牛歩の猫の研究室

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石原と盧溝橋事件

 しかしながら政府が派兵声明を発表することができたのは、七月一〇日に石原が作戦課による北支への陸軍派兵案に同意してしまったからである。その理由は支那中央軍が北上しているという不正確な情報を過大視してしまったためで、「現在日本軍の処理は石原少将に全責任がかかっています。中国中央軍の北進は、あなたの映像だと私は思います。応急派兵も内地の動員準備も停止されたら、その映像は消えましょう」と説得する河辺虎四郎参謀本部戦争指導課長に対し、石原は「貴公の兄貴の旅団〔北平の支那駐屯歩兵旅団〕が全滅するのをおれが見送ってよいと思うか!」と感情的に叱りつけている(河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』)。この判断が派兵声明発出を許し、結果的に事態収拾を困難にしてしまったことはしばしば指摘されるが(たとえば秦前掲書)、この間の石原の様子については戦争指導課員だった稲田正純が注目すべき証言をしているので引用しておく。

「石原さんは頭は冴えているけれど、体が弱いのです。事変が始まってからは、夜ほとんど寝ていないでしょう。朝出てくると真赤な目をしているのです。夜通し石原さんのところには人が押しかけてくるものですから、とうとう女中が夜逃げしたりしましてね。河辺虎四郎さんが、「朝、部長の言うことは相手にするな」と言ったことがあります。当時作戦担当の武藤とは、ことごとに意見が合わない。参謀本部一般の空気も一撃主義で、部長は戦争阻止に孤軍奮闘していました。子飼いの戦争指導課だけが部長の味方だったので、よく私たちの部屋に来て石原一流の突飛とも思える注文を出したりしたものでした。弱い身体でと気の毒に見ていましたが、始めの動員だけは案外でした。橋本群さんがそのときの天津軍支那駐屯軍〕の参謀長でしたが、ずいぶん苦労していました。実際、あとで、「あのときの動員だけはひどい目にあった」と言っていましたよ。なんといっても、せっかく事件収拾の運びがうまくいっていたのに、あの動員で事態はまったく根底からひっくり返ったのですからね。あの動員はまちがいでした。あれだけ政治のことを考える石原さんが動員に同意したというのは、京津地方万一の場合を考えぬわけにはいかなかったといいながら、やはり疲れで、たぶん精神衰弱ぎみだったとしか思えません」(中村菊男『昭和陸軍秘史』)

 盧溝橋事件発生後、不拡大方針を打ち出した石原が、七月九日の時点で「事件解決のためには兵力を使わぬ方がよい」(『陸軍作戦』)と判断していたのは自然な反応だったといえよう。ところがその翌日、河辺と口論してまで陸軍派兵案を決裁したのであるが、この間に関東軍は有力な一部を満支国境に集中を始め、いつでも越境して支那駐屯軍の危急に備えるバックアップ態勢をととのえていたのであり、これをもって平津地区の変局に対処する手があったにもかかわらず石原が考慮した様子はない(秦『盧溝橋事件の研究』)。では、石原が北支派兵を不可避と考えるようになったのかといえば、盧溝橋事件の一ヵ月前、石原は外務省の幹部会において「わが国防上最も関心を持たなければならぬのは、ソ連への護りである。中国に兵を用いるなどはもってのほかだ。自分の目の玉の黒いうちは中国に一兵だも出さぬ」と所信を表明していたというが、七月一三日に石射猪太郎と会談した際、依然としてその決意に変わりがないことを明言している(石射前掲書)。北支派兵の過失に気付いたのであれば、一一日朝に石原が近衛の私邸を訪れ「本日の閣議で陸軍側の動員案を否決してくれ」と頼み込み近衛を驚かしたという真偽不明のエピソードも(広田弘毅伝記刊行会『広田弘毅』)、筆者にはあり得ることのように思われる。いずれにせよ事変当初、石原の態度は明らかに一貫性を欠いているのである。

 七月一〇日といえばまだ事件発生から日は浅く、「精神衰弱ぎみ」とは言いすぎであろうが、もともと体調がすぐれないのであれば一、二日寝られないだけでも判断力が低下するということはあり得る。また、そんなところに支那中央軍北上の情報が飛び込んできたのであれば、北支の日本軍と日本人居留民が重囲に陥ることを恐れて性急に陸軍派兵に同意してしまった可能性もある。そうであれば当時の精神状態では、自らの決断が内外に及ぼす影響についてはじっくりと考慮してみる余裕もなかったのであろう。

 ただし、石原の性格にはもともと粗放な面があったことも否定できない。作戦課の陸軍派兵案に安易に同意してしまったことを堀場一雄(一九三七年三月~戦争指導課員。支那事変の早期解決に力を注いだ)に非難されたとき、石原は弱気を見せて「武藤を作戦課長にしたのは失敗だった。河辺と逆の方がよかったかも知れない」とつぶやいたというが(芦澤紀之『ある作戦参謀の悲劇』)、この発言はあまりにも常識はずれと言わざるを得ない。有名なエピソードであるが、この前年、満洲に赴き関東軍首脳部に内蒙工作の中止を命じた石原に対し、武藤章は「本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍されました時分、・・・よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」と反論して統制に服さなかった過去があった(『今村均回顧録』)。そうであれば、いざというときに再び同様の行動に出ることは容易に想像できたはずである。どうやら石原は、「兵隊は頭が硬いといって馬鹿にされるが、武藤のような有能な人間がいる。武藤以上の男は今見あたらない」(武藤前掲書)と評するなど、武藤の能力を高く買っていたようである。そうだとしても、自らの命令に反抗した前科のある人物をわざわざ参謀本部に呼び寄せて重要ポストを与えるなどというのは無頓着にも程がある。稲田はこの人事に際して、飼い犬に手をかまれる結果になってしまうのではないかと疑ったというが(中村前掲書)、おそらく石原以外の人間は同様に感じていたことだろう。

 また、同年春、陸軍中央部は関東軍を北支工作から手を引かせるために支那駐屯軍の増強を実行したのであるが、河辺などはその必要はないと感じていたばかりか、北支のデリケートな空気を考慮すればむしろ支那側を刺激しトラブルの原因になりかねないと判断しており、これに同意した石原に納得がいかなかったという(河辺前掲書)。そして河辺の危惧したとおり、増強された支那駐屯軍、なかんずく豊台駐屯の部隊が同地に配置されていた第二九軍との間に小競り合いを起こし、のちには演習中に盧溝橋事件に遭遇したのである。石原は豊台への駐屯は反対で、通州への移転を希望していたが(「日支国交調整要領」『資料』)、この場合は支那駐屯軍増強という手段自体が誤りであった。

 さらに一九三七年初頭に、石原が大命降下のあった宇垣一成の内閣成立を阻止したことは、近衛内閣を出現させ、結果的にではあるが最悪の体制で日支紛争に突入することとなってしまった。宇垣は盧溝橋事件に際して近衛内閣の派兵決定には批判的で、外交交渉を優先することを考えているのであり、翌年の外相就任までには蔣介石を相手として事変の解決をはかることを信条とするに至ったのである(『宇垣一成日記』2)。もし宇垣が首相として盧溝橋事件にのぞんでいた場合、日本側の対応はおのずから異なるものとなっていたはずで、少なくとも余計な声明を連発していたずらに事態を悪化させることはなかったであろう。

 以上、石原の判断ミスを概観したが、もしそのときどきに適切な対応がとられていれば、盧溝橋事件は起きなかったか、あるいは起きても局地解決に成功していた可能性がある。しかもそれらの過誤は最低限の配慮があれば防げたはずであった。石原は満洲事変を主導したと目されていただけに、盧溝橋事件後、石原の不拡大方針は説得力を欠き、部下の独走をコントロールすることができなかったというのはよく指摘されることであるが、盧溝橋事件を拡大させる素地はそれ以前に石原自身の不用意な判断によって十分につくり上げられていたといわねばならない。石原の負うべき責任もまた重大である。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献