牛歩の猫の研究室

牛歩猫による歴史研究の成果を発表しています。ご指摘やご質問、ご感想等ありましたらお気軽にどうぞ。

2022-03-16から1日間の記事一覧

盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度

一九三七年七月七日に盧溝橋事件が発生すると、蔣は断固とした対日姿勢を見せた。早くも翌八日には四個師団の増援(以下、通例にしたがって中央軍の北上と表記する)を決定し、一七日には日本に対する徹底抗戦を表明したとされる、いわゆる「最後の関頭」演説…

蔣介石の遠略

ところで、蔣介石は支那事変の勃発以前にいかなる対日戦略を有していたのであろうか。その基本的枠組みについては一九三四年七月におこなった、廬山軍官訓練団における演説から明らかになる。このとき蔣は次のような構想を表明した。 「第二次大戦はいまや一…

年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで

以下、盧溝橋事件以後における諸々の事象を再検討するにあたって、石原の動向および主な出来事を年表形式で簡単に確認しておくことにしたい。 一九三七年(昭和一二年) ・七月七日 盧溝橋事件発生(北平の郊外にある盧溝橋付近で夜間演習をおこなっていた日本…

早期和平解決にこだわった石原

そして、上の発言で注目すべきは、「戦争目的即ち講和条件の確定は本事変の当初から最も強調しました」という部分である。たしかに盧溝橋事件後の七月三〇日には、「北平、天津平定時が和平の最良時機である。しかし参謀本部内の意見をまとめることができな…

 石原は長期戦不可避論者だったのか

「対支戦争の結果は、スペイン戦争におけるナポレオン軍同様、泥沼にはまり破滅の基となる危険が大である」という石原の発言はあまりに有名だろう。そのため一部に〈石原は長期戦不可避論者だった〉との理解が存在するようである。しかし、盧溝橋事件以後の…

支那事変は持久戦争だった

では、支那事変は決戦戦争と持久戦争、どちらに分類されるのだろうか。もちろん石原は持久戦争だと考えていたのであるが、その理由については次のように説明している。 「3 国土の広大 攻者の威力が敵の防禦線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行…

決戦戦争と持久戦争

石原の書き記したものや発言の中には、「決戦戦争」「持久戦争」という言葉が多く出てくるのであるが、最初にこれらを石原がどのような定義で用いていたのかを明らかにしておくことにしたい。 まず、字面だけを見て「決戦戦争=短期戦」「持久戦争=長期戦」…

石原莞爾と支那事変─はじめに

一九三七年七月七日に盧溝橋事件が発生した後、陸軍参謀本部作戦部長という要職にあった石原莞爾(いしわらかんじ。“いしはら”は誤り)が、いわゆる不拡大方針を主張したことや、事変の泥沼化を警告したことはよく知られている。これは石原を主題にした書物以…