牛歩の猫の研究室

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コミンテルン陰謀論は荒唐無稽か?

 周知の事実だったコミンテルンの陰謀

米日戦争が暫く回避され、両国が海軍戦力を保ち、コミンテルンの陰謀が防がれたならば、目下の中国の戦局には不利であるが、恒久的な利害を考えると、米日戦争が日ソ戦争の後で勃発するほうが東亜の大局を利する。

 これはコミンテルンに言及したとある文書であるが、執筆した人物は国際情勢を分析しつつ、その中でコミンテルンが日米を戦わせるために陰謀をめぐらしていると考えていることがわかる。ではこれを書いたのは誰かと言うと、実は当時日本と紛争状態にあった中華民国の蔣介石なのである(1941年2月22日の日記。鹿錫俊『蔣介石の「国際的解決」戦略:1937─1941』)。蔣介石がこのように書いた根拠まではわからないが、ともあれ彼はコミンテルンの陰謀の存在を信じていたのである。果たして蔣介石は単なる空想に踊らされていたのだろうか?

 時間はさかのぼって、支那事変勃発の翌1938年1月6日、蔣介石は国民政府要人を集めた場で次のように述べたという(岩谷將「日中戦争初期における中国の対日方針」劉傑・川島真編『対立と共存の歴史認識』)。

これまで対日問題は世論のために完全に誤ってしまった.今後は世論を構わない

 盧溝橋事件後、蔣介石が望んだのは戦争の回避であった。しかし強硬な抗日世論の圧力のために、もはや一歩も譲歩が許されない立場に立たされていたのである。そこで自らも強硬態度を打ち出すことで日本側をひるませ和平を実現しようとしたが、当然ながらその困難な試みは失敗し、やがて両国関係は破局へと至るのである(詳細は別記事「石原莞爾と支那事変」を参照)。したがって上に引用した発言は、彼が望んでいた対日開戦の回避を実現できなかったことを指していると考えるのが適当である。
 自らの政策を歪ませざるを得なかったほどに盛り上がっていた支那側の世論、ではその世論を作り上げたものは何か。蔣介石は次のように考えていた(蔣介石『中国のなかのソ連』)。

 一九三五年九月十八日”上海抗日救国大同盟”は九・一八事変四周年の声明を発し、中立を装って”内戦停止、一致抗日”を提唱した。この種の中立団体はコミンテルンに操られて全国各大都市の青年、学生と一般知識階級の間に相次いで結成された。
 華北でいえば、同年十二月九日、北京の各大学教授、学生は日本軍が”冀察(河北、チャハル)自治区”を設けたことに反対して示威運動を行なった。これは本来一種の愛国運動であったが、共産党とそのシンパに利用されて彼らの中立戦術の道具となった。北京、天津および華北各省だけでも“華北各界救国連合会”“北方人民救国大同盟”“京津(北京、天津)学生救国連合会”“京津文化界救国会”など三十以上の団体が生まれ、いずれも機関紙その他の出版物で千編一律にコミンテルンの指導する“人民戦線”の宣伝活動を行なった。これは上海その他の都市も同様であった。
”人民戦線”はさらに共産党の指令により各地で地方軍と中央軍の離間を図り”抗日第一、掃共停止”とか”中国人は中国人を打たず”とかのスローガンで地方軍をそそのかして国民政府と中共軍に対し中立の路線をとらせ、政府の中共討伐と国内安定政策を妨害した。
“人民戦線”の目的は政府と中央軍を孤立させ、中共を生存しかつ発展させ、さらに彼らが再び軍備を整えて次の反乱と攻撃を準備させることにある。しかもその掲げる“抗日救国”の主張は、明らかに抗日の全面戦争を引起こし中共をして抗日陣営の背後で軍備を拡張し、機を見て政府を打倒し、全中国を支配させようとする企図を物語るものであった。

 この中に見られる、偽装的に日本に対する共闘を呼びかけて世論を煽るという中共の戦術は、一九三五年八月のコミンテルン第七回大会における決議に従ったものであり(詳細はボリス・スラヴィンスキー、ドミートリー・スラヴィンスキー著・加藤幸廣訳『中国革命とソ連』、黄自進『蒋介石と日本』を参照。※後著は特に注記を参照)、無論そのことを蔣介石は把握していた(蔣介石前掲書)。そして中共の採用した戦術の目指すところは、一九三六年四月に彭徳懐毛沢東が張聞天にあてた電報が明らかにしている(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』)。

この時機に蔣介石討伐令を発することは、戦略的にわれわれの最高の政治的旗印を曖昧にしてしまう。われわれの旗印は日本討伐令であり、内戦停止の旗印のもと一致抗日を実行し、日本討伐令のもとで蔣討伐を実行することである。これは国内戦争を実行し、蔣討伐を実行するのに最も有効な政治的旗印であり、その中心となるスローガンは内戦の停止である。このスローガン以外は今日において不適切である

 すでに明らかであるが、蔣介石の回想に見て取れる、コミンテルンにしてやられたという感情は、根拠のない被害妄想などでは決してないのである。
 こうした感想は他の人物にも見られる。汪兆銘西安事件(1936年)の頃を回想して次のように述べている(堀場一雄『支那事変戦争指導史』)。

余は当時剿共の事業は決して中止すべからざるものと堅く信じて居った。何となれば共産党は唯コミンテルンあるを知り中国あるを知らず。彼等はコミンテルンの秘密命令を受け、階級闘争の看板を引下し抗日の看板を掲げ中国近年の民族意識を利用し日支戦争を挑発して居るのであるから、断じて斯るトリックに引掛ってはならぬと思ったからである。

 一方、日本側にもコミンテルンの陰謀に言及する人物がいた。盧溝橋事件勃発時に陸軍参謀本部作戦部長だった石原莞爾は事件後、次のように述べたという(山口重次『満洲建国への遺書 第一部』※〔 〕内の補記は筆者)。

芦溝橋の事件は八路〔中国共産党軍〕の謀略かも判らない状態である。通州事件は明らかに敵の襲撃を受けて、日本機関と在留日本人が全滅して敵軍隊の志気をたかめ、国民の敵愾心を煽っている。支那は、昨年の十二月、西安事件国共合作が復活したとはいっているが、蔣介石の国民党が毛沢東共産党に屈した形である。中国共産党は国際共産党コミンテルン〕に煽動されて中国の抗日戦争を煽っている。共産党の謀略に乗って日中戦争を起こしてはならぬ。

 なお、陸軍では駐ソ大使館付武官補佐官だった甲谷悦雄がコミンテルン第七回大会の決議により国共合作の可能性が出てきたと判断し、当時モスクワからその危険性を警告していた(読売新聞社編『昭和史の天皇』15)。
 戦前戦後に外相を務めた重光葵も次のように回想している(重光『昭和の動乱』下)。

 ソ連が、コミンテルンの世界にわたる組織を通じて、日米交渉の破壊を策することは、当然のことである。コミンテルンの政策は、日本のソ連に対する力を減殺せんがために、日支の衝突を誘起し、日本の北進を転換して南進せしめ、更に日米の戦争に導くことにあった。この目的のために、支那における共産分子は勿論のこと、日本を初め欧米における第五列的共産勢力は、最も有効に働いた。

 以上から、当時日支の要人がコミンテルンの陰謀を真剣に疑っていたことがわかるだろう。しかしそれはまったく不思議なことではなく、少なくとも支那事変に関しては、中共の世論煽動の背景にコミンテルンの戦略が存在していたのは周知の事実だったからなのである。
 ただし、コミンテルン支那事変を起こしたとまで言えるかどうかは疑問である。もし日支両国の関係が良好であったならば、中共がいくら対立を煽ろうとも効果はなかったはずであるし、また、全面戦争に至ったのも、最終的には当事者である日本と国民政府が戦争を決意したからである。したがってコミンテルンによる謀略の評価は、「支那事変勃発の一要因をなした」くらいに留めておくのが妥当であり、「コミンテルンが全部悪い」も「コミンテルンの陰謀なんか全然無かった」も間違いである。だが支那側要人が以下のように発言していることにも注目しておかなければならない。
 蔣介石の側近だった陳立夫は一九九〇年、保阪正康氏のインタビューに答えて次のように述べている(保阪『昭和陸軍の研究』上)。

陳 中日戦争は誰が演出したのだと思いますか。
保阪 関東軍の軍人ですか?
陳 いいえ、ちがいます。ソ連が演出したのです。日本と中国が戦うのを望む。ドイツとフランスが戦うのを望む。それがソ連の戦略だったのです。したがってソ連は中国の学生を煽動する一方、日本の少壮軍人に覇を唱えることを求めたのです。

 支那事変の原因を考えるとき、日本陸軍の推進した北支分治工作は政策的には完全に誤りで、事変勃発に大きな役割を果たしたと認めざるを得ない。この行動は日支関係を決定的に悪化させてしまった。保阪氏の上記発言はそれが念頭にあったに違いない。しかし陳立夫はそうした見方を否定したうえで、支那事変を演出したのはソ連だと断言しているのである。なお、陳立夫の回想録(陳立夫著・松田州二訳『成敗之鑑』上)によれば、当時彼は蔣介石と国際情勢認識を同じくしていたので、ここでいう「ソ連」は「コミンテルン」と同義であると考えて差し支えない。
 また、蔣介石は支那事変勃発後に開かれた会議の場で、怒りをあらわにして「奴らが抗戦しようとするから、国家がこんなありさまになったのだ!」(馮玉祥著・牧田英二訳『我が義弟 蔣介石』)と大声で怒鳴ったという。もはや説明不要とは思うが、換言すればコミンテルンの指導に従って中共が抗日世論を煽ったために支那事変が起こってしまったということである。
 歴史の当事者がこのように認識していたことを軽視してはなるまい。

 

 古谷経衡氏のコミンテルン陰謀論批判

 少し前、筆者は古谷経衡氏のツイッターを見て仰天した。そこにはこのようなことが書かれていたからである(https://twitter.com/aniotahosyu/status/1023974467188350983)。

その矛盾を一挙に解決するためにネット右翼が開発したのが「コミンテルン陰謀史観」です。ルーズベルトコミンテルンに操られていたのだから、日本が戦ったのはアメリカでは無くアカであった、と脳内処理すれば靖国は肯定される。

 コミンテルン陰謀史観ネット右翼が開発したというのである。もしそれが本当ならば、支那事変はコミンテルンの陰謀を信じるネット右翼による紛争だったということになるのだが…。
 古谷氏はかつて「アパホテル問題の核心~保守に蔓延する陰謀史観~」という論説を書いてコミンテルン陰謀論を批判していたが、これまたトンデモな内容なのである。
 問題は「コミンテルンが全部悪い」という説を否定して、「コミンテルンの陰謀なんか全然無かった」という結論を導き出している点である。その根拠として、ソ連がスペイン内戦に勝てなかったこと、独ソ戦初頭に完敗したことを挙げている。しかし謀略が成功しなかった例をいくら挙げても、謀略が存在しなかったという証明にはならない。それは単に成功率の問題の可能性もあるからである。したがって「コミンテルンが全部悪い」という珍説は否定できるかもしれないが、それをもって「コミンテルンの陰謀なんか全然無かった」と主張するのは論理の飛躍というものである。
 古谷氏は同論説の中で次のようにも書いている。

 仮に歴史の素人でも、ソ連のスパイが毛沢東蒋介石などを通じて日本を意のままに操り、やがてそれが日米戦争にまで進展するという歴史観は、裏返すと「ソ連のスパイに騙されて大戦争をするほど、当時の日本人は馬鹿だった」と言っているのに等しく、これこそ自虐史観の総本山のように思えるのではないか。「コミンテルン陰謀史観」を採用すればするほど、当時の日本や日本人は、ソ連のスパイに騙されて操られるくらい、馬鹿で愚鈍であったと自虐しているに等しいであろう。

 重要なのは事実がどうであったかで、もし先人が騙されたのであれば、それを教訓に過ちを繰り返さないよう努力するのが筋だろう。「これこそ自虐史観の総本山のように思える」とか、先人が「馬鹿で愚鈍であったと自虐しているに等しい」といった言葉遊びが一体何の役に立つというのか。もう一箇所引用する。

糾弾されるべきなのはアパグループとか元谷氏ではなく、このようなトンデモ「陰謀史観」を正史として疑わず、そのまま界隈の常識として運用し続ける保守界隈全般の知的堕落に向かうべきではないだろうか。

 たしかに自称保守の主張する「コミンテルンが全部悪い」的な歴史観には筆者もまったく同意できない。しかし、それはそうした極論だけを批判すればよいのであって、コミンテルンに関する議論自体を否定するような言説は控えるべきであろう。もっとも古谷氏の場合は、戦前にコミンテルンの陰謀が実際に存在し、また周知の事実だったことも知らず、コミンテルン陰謀史観ネット右翼が開発したなどとトンデモな主張をしてしまう自身の知的堕落を改善するのが先決である。