

横手慎二『スターリン』(中央公論新社、二〇一四年)

テオ・ゾンマー著・金森誠也訳『ナチスドイツと軍国日本』(時事通信社、一九六四年)

田嶋信雄『ナチズム極東戦略』(講談社、一九九七年)

ベルント・マーチン著・進藤裕之訳「日中戦争期の中国におけるドイツ軍事顧問」『戦史研究年報』第4号(防衛研究所、二〇〇一年)

三宅正樹・石津朋之・新谷卓・中島浩貴編『ドイツ史と戦争』(彩流社、二〇一一年)

ジョセフ・C・グルー『滞日十年』上(毎日新聞社、一九四八年)

吉田一彦『シエンノートとフライング・タイガース』(徳間書店、一九九一年)

細谷千博『日米関係通史』(東京大学出版会、一九九五年)

バーバラ・W・タックマン著・杉辺利英訳『失敗したアメリカの中国政策』(朝日新聞社、一九九六年)

アルバート・C・ウェデマイヤー著・妹尾作太男訳『第二次大戦に勝者なし』上・下(講談社、一九九七年)

 

伊藤隆『日本の歴史30 十五年戦争』(小学館、一九七六年)

伊藤隆『昭和期の政治』(山川出版社、一九八三年)

伊藤隆『昭和期の政治』続(山川出版社、一九九三年)

伊藤隆『昭和史をさぐる』(朝日新聞社、一九九二年)

伊藤隆『日本の内と外』(中央公論新社、二〇〇一年)

藤原彰今井清一・宇野俊一・粟屋憲太郎編『日本近代史の虚像と実像』3(大月書店、一九八九年)

中村粲大東亜戦争への道』(展転社、一九九〇年)

江口圭一『十五年戦争小史』新版(青木書店、一九九一年)

中村隆英『昭和史』Ⅰ(東洋経済新報社、一九九三年)

有沢広巳監修『昭和経済史』上(日本経済新聞社、一九九四年)

猪木正道『軍国日本の興亡』(中央公論社、一九九五年)

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮社、一九九六年)

鳥海靖編『近代日本の転機』明治・大正編、昭和・平成編(吉川弘文館、二〇〇七年)

有馬学『日本の歴史23 帝国の昭和』(講談社、二〇一〇年)

筒井清忠編『昭和史講義』1、2(筑摩書房、二〇一五年、二〇一六年)

臼井勝美『満州事変』(中央公論新社、一九七四年)

緒方貞子満州事変』(岩波書店、二〇一一年)

ジョン・V・A・マクマリー原著・アーサー・ウォルドロン編著・北岡伸一監訳・衣川宏訳『平和はいかに失われたか』(原書房、一九九七年)

服部龍二編著『満州事変と重光駐華公使報告書』(日本図書センター、二〇〇二年)

筒井清忠満州事変はなぜ起きたのか』(中央公論新社、二〇一五年)

朝日新聞縮刷版』昭和12年6月~昭和13年2月(日本図書センター、一九九八年)

前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(講談社、二〇〇七年)

井上寿一日中戦争下の日本』(講談社、二〇〇七年)

NHKスペシャル取材班編著『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』メディアと民衆・指導者編(新潮社、二〇一五年)

小室直樹大東亜戦争 ここに甦る』(クレスト社、一九九五年)

黒野耐『「たられば」の日本戦争史』(講談社、二〇一一年)

倉山満『大間違いの太平洋戦争』(KKベストセラーズ、二〇一四年)

倉山満『負けるはずがなかった!大東亜戦争』(アスペクト、二〇一四年)

平間洋一『日英同盟』(KADOKAWA、二〇一五年)

福井義高『日本人が知らない 最先端の「世界史」』(祥伝社、二〇一六年)

江崎道朗『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』(祥伝社、二〇一六年)