牛歩の猫の研究室

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近衛文麿と七月一一日の派兵声明

 近衛内閣は盧溝橋事件の発生を受け、七月一一日に「今次事件ハ全ク支那側ノ計畫的武力抗日ナルコト最早疑ノ餘地ナシ」と断定する北支派兵声明(全文は「華北派兵に關する聲明」『日本外交年表竝主要文書』下を参照)を発表したのであるが、この政府の対応がその後の成り行きを考えるとき、きわめて重大な意味を持っていたように思われる。

 石射猪太郎は声明を発表した際の様子を次のように観察している。

「内閣は閣議決定に基づいて、その晩「重大決意をなし、華北派兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなす事に決した」旨の声明を発したのみか、翌一二日夜政界、言論界、実業界の多数有力者を首相官邸に集め、首相自ら政府の決意に対して、了解と支援を求めた。行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ」(石射『外交官の一生』)

 あろうことか政府が率先して日本国民の戦争熱を煽動しはじめたのである。その結果、満洲事変には批判的であった政党や財界も一致してこれを支持、新聞社の多数も強硬な一撃膺懲論に同調することとなった(秦『日中戦争史』)。これには国内でも「政府の採りたる、いはゆる、擧國一致鼓吹の態度は・・・一般民衆の對支強硬態度を不必要に煽動し、また、現地の軍を刺激して、さらぬだに、強きに失する進撃論をいよいよ燃えあがらしむるにいたりたる傾向あるは、遺憾にたへず」(『小山完吾日記』)と批判的な感想を持つ者もあったが、このまったく余計な声明はもちろん支那側にも伝わっており、前出の斐復恒は当時、「内地師団の華北への出兵問題についての東京からのニューズで、華北のみならず全中国の若いものは、今までにないほど激昂している」(松本前掲書)と述べている。支那の官民が、ついに日本が関内(長城以南)への進攻を決意したと解釈しても仕方なかっただろう。

「これは中国側の反発を強めただけでなく、日本国内においても事変解決をはかる上で「昂揚セシ国民意識ニ対シ如何ニスベキヤ〔七月中旬、陸海統帥部間でのやりとり〕」という厄介な問題を生み出した。要するに、これによって日中両国では強硬論が勢いを得てしまったのである」(戸部前掲書)という指摘のほか、派兵声明が及ぼした悪影響を重視し、「その後全面戦争に移行するまで試みられた各方面の平和的解決への努力をほとんど相殺するものであったことは疑いがない」(秦前掲書)とする見解もある。

「派兵を決定することはやむを得なかったとしても、機密にしておけばよかったので、何も政府声明としてぎょうぎょうしく公表することはなかった」(大杉『日中戦争への道』)のはいうまでもないし、それ以前に陸軍の派兵案を否決することもできたはずである。派兵声明を発案したのは風見章であり、マスコミ出身の風見は強硬姿勢を打ち出すことにより内閣の人気浮揚を意図したものと見られるが(筒井清忠近衛文麿』)、そもそもこのような人物を書記官長に据えるという近衛のパフォーマンス人事にも問題があったのではないだろうか。この点については当時商工相だった吉野信次が次のように批判している。

「だいたいさ、風見氏みたいな“野人”をさ、書記官長にもってきたのは近衛さんのミスではなかったか。いろいろ風見氏も努力したんだろうが、なんていうかな、あの人はわれわれとは水と油みたいなもんだろう。同じ政治家といっても、われわれはテクノクラートに属する方だし、片方はただ大向こうをうならせるだけのパーティ・ポリティシャン(政党人)というか、人気をとるわけだ。すべてにとって──。性格が合わんわけだよ。

 したがって、われわれ行政技術者を内閣に入れてみたところで、われわれのいうことなんか、てんで近衛さんの耳に達しなかったと思うな。近衛さんという方は、このあとでも、人気取りというか、初物ぐいなんじゃないの。だからそれが誤ったのさ、国を──。あれ、もう少し地道な政治家であったならば、そういうことなかったと思うけど──」(『昭和史の天皇』16)

 風見は「近衛氏は、人がわるいというか、茶目気たっぷりというか、たとえば人事問題などでは、人をアッといわせて、かげでひとりニタリニタリ笑っているといったような、罪のない芸当をよくやったものだ」と評しているが、「世間からは、意外の人事としてうわさされた」(風見前掲書)風見の書記官長起用がまさにこの例である。国家の危急にあたって自らの趣味を優先させるのは、「罪のない芸当」どころか犯罪的ですらある。余談であるが、支那事変勃発後に近衛は板垣征四郎陸相東条英機次官のコンビでその解決をはかろうとしたのだが、それに失敗すると、板垣の陸相就任は多田駿参謀次長と石原の計画だったとか、東条の次官就任は梅津美治郎の要求だったなどと嘘をついて、自らの意思でおこなった人事の責任をすべて他人になすりつけるという「芸当」も披露している(筒井『昭和十年代の陸軍と政治』)。

 付け加えておけば、近衛という男の首相に就任してからの最大の関心は政治犯(とくに二・二六事件関係者)の大赦にあったのであり、支那事変がはじまるとやる気を無くしてしまい、もう辞めたいを連発して、周囲の懸命の慰留によってかろうじて首相の座に留まっていたような状態であった(『原田日記』第六巻)。ところが世論を煽ることには余念がなく、九月一一日には日比谷公会堂において「政府主催国民精神総動員大演説会」を開催し、近衛の勇ましい言葉が聴衆の喝采とともに日本放送協会のラジオ中継によって全国に届けられた。演説会場から拍手と歓声を電波に乗せ、聞き手に国家との一体感を感じさせようとしたのはナチスの手法であり、近衛が総裁を務める日本放送協会はそれを研究、応用したのである(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』メディアと民衆・指導者編)。

 後述するように以上の近衛内閣の対応は、支那事変を泥沼化させる伏線となるのであった。

 

石原莞爾支那事変

1. はじめに
2. 決戦戦争と持久戦争
3. 支那事変は持久戦争だった
4. 石原は長期戦不可避論者だったのか
5. 早期和平解決にこだわった石原
6. 年表・盧溝橋事件から「対手トセズ」声明まで
7. 蔣介石の遠略
8. 盧溝橋事件後における蔣介石の強硬態度
9. 蔣介石はいつ戦争を決意したか
10. 日支全面戦争を煽った中国共産党
11. 上海戦における蔣介石とファルケンハウゼン
12. 成就した以夷制夷
13. 首脳会談成功の可能性
14. 船津工作成功の可能性
15. 陸軍は上海の防禦陣地の存在を知らなかった?
16. 近衛文麿と七月一一日の派兵声明
17. 石原と盧溝橋事件
18. 石原は上海の日本人を見殺しにしようとした?
19. 石原は蔣介石の上海開戦方針を察知できていたか?
20. 石原発言に見られる駆け引き
21. 石原の辞任とその後
22. 米内光政と上海事変
23. 海軍の南進論
24. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・一
25. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・二
26. トラウトマン工作はなぜ失敗したのか・三
27. 「日本は支那を見くびりたり」
28. 日本は持久戦争に対応できなかった
29. 石原が上海への陸軍派兵を嫌った理由
30. なぜ兵力の逐次投入となったのか
31. 最終戦争論
32. 石原は対ソ開戦論者だった?
33. 石原の経済体制再編論
34. 上海撤退の合理性
35. 米内光政の責任論
36. 満洲事変は歴史上の“起点”か?
37. おわりに
38. 主要参考文献